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○○と言う人物は、夏侯惇の知る限り人から嫌われるところを見たことが無い。
元々山の中で逞(たくま)しい祖父母に厳しく育てられたと言う彼女は、我流の体術のみで公孫賛に高い評価を受け、直々に乞われ仕官。それが、彼女が十三の時だ。
これは余談であるが、彼女は女の割に身長が高く、話し方も大人びて丁寧であった故、仕官当初誰もがまさか十三の小娘だとは思ってなかったらしい。今もまだ二十歳に届いていない。
十三の若輩でありながら、○○は数年に渡って趙雲の部下として幽州に名を馳せた。
長い付き合いになる趙雲は、○○に対し頼もしい部下であり、兄のようであり、気の置けない親友であり、一人の武将として尊敬している。
早くに親兄弟を戦禍で亡くし、人里離れた山中に暮らす祖父母に引き取られた○○もまた、然りである。○○にとって趙雲は生まれて初めての友人であり、顔も覚えていない兄の面影を求める相手となった。
強い絆で結ばれたこの二人の見事なまでに隙の無い連携には、夏侯惇達も手を焼いた。後々聞いたところでは猫族の誰も、二人を倒せたことが無いらしい。
故に曹操も、二人の立場はそのままに軍に組み込んだ。
趙雲は生まれ持っての気性か、人に好かれやすい……と言うか、人たらしと猫族が評価する程人と打ち解ける術を無意識に心得ている。
○○もそうだった。
彼女単体でも、素手で女だてらに男にも勝る武勇の持ち主である。嫉み妬みを買うだろうと思われていたが、そんなことは一切無かった。
誰にでも分け隔てなく気さくに接する彼女は、嘘もつけない隠し事も出来ない、裏切りも考えつかない。汚い部分も見てきた筈だろうに、とにかく純粋に真っ直ぐに過ぎるのだ。
しかも戦闘に於ける勘は凄まじく鋭いものの、平素の彼女は馬鹿――――もとい、非常に間が抜けている。
外見や言葉遣い、態度などからは全く想像がつかないが、必ず何かをしでかしていて、本人そのことに全く気が付いていないのである。
関羽曰く、○○が洗濯物の側を通過すると、必ず数着は彼女の身体に巻き付いてそのまま持って行かれてしまうのだという。しかも何故か、本人は全く気付かない。
張飛曰く、水を注いだと思ったら料理の乗った皿に注いでいたのだという。やはり、何故か本人は全く気付かずにそのまま飲んでしまう。
関定曰く、劉備と隠れんぼをする時に○○が鬼になると、絶対に誰も見つけられない。バレやすく隠れてやっても全く分からない。何処に隠れていたのか教えてやると、心底驚くのだという。
その拍子抜けする差が、周囲の良心を擽(くすぐ)り負の感情一切を払拭するばかりか、放っておけないと思わせた。
夏侯惇もまた、その一人である。武人として相見えたいと望んでいた己が、もう遠い過去の他人のように思えた。
かの曹操すら彼女の将来を案じるのだから、戦闘時以外では相当酷い昼行灯なのであった。
「夏侯惇殿! 貴殿が私とお手合わせして下さるというのはまことですか!」
ばたばたと、駆け寄ってくる男装の麗人は、ひらひらと白い尾を付けている。
否、尾ではない。布だ。誰かの寝衣のようだ。
夏侯惇は溜息をつき、手を前へ突き出し制した。
止められた○○はきょとんと首を傾げる。
男装はただ動きやすいからという安直な理由で、本人は女を捨てている訳ではない。関羽や他の女性に学んで化粧も嗜(たしな)んでいるし、時折、関羽達と女物の服に腕を通しお洒落を楽しむこともある。女官も混ぜて恋愛話に花を咲かせることもある。
今も、化粧で女らしさをしっかり出している。
走ってきたことと、興奮していることが作用して、頬が朱く上気しているのが彼女に艶を加味する。
夏侯惇はさり気なく彼女から目を逸らし、尾を指摘した。
「また、誰かの服を引っ張ってきているぞ」
「え? ……ああ、本当ですな。全く気付きませなんだ」
何故気付かない――――などと、もう何度となく思ってきた、抱いても詮無き問いである。
脱力するのもとうの昔に通り越して流すようになった夏侯惇は、背後に回って一言断ってから帯に絡まった衣服を取り外した。こうしたことは一度や二度ではないが、毎回ただ歩いていただけでどうしてこんなに複雑に絡まるのか、いつまで経っても謎のままである。こちらも、もう追求する気もとうの昔に失せた。
それに最近は、こういう抜けたところがあってこそ彼女らしく愛らしいものと思い始めている己がいた。
「ありがとう存じます。夏侯惇殿」
ふわりと甘い菓子のような笑みで礼を言われる。
たったそれだけで、夏侯惇の心臓は大きく跳ね上がるのだ。
じわりじわじわと胸から熱が足先手先隅々まで広がっていく。
取ってやった服をやや雑に畳み、○○に手渡す。
「先に鍛錬場に行っている。これを関羽か女官の誰かに渡してこい」
「はっ!」
○○は輝く笑顔を振りまいて駆け出す。
夏侯惇は、彼女が歩いている姿をあまり見たことが無い。いつも何処に行くにも笑顔で駆けていく印象である。ただ、趙雲が側にいる時は怪我をするから止めろとキツく言われているらしく、必ず歩くよう心がけているようだ。
○○の後ろ姿を見送りながら、夏侯惇は一人溜息をついた。
‡‡‡
夏侯惇は、○○のことを一人の女性として好いていると、自覚している。
ここ最近気が付いたのだが、恐らくはずっと前からそうだったのだろう。
○○は造作が実年齢よりも上に見える程大人びていているくせに、平時は明るく愛らしい幼さが全身から滲み出る。
正反対の二面性を持ち合わせた○○は、顔もがらりと変わる。
ふわふわとした笑顔か無邪気な子供のそればかりの彼女が、戦闘時或いは鍛錬時に、途端に豹変する。
長身痩躯でありながら堅固な城壁を思わせる英姿に、細められた眼(まなこ)からは虎にも勝る不抜の闘志を感じ、心臓を貫かれるようだった。
戦いでのみ見せる巌(いわお)のように重厚で刃のように鋭い気概も、
普段の間の抜けた陽気な野に咲く愛くるしい花のような幼稚さも、
夏侯惇を強く強く惹きつけた。
だがなればこそ、関係を進展させるには難しい相手だった。
幸い、趙雲はこちらに協力的で、ままに○○と二人きりになるように仕向けたり、○○の好みなどをそれとなく教えてくれる。
お陰で○○は懐いてくれている。
が、平素の○○があれなだけに、どう歩み寄れば良いのか分からないのである。
それで、情け無くも全く変化を起こせないでいる。
趙雲に苦労するぞと苦笑混じりに忠告されたことが、現実になってしまった。とても、とても、苦労している……。
「夏侯惇殿!! では、参ります!!」
「ああ」
鍛錬場で向かい合った二人は、ほぼ同時に地を蹴った。
山育ちの彼女の武術の練習相手は、老いてなお筋肉隆々の祖父母と、野生の熊や虎であったと言う。
その影響か獣じみた俊敏な動作も多く、かと思えば豪快な一打を喰らう。
夏侯惇に肉迫した刹那彼女は地面に伏す程に体勢を低くし地面に叩きつけた右手を軸に身体を回転させ背後に回り込む。勢いに乗せ左足を振り上げ腰を蹴りつけた。
夏侯惇はそれを紙一重で避け身体を反転、剣を突き出す。
こちらに背を向ける格好になっていた彼女は前に飛び出し勢い良く飛び上がる。突き出した剣の上を通過した彼女の両手が夏侯惇の双肩を掴みまた背後を取られる。
夏侯惇は踏み出した足を踏ん張って背後へ回し蹴り。
○○は後ろに仰け反り地面に両手をついて後転、距離を取った。
真っ直ぐに睨めつけてくる猛獣の目にぞくりとした。
彼女の動きは、面倒だ。
型の決まった剣術では彼女の不規則な攻撃に対応出来ないことが多々あった。
これが、趙雲とは素晴らしく噛み合うのだから恐ろしい。
二対二で鍛錬をした際、趙雲の大振りを受け止めた瞬間足下に○○の眼光が光っていた瞬間は、狩られると本気で思った。趙雲の一閃に紛れ肉迫したのだ。一歩間違えれば自らも傷を負うやもしれぬというのに。
しかも○○は夏侯惇と共に戦っていた夏侯淵を上手く誘導し、夏侯惇諸共趙雲の剣撃の餌食とした。どちらにも同じ機に隙を生じさせて、である。
逆もあった。
たった一度だけだったが、二人の連携がどんなに恐ろしいものか、痛感した。味方となったことに心から安堵した。
獣のように動きながら、その実、勝つ為の緻密な計算が働いている。自分が彼女の計算通りに動いているかも分からないのが、そら恐ろしい。
一瞬たりとも油断など出来よう筈もない。
関羽より一つ二つ年齢が上であるだけの娘相手に、だ!
「……ったあぁぁ!!」
「! ……はっ」
大きく薙いだ剣を仰け反って避けた○○が懐に入る。
が、すぐに屈んで横に飛び退いた。蹴りを繰り出す直前に察知したのだ。
夏侯惇は舌を打ち、背後に跳躍して構えを正した。
お互い、汗だくの全身で息をしている。
どれだけ戦っているのか、分からない。
ただの鍛錬であることは二人共心得ていように、時間を気にする余裕も無い程、熾烈(しれつ)なのである。
それだけ得られるものも多いが、鍛錬に夢中になられて困る人間は、少なくなかった。
「そこまでだ!!」
大音声が二人の動きを止める。
乱れた息を整えながら、声のした方をほぼ同時に向いた。
鍛錬場に大股に入ってきたのは張世平。
呆れ顔で二人を交互に見、○○を呼んだ。
「関羽が待ってるぞ。買い物を手伝う約束、してたんだろ?」
○○は目を丸くし、仰天した。
日の位置を見、「なんと!」声を上げた。
「もうそのようなお時間でしたか」
「そんな時間だ。さっさと着替えて行ってやれ。さっきからあいつ、ずっとお前のこと待ってるぞ」
「かたじけない! 急ぎ支度を整えて参ります!」
世平に拱手し、夏侯惇にも深々と頭を下げた。
「夏侯惇殿。本日は有意義な鍛錬となりました。是非、また!」
「ああ。早く行ってやれ」
「はい!」
激しい運動により赤らんだ顔で、屈託無い笑顔を浮かべられ、夏侯惇は一瞬だけ目を逸らした。拱手した○○に片手を挙げて応じ、別の意味で上昇する体温が露わになる頬を隠そうと世平からも背を向ける。
だが、趙雲に知られているのだから、猫族にもバレているのは当然で。
「相変わらず、進展無しか?」
「……ああ」
ぎろりと睨むと、世平は肩をすくめ苦笑を浮かべる。
「まあ、○○があんな感じじゃあなぁ……随分と厄介な娘に惚れたもんだ」
「分かっている」
突っ慳貪に返す夏侯惇は、世平に背を向けて顔を歪めた。
どうにかしたいと思う自分は勿論いる。
いる……が、別にこのままでも良いではないか、現状に満足している自分もいる。
誰かに奪われる危機感を全く感じないのも、彼女の性質故なのかもしれない。
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