リィリィの朝は早い。
 エリクがこのくらいならばと目覚めた時刻にはすでに朝食を済ませて地下の書庫に降りてしまっていた。お早うと声を交わしたのは、目覚めてから一時間程経過してのことだった。

 リィリィは「お早うございます」小さな声で返し、すぐに本を抱えて本棚に身を隠してしまう。

 源の話によると、整理されていない本は、まだまだ大量にあるらしい。現在もスローペースではあるものの人の人生を全て記した本は増えているから、また整理し直す箇所もある。それがまた整理を遅くさせている一因であった。

 式達は、整理を手伝わない。
 ダークエルフのリィリィの魔力の籠もった本は、妖が触ると妖気への拒絶反応により内容が一部歪んで読めなくなってしまうのだそうだ。

 なので、棚に寄りかかることも出来ず、暫くエリクの側にいた源は早々に出ていった。
 何か仕事を求めてリィリィのもとへ行くと、彼女は爪先立ちで、一冊の本をぎりぎり届く棚に収めようとしている。
 エリクは苦笑してリィリィの背後に立ち本を代わりに棚に収めてやった。


「ここで良い?」

「あ……はい。ありがとうございます」

「どういたしまして。今日から君を手伝うんだし、こういう時は遠慮無く僕を呼んでよ」


 リィリィは一瞬の間を置いてゆっくりと頷いた。気が進まない、といった風情である。昨日、だいぶ距離を縮められたかと思ったが、どうやら、彼女の懐に入れるまではまだまだのようだ。
 エリクはそれを黙殺し、仕事は無いかと問いかけた。

 暫くの沈黙の後、リィリィは己の目の前の棚に手を当てて、


「じゃあ、この本棚に収めるべき本を整理して下さい」

「分かった。じゃあどんな風に整理すれば良いのか教えてくれるかい」


 リィリィに訊ねて、エリクは本棚を見上げる。


 『レイドルド・アーン』
 (中略)
 『レノン・マッシャ』
 『レンドルド・イースラー』
 『ロアッタ・ミンドンソ』
 『ロイド・イフェルド』
 『ロセリア・モラリア』
 (中略)
 『ロロゼ・トーン』
 『ロン・ジェン』
 『ロンターン・リュベルツ』
 『ヤージー・ノンジェルト』
 『ヤヤ・マッセ』――――……。


 名前順に並んでいるが、一つの頭文字だけでも、膨大な量である。
 きっとこれ以上にまだ増えていくんだろう。


「見た通り、名前順です。ただ……ここは、現在のファザーン領地で生まれた方々の列なのです」

「なるほど。……ああ、確かに。この本棚にはヒノモトの人間の名前が無いね。生まれた場所は、本を読めば分かる?」

「分かるものもありますし、分からないものもあります」


 曰く、ここにあるのは生地が分かる人々の本だけなのだそうだ。よしやそれがヒノモトの名前でも、生地が分からない以上は、専用の本棚に整理して収める。
 昨日読んだ『ベオネル・イスパニード』も、両親の名は残っていても、何処で生まれたのかの記述は無かった。
 どうして生地が分からないのか――――それは、リィリィのもとに至った魂の損傷によるものだという。
 さまよううちに妖や、人の強い思念の影響、稀に起こる魂同士の衝突などが原因となり、魂に傷が入ってしまう。
 それは、記憶の欠損となって現れるというのだ。それは比較的古い方の記憶に多い。

 魂の傷についてはリィリィも修復しようが無い。有間や鯨、サチェグすらも出来ないそうだ。


「そっか……それは、淋しいね」


 淋しい。
 些細な傷一つでその魂自身も何かを忘れてしまうのだ。それがもし本人にとって掛け替えの無い大事な記憶であったら――――とても、悲しいことだ。
 死して安らげず世をさまよい、傷つき、大事な記憶かもしれぬことを忘れ、それすらも分からずに、リィリィの力で本に書き留められる。

 そしてその魂も、欠落した記憶を取り戻すこと無く、持っているものだけを本に記されるのだ。


「ねえ。魂は本が出来たら、どうなるの?」

「分かりません。父にも分からないそうなので……」

「そっか。じゃあ、仕方がないね」


 エリクはそれ以上追求することはしない。一緒に考えることが出来るような親しい間柄ではない。今は、不躾に深い事情に入り込める程の仲になれるよう、彼女について知りながら距離を縮めて行くべきだ。
 他に注意事項を聞いておいて、早速仕事に取りかかる。

 それでも不慣れな為、リィリィに頻繁に質問しながの遅々とした作業となった。
 不慣れな空間で最もエリクを戸惑わせたのは、不可視の階段であった。

 高い本棚は、本来なら脚立を使用する。
 されどもこの地下書庫は本棚が異様に高すぎ、脚立ではなく、鯨が施した術によって必要な時に足場が現れ階段のように上がれる仕組みになっている。
 だが、それが目には見えず、足の感触で確かめながら上り下りをするしか無いのだった。
 この階段、手摺りも無いので足を踏み外せば落下する。一応安全装置もあるらしいが、リィリィは一度もその世話になったことが無いようだ。従ってどのように作動するのか、彼女も分からないとのことだった。
 出来れば怪我もせずに済むものであって欲しい。

 リィリィも、勿論見えない。
 だが、エリクよりもずっと小さな彼女は、前述の通り安全装置の世話になったことが無く、軽やかに不可視の階段を利用出来るのだ。
 彼女を見ていて、慣れたとしても自分には到底無理な技だとエリクは思った。

 初日と言うこともあって、思った以上に苦心した。
 リィリィが昼食の報せを持ってきた時すでに精神的に疲弊し、ひとまずの休息に安堵したくらいだ。

 階段を上ってすぐに、とても良い匂いが鼻腔を擽(くすぐ)った。芳ばしい、ヒノモトの醤油という調味料が焼けた匂いが空腹を誘う。

 だが――――エリクは土間を見て即座に固まった。


 浮いている。


 ヒノモトの陶磁器に綺麗に盛りつけられた料理が、宙に浮いているのだ!

 きっと、林檎がそこにいるのだろう。恥ずかしがり屋の彼女は気を許した者以外の前では常に姿を消していると分かっているが、これはあまりに奇妙極まり愕然としてしまう。
 ふよふよ浮いている料理は上下に揺れながら、畳の上に置かれた大きな、背の低いテーブルの上に並べられていく。

 妖の存在に不慣れな人間には心臓に悪い光景だ。

 けれども地下書庫の主人には、林檎が見えているので何ら問題は無い。
 畳をきちんと閉じて、リィリィはテーブルの角の席に行儀良く正座した。そこにはすでに料理が並べられている。


「おお。出来たか、出来たか。ちゃんと儂の食事には魚は入っておるまいな」


 中途半端に鰭(ひれ)と人間の足が融合したような足で畳を歩いてくるのは、岩魚頭の清柳。
 その隣には源もいる。そう言えば源にも林檎が見えないのだったか。

 清柳はリィリィの向かい側に座り、その隣に源が。

 清柳はエリクに気付くと僅かに水掻きのある人間の手で手招きした。


「ほぅれ、ほれ。エリクの坊もお座り。皆座らんと食事が始められんぞい」

「あ……ああ、うん。そうだね」


 招きに応じ源の隣に座る。
 すると、宙に浮いた料理が目の前に降りてくる。エリクがファザーンの人間であることを気遣って、箸の代わりにフォークとスプーンが用意された。


「ありがとう」


 取り敢えず、礼を言っておく。何処にいるのか分からない為、浮いた料理を見つめた。

 最後にやってきたお好は当然のようにリィリィの隣を取り、その隣に林檎――――だと、思う。

 清柳が手を合わせると、皆一斉に同じ所作をする。エリクも慌てて従った。


「いただきます」

「「「いただきます」」」

「……い、いただきます」


 ワンテンポ遅れてしまったのは、仕方がない。
 食事を始めた彼らを視認しエリクも食事に手をつけた。昨日の夕食同様、肉類は入っていなかった。

 魚の妖怪である清柳も、エリクと似たような野菜ばかり料理ばかりで――――は、なかった。
 和え物には虫のようなモノがちらほら見えた。そこはやはり、魚だ。

 清柳の食事をじっと見ていると、清柳がエリクの視線に気が付いた。


「何だ。エリクの坊や。もしや、ぬしも、岩魚は小魚も食らうというに、儂が食わぬはおかしいと言うのか?」


 拗ねた様子の清柳に苦笑を返し、エリクは首を左右に振った。


「違うよ。岩魚という魚をよく知らないから、雑食なのかなって」

「岩魚は肉食でなあ、虫も小魚も蛙も食うし、デカいもんやったら、蛇も食うたりするんやで」


 源がエリクの疑問に答える。清柳が頷いて肯定したので、嘘は無いだろう。

 エリクは軽く驚いた。


「蛙と蛇も食べるの? 魚が?」

「如何にも。……とはいえ、さすがに己の身以上の大きさのものは、無理だがな。おお、そうだ。だからといって、異国におるというピラニアなる魚のように、人間を食らいはせぬぞ。ちいと強く、指を噛むだけよ」

「へえ……ヒノモトの岩魚はとても美味しいってことぐらいしか聞いたことが無かったから、まさか蛙も蛇も食べてしまうなんて、驚いたよ」


 心底感心して言うと、清柳は物憂げに、重々しい溜息をついた。


「しかしなあ、この身になってから、どうも……魚を食うのがいたたまれんようになってなあ」


 罪悪感と言うものだろうか。
 奇妙に魚頭を歪めてううんと唸る。

 中途半端に人間になったから、そんな風に思うようになったのだろうか。

 エリクは苦笑し、「妖も大変なんですね」といたわった。
 清柳は何度も頷いた。


「妖とて、時に人間めいているものよ」

「ここにいる……今僕が目に見えている妖達を見ていると、それが良く分かるよ」


 お好は、正直まだ見れない。にたりと笑いかけられると背筋がぞっとしてしまうのは不慣れだからだ。彼女自身は面倒見の良い妖だと聞いているが、見た目がおぞましい。
 それでも保護されたリィリィを気に入り、彼女の為にと自ら式になろうとし、我が子のようにあれこれ世話を焼くのは、情け深い性格故なのだとエリクとしても好感は持てた。
 この見た目さえなければ……良いんだけどな。
 ここにいるうちに、慣れるだろうか。……慣れて欲しいところだ。

 妖達と談笑し――――といっても、話すのは専ら源ばかりだ――――食事を進めていると、ふと終わりがけになってリィリィが立ち上がった。


「リィリィ?」

「……」


 リィリィは背後を振り返り、両手を広げた。


「おいで。……こっち」

「……リィリィ?」


 何をしているのかと立ち上がって近付いてみようとしたエリクは、しかし、清柳に止められた。


「……さまよえる魂が、参られたようだ」

「確か、一週間振りやったか?」


 源の問いにお好が頷く。

 魂――――ということは。
 リィリィは見えない物を大事そうに両手に包み、地下書庫へ続く階段が隠れた畳に歩み寄った。
 お好が近付き、畳を上げ、先に階段を下りる。階段の先の扉を開けるまでが妖の役目だ。


「エリクの坊。頼めるか。リィリィが本を書き終えるまで、側で見守ってもらいたい」

「分かった」


 妖は地下書庫には絶対に入らない。
 エリクは頷き、階段を下りたリィリィの後を追いかけた。

 その先で、これから何が起こるのか。
 リィリィがどのように魂の人生を本にまとめるのか――――好奇心が、ゆっくりと首を擡(もた)げた。



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