紫苑様
目の前に、女の裸体がある。
裂傷や火傷の痕が痛々しい肌は濡れて蠱惑的に火の赤で身体の艶めかしい曲線を描き、周瑜の目を惹き付けて逃さない。
周瑜は、この身体が欲しくて堪らない。
ずっと、ずっと、ずっと――――狂おしく渇望していた女の裸だ。
どんな女に手を出しても、満たされなかったこの心。
それが、今、満たされるやもしれぬ。
敵だろうが何だろうが構わない。
ようやっとあの時の女が手の届く場所にいるのだ。
今すぐ押し倒して、存分に彼女の身体を味わいたい。
男としての欲望が、冷えた身体を内側から燃え上がらせた。
ここで手を出せば、女も観念するだろうか。
観念して、オレのものになるだろうか。
歓喜に総身がうち震える。
女がそんな周瑜の気配を察し、振り返った。
伏せられた両の瞼から額まで、火傷の痕が広がっている。
彼女は今、盲目なのだ。
「……寒いのですか?」
「いいや。アンタが欲しくて震えてるんだ」
女は肩を震わせ、苦笑する。
ゆっくりと振り返る。
周瑜は、目を細めた――――。
‡‡‡
これはまだ、彼が幼かった頃の話だ。
大事な大事な家族を喪(うしな)ったばかりで、ただただ生きることにのみ執着していた彼の世界は、全てが無彩色。どんな植物も生き物も、精彩を欠いているようにしか見えなかった。
そんな彼は、たった一人――――鮮やかな色を纏った人間の女と出会った瞬間、心臓が破裂した。
否、正しく言えば破裂したのではない。そう錯覚する程に大きな鼓動を立てたのだ。
女と出会ったのは、森の中、側に小川の流れる日当たりの良い花畑。
身分の高いらしい彼女は顔の良く似た二人の妹達を注意しつつ、従者に何事か言いつけ小川の畔に立った。
彼自身はいち早く気配を察知し、茂みに隠れていた。自分も咽が渇いて水を欲していたし、膝を擦り剥いて出来た怪我を洗っておきたかった。
けども茂みの内から女に魅取れてしまい、気配を完全に殺しきれていなかった。
『そこにいるのは何者です』
小川を流れる冷涼な水よりも清く、氷よりも厳しい声が鼓膜を貫く。
だが危機感よりも脱力させる甘い痺れが、彼の小さな身体を支配する。
動きたくないのではなく、ぴくりとも動けなかった。
『出てこられないのですか? ならば私が参ります』
女は恐れを感じさせぬ凛然とした態度で彼を暴いた。
美しい彼女と間近で目が合った瞬間、彼は未知なる感覚に全身から力が抜け、その場に座り込んでしまった。
茫然と見上げてくる彼に、女は目を丸くした。
女が凝視していたのは彼の頭部である。
次いで膝に視線が落ち、さっと顔色を変えた。
綺麗な衣が汚れるも厭わず茂みに飛び込み、彼の膝の怪我を確かめた。
彼の頭を見ているにも関わらず、だ。
心配そうに彼の様子を確認して彼女は自らの袖を破き、川の水で濡らして優しく声をかけながら血と泥を拭い落としてくれた。
更に彼女は片方の袖も破き、包帯代わりに膝に巻き付けた。
礼も言えずにいると、彼女は微笑んで彼の頭を撫でた。
『もう少しお待ちなさい』
女は妹達の元へ戻り、すぐに、沢山の荷物を戻ってきた。
手触りの良い高価な外套は頭もすっぽりと隠せた。
彼に外套を着せ、頭を形が分からぬようしっかりと覆い隠して、女は満足そうに頷いた。
そして、彼に塗り薬と清潔な布、そして決して少なくない金を沢山詰め込んだ袋を両手に持たせた。
『人の集まる場所ではこの外套で頭を隠しなさい。絶対に外へ曝さないこと。外套も、薬も、金も、あなたが生きる為に使いなさい。よろしいですね?』
彼は決して言葉を発しなかった。女の美貌に目を奪われ、言葉を忘れてしまっていたのだ。
女はそれを警戒心故と取ったのだろう。それ以上言葉をかけず、素知らぬフリをして小川の畔に座った。
決して彼を見ず、また妹達や従者に悟られぬよう、自身で彼を隠せる場所を選んでいた。
女は、彼に――――人間に蔑まれて然(しか)るべき存在に、気遣いを見せた。
どんな花も、彼の目には色無き無価値な存在にしか思えなかった。
だのに彼女の存在だけは、彼に色を認識させたのだ。
あのつやつやと煌めく美しい黒髪の下で怜悧に輝く碧眼、化粧だろう、微かに赤みがかった頬、真っ赤でふっくらとした魅惑的な唇、雪のようなきめ細やかな真っ白な肌――――。
女が、実は天界の住人なのだと言われれば、彼は納得してしまうだろう。
幼い彼の一目惚れだった。
しかし幼き故に分かろう筈もなく。
頭から離れない女の優しい笑顔に、彼は悩まされることになる。
成人となっても彼女は消えてはくれなかった。
‡‡‡
再会は、戦場であった。
大きな分銅の付いた鎖を自在に操り、敵の足を捕らえて転倒させ、匕首で躊躇無く首筋を掻き切る女を見、周瑜は驚くよりも大いに歓喜した。
やっと見つけた!!
幼い自分が、訳も分からぬまま男として惚れ、ずっとずっと心を支配していた人間の女を!
敵として相見えた女は、変わり果てていた。
顔の上半分に広がる過去の火傷の所為だろう、盲目でありながら女は将を的確にしとめていく。
彼女は、敵は勿論味方からも畏怖の対象として見られ、援護する者も、標的に選ばれた者を助けようとする者も、無かった。
戦の前に、間者から敵が名の売れた女傭兵を一人雇ったと言う話を聞いていた。
○○と言う女傭兵――――それが彼女であることは間違い無かった。
孤立無援ながら、他を圧倒する獅子奮迅の戦いを見せる○○に、周瑜の胸は躍った。
勝ちたいと思った。勝ってあの女を手に入れたい。
今なら、彼女と初めて出逢った時から感じていた感情を理解している。
あの時から、自分は男として○○と言う人間の女を欲しているのだと。
昔の見目とは変わってしまったが、関係無かった。
自由な傭兵とは言え、敗者は勝者に従うもの。
汚い手だが、女を手に入れられるのなら、周瑜は構わなかった。
無論、完全勝利を君主に捧げることも、忘れてはいない。
「なあ、アンタ。今度はオレと戦ってくれよ」
軽佻(けいちょう)に声をかけると、○○は絶命した兵士の頭をそっと地面に降ろし、立ち上がって正確に周瑜に向き直った。
周瑜は賞賛の意を込めて口笛を吹いた。
瞼は閉じられている。だのに、見られているように思える。
それは、彼女が闇の中在りても他者をはっきりと認識出来る証明でもあった。
視覚を喪失した分、他の感覚が鋭敏となり、更に磨きをかけて健常な武人と遜色無い傭兵へと到達し得たのだろう。
それまでにどれ程の苦労があったか。
周瑜に情けをかけた後彼女達に何が遭ったのか。
問おうかとも思ったが、近くに周瑜を良く思わぬ将がいないとも限らぬ。それに、周瑜のことを覚えていない可能性もある。
まずはこの女傭兵を手に入れてからだ。
ぎらついた目で見つめられているとは、さしもの彼女も思っていないだろう。
彼女は小さく笑い、血塗れの匕首を腰に差して鎖分銅を弄んだ。
「物好きな方……進んで私と戦おうとする方なんて、もういないと思っていました」
「そのようだ。アンタ、味方からも恐れられてるって自覚してるか?」
○○は笑った。
それは肯定。
周瑜は肩をすくめた。
「今まで見てきたどんな女より強い女だな」
「男の世界で金を稼いでいくには、こうなる以外にはありませんでしたから」
「アンタ、今は傭兵なんてやっているが、元々は何処かのお姫様だったんじゃないのか? 普通の女傭兵にしちゃあ立ち居振る舞いが洗練されてる」
○○は驚いて見せた。が、やや芝居がかった反応で、恐らくはこれまで出会ってきた人間にも簡単にバレていたのだろう。
それに、特に隠している様子も無い。
すんなりと首肯した。
「ええ。もう七年になるでしょうか。父が冤罪で首を刎ねられ、母は心労が祟って自ら命を絶ちました。妹達は父の古い知人の方に預かっていただいています」
「じゃあアンタは何でそいつのとこに一緒に行かなかったんだ」
「嫁入り前の女を二人も養うともなれば、お金は必要でしょう。ですから私が少しでもその方にお金を返さなければなりません」
なるほど。
彼女らしいと、納得した。
○○は汚い十三支の子供の為に躊躇い無く身に纏う衣服の袖を裂き、金も分け与えた。
十三支にすら温情をかける程の器量であれば、当然妹達を引き取ってくれた恩に報いようとするだろう。
その為に、自らの身体がボロボロになっても――――光を失っても。
口角が、つり上がる。
彼女が盲目で良かった。
今の周瑜の態度は誰からも不審がられるものだ。
長年抱えてきた感情を抑えきれないから仕方のないことだと自分では思うが、今自分は○○にとって敵国の都督。挙げるべき首級である。
敵と認識している相手が自分を見てにやにやされていたら、不気味がるのが当たり前だ。
周瑜は得物を一瞬強く握り締め、身構えた。
「今回の戦、うちの脅威になるのはアンタだけだ。大人しく、捕虜になってもらおうか」
「あら、殺すのではないのですね」
「強者は殺すよりも、生け捕りにする方が難しいからな。それにアンタは、殺すも野放しも惜しい人材だ」
「死ぬ気でやれば、誰にでも出来ることをしているだけですよ」
「死ぬ気と言うが、実際アンタに死ぬつもりなんて無いんだろ」
「はい」○○はにこやかに、答えた。
互いに戦闘態勢を取って、地を蹴った。
遠くから、雷鳴が聞こえる――――。
‡‡‡
○○は、確かに手強かった。
だが、幸い別の武将が敵の大将に深手を負わせて敗走、銅鑼の音を合図に兵士達は撤退を始める。
そして丁度、分厚い黒雲が空を覆い、雷と共に大きな雨粒を容赦無く無数に地上へ落とし始めた。
視界は途端に白くぼやけ、雷鳴と雨音に音は遮断される。
そんな中で周瑜は無我夢中で○○の腕を掴んで引き寄せた。
得物は鎖分銅も匕首も何処かへ飛ばした。その他に武器を所持している様子も無い。
丸腰の女を軽々と抱き上げて視界不良の中本陣へ急いで戻った。
○○は抵抗をしなかった。敗者として、勝者の意に従う神妙な態度で周瑜の腕に身を任せている。
呉軍も勝利の余韻に浸る余裕も無く、大わらわで撤退の準備に取りかかっている。
通り雨だろうが、頻繁に落ちる雷鳴は近い。
木の近くに寄らぬよう怒鳴るように指示を飛ばして歩きながら、周瑜は○○を降ろさない。
○○について兵士達に問われたが、殺すには惜しい人材を得たとだけ返した。
○○は、ずっと大人しくしていた。
馬に相乗りにしても、そのまま呉に戻っても、だ。
話しかければ答えは返ってくる。
ただ、あなたの所為で報酬を貰い損ねてしまったと恨み節は無言の間にも心中で続いていたらしいが。
女官に○○の着替えを部屋へ持ってくるように言いつけ、彼女を部屋に置いてから孫権に戦勝の報告をしようとしたが、その前に厄介な人間に会ってしまった。
「周瑜!! 敵の将を勝手に連れて戻ったとは誠か!?」
「げ……っ」
孫権の父、兄と続けて仕えて来た老将、黄蓋である。
周瑜は露骨に嫌な顔をして、ずんずん大股に近寄ってくる彼を睨んだ。
黄蓋は怒りで顔を真っ赤にし、周瑜をまた怒鳴りつけようとして――――目を丸くした。
その目は周瑜の腕の中に収まる○○に向けられている。
彼女もまた、黄蓋の声に反応を示した。
「この声は……」
「○○! あれ程言うておったというに、お前はまだ危ない真似をしておったのか!!」
黄蓋は、周瑜ではなく○○を一喝。周瑜の腕から彼女を引きずり降ろし、逃げようとする小さな頭に拳骨を落とした。
周瑜は仰天した。
「いい加減、己の年齢を考えぬか!! 妹達は皆嫁いでいったのだぞ!!」
「黄蓋様……それは、手紙でお知らせ下さいましたではありませんか。ですから私は、負担して下さった金を、少しでも多く返せるようにと、」
「お前が左様なことをする必要は無いと何度も言ったであろう!」
「ただ甘えるだけでは、私の気が済みません。父と親しくして下さった黄蓋様に、何もお返しすることも出来ずにただただ世話になるなど、どうして出来ましょう」
黄蓋は頭を抱え、長々と嘆息する。
「無惨なまでに傷を作りおって……! お前達の父母に何と詫びれば良いか……」
「お、おい……まさか、アンタの妹達の引き取り先って、」
「黄蓋様です」
……。
呆れて言葉も出ない。
今し方、その黄蓋の仕える国の敵に雇われて刃を向けていたのだ、彼女は。
それで勝っていたら、貰った報酬を黄蓋に送るつもりでいたのか。
周瑜は苦笑を禁じ得なかった。
「アンタ……敵が恩人がいる国だって知らなかったのか」
「戦が始まってから知りました。ですが、斥候(せっこう)の報告では黄蓋様のお姿は無いようでしたので、問題は無いかと」
「いや、どう考えてもありまくるだろ……」
黄蓋がまた、嘆息。珍しいことだが、嘆きたくなる気持ちは良く分かった。
「取り敢えず、○○の身柄は負かしたオレが預かるぜ。ただ、犠牲になった将兵の人数が多いらしい。戦力として入れるか、ジジイの監視下に置くか――――扱いについては孫権と話し合って決める必要がある」
黄蓋は沈黙した。
○○の頭を撫で、周瑜の方へ押しやる。
「儂は、孫権様の意に従うのみじゃ。儂を頼った亡き友人の娘であろうと……」
目を伏せて彼は言う。嗄れた声音は堅かった。
本心は違う。
……まあ、亡くなった友人の忘れ形見なのだから、案じるのは当たり前か。
もし、ここで黄蓋にこの女を自分の妻にしたいと言ったら、馬鹿を言うなと激怒するかもしれない。このジジイが、オレに○○を嫁がせて良いと思う訳がない。
周瑜は一人苦笑を漏らし、○○の手を握って歩き出した。
「じゃあ、処遇が決まったら真っ先に報せてやるよ」
「ああ。……女だからと手を出したら承知せんぞ、周瑜」
釘を刺された。
周瑜は背を向けたまま肩をすくめ、○○を己の部屋に連れ込んだ。
女官の仕事の方が早かった。
すでに寝台に丁寧に置かれた女官の服を見、周瑜は○○を振り返る。
「オレの部屋で悪いが、着替えてゆっくり休んでてくれ」
「お気遣い、感謝致します」
○○は周瑜に拱手し、彼の手を借りて寝台に近付く。
服を持たせると、感触を確かめ袖の位置や向きなどを確かめ、寝台に置いた。
そして何の躊躇いも無く服を脱ぎ出したのである。
周瑜は驚き息を呑んだ。
さりとて止めなかったのは、欲望が咽を塞いだからである。
彼女が一糸纏わぬ姿になった時には、一人の男として惚れた女の裸体を見たいと思うことの何が悪いと、開き直っている。
この上ない歓喜にうち震え、じっと傷だらけの肢体を凝視していると、その気配を悟られた。
「……寒いのですか?」
「いいや。アンタが欲しくて震えてるんだ」
隠さずに言う。
苦笑した彼女は、
「おかしな人ですね」
もう女と言うにはおぞましい身体に成り果てた私を欲しいなどと。
ゆっくりと周瑜に向き直った。
酷い有様の身体は、しかし周瑜を昂揚させる。
どんなにおぞましかろうと構わない。
○○はずっと周瑜の心を支配してきた。
これからもずっと捕らえて放さないだろう。
だが今度は、こちらが捕まえる番だ。
周瑜は立ち上がり、○○に歩み寄った。
首筋に手を這わすと、ぴくりと肩が震える。
「アンタはもう、覚えていないだろうな。オレのこと」
「あら……何処かでお会いしましたかしら――――」
○○を寝台に押し倒す。
ぎしりと悲鳴を上げ、寝台は二人分の体重に耐えた。
周瑜は閉じられた瞼に口づけ、口角をつり上げる。
「小さい頃にな。アンタに情けをかけられてから、ずっとアンタはオレの中にいた。どんなに他の女でアンタを埋めようとしても、無駄だった。何処を捜したって見つからないアンタに何年も囚われたオレを、愚かだと思うか?」
「ええ、思います」
彼女ははっきりと、肯定した。
周瑜は笑う。
「はっきりと言うんだな」
「本当に愚かしいと思いましたから」
私は殿方を殺す業を背負っています。
淡々と、彼女は言う。
周瑜が退くと改めて服を着替え始めた。
盲目であることを感じさせない自然な手付きで着替えを進める○○。
その間、彼女は語った。
「私には、婚約者がいました。心から愛していた人でした。ですがその人は、私との婚儀の前に盗賊に襲われて亡くなってしまいました」
「……それだけ、じゃないよな」
「父母が亡くなった後、黄蓋様のもとに一時世話になっていた時、とある方と恋に落ちました。その人は、事故に巻き込まれて亡くなりました。傭兵として生きている間にもご縁はありましたが、私が愛した人、私を愛して下さった人に限って、妻になる前に亡くなってしまうんです。あなたもきっと、亡くなってしまうでしょう。そのような感情、捨てて下さい」
周瑜は咄嗟に己の胸を押さえた。
一族が患ってきた、不治の病……いつ限りが来るか分からぬ己の命。
それを言い当てられたような気がしたが、違う。
○○の業とは、ただの偶然積み重ねだ。己の抱える病とは、関係無い。
オレといつ出会ったかも分かっていない彼女が、病のことを知っている筈がない――――。
だから気にしなくて良い。
周瑜は、無理矢理に口角を上げた。
腰を上げて彼女の背後に立つ。
「その男達は不運だったな。オレを恨んでるかもしれない」
腰帯を結んでいた○○が動きを止めた。
「何故?」
「オレがアンタを手に入れるから」
はっきりと断じ、抱き寄せる。
うなじに口付けた。
「オレは死なない。ようやくアンタを手に入れて、死ねる訳がないだろう?」
嘘を、つく。
顎を掴んで後ろを向かせ、口の端に口付ける。
不思議そうな顔をする彼女の頭を撫で、「ここで大人しく、な?」と耳で囁いて部屋を出る。
危ない、危ない。
○○へ熱を上げ過ぎて孫権への報告を忘れそうになっていた。
猫族で要職に就いている以上、ちょっとした遅れは怠慢として糾弾される。
彼女をここに残して離れるのは惜しいが、仕方がない。さっさと済ませて戻ろう。
周瑜の足取りは軽い。
長年心を捕らえて放さなかった女性を、思いがけず手に入れたのだから、無理も無い――――。
‡‡‡
戦場にいれば、何もかも忘れられた。
戦場にあるのは生きるか死ぬか、殺すか殺されるか――――ただ、それだけだ。
ただただ眼前の敵を殺すことだけに没頭すれば良いのだ。
そうすれば、その時だけは、寂しさを忘れられる。
喪った悲しみも、寂しさを埋めろと求める寒い虚ろも。
だから、彼女は戦場を探す。
業を嘆く自分を忘れたくて、血生臭い狂気を孕んだ澱んだ熱の嵐に身を投じるのだ。
敗者となった以上勝者の采配に従わざるを得ない。
更に運が良ければ黄蓋に会って妹達が息災か知れるやもしれぬとも思っていた。
故に周瑜に大人しくついていったのだが、そこで予想外なことが、一つ。
この周瑜という男、自分と昔何処かで出会っていたらしいのだ。
しかも彼は、どうも私に惚れているらしい。
恥ずかしいも嬉しいも思わなかった。
ただ――――嗚呼、この人も死んでしまうんだわ、という虚脱感。
私が愛し、私を愛してくれた男性は、皆死んでしまう。
これは、業。
○○が生まれ持った業なのだ。
その業は、自分ではどうしようもない。
誰かを愛することを諦めた。
誰かに愛されることを諦めた。
誰かを愛さない為に目を焼いた。
誰かに愛されない為に身体中に傷を作った。
だのに、あの男は。
いつ出会ったのかは知らぬが、目が見えずとも分かる程の強い執着を見せた。
傷だらけの身体なぞ気にも留めなかった。
平気で傷だらけの裸体を押し倒した。
彼女が張った予防線は、彼には通用しなかったようだ。
これでは、意味が無いじゃない。
周瑜は○○を残し、部屋を出ていった。孫権に報告しに行くのだろう。
いっそ武将として雇い入れるか、敵将として始末してくれれば、良いのに。
でもこの国には黄蓋様がいる。きっと、私の思うようにはならないだろう。
困った。
また、喪失を繰り返す。
あんな気持ちを味わわなければならないのか。
嗚呼、困った。
本当に、困った。
溜息を漏らし、瞼を震わす。
――――けれど。
己の業を知りながら、周瑜の想いを拒絶出来ないのは。
愛し愛される心地良さを知っているからだ。
……己の命に、限りがやって来てしまったからだ。
○○はゆっくりと寝台に腰掛け、胸を押さえて僅かに前のめりになる。
胸――――心臓。
そこは今、病魔が巣くっている。
この病魔がいつ、心臓を喰らい尽くすか分からない。
私が先なのか、彼が先なのか……。
『オレは死なない。ようやくアンタを手に入れて、死ねる訳がないだろう?』
周瑜は言った。
堂々と、嘘の言葉を。
それが分からぬ程、戦場に馴染んだ彼女は純粋ではなかった。
きっと彼も、病を罹患しているのだろう。
それが何なのか分からない。
その病は、私よりも早く彼を死なせるのか。それとも私よりも生かすのか。
……後者だと、良い。
私よりも生きていてくれるのなら、私が愛されたまま死んでいけるのなら……私は彼を受け入れても良い。
周瑜という男性を愛そうと思ってみても、良い。
愛されること、愛すること。
どちらもとても心地良い。
あの温もりを忘れてしまうには、剰りに幸福過ぎた。
○○は心臓の鼓動を感じながら、深呼吸した。
戻って来た時、もう一度、訊ねてみよう。
あなたは、本当に、私の業に殺されないのかと。
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