もう一度対面したリィリィは有間やアルフレートの後ろに隠れることを許されず、酷く怯えた様子で俯きっ放しだった。
 有間達は叱らずに、エリクに肩をすくめて苦笑を浮かべてみせる。

 リィリィはずっと父しか知らなかったから、他人と接することがとても苦手なのだ。
 エリクはリィリィの前に片膝を付き、そっと顔を覗き込んだ。びくりと細い肩を跳ねさせて一歩後退する。
 それを、エリクは咎めない。


「初めまして。僕はエリク。今日からまずは一月、ここで、君のお手伝いをさせてもらうんだ」

「……」

「君の名前を訊いても良いかな?」

「……リィリィ、です……」


 返ってきた言葉は不安げなか細いもの。
 けれどもなんと可愛い声か。この眦を下げて不安と恥じらいに泣きそうな顔と、縋る者を求めるような愛らしい声に、庇護欲を駆り立てられる者は多かろう。
 エリクは彼女を刺激しないよう、そうっと、ゆっくりと彼女の片手を両手で包んだ。


「リィリィ。良い名前だね」


 すると、リィリィは俄(にわか)に頬を赤らめるのである。
 名前を褒めたのが余程嬉しかったと見える。うっすらと笑みを浮かべ、赤い双眼を爛々と煌めかせる。


「父が……父が、私に一番最初にくれた贈り物なのです」

「そうなんだ。とても大事な宝物だね」


 リィリィは恐らく、エリクよりも、ずっと長い時を生きている。
 されど《一番最初に》などと同じ意味の言葉を繋げてしまう稚拙さが胸を擽(くすぐ)る。本当に、自分の名前が大切なのだ。
 はにかんで控えめな笑みを浮かべるリィリィに目を細め、エリクは有間とアルフレートを見上げた。


「じゃあ、暫くはここでお世話になるよ」

「ん。リィリィのこと、よろしく。リィリィも、エリクのことをよろしく頼むよ」

「分かりました」


 リィリィは有間に頭を撫でられると気持ち良さそうに目元を和ませた。足を前足で叩いてくる錫も抱き上げて頬ずりする。


「時折、アリマの妖共が来るだろうが、皆リィリィを心配しているが故のことだ。驚く姿をしているかもしれないが、どうか彼らを邪険にしないでやってくれ」

「分かった」


 それから、エリクに幾つかの注意事項を伝え、有間とアルフレートは屋敷を出ていく。
 錫も、少しだけ名残惜しそうに何度も何度も、見送りに玄関まで出てきたリィリィとエリクを振り返りながら、二人に従った。

 エリクは彼らの姿が見えなくなって、リィリィに笑いかけた。


「これから、僕は何をすれば良い?」

「……今日は、もう無いのです。屋敷の案内をしなさいと、有間さんに言われています」

「そっか。じゃあ、お願い出来る?」

「はい、お願いされます」


 真面目に、彼女は言う。
 偶然とは言え、名前を褒めたことで一気に距離を縮められたのは幸いである。壁があるままだと、さすがに突然二人きりはハードルが高い。

 リィリィは小走りに家の中を案内し始めた。だが、一階は奥に台所があっても書庫扱いなので主に二階の案内になる。
 階段を上ると、庇のある広縁に出た。そこからは周囲が一望出来た。
 何気無く手を置いた欄干には龍が踊り、龍がその長い身に纏うかの如く大輪の花を咲かせている。細かい彫刻は見事な物であった。

 リィリィは中庭側に延びる広縁を行き、突き当たりの部屋、すなわち玄関の間の真上に当たる部屋の前で立ち止まった。


「ここが、私の部屋です。エリクさんは、ここから左に……二番目の部屋です」


 左に、一つ部屋を挟んだ部屋を指差す。
 ちなみにリィリィの部屋の左右は、左が有間とアルフレートの、右が有間の式達の部屋になっているらしい。二階の部屋はそれ以外が空き部屋だった。何とも寂しいものだ。

 リィリィと共に、エリクに与えられた部屋に入ると、閉め切られた障子を正面に、十畳となかなか広い。
 ヒノモト独特の部屋の匂いを吸い込み、エリクは僅かに気分が昂揚した。客人への気遣いか、調度品は全てファザーンの物でまとめられ、ベッドもあるのが景観を損ねているように思えて残念だ。布団でも、エリクは十分寝られるというのに。


「えっと……ご飯やお風呂は鯨さんの式さん達が準備して下さるので大丈夫なのです。あ、ご飯は式さん達がお部屋に運んでくれます。何か用があったなら、式さん達にお願いすると良いのです」


 つ、と指差したのは庇。
 そこから顔を覗かせてこちらを見つめるのは────ずぶ濡れの女だ。ぞっとするくらい青白い顔は無表情で、濡れて光る黒髪はまるで海草のように波打って重そうに左右に揺れている。
 正直に言って、怖い。


「……ええと、彼女が?」

「お風呂担当の、濡れ女のお好(よし)さんなのです。今年でピチピチの百二十七歳なのです。他にもお掃除担当で烏天狗の源さんや、お食事担当の山姫の林檎さんや、屋敷の管理人で岩魚坊主の清柳(せいりゅう)さんが。……あ、林檎さんは男性恐怖症の照れ屋さんなので、主の鯨さんや、有間さんや私以外には見えなくしてます」

「……そ、そう、なんだ」


 イサさん、どうしてこんなのを式に……?
 有間達も、どうしてこのことを予(あらかじ)め教えておいてくれなかったんだ……。
 このお好と言う濡れ女だけがおぞましい見てくれなのかもしれないが、よくあんなのをリィリィの世話役の一人に抜擢したものだ。

 他の皆さんも、多分そのうち挨拶に来てくれると思います。
 濡れ女お好に控えめに片手を振るリィリィは、けろりとしたものである。

 お好はにたりと薄ら寒い笑顔を浮かべると、ずずずと屋根の上へと消えた。

 ほっと胸を撫で下ろす。


「随分と、個性的なお手伝いさん達、だね……」

「とても良い人達なのです」


 いや、そこは『人』ではなく『妖』だろう。
 リィリィは山姫の林檎にちゃんと教えるように言われているからと、エリクの食事の好みを訊いて、急ぎ足に一階へ降りていった。さっき下ですれ違ったからもう食事の支度に取りかかっているかもしれないと、リィリィの言葉にぞっとしたのは、ここだけの話だ。

 エリクは苦笑を浮かべつつ部屋に入った。外の景色でも見れば少しは落ち着くか……そう思って障子を開け────。


「ほー、自分が林檎の言うてたお嬢の知人かいな」

「……」


 静かに閉める。
 深呼吸を二度してもう一度開けると、何も変わらぬ光景が。

 簡単に言えば、エリクの部屋の庇の無い縁側で、黒い鳥人が、山伏の服を着て、大福餅を美味そうに食っている。その背には真っ黒な翼が畳まれていた。
 ……これは、リィリィが言っていた烏天狗の源さんと思って良いのだろうか。


「なんちゅー失礼なやっちゃ。驚いたかて何も表に出さんと静かにすららーっと閉めるんはアカン。アカンで。ここはフリでもどわあと驚いてみせな」

「……ええと、取り敢えず君はイサさんの式なんだよね」


 問いかけると、彼は大きく頷いた。


「せや。ワイ、南刃(なんじん)の源言いますねん。よろしゅう、よろしゅう」

「南刃……?」

「エリクはん、それワイの通り名でんがな。これでもワイなぁ、南じゃそれなりに名が知れとってん。それを大将がな、ワイのこの溢れる妖気に目付けはって、式になってくれ頼んできたさかい、そない頼まれたらしゃあないわなっちゅうて、今じゃお姫(ひい)さんの護衛任されとんのですわ」

「……そう、なんだ」


 良く喋る鳥人である。しかも、何処か嘘臭い。
 けれどもベラベラ五月蠅いと思うだけで彼個人に苦手意識や嫌悪は抱かない。エリクは一言断って隣に腰を下ろした。
 すると源は気前良く大福餅を二個くれた。


「遠慮せんと食うとき食うとき。ワイと顔馴染みの道祖神が持ってけ言うてくれたんやで。御利益間違い無しや。初日からええもん食えてんで、自分」

「へえ。神様と知り合いなんて凄いね」

「そらな。四百年も生きとると、付き合いも限られてくるっちゅう話や。ま、エリクはんは人間やし、その辺は分からへんやろな」


 そこで、ちょっと考える。自分がそうだったら、と想像をしてみる。


「……想像をしてみても、いまいちピンとこないかな」

「そうでっしゃろー? これが妖人生の醍醐味ですねん。南の冷厳なる連峰に生まれ時代を眺め、老いさらばえて散り行く友人数知れず、それでもなお残る絆と共に生き続ける質実剛健孤高の烏天狗、南刃の源! どやどや、なかなかええ話になると思わへん?」


 この烏天狗は、きっと虚言癖があるのだろう。
 エリクはにこやかに相槌を打ちながら、冷静に分析する。
 されど、弾んだ声から底抜けな明るさが感じられて、話もこちらを楽しませようとしているのだと伝わって、決して嫌ではない。

 エリクの周りに、こんな人間はいなかったから、新鮮だ。源は、歴とした妖怪だけれども。

 源は聞き手に徹して、しかししっかりと反応をくれるエリクに気を良くした。


「何や、エリクはん。自分林檎達よりもええ人やわぁ。ここの女共はどうにもあきまへんのや。ワイの話にちぃとも乗ってくれへん。お姫さんはこう目ぇきらきらさせて聞いてくれはるんに、あいつらはごっつ冷たい目ぇで見てくんねんで」

「気に入ってくれたなら嬉しいよ。ねえ、他の妖達はどんな人?」


 訊ねてみると、源は快く答えてくれる。


「お好はんは、ここで言う御局様(おつぼねさま)やな。今は大将の式やけど、お嬢が連れとったお姫さんを気に入って付いてきたのを大将が式にしてお姫さんの世話役にしたった、一番の古株や。……ちゅーても、ワイら入った時期そない変わらへんねんけど。ああ、見た目ごっつおっそろしいねんけど、あれでネガティブ思考で心配性で寒がりでかわええもん好きでなぁ、お姫さんのこと我が子と思って蝶よ花よとあれこれ甲斐甲斐しゅう世話してんねん。ついでに言うたると屋根の上で滝を眺めるのが好きらしいで。せやから、あんま怖がらんといてな」


 先程見たお好の顔を思い出し、身震いする。「善処するよ」と波風立てずそう答えておいた。


「それで林檎は、あれは滅多に笑わへんな。自分が笑って相手がつられて笑ってしもたら本能で血を吸って殺してまうねん。大将の式になってもその性質は変わらんで、よう気にしとるわ。エリクはんも、無愛想やて嫌わんといてな……って、あいつワイの前にも出ぇへんさかい、エリクはんも気にせんでええかもしれへん。で、ここを管理しとる清柳はんは、岩魚や。岩魚がそのまま坊主になっとるんで、ごっつおもろい面しとるで。けど中身は寛容で面倒見がええ。何や困ったら清柳はんに相談すればええ。生まれてこの方近くの川に暮らしとったそうやし、ええ癒しスポット知ってるんとちゃうかな。ああちなみに清柳はん怒らせたらめっちゃ怖いで」

「肝に銘じておくよ。ありがとう、ゲンさん。参考にさせてもらうよ」

「礼はええわ。お姫さんと仲ようしてくれはったら、ワイらはそれだけで十分や」


 源はからから笑った。

 それから、人の大きさの岩魚がそのままヒノモトの僧侶の服を着たような妖が夕食を持って部屋を訪れるまで、エリクはずっと源と他愛ない話をしていた。

 リィリィがしっかりエリクの好みを伝えておいてくれたからだろう。
 肉類は一切無く、野菜ばかりの食事を見た源が「精進料理かい!」とツッコんだ。



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