みかん様




 身体に浴びた大量の土砂の臭いが記憶にこびり付いて離れない。

 あの時、隣にいた青年が倒れた。彼は何という名前だったか――――そう言えば、聞いていなかった。
 あの時、肩に誰かの顔がぶつかった。彼の腫れ上がった痛々しい頬はさぞ痛かっただろう。
 あの時、泣き叫んでいた彼は、きっと故郷に家族を残した罪に苛まれていたに違いない。

 あの時、怒り狂っていた男は……、

 あの時……、

 あの時、

 あの日。

 私は、全て、憶(おぼ)えている。
 大勢の儒者が大きな穴に生き埋めにされた、当時のことを。

 私もその中で、土に目を傷つけられ、咽も鼻も塞がれ、もがくことも許されずに死に絶えた儒者の一人だった。

 このことは、誰にも言うまい。
 もはや私に恨みは無い。恨みを持つ相手がいないのだ。

 何故なら――――時代は、多くの時間を流し、国を変えた。

 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)……。
 私が死んだあの出来事はその名で記される。

 今、私の手の中にある、竹簡に。


 遙か昔のこととして。


 私は、まだあの土の不味さを、憶えているのに……。



‡‡‡




 ○○は昔から、常に遠くを見つめている。

 いつもいつも地に足が着いていない様子でふらふらと歩き回っては親を心配させる。彼女を見つけ出して連れ帰るのが、賈栩の日課だった。

 賈栩は誰よりも長く、彼女を見ていたし、誰よりも彼女と言葉を交わしていた。

 されども。

 幼い頃から彼女の傍らにあった賈栩でさえも、何を思い何処を見ているのか、皆目見当も付かなかった。

 勿論、問いかけたこともあった。
 だが○○はいつも決まった答えを返すのである。


『本来ならば私も識(し)らなかった筈の場所さ。私が、別の私で在った証がまだかの地に残っているのか……そんな詮無いことを考えているよ』


 意味が分からなかった。

 ○○は、奇妙な子供だった。

 ○○は言葉を覚えるのが早かった。
 頭も良く回り、誰も教えていないのに、気付けば儒教を修得していた。
 将来女の身ながら立身出世も出来るのではないかと密やかに期待を寄せられていた程、幼少の砌(みぎり)から○○は優れている。

 だが、幼い賈栩は誰よりも近いが故に、○○の異様さを感じていた。
 まるで、最初から備えていたものを小出しにしているように、賈栩には見えた。

 傍にいると、ふとした時彼女が、実は《生きていない》のではないかと、疑ってしまうことがある。
 漠然とした勘のようなものだ。
 だがそれが何度も続けば勘で片付けられはしない。

 その頃から周りの全てに興味の薄弱だった賈栩も異様な子供ではあったが、円滑な人付き合いに必要なことを心得ていた分、まだましと言える。

 ○○は、そもそもこの世界そのものに関心を持っていない風に、賈栩には思えてならなかった。
 いつだったか、何をしても実感が無いのだと、己の小さな子供の掌を見下ろして苦笑を滲ませたことがある。
 遊んでいても自分であるのか分からない。
 話していても自分の言葉なのか分からない。
 私は生きているのかすら、自分でも分からない――――。

 それは、普段の態度からも何となく察せられた。

 賈栩はいつもいつも○○を見ていた。

 ○○は歩いているようで歩いていないように思える。
 ○○は自分と話しているようで別の誰かと話しているように思える。
 ○○が時折知らない人物であるかのように思える――――。

 それらは、全て天才故の欠点と大人は片付けるだろう。だから、賈栩は周りには言わなかったし、自らもしつこく追求しようとはしなかった。

 自分が傍らに居続けなければ、彼女はいつか本当にこの世界の住人ではなくなるような……《○○》という少女ですら無くなってしまうような気がして、賈栩はそのことに生まれて初めて嫌悪を抱いた。

 賈栩は、互いが成長し、男と女の違いが瞭然と出ても○○の傍らを離れなかった。
 張繍のもとに仕えていた頃も、適当な理由をつけて自らの側に置いた。

 執着……と言う程、粘着質なものではない。悪質なものでもない。
 恋情か友情かどうかも分からない。
 純粋に、○○がずっと○○のまま、地に足着けて生きていれば良いと、思っていたのだ。

 その為ならば、賈栩はどんなことも惜しまなかった。

 曹操の幕下に入ったのを期に○○と婚姻を結んだのもそうだ。
 申し出をすんなりと受け入れられたのには驚いたが、彼女を地に括り付けておく鎖は、鎖を固定しておく杭は多い方が良い。
 何をしても、不十分に感じられてしまうから、鎖も杭も、賈栩は増やし続けた。

 傍目からすれば、あの賈栩が珍しく○○に惚れ込んで独占しようとしていると、思われている。

 だが、実際はそんな甘いものでも、穏やかなものでもない。
 賈栩は、幼い頃から○○という存在の不気味さ、不安定さを危ぶんでいた。案じていた。
 ○○を繋ぎ止めていたくて、必死になっているだけだ。

 そしてそのように足掻く賈栩を、○○もすんなりと受け入れている節がある。
 ○○は、賈栩以外とほとんど口を利かない。
 口を開けば良く分からない発言ばかりで、周りが不気味がって避けるのだ。
 心得ている○○が、自ら口を開き、自ら話しかけ、意志疎通を図ろうとするのは、賈栩のみ。

 二人の関係を、果たして、恋だの愛だの友情だのと陳腐なありふれた言葉で形容して良いものか……甚(はなは)だ奇妙ではあるが、二人の間には誰にも壊し切れぬ、常識から外れた絆めいたものが生まれていたと言えよう。

 誰にも理解されぬ関係を、彼らは守り、維持し続けた。


「――――君は、土の不味さを知っているか」


 寝台の中で唐突に、彼女は賈栩に問いかける。

 部屋で同じ寝台に並んで眠るのは昔からだ。
 夫婦ではあれど、それらしいことをしたことは一度も無い。

 ○○は、女扱いをされると苦痛を抑え込んだ暗い顔をする。
 微かな変化で賈栩にしか分からないが、嫌と言うよりは、申し訳ないと思っているようだ。
 以前にそのことを指摘した際、彼女は苦笑して答えた。


『私の中には、今の世を生きるには邪魔なものが多すぎるんだ。それが、今を生きる私たらんことを拒んでいる。すまないね。私は、君の求婚は受けたが、恐らくは子を作ることは出来ん。君と裸体を重ねることを想像すると、強い違和感を抱いてしまうんだ』


 相変わらず意味の分からない返答ではあったが、彼女が女としての自分に納得していないのは分かった。
 だから、夫婦とはいえど彼女を妻として扱いはしなかった。前と同じように気の置けない友として扱った。

 それで構わなかった。
 賈栩にとって、それは重要ではなく、○○がしっかりと世界を生きていることこそが最も大事なのだから。

 ○○の奇妙な問いを受け、賈栩はつかの間思案する。


「……土を食べたことは、記憶にある限りは無かった筈だが」

「そうか。知らない方が良い」

「それを言いたかったのか」

「さあ、どうだろうか。分からないな」

「そうかい」


 ○○はゆっくりと上体を起こした。賈栩を見下ろし、その頭を撫でる。

 その手を払い退けると、小さく笑って満足そうにまた寝転がった。


「君との会話は心地よい」

「それは良かった」

「君は、どうして私に構う」

「地に足着いていないのを見ると落ち着かない」


 賈栩は流し目に○○を見る。


「何を言っているんだ。木の実は木から落ちて地面にくっつくだろう。何度持ち上げて地面から離しても、木の実は地面に吸い寄せられる。私達も同じだ。どんなに鳥に憧れて跳んだとて、結局地面は私達を逃してはくれない」

「そう言う意味ではないよ」


 ……分かっているだろうに、彼女は分からぬフリをする。
 こんなやり取りを、楽しんでいるのだ。
 勿論賈栩でなければこんなことはしない。


「賈栩。君はどうしてそんなにも必死に私を繋ぎ止めようとする?」

「早く寝てくれないか」

「分かった。寝よう、寝よう」


 ○○は笑い、ややあって静かになった。

 ようやっと寝た。
 賈栩は吐息を漏らし、苦笑を滲ませて目を伏せた。



‡‡‡




『賈栩。君はどうしてそんなにも必死に私を繋ぎ止めようとする?』

『早く寝てくれないか』



 先程の会話を、目を伏せながら頭の中で繰り返す。
 ○○は賈栩が寝静まるまで、ずっとそうしていた。

 賈栩の意識が完全に睡魔に囚われたと確認し、起き上がる。
 暗闇の中、賈栩の寝顔を見下ろした。

 今宵は満月。
 窓から差し込む月光で、よく見える。

 彼は、自分の感情が分かっていない。
 どうして私を必死にこの世界に繋ぎ止めようとしているのか。

 分からなくて良い。

 分かってしまえば今の関係は脆く崩れ去る。

 この心底心地よい場所を、私は失ってしまうだろう。

 ○○は、無表情に目を伏せた。
 胸に手を当てる。

 己を表現するならば、器に水と油が入っているようなものだ。
 ○○は本来、普通の娘として生まれ、死ぬまでそう在る筈だった。
 けれどもなんとも奇異なること……前世の、儒者だった男が折り重なってしまった。

 持つ筈のない記憶。在ってはならぬ前世の残滓(ざんし)。
 それが、現世に転生した○○として生きることを、常に阻んだ。
 賈栩が地に足着かぬ状態に見えたのは、その所為だろう。

 ○○には、いつもいつも土の臭いがつきまとった。
 何を食べてもあの時噛んだ土の味に変わった。
 何をしていても、前世の知識が脳裏をよぎった。

 今までの人生で、自分のものなど皆無に等しい。

 女である筈なのに、男として、儒者として、死を経験した者として、生きてきた。
 これならば多重人格の方が、もっと楽だった。

 ○○は、自分のものを持たない。
 だから、賈栩の傍が心地よい。

 女としての己(いま)は賈栩を愛し求めている。
 男としての己(むかし)は同性の伴侶に違和感を覚える。

 摩擦はもう、仕方のないことだった。
 天帝から与えられたもの。どうすることも出来ぬのであれば、受け入れなければならない。

 彼女は二つの感性が納得し、受け入れられる状態を模索した。

 そして見つけたのが、今のこの関係だ。
 賈栩と夫婦にはなるが並んで眠るだけで裸を重ねることはしない。
 加えて、今まで通り常に一緒に行動する。
 彼女は女として一生賈栩の隣を独占出来るし、男としても妥協出来るぎりぎりの一線を敷くことが出来た。

 賈栩も○○の不安定さに、必死になって鎖と杭を打ち続ける。


「そう……死ぬまで、ずっと――――」


 この関係は続いていく。

 薄く、微笑む。

 これが、前世も折り重なって生まれた○○にとって最上の形である。
 女として満足に愛せないのなら、可能な範囲で彼を自分に縛り付けておきたい。

 現世の○○にとって前世の自分に対しての初めての反抗であり、前世の自分にとって現世の○○に対する最大限の譲歩であった。

 この関係が、一番心地よく、甘い。
 誰にも壊させる訳にはいかない。
 賈栩にも、決して赦(ゆる)さない。

 賈栩は自身のその必死さの根底にある感情に気付いてはならない。
 気付けば彼は○○の作った世界を壊してしまう。

 賈栩はまこと奇異なる○○の真実に気付いてはならない。
 気付けば彼は○○の縋った世界を壊してしまう。


「……君は何も知らずに、私をこの世界に繋ぎ止めていれば良いんだ……」


 私と君が共に果てるまで。
 君は私の傍にいてくれれば良い。


 いてもらわなければ、嫌だ。


 賈栩がいなければ、○○は前世に呑まれていた。
 賈栩がいたから○○は○○を保っていられた。
 ○○は、賈栩の存在で成り立っている。賈栩を失えば飢えて飢えて死んでしまう。

 だから……君には死ぬまで傍にいて欲しい。君に、死ぬまで縋らせて欲しい。


「前世の私も、女として生まれた現世の私を殺したい訳じゃない……これは仕方がないことだから、諦めて、双方にとって最善を考えた結果なんだよ」


 永遠不変の関係。
 誰にも壊させない。
 現世の○○の、大事な大事な宝物……。

 賈栩の頬を撫でる。
 彼は○○の傍だと不思議な程眠りが深い。ちょっと触れただけでは起きる心配が無い。
 それは、○○の傍だからだと、分かっている。

 ○○は、幸福感に笑う。
 笑いながら、賈栩の寝顔を心行くまで眺め続けた。


 今宵は満月。
 窓から差し込む月光で、愛しい賈栩の寝顔がよく見える。



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