1
目の前に、女の裸体がある。
裂傷や火傷の痕が痛々しい肌は濡れて蠱惑的に火の赤で身体の艶めかしい曲線を描き、周瑜の目を惹き付けて逃さない。
周瑜は、この身体が欲しくて堪らない。
ずっと、ずっと、ずっと――――狂おしく渇望していた女の裸だ。
どんな女に手を出しても、満たされなかったこの心。
それが、今、満たされるやもしれぬ。
敵だろうが何だろうが構わない。
ようやっとあの時の女が手の届く場所にいるのだ。
今すぐ押し倒して、存分に彼女の身体を味わいたい。
男としての欲望が、冷えた身体を内側から燃え上がらせた。
ここで手を出せば、女も観念するだろうか。
観念して、オレのものになるだろうか。
歓喜に総身がうち震える。
女がそんな周瑜の気配を察し、振り返った。
伏せられた両の瞼から額まで、火傷の痕が広がっている。
彼女は今、盲目なのだ。
「……寒いのですか?」
「いいや。アンタが欲しくて震えてるんだ」
女は肩を震わせ、苦笑する。
ゆっくりと振り返る。
周瑜は、目を細めた――――。
‡‡‡
これはまだ、彼が幼かった頃の話だ。
大事な大事な家族を喪(うしな)ったばかりで、ただただ生きることにのみ執着していた彼の世界は、全てが無彩色。どんな植物も生き物も、精彩を欠いているようにしか見えなかった。
そんな彼は、たった一人――――鮮やかな色を纏った人間の女と出会った瞬間、心臓が破裂した。
否、正しく言えば破裂したのではない。そう錯覚する程に大きな鼓動を立てたのだ。
女と出会ったのは、森の中、側に小川の流れる日当たりの良い花畑。
身分の高いらしい彼女は顔の良く似た二人の妹達を注意しつつ、従者に何事か言いつけ小川の畔に立った。
彼自身はいち早く気配を察知し、茂みに隠れていた。自分も咽が渇いて水を欲していたし、膝を擦り剥いて出来た怪我を洗っておきたかった。
けども茂みの内から女に魅取れてしまい、気配を完全に殺しきれていなかった。
『そこにいるのは何者です』
小川を流れる冷涼な水よりも清く、氷よりも厳しい声が鼓膜を貫く。
だが危機感よりも脱力させる甘い痺れが、彼の小さな身体を支配する。
動きたくないのではなく、ぴくりとも動けなかった。
『出てこられないのですか? ならば私が参ります』
女は恐れを感じさせぬ凛然とした態度で彼を暴いた。
美しい彼女と間近で目が合った瞬間、彼は未知なる感覚に全身から力が抜け、その場に座り込んでしまった。
茫然と見上げてくる彼に、女は目を丸くした。
女が凝視していたのは彼の頭部である。
次いで膝に視線が落ち、さっと顔色を変えた。
綺麗な衣が汚れるも厭わず茂みに飛び込み、彼の膝の怪我を確かめた。
彼の頭を見ているにも関わらず、だ。
心配そうに彼の様子を確認して彼女は自らの袖を破き、川の水で濡らして優しく声をかけながら血と泥を拭い落としてくれた。
更に彼女は片方の袖も破き、包帯代わりに膝に巻き付けた。
礼も言えずにいると、彼女は微笑んで彼の頭を撫でた。
『もう少しお待ちなさい』
女は妹達の元へ戻り、すぐに、沢山の荷物を戻ってきた。
手触りの良い高価な外套は頭もすっぽりと隠せた。
彼に外套を着せ、頭を形が分からぬようしっかりと覆い隠して、女は満足そうに頷いた。
そして、彼に塗り薬と清潔な布、そして決して少なくない金を沢山詰め込んだ袋を両手に持たせた。
『人の集まる場所ではこの外套で頭を隠しなさい。絶対に外へ曝さないこと。外套も、薬も、金も、あなたが生きる為に使いなさい。よろしいですね?』
彼は決して言葉を発しなかった。女の美貌に目を奪われ、言葉を忘れてしまっていたのだ。
女はそれを警戒心故と取ったのだろう。それ以上言葉をかけず、素知らぬフリをして小川の畔に座った。
決して彼を見ず、また妹達や従者に悟られぬよう、自身で彼を隠せる場所を選んでいた。
女は、彼に――――人間に蔑まれて然(しか)るべき存在に、気遣いを見せた。
どんな花も、彼の目には色無き無価値な存在にしか思えなかった。
だのに彼女の存在だけは、彼に色を認識させたのだ。
あのつやつやと煌めく美しい黒髪の下で怜悧に輝く碧眼、化粧だろう、微かに赤みがかった頬、真っ赤でふっくらとした魅惑的な唇、雪のようなきめ細やかな真っ白な肌――――。
女が、実は天界の住人なのだと言われれば、彼は納得してしまうだろう。
幼い彼の一目惚れだった。
しかし幼き故に分かろう筈もなく。
頭から離れない女の優しい笑顔に、彼は悩まされることになる。
成人となっても彼女は消えてはくれなかった。
‡‡‡
再会は、戦場であった。
大きな分銅の付いた鎖を自在に操り、敵の足を捕らえて転倒させ、匕首で躊躇無く首筋を掻き切る女を見、周瑜は驚くよりも大いに歓喜した。
やっと見つけた!!
幼い自分が、訳も分からぬまま男として惚れ、ずっとずっと心を支配していた人間の女を!
敵として相見えた女は、変わり果てていた。
顔の上半分に広がる過去の火傷の所為だろう、盲目でありながら女は将を的確にしとめていく。
彼女は、敵は勿論味方からも畏怖の対象として見られ、援護する者も、標的に選ばれた者を助けようとする者も、無かった。
戦の前に、間者から敵が名の売れた女傭兵を一人雇ったと言う話を聞いていた。
○○と言う女傭兵――――それが彼女であることは間違い無かった。
孤立無援ながら、他を圧倒する獅子奮迅の戦いを見せる○○に、周瑜の胸は躍った。
勝ちたいと思った。勝ってあの女を手に入れたい。
今なら、彼女と初めて出逢った時から感じていた感情を理解している。
あの時から、自分は男として○○と言う人間の女を欲しているのだと。
昔の見目とは変わってしまったが、関係無かった。
自由な傭兵とは言え、敗者は勝者に従うもの。
汚い手だが、女を手に入れられるのなら、周瑜は構わなかった。
無論、完全勝利を君主に捧げることも、忘れてはいない。
「なあ、アンタ。今度はオレと戦ってくれよ」
軽佻(けいちょう)に声をかけると、○○は絶命した兵士の頭をそっと地面に降ろし、立ち上がって正確に周瑜に向き直った。
周瑜は賞賛の意を込めて口笛を吹いた。
瞼は閉じられている。だのに、見られているように思える。
それは、彼女が闇の中在りても他者をはっきりと認識出来る証明でもあった。
視覚を喪失した分、他の感覚が鋭敏となり、更に磨きをかけて健常な武人と遜色無い傭兵へと到達し得たのだろう。
それまでにどれ程の苦労があったか。
周瑜に情けをかけた後彼女達に何が遭ったのか。
問おうかとも思ったが、近くに周瑜を良く思わぬ将がいないとも限らぬ。それに、周瑜のことを覚えていない可能性もある。
まずはこの女傭兵を手に入れてからだ。
ぎらついた目で見つめられているとは、さしもの彼女も思っていないだろう。
彼女は小さく笑い、血塗れの匕首を腰に差して鎖分銅を弄んだ。
「物好きな方……進んで私と戦おうとする方なんて、もういないと思っていました」
「そのようだ。アンタ、味方からも恐れられてるって自覚してるか?」
○○は笑った。
それは肯定。
周瑜は肩をすくめた。
「今まで見てきたどんな女より強い女だな」
「男の世界で金を稼いでいくには、こうなる以外にはありませんでしたから」
「アンタ、今は傭兵なんてやっているが、元々は何処かのお姫様だったんじゃないのか? 普通の女傭兵にしちゃあ立ち居振る舞いが洗練されてる」
○○は驚いて見せた。が、やや芝居がかった反応で、恐らくはこれまで出会ってきた人間にも簡単にバレていたのだろう。
それに、特に隠している様子も無い。
すんなりと首肯した。
「ええ。もう七年になるでしょうか。父が冤罪で首を刎ねられ、母は心労が祟って自ら命を絶ちました。妹達は父の古い知人の方に預かっていただいています」
「じゃあアンタは何でそいつのとこに一緒に行かなかったんだ」
「嫁入り前の女を二人も養うともなれば、お金は必要でしょう。ですから私が少しでもその方にお金を返さなければなりません」
なるほど。
彼女らしいと、納得した。
○○は汚い十三支の子供の為に躊躇い無く身に纏う衣服の袖を裂き、金も分け与えた。
十三支にすら温情をかける程の器量であれば、当然妹達を引き取ってくれた恩に報いようとするだろう。
その為に、自らの身体がボロボロになっても――――光を失っても。
口角が、つり上がる。
彼女が盲目で良かった。
今の周瑜の態度は誰からも不審がられるものだ。
長年抱えてきた感情を抑えきれないから仕方のないことだと自分では思うが、今自分は○○にとって敵国の都督。挙げるべき首級である。
敵と認識している相手が自分を見てにやにやされていたら、不気味がるのが当たり前だ。
周瑜は得物を一瞬強く握り締め、身構えた。
「今回の戦、うちの脅威になるのはアンタだけだ。大人しく、捕虜になってもらおうか」
「あら、殺すのではないのですね」
「強者は殺すよりも、生け捕りにする方が難しいからな。それにアンタは、殺すも野放しも惜しい人材だ」
「死ぬ気でやれば、誰にでも出来ることをしているだけですよ」
「死ぬ気と言うが、実際アンタに死ぬつもりなんて無いんだろ」
「はい」○○はにこやかに、答えた。
互いに戦闘態勢を取って、地を蹴った。
遠くから、雷鳴が聞こえる――――。
‡‡‡
○○は、確かに手強かった。
だが、幸い別の武将が敵の大将に深手を負わせて敗走、銅鑼の音を合図に兵士達は撤退を始める。
そして丁度、分厚い黒雲が空を覆い、雷と共に大きな雨粒を容赦無く無数に地上へ落とし始めた。
視界は途端に白くぼやけ、雷鳴と雨音に音は遮断される。
そんな中で周瑜は無我夢中で○○の腕を掴んで引き寄せた。
得物は鎖分銅も匕首も何処かへ飛ばした。その他に武器を所持している様子も無い。
丸腰の女を軽々と抱き上げて視界不良の中本陣へ急いで戻った。
○○は抵抗をしなかった。敗者として、勝者の意に従う神妙な態度で周瑜の腕に身を任せている。
呉軍も勝利の余韻に浸る余裕も無く、大わらわで撤退の準備に取りかかっている。
通り雨だろうが、頻繁に落ちる雷鳴は近い。
木の近くに寄らぬよう怒鳴るように指示を飛ばして歩きながら、周瑜は○○を降ろさない。
○○について兵士達に問われたが、殺すには惜しい人材を得たとだけ返した。
○○は、ずっと大人しくしていた。
馬に相乗りにしても、そのまま呉に戻っても、だ。
→
prev next
.