リィリィが目覚めたのは朝早くだった。

 間近で立った物音に起こされたエリクは足音が聞こえなくなるのを待って、そうっと部屋を出た。
 すると、リィリィの部屋の前に煙管を嘴(くちばし)で器用に吹かす源がいる。

 源はエリクを見やると、下を指差した。

 恐らくそれは、地下書庫を示している。代わりに行って欲しいというメッセージだろう。
 エリクは頷きかけ、足早にリィリィを追いかけた。

 リィリィは足が速い。
 それだけ書いたまま放置されたページのことが気がかりなのだろう。
 エリクが誕生から臨終までページを違えず揃えたばかりか、最初のページに絵を添えたと知った時、彼女はどんな反応を見せるだろうか。
 ほんの少しだけ、悪戯心が疼(うず)いた。

 長い階段を下りて、静かに地下書庫の中へ入る。
 少ない明かりに照らされた重苦しい空間の奥に、ダークエルフの少女はいる。
 机の上に置かれたシェリィの人生が記された紙束を見下ろし、そっと手にした。

 エリクはその様を物影に隠れて観察してみる。驚いて、喜んでくれたらとても嬉しい。

 だが、リィリィの反応は、エリクの望みとは正反対のものだった。

 むっとして、唇を尖らせて、一番最初のページを睨みつける。
 何だかとても不満そうだ。
 エリクはまさか彼女の見たものと自分の見たものが違っていたのでは……と不安になり、歩み寄った。


「もしかして、間違った絵を描いてしまったのかな」

「……」


 ぎろり。睨まれる。が、愛くるしい顔に凄まれても正直そんなに怖くはない。
 まるで子犬が精一杯の威嚇をしているようだ――――つい笑みをこぼしそうになり、唇を引き結ぶ。ここで更に機嫌を損ねる訳にはいかない。名前を褒めたことで少しは縮まった距離が、一気に開いてしまうかもしれない。

 リィリィに笑みを向け、紙束に視線を向ける。
 もう一度、己の描いたシェリィの母、シャイリーンの微笑みを見直す。
 やはり、シェリィの目を通してエリクが見た母の顔で間違い無い。
 それがリィリィの見たものと違っていたら――――エリクは彼女の邪魔をしたことになる。

 もしそうなっているのだとしたら、早く謝らなければならない。
 エリクは身を屈めてリィリィと目線を合わせた。


「ごめんね。僕の見たままを絵にして添えたんだ。君の見たものと違っていたのなら――――」

「上手すぎるのです」

「え?」

「上手すぎて有り得ない領域になっているのです」


 むすっとしたまま、貶しとも褒めとも思える言葉を返した。


「私は、こんな風に描けませんでした。何度も何度も練習してるのに。私の方がもっとはっきり見ているのに」

「え? あ、ああ……何だ、そういうことか」


 びっくりした。
 エリクは胸を撫で下ろした。

 とどのつまり、リィリィは嫉妬していたのだった。

 エリク自身、何でもそつなくこなせると自負しているが、芸術には特に自信がある。
 自分の描いた絵に、こんな可愛らしい嫉妬をされて、嬉しくない筈がなかった。擽(くすぐ)ったくなった胸を押さえたまま、エリクは「良かった」と心底から漏らした。


「もしかして違う絵を描いて台無しにしてしまったんじゃないかって、ひやりとしたよ」

「……」

「そんな顔しないで。絵を描きたいなら僕が教えてあげるから。コツを掴んで練習をすれば、上手くなるよ」

「……。……本当ですか?」


 ぐらりぐらり。
 リィリィの心が好奇心に揺らいでいるのが見て取れる。

 なんて可愛らしいこと。
 エリクは自然と手を動かした。
 リィリィの頭を撫でた。

 これに、リィリィはぎょっとする。

 その反応に、すぐに手を引いた。


「ごめん。まだ、そんな仲じゃなかったね。気を付けるよ」

「……」


 リィリィは一歩だけ後ろに退がった。
 ……距離感を、間違えてしまった。
 まだ触れ合える程の仲ではないのに、つい、手が伸びてしまった。

 エリクは苦笑し、立ち上がった。


「この人の歴史に、僕が絵を添えても良いかな。無理に、とは言わないけど」


 それが、手伝いの一環として認めてもらえるなら、やる気も上がろうものである。
 リィリィに請うように願い出てみると、彼女はつかの間赤い瞳を揺らし、不満そうにまた唇を尖らせた。

 ……駄目だろうか。気に食わなかったとしたら、仕方がない。
 この地下書庫の管理人の言葉を、エリクはじっと待った。

 暫くして、


「描いているのを、見てても良いのなら」


 囁くような声で、答えた。

 「ありがとう」エリクは弾んだ声を上げた。
 それなら早速――――と、紙束に目を向ける。
 すると察したリィリィがささっと動き、エリクの為に椅子を引いてくれた。余程、エリクのメイキングを見たいと見える。

 エリクは礼を言って、椅子に座った。

 紙束から、上から数枚取って中身を確認すると、リィリィも椅子を引いて隣に座った。じっとエリクの手を凝視している。
 距離感はあるのに、今はとても近い。

 絵一つでこんな簡単に物理的な距離を縮められるとは、嬉しい発見だった。そのうち、信頼関係も築けるかも知れない。

 エリクは知らず笑顔になって、誕生の次のページを手に取った。


『一年、冬。家屋の屋根から落下した雪を被る。意識不明。』


 一年――――たった一歳でそんな苦しい事故に遭っていたとは。
 エリクは、さぞシェリィは苦しかっただろうと、いたわるように文字を撫でた。

 すると、昨日と同じ衝撃に襲われる。
 直後に景色が変わり、視点はうんと低くなった。
 雪深い街中だ。
 母と共に家屋の脇に備え付けられた古いベンチに座り、歌を歌っている。

 シャイリーンの頬には酷い痣があった。誰に殴られたのだろう。
 痛そうだが、それでもシャイリーンは愛娘に惜しみない愛情を込めた笑みを向けている。


「次は何を歌おうかしらね。マルンベルの花嫁? ララ・エッサーの子守歌? それとも、陽気なミネラネ? ……ああ、他にもブゥオンの童歌もあったわ。シェリィはどれがお気に入りなのかしら。お母さんに教えてちょうだい」

「アルーエルー!」

「ふふ……そう。マルンベルの花嫁ね。この歌はお母さんも大好きなのよ。あなたのお父様が、私を娶れない代わりに、指輪の代わりに私に教えて下さった大切な歌なの。シェリィも気に入ってくれてとても嬉しいわ」


 シャイリーンはまた歌い出す。シェリィも一緒に。

 けれども――――誰かが悲鳴を上げた、その直後である。
 楽しかった視界は、一瞬で白に埋め尽くされ、やがて灰色に、黒に染まった。
 雪だ。これは沢山の雪だ。背後の建物は非常に高かった。そこから落下してきた重い雪となれば、その衝撃は恐ろしい。小さな女児にはとても耐えられない大きな負荷がかかるだろう。

 一瞬でシェリィの身体は雪に押し潰された。

 シャイリーンの悲鳴が遠い。
 必死に雪を掻き分けてくれているのだろうが、一体どれだけの雪がシェリィに落ちてきたのか。待望の母の両手は、一向に引き上げてくれない。

 遠のいていく意識。
 ぎりぎりのところで、ようやっと雪が除けられ、母が見えた。

 そこで、景色は元に戻る。

 エリクは迷った。
 シャイリーンの、歌を歌っていた時の笑顔を描くべきか、娘を救出しようとしたあの必死の顔を描くべきか。
 エリク自身の希望では前者だ。
 だが内容を思えば後者を描く方が正しい。

 暫し迷い、結局は後者を選んだ。

 一線も間違えること無きよう、集中してペンを紙面に走らせる。
 その様を見ている少女がいることも手伝って、エリクは昨日よりもずっと己が緊張していると感じた。

 お陰で、描き終わる頃にはどっと疲れが押し寄せた反面、昨日よりも良い出来に仕上がったと思う。こんな痛くて辛い絵でなければ、もっと良かったのだけれど。

 しかし、人に熱心に見られながら絵を描くというのはかくも緊張してしまうのか。
 リィリィに絵を教える約束をした直後で失敗は出来ないという思いもあったのだろう。
 彼女の期待を裏切らない絵を描けたと自分では思うが――――エリクはちらりと横目でリィリィを窺った。

 ……果たして、杞憂であったようだ。

 リィリィは赤い瞳を爛々と輝かせ、絵を凝視している。
 無事、期待には添えたようである。
 エリクはこっそりと吐息を漏らして安堵した。

 さて、まずは何から教えようか。
 絵を描くことの基本的な部分から、なるべく億劫に感じないように教えなければならない。
 紙面か目を逸らさないリィリィに苦笑を滲ませ、エリクは沈思(ちんし)する。



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