エリクは彼女を凝視し、なかなか言葉を発せられなかった。
 リィリィと呼ばれた目の前の小柄な少女は、特殊な見た目をしている。

 何処をどう見ても、幼い頃母に読み聞かせられた絵本の中に見た、悪役の、架空の種族そのままなのだ。
 いや、そんなまさか。
 ダークエルフなんて、存在する訳がない。竜は確かに存在していたけれど、だからと言って空想の物語の中でしか見たことの無い種族まで肯定してはキリがない。他にもエルフやドワーフなんて存在がある。ダークエルフがいるのなら、彼らだって存在しているということになる。

 思わず己の手の甲の皮膚を抓って痛みを確認した。……これは現実か。


「アルフレート……」


 思わず、異母兄を呼んだ。

 アルフレートもエリクの反応は予想の範疇(はんちゅう)だったらしい。「驚いただろう」苦笑してリィリィに歩み寄り、銀色の頭をそっと撫でた。
 リィリィは心地良さそうに目を細めた。


「オレも、アリマが彼女を連れてきた時には驚いた。だがたまたまサチェグが村にいて、彼女について推測してくれたんだ」


 サチェグは、一体どれだけ生きているか分からない。
 その頭に詰め込まれた膨大な知識の中に、ダークエルフも入っていたと言うのか。


「……取り敢えず、話を聞いて判断することにするよ。その子には悪いけれど」

「それが当たり前のことさ」


 アルフレートよりも先に、本棚の影から女性が姿を現す。
 エリクもアルフレートも途端に笑みを浮かべた。

 リィリィがアルフレートから離れ、彼女に抱きつき、膨らんだ腹に頬を押し当てた。

 その頭を撫でるのは、有間だ。
 成人して女性らしい見目になった彼女は、妊娠した影響だろう。マティアスの子を産んだティアナや、エリクの母にも似た柔らかな雰囲気が強まっていた。
 時を経るということは、こういうことなのだろう。
 有間自身、出会った頃からはとても想像し得ない光景の筈だ。

 アルフレートは妻に歩み寄り、エリクが書庫の手伝いを担うことを説明した。


「なるほどね。確かに君達の誰かなら、信用に足る。どうせルシアは来たがらなかっただろうから必然的に君になったんだろ」

「正解。それに、ルシアなんかに任せてたら適当にしか働かないよ」

「それは言えてる」


 有間は肩をすくめリィリィを見やった。


「この子について話してやるから、奥に移動しよう」

「うん。ああそうだ。アリマ、アルフレート」

「ん?」

「ご懐妊おめでとう」


 笑って言うと、有間は背を向け片手を挙げて返すだけ。
 アルフレートが感謝を返す間にリィリィを連れてさっさと奥へ行ってしまう。

 それが彼女の照れ隠しであるとは、アルフレートと言葉を交わさずとも分かった。

 アルフレートと顔を見合わせ、笑った。

 そして、心の中でこっそりと安堵し、また意外に思う。
 彼は殊の外すんなりと、彼女達の幸せを祝えているのだった。



‡‡‡




 立ったまま小さな机を囲って、リィリィについての詳しい話を聞く。

 サチェグの記憶によると、ダークエルフは数百年前────彼であっても明確な年数は分からないらしい────に絶滅した種族であるそうだ。色々なグループがあったらしく、それぞれファザーン領や旧ルナール領に隠れて集落を作っていた。
 エルフとはただ、闇に属した術を扱うか、光に属した術を扱うかの違いだけ。この二つの種族間は意外と良好であった。
 だがどちらも能力の高さ故に矜持も高く、人間を見下す傾向が強かった。人里を離れて暮らし決して人間と交わらなかった。人間と交友を結んだ者は容赦なく排除される。人間にとっては腹立たしい高飛車な種族である。ハーフも、どちらからも酷い差別を受けたらしい。

 故に、二つの種族が絶滅したと判断された途端、人間達は空想の物語の中でダークエルフ、またはエルフを人間を脅かす悪と位置づけた。彼らの実在の記録は一切が廃棄された。
 人間の子供を喰らい、人間を惑わして殺し、悪魔と手を組んで国を操る────それらは全て勇敢なる人間の手で倒された。
 架空の生き物であるのだと存在をも否定する無数の物語によって、実際の二種族は完全に忘れ去られてしまった。

 今、彼らの実在を示すのはサチェグの────恐らくはサチェグの異母妹もだろう────朧な記憶と、目の前で錫と戯れるリィリィのみ。


「ダークエルフやエルフが、存在してたなんてね……」


 独白するも、それ程エリク自身は驚いていない。
 竜も魔女も見たし、魔女の薬の被害に遭った。ヒノモトだって非科学的な現象は日常茶飯事だ。
 となれば、大昔にそういう存在がいたとしても、子孫に先祖返りが起こったとしても、もう驚く程弱い精神は持っていない。


「サチェグの話では、純血種が完全に絶滅した後に、ごく稀にダークエルフのみ先祖返りが見受けられたらしい。同族に捨てられ蔑まれてでも人間と夫婦になる者も、少なくなかった。混血は人間と全く変わらない姿であり、身体能力も純血のダークエルフにも劣る。その為人間と偽って暮らすのは容易い。が、ファザーンに住まうダークエルフの血にだけは先祖返りしやすい特性があった。平均で五代目の子孫に発生するそうだ」


 エリクは柳眉を顰(ひそ)めた。


「……ちょっと待ってよ。数百年前に滅んだ純血種から数えて五代目って……じゃあ、この子の年齢は?」

「サチェグの見立てによれば百は確実に越えてるだろうってさ。先祖返りは純血のダークエルフとほぼ同じ肉体、能力を持つけれど、寿命は純血種に勝る。だから外見年齢では判断出来ない。この子も自分が何歳か分かっていないみたいだから、正確には誰にも分からない」


 有間は肩をすくめて答える。
 エリクは改めてリィリィを見た。
 自分よりも若く見える少女が、実はとんでもない年輩だと、どうして思えようか。

 じっと見つめていると、リィリィは気まずげに顔を逸らし、錫を抱いて走り去ってしまった。
 あっと声を上げると「極度の人見知りなんだ」とアルフレートが有間に目配せしてリィリィを追いかけた。

 有間はそれを見送りつつ、今度はリィリィの身の上について語る。


「リィリィはサチェグ達が目覚めた後、ヒノモトの最南端で見つけた」

「ヒノモトの?」

「神々が死んだ時にヒノモトの外に弾き出されなかったんだから、あの子にヒノモト人の血が流れてるのは間違い無い」

「じゃあ、両親はヒノモトの?」

「片方はそうだと思う。ただ、あの子の持ってる変な力を見てみても、他にも色んな血が混ざっているような気がしてさ」

「変な力?」


 有間は本棚を指差した。適当な本を持ってこいと指示する。
 それに従って適当な、小指一本程も無い薄い本を手に取った。どの本も装幀(そうてい)は黒塗りだ。黒塗りの背表紙に白い文字で『ベオネル・イスパニード』と言う人名が書かれている。表紙には同じく白で『十年』と。

 それを有間に差し出すと、彼女は表紙を開いて読み上げ始めた。


「零年、秋。ヘレン・イスパニードとリィオネル・イスパニードの間に出生。
 零年、春。野犬に噛まれ右足が壊死、切断。
 一年、秋。誕生日にイスパニード家と敵対すファイオン家の刺客に誘拐。他国の貴族に売られる。
 一年、秋。セレン・キュオーヌと改名。
 二年、夏。イスパニード家の執事により発見。イスパニード家に戻る。
 三年、春。ヘレン・イスパニードの暗殺を目撃。
 三年、夏。自室に鍵をかける。以降夜中に徘徊する。
 五年、冬。使用人の老女を殺める。死体を焼却炉で燃やす。
 五年、冬。目撃者を殺し、燃やす。
 五年 春。市街地を徘徊し人を殺す。一日一回。同じ場所では殺さないルールを定める────」


 それ以降、十年まで読み上げ、最後を「処刑」で締め括った。
 再び手に取った本を取ると、『零年、秋。ヘレン・イスパニードとリィオネル・イスパニードの間に出生。』の下には子供が描いたような稚拙な絵が見開きで描かれている。
 絵に触れようとすると、待ったをかけられた。


「その絵に触れると、その時のベオネル・イスパニードの記憶が頭の中で再生する。そのページならまだ平気だろうけれど、過激な場所は止した方が良い」

「……どうして?」

「それがリィリィの能力」


 曰く、彼女は死者の魂を惹き寄せてしまう体質らしい。
 始めはそれだけの能力かと思えば、どうも、死者に同調して記憶を共有してしまう厄介なものだったようだ。
 サチェグにリィリィがかつて父親と住んでいたヒノモト最南端の住居を調べて貰ったところ、地下室があり、膨大な量の紙が残されていたという。
 量もばらばらに麻紐で束ねられたそれらの一つ一つに国、性別、年齢問わず様々な人間の人生の始めから終わりまでを記してあった。リィリィは死者に同調して共有した記憶を紙に文を書いて、拙い絵を描いて、封印しているのだった。
 その方法は、父親に教えられたそうだ。

 この地下室にある本の大部分は、それを有間達が本にしてやった物だ。ここ数年で書いた本は、まだまだ少ない。数年の量と元の住居で見つかった量を比べれば、リィリィが相当な年月を生きている証左になる。特に絵が苦手らしい彼女の筆は、絵を描くとなると格段にペースが下がるらしい。


「その父親ってのがどうも焦臭(きなくさ)くてさ。実父なのか育ての親なのか……純粋に慕っていたリィリィに分かる筈もないし。父親がいつ行方不明になったのか、何処かで生きてのるか死んでるのかも分かりゃしない。だからうちらはこうしてこの子が余所の目に触れないように、前と同じ生活を送らせるしかないって訳」

「だから、口の堅い人間を?」

「そういうこと。一番他言しないで欲しいのはリィリィのこと。ま、エリクなら心配は要らないとは思うけど」


 エリクは頷いた。


「じゃあ、一ヶ月こっちでお世話になるよ」

「ああ。うちらも週に一回は様子見に来るつもりだから、リィリィと仲良くしてやって」

「分かった」


 とは言え、相当な人見知りのようだから、強敵かもしれない。
 エリクは錫の鳴き声が聞こえる方を見やり、目を細めた。



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