静まり返った地下書庫は、先程よりも空気が冷えているように感じられ、ふと身体を撫でた風に身震いした。
 どうして地下に、風が吹くのか……。
 疑問に思いつつも、エリクは目の前のダークエルフの少女の動向を眺めていた。

 リィリィは、地下書庫の最奥にある机に座った。
 ゆっくりと羽ペンを取った。
 積み重ねられた紙の山に手を伸ばしごっそりと目の前に置く。

 リィリィは目を伏せた。少しだけ顔を上に向けて深呼吸。暫くそのまま制止した。
 瞼が上がると同時にペンの先が紙に触れる。

 刹那、それは異常なスピードで文字を書き始めるではないか。

 さながらペンが自分の意志で勝手に動いているかのよう。無表情なリィリィは、ただペンを支えているだけにも思える。
 だが、リィリィ自身が確かにペンを動かしているのだ。あんなにも速く文字を記し、書き終えた紙を方々(ほうぼう)へ飛ばす勢いで素手で掃き、魂の記憶場面一つ一つを絶え間無く書き写していく。

 どれだけの記憶が、魂に残っているのか――――その魂は傷を負っているのか。
 見えないエリクには分からない。
 どれくらい待てば彼女が動きを止めるのか予想が付かない。

 もっと近くで眺めていようか、と考えたのはほんの一瞬だ。すぐに、ダークエルフを取り巻く異様に張り詰めた空気に断念した。
 どうしてだろうか。彼女の周りだけ、何か生き物のような冷気が蠢いているような気がするのだ。
 それが、書庫内の空気を冷やし、不気味な風を生んでいると推測される。

 アレは、何だ?
 何がリィリィの側にいる?
 アレは彼女に害ある存在なのだろうか。
 エリクが近付いても平気な存在なのだろうか。
 分からない。
 分からないから、不用心に接近が出来ない。

 エリクは、側で、というにはあまりに遠い場所から、黙してダークエルフを見守った。

 リィリィが羽ペンを置いたのは、二時間後のことである。
 それまで手は休むことを忘れ文字を書き続け、紙を掃き続け、魂の人生を記し続けた。
 腱鞘炎になってしまうのではないかと不安に思うくらいだ。

 終わったかと思えば、リィリィは立ち上がってすぐ、横に倒れ込んだ。


「リィリィ!?」


 ぎょっとして歩み寄る。
 頭を打ったかもしれないと、なるべく身体を揺さぶらずに慎重に抱き起こし顔を覗き込む。

 彼女は、気を失っていた。力を使った反動だろうか。
 エリクは小さな身体を抱き上げ、細心の注意を払いながら地下書庫を出た。

 階段の先には、妖達が。
 清柳が吐息を漏らした。腰を上げ、ゆっくりと歩み寄る。


「……すまぬな。エリクの坊。驚いただろう」

「本を書くと、こうなってしまうのかい?」

「ああ、そうらしい。儂らは地下書庫に入ることが出来ぬ故、有間殿からそのような話を聞いていただけに過ぎぬが……源や、部屋に寝かせておあげ」

「おん。エリクはん。お姫さんはワイが。自分はお姫さんの書いた紙をまとめといてや」

「分かった」


 エリクは源にリィリィを託し、足早に地下書庫に戻った。彼女の容態は心配だが、心得ている妖達に任せれば大丈夫だ。自分は任された仕事をこなさなければ。
 みたび入った地下書庫は、打って変わって――――いや、朝の状態に戻っていた。
 あの不気味な、不可視の存在も、それが放つ風も全く感じられない。

 ほっと息を吐き、リィリィが作業に没頭していた机へ近付いた。

 視認もせずに掃いて散らかした紙は、昨日エリクが見た本のページとレイアウトが全く同じだ。ただ、下の広い空白に絵が無いだけ。
 床にも散らばったそれらを一旦全て拾い集め、厚みを確認してみた。

 『ベオネル・イスパニード』のおよそ五倍程は、厚い。


「まずは……誕生のページを探さないと、か」


 リィリィと同じ椅子に座り、一枚一枚確認し、生誕から死去まで順に並べ替えていく。
 それもまた、時間のかかる作業だった。

 『ベオネル・イスパニード』とは違い、量が多く、同じ年の違う季節の出来事が多く混ざったりしているから、厄介だ。
 一枚一枚確認しつつ、エリクは最初のページを探しつつ並べ替えていった。

 孤独な作業だ。
 しんと沈黙する暗い地下書庫は、独りでいると周りの本棚から圧迫されているように感じられた。新参者のエリクを歓迎していない、そんな風にすら思える。
 エリクは息苦しさを覚える中、黙々と手を動かした。

 ここには時計が無い。
 時間の経過を感じられない。
 ようやっと終わった時どっと疲れが押し寄せたのは、どれだけの時間が過ぎたのか分からないというのも起因していたと思う。
 まとめたそれを机にとんとんと打ち付けて揃えた。
 机上に置き、誕生のページを見下ろす。


 『零年、春。クーウェ男爵家次男デュダン・リーバと娼婦シャイリーンの間に生まれる。』


 絵に触れると当時の記憶が流れ込んでくると有間は言っていた。
 けれど、『ベオネル・イスパニード』に絵は描かれていたが、今は文字だけだ。
 ならば今、文字だけの状態ならば触っても問題は無いのだろうか?
 ささやかな好奇心だった。
 エリクはそっと文字に指を載せた。

 その、直後である。


 指先から頭へ衝撃が駆け抜けた!


 一瞬にして景色が変わる。暗い地下書庫から、薄汚れた古い家屋の一室に。
 エリクがいるのは部屋に似合わずそれなりに質の良い服を着ている女性の腕の中なのだろう。美しい、儚げな微笑がこちらに向けられている。

 女性は鼻歌を歌ってエリクをあやす。
 きっと今、自分はあの本の主人公になっているのだ。
 状況をすぐに把握した。

 女性は――――シャイリーンの歌声は優しく、それだけで主人公が母親に愛されているかがよく分かる。


「可愛い可愛い私の赤ちゃん……あなたの名前はシェリィと言うのよ。私の所に生まれてきてくれてありがとう」


 シェリィ……それが、主人公の名前。
 甲高い笑い声が上がる。無邪気なそれはシェリィのものだ。

 シャイリーンは嬉しそうに、幸せそうに笑った。
 とても素敵な笑顔だと、エリクは思った。

 これはエリクの私見だが。
 シャイリーンは、相手の男デュダン・リーバのことを愛していたのだろう。それ故に、彼との間に生まれたシェリィが愛おしいのだ。
 娼婦でなく、釣り合う身分に生まれていれば、もっともっと幸せだっただろうに……。


「でも、ごめんなさいね。シェリィ。あなたのお父様はね、きっともう二度と会えないわ。私ではないとても綺麗で器量の良い方を娶(めと)られたから。けれど安心して。私が、お父様の分まで愛してあげる。あなたが自分の生まれを誇りはしないまでも、生きていく中で、決して後ろ向きにならないように……」


 優しい笑みで、世界は暗転した。
 目の前には集めた紙の束。
 シェリィの、人生を文字にした尊いもの。

 自然に、腕が動いた。
 近くに転がっていた羽ペンを取り、ページに線を走らせる。

 後はもう、無心だった。
 頭の中には先程のシャイリーンの笑顔だけが浮かんでいる。

 その輪郭を丁寧に辿るように、エリクは自分が見た情景を描いた。
 線の一本一本を丁寧に、誤ること無く、描いていく。

 エリクが満足出来る絵になるまでは存外早かった。経過による記憶の色褪せを恐れて、なるべく急いだからだ。

 出来上がった一ページ目に、エリクは一人微笑んだ。

 『零年、春。クーウェ男爵家次男デュダン・リーバと娼婦シャイリーンの間に生まれる。』――――その下に、シェリィの視点から見た母の微笑みがある。ペン一本で細かく表現された、柔和な、優しい絵だ。

 絵を眺めているうち、エリクの胸の内からむくむくと膨れ上がる欲がある。

 ……僕の手で、シェリィの人生を出来るだけリアルに描いてやりたい。
 ペンだけで良い。ペン一本でワンシーンを表現する――――難しいが、その分やりがいを感じられる筈。
 シェリィが終われば、また別の人物の本に絵を添えたくもなった。無論、精神的負担の大きなものは、最初は避けるつもりだ。
 リィリィが目覚めた時にでも、願い出てみよう。

 許可されないかもしれないが、その時は有間に相談してみよう。

 エリクは一旦束の上にペーパーウェイトを置き、地下書庫を出た。



 彼は知らぬが、実はこの時すでに、日は落ちていた。



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