なんて、面倒な心……。
 自分自身に辟易したのは、一体何度目だろう。
 私は寝台に寝転がり、嘆息した。

 今、彼に会ってしまったら、私のこの心はどうなってしまうだろう。
 求めて求めて止まらなくなってしまいそうだ。
 会いたくない。
 会いたい。

 一人でいると、尚更そう思えてしまう。

 だから、私は男に内緒で供を連れて街に出た。
 店を一つ一つ見て回るだけでも、彼のことを忘れられるくらいには気が晴れた。

 供の老女は、最初こそ娼婦と見下していたが、病的に執着する夫に片足の腱を切られた私を見ているうちに同情を寄せてくれるようになった。

 私が現実を少しでも忘れられるように気を遣ってくれた。

 私も、それが有り難く、彼女のお陰でとても楽しかった。


 だのに。


 それは、予期せぬ偶然だった。
 供の老女が側を離れていた間の、不運だった。


「あ……」

「! あの時の……」


 私は全身から血の気が引いた。
 どうして……どうして、ここにいるの?
 彼、が……洛陽に――――。

 彼は私に気付くなり顔色を変えて駆け寄り、私の手を握ってきた。


「洛陽にいたのか」

「……何故、」


 手を引こうとすると、ぎゅっと握られる。


「俺も洛陽に用があったんだ。そちらは、何故?」

「……私、は……商家に嫁いで、ここへ……」


 視線を逸らしながら答えると、目を丸くした彼の力が弛んだ。
 その隙に手を抜き、私は彼に背を向けて逃げた。

 戻ってきていた供の老女が彼に気付き、「お知り合いですか?」と問いかけてくるのに何でもないと早口に言って杖を突いて歩き去ろうとした。
 けれど慌てていた所為で躓(つまず)き転んでしまう。

 老女が助け起こそうとしてくれたのを制し、彼が横にしゃがみ込んで杖を持たせてくれた。支えられて立ち上がる。


「片足が不随なのか?」

「あ、あなたには、関係ないでしょう……」


 手を振り払い、私は彼から離れる。

 胸がどきどきと騒がしい。
 次を期待する自分が体温を上昇させる。
 熱い。胸が熱い。燃えて全身に回ってしまいそう。
 離れなければ。
 離れなければ、いけないのに。
 この人の側にいられないのに。いてはいけないのに。

 供の老女が戸惑い私達を交互に見てくるのに、私は冷や汗が流れて彼からまた距離を取った。
 周囲の様子を窺い、夫がいないか確認する。
 もし見つかってしまったら、どうなるか分からない。
 老女を呼び、私は屋敷に帰った。

 私の無礼を謝罪したのか、やや遅れて追いかけてきた老女にはキツく口止めして、その日のことを男に知られないように、振る舞った。

 けれど、久し振りに会ってしまった私の心は、増長するばかりだった。
 また明日街を歩いていれば彼に会えるかもしれない。
 彼ともう一度会いたい……いや、一度と言わず、彼が洛陽にいる間毎日でも会えたら……。
 そればかりである。

 当然、男にバレた。

 バレて、老女は折檻を受けた後暇を出され、私も髪をばっさり切られ胸元に深い切り傷を刻まれた。きっと、傷は痕が残ってしまうだろう。これでは他の男も私を抱けまいとの独占欲の証であった。
 私はともかく、私が付き合わせただけの老女にはただただ申し訳なかった。私が、障害を持った息子の為にとあくせく働いていた彼女から職を奪ってしまったのだ。謝罪の意を込めて下女に頼んで沢山の金子を届けさせたが、これから彼女達の生活を思うと、胸が痛んだ。

 私はあれから部屋から出ることを禁じられた。
 ただ部屋の中で客を待つ娼婦としての生活を強いられた。

 いっそ、殺してしまえば良いのに。
 もう一度、死んでみようと思った。
 でも駄目だった。彼に会いたいその気持ちが、騒ぎ出して邪魔をする。

 出ることを禁じられてしまうと、想いはより強まった。
 会いたい。
 会って、私を連れ出してくれたらどんなに良かっただろう。
 汚い娼婦のくせに何を夢見ているの。
 私には、今更純情なんて言葉は似合わない。求めることすら烏滸(おこが)がましい。
 頭を悩ませる私に、ある日老女からの手紙が届く。

 自分と息子を一緒に雇ってくれる店を見つけたことを報せる手紙だった。中には金子を渡したことを感謝する旨も書かれていた。
 そして――――あの日再会してしまった彼に、私が男に無理矢理に妻にされ、片足を不随にされたことを話したとも。

 なんてことをしてくれたんだと、手紙を握り締めた。
 そんなことをしたって私はここを出られない。男はもう、許さない。
 汚い娼婦如きにどうしてそんなに執着するのか分からないが、男の狂気を孕んだ執念は本物だ。

 もし男に彼の存在を知られたら、何をするか分からない……彼にも、老女にも。

 私は一層頭を悩ませた。
 だが心は、希望を得たと馬鹿みたいに歓喜するのである。

 どんなに諦めてと願っても、私は彼に囚われたまま……。



‡‡‡




 その日、男は洛陽にいなかった。
 商談で兌州にまで行かなければならなくなったのだ。

 男に抱かれぬ夜は、楽だ。
 月を眺めて眠くなったら寝台に入る。
 こんな過ごし方、贅沢だ――――。


 少しだけ気分が良い私の前に、彼は現れてしまうのだ。


 数人の下女を、伴って。
 庭に――――窓の前に立っている。
 月から視線を落とした瞬間気付いた私は驚いて言葉を失った。動くことも忘れた。

 彼が何かを言おうとした時にやっと我に返り、部屋の中へ引っ込んだ。


「待ってくれ!」

「……ひ、人を呼びますよ」


 扉に手をかけようとすると、下女達が窓に飛びつき泣きそうな顔で訴えてくる。


「奥様。大丈夫です。今、旦那様の息のかかった者は全て酒を飲んで良く眠っております」

「どうかここから逃げて下さい。今を逃せば、きっと旦那様からは一生逃げられません」

「あなた達の言う通りにしてしまったら、今度はあなた達があの老女のようになるわよ。娼婦風情の所為でそんな目に遭って良いの?」


 下女達は首を横に振った。


「構いません。あたし達だって、あなた様を利用してここから逃げるつもりです。ですからどうか、あたし達の為と思って、この方と逃げて下さい。この方なら、あなたを旦那様の手の届かぬ場所まで連れて行ってくれます」

「暇を出されたばば様も奥様が逃げられることを望んでいます。彼女がこの方をここへ連れてきたのです」


 止めて。
 そんなこと言わないで。
 心が、期待してしまうじゃない。
 駄目なのに……駄目なのに!


「そ、そんなこと……っ」

「奥様!」

「奥様」

「止めて!!」


 私は叫んで扉を開けた。
 杖を突いて必死に部屋から、彼から逃げた。
 酒を飲んで起きないのであれば、起こしてしまえば良い。

 どうして、どうしてこうなってしまうの。
 どうして放っておいてくれないの。
 いっそ殺して欲しい。誰でも良いから私を殺して欲しい。

 娼婦のくせに、娼婦のくせに、娼婦のくせに――――彼のものになりたいと、ついて行きたいと騒ぐ心を殺して欲しい!


「待ってくれ!」

「……っ!」


 背後から声。
 杖を突きながら逃げる私は、当然すぐに捕まった。

 暴れて手を振り払うけれど、その場に尻餅をついてしまう。


「まずは話を聞いてくれっ。俺は、」

「嫌っ!!」


 背中を支えられても私は手を振り回して拒絶する。

 止めて、止めて、止めて。
 私を見ないで。
 私に触れないで。
 私に話しかけないで。
 これ以上私に入ってこないで。
 これ以上私の中を占めないで。
 娼婦の私にあなたは眩し過ぎる。

 彼を視界に入れないように、俯いて両手を振る。
 腕を掴まれて簡単に封じられる。

 身を捩っても逃げる前に抱き寄せられた。
 今までこんなに近付いたことなんて無かった。
 彼の匂いは、こんなだったのか。

 駄目だ。
 体温に、匂いに、心が酔う。
 とろけそうになる身体から力が抜けていく。
 視界が滲んでいく。
 彼の背中へ、両の手が伸びそうになる。

 日向に惹かれていく日陰の自分が、駄目だと分かっているのに勝手に動くのを、必死に抑えた。


「姿を消してから、ずっと捜していたんだ」

「止めて……」

「風の噂で、お前が別の娼婦と刺し違えたと聞いて……真偽を確かめたかった。遺体が見つからないのなら生きている筈だと、ずっと捜していたんだ。ここで見つけた時、俺がどれだけ安心したか……どれだけ嬉しかったか」


 長く溜息をつき、私の頭を撫でる。
 優しい手つきに目頭が熱くなった。

 嬉しいと、思ってしまう。

 嗚呼、好きだ。
 私はこの人が好きだ。
 ずっとずっと求めていた人。


「……これ以上、私の中に入ってこないで」


 声が震える。
 必死に拒絶しているつもりなのに、声はとても弱々しい。
 こんなんじゃ本当に拒絶しているかも分からない。


「それは、何故だ」


 彼に腕の力が強まる。
 これでは逃げられない。

 良いじゃないか。
 逃げなくても。
 この人と一緒に逃げられたら、私はあの男から解放される。この人の側にいられる。
 元娼婦だって、彼も私も言わなければバレないではないか。
 もう一人の私が囁きかけてくる。

 それを拒絶したくて私は首を振った。


「止めて……今まで、ずっと、ずっと……あなたは私の中にいたじゃないですか。これ以上私に何をなさるつもりですか……」

「好きだ。俺と共に来て欲しい。俺が、お前を守りたい」


 私はこの人の名前を知らない。
 この人も私の名前を知らない。
 お互い何も知らない。
 だけど、私はこんなにも彼に惹かれている。

 許されないのに。


「どうして……娼婦如きに」


 彼が私の顔を両手で挟み、ゆっくりと上げる。
 いけないことなのに、日溜まりの下を歩く彼の目を、間近で見つめる。


「それは、考えたことが無かった。ただ……三年前に、転んで泣きじゃくる子供を傍らで微笑んで泣き止むまで宥めているお前を見てから、ずっと、頭の中をお前が占めていた。ふとした時にお前を思い出すと、傍にいて欲しくなる。子供に向けていた笑顔を独り占めしたくなる」


 彼の言葉が、私の頭を侵していく。
 止めて……止めて欲しいのに。

 彼は口を止めてもくれないし、私をしっかりと捕まえて放さないのだ。


「だから、一年前うずくまっているお前を偶然見つけた時は、申し訳ないがとても嬉しかった。それからずっとお前に毎日でも会いたいと、そればかりで、お前が何をしているのかなど思いつきもしなかったな。娼婦というのも、その時に知ったくらいだった」

「でも、知ったのでしょう」

「お前を抱く男達にみっともなく嫉妬をしたよ。もし彼らの中にお前の心を射止める者が現れたら――――気が気でなかった。お前が商家に嫁いでいたと知って取り乱した。俺は、醜い男だろう?」


 取り乱していたなんて、そんな風には、全く見えなかった。
 言うと、彼は、自嘲に笑う。

 それ以上何も言わないでと、切に願う。
 もう駄目。
 私の心が、止められなくなる。



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