お父さんを、知りませんか。
 近くの村に食べ物を買いに行ったきり、帰ってこないんです。
 ずっと、ずっと、帰ってこないんです。
 聞きたい話がまだ途中なのに。
 全然帰ってきてくれないんです。

────白い髪の女の人は、静かに私の頭を撫でました。



‡‡‡




 珍しいこともあるもので、ファザーン国王のもとに旧ヒノモト領北の護村(ごそん)からの手紙が届いた。

 差出人はディルク。内容は端的に言えば人材派遣の要請だった。
 護村からやや離れた場所にある書庫の管理が、管理人一人では難しくなってきており、住み込みで整理を手伝う者をひとまず一人早急に頼めないかとのことだった。
 出来れば口の堅い信頼出来る人間をとの条件もはっきりと記述されている。

 護村の近くに書庫があるとは、マティアスも初耳だった。そんなものが建てられていたとは報告されていなかった筈。
 怪訝に思いながらも、マティアスはその書状の指示に従い、人選を思案する。
 ディルク名義だとしても、この書状はひょっとすると有間か、鯨の可能性もある。ひとまずは返事を早急にしたためエリクとルシアを呼んだ。
 二人共、ザルディーネの王立学園を卒業してからはずっとこのオストヴァイス城で、マティアスの補助的な役割についていた。……半ば強制的にだが。
 今回も自由に動けない王の代わりに、どちらかを護村に向かわせるつもりだった。

 けれど、まあ……何となく、どちらが行くことになるのかは、兵士に呼びに生かせた時にもう予想はついていた。


「────じゃあ、僕が行こうかな」

「よし、任せたエリク」

「だろうな」


 やはり、話をしてすぐに決定が下った。
 護村からの要請に応えて旧ヒノモトへ向かうのは、エリクに決まった。
 ただ、こちらもわざわざファザーンに要請しなければならない詳しい理由を知る必要があり、エリクならば他言する心配も無いとディルクや有間達にも理解がある。
 その為、ひとまず一ヶ月の期間を設けることにした。期間が過ぎた後は、エリクの意思を尊重して貰うこととする。彼らも、拒みはしないだろう。

 エリクは第一子を妊娠したという有間に会えることが楽しみなようで、翌日にはすでに準備を済ませて護村へ機嫌良く発った。



 それが、彼にとって大きな転機となるとは、この時はまだ誰も知らない────……。



‡‡‡




「あ、どもー。いらっしゃいエリク殿下」


 エリクとその護衛を出迎えてくれたのは、サチェグであった。訊けば有間は朝からアルフレートと共に書庫に行っているとのことで、サチェグが書庫までの案内をしてくれることとなった。

 道すがら、サチェグはエリクに護村の様子を詳しく話した。彼は今、旧ヒノモトを巡っているらしく、今日はたまたま骨休めに護村に戻っていたのだという。
 彼が友人である有間の為氷に自らを封印したのも、彼が不老不死の身であることも、ルシアと同じでだいぶ後回しにされていたが、エリク達がザルディーネにいる間のことは全て聞かされていた。

 だからだろうか。少し気味が悪く感じる。広場で薔薇を配っていた底抜けに明るい青年の印象しか無かったのに、実は超人的な、有り得ない存在だという認識が歪めてしまう。

 それが伝わってしまっているのだろう。サチェグも村の様子を伝えるだけで、世間話などは一切無い。明るく振る舞いながらもこちらと仲良くする意思を見せず、エリクとの間に壁を作っていた。

 護村を出てから暫く、話題が無くなればサチェグは黙りと道を進む。

 人手が欲しいという書庫は、護村がある闇紺山からかなり離れた場所にあった。
 東南に下ると岩場がある。何処かに滝が流れているらしい音が聞こえる。
 岩場を抜けた先の断崖にぽっかりと開いた洞窟の最奥に、屋敷があった。

 が────エリクは屋敷を囲む光景に息を呑む。


「これは────」


 なんて巨大な湖だろう。
 薄く張られた澄んだ水が楕円形の地形の際まで広がり、真ん中に鎮座する赤い屋根瓦の二階建ての屋敷を鏡のように逆さに写し出している。その背後に、細い滝が。周囲の湖底は滝によってごっそり抉られしているようで、くっきりと色が変わっているのが屋敷の影から見えた。
 上からきらきらと光る小さな物が落ちてきている。天を見上げると上には身を寄せ合い強い光を放つ茸が。落ちているのはその胞子だろうか。
 茸の光のお陰で、ここは昼間のように明るい。
 だからこそ、このような光景がはっきりと見えるのだ。

 嗚呼、なんて美しい……。
 エリクは感嘆に吐息を漏らす。


「凄い……こんな場所があるなんて」

「昔の雅な公家の隠れ家でしてね。高い建築技術と高位の術を駆使して頑丈に作られた屋敷は今でも全然使えるんで、書庫として利用することにしたんスよ」

「へえ……」


 こんな光景、絵に表現出来る画家がいるだろうか。……いや、きっと、何処を探してもいない。
 人間が描き写すには、剰(あま)りに美しすぎる。
 エリクは屋敷に惹かれるように歩き出した。

 段差を下りれば、踝(くるぶし)まで足が浸かる────筈だった。

 浸からない?
 エリクは瞠目しその場で足踏みした。
 今、彼は水面に立っていた。足をつければそこから丸い波紋が広がる。けれども沈みはしなかった。
 何かしらの術がこの湖がかけられているようだ。

 有間を知っているエリクにとっては、さほど驚きは無かった。ただ、空想の物語の中でしか見受けられないような非現実的で不可思議な現象に好奇心が疼き、興奮した。


「こんなんなんで、滝の側も歩き回れますよ。一回ぐるりと回ってみます?」

「それも魅力的だけど……今はアリマに会いたいかな。あの屋敷の中も見てみたいし」


 サチェグは頷き、エリクの前を歩く。
 エリクは一歩進む度に広がる波紋を楽しみつつ、屋敷に向かった。

 閉じられていた玄関の引き戸は、三メートル手前に至って自動に左右に開いた。


「アリマー、アルフレート殿下ー。エリク殿下がいらっしゃってますよー!」


 サチェグが玄関の間にまで上がり込み、奥へ向かって声を掛ける。
 すると、足早に左の広間へ続く襖が開かれ、懐かしい隻眼の男性が驚いた顔で現れた。
 会わなくなって随分と経つが、ただ年を取った微妙な変化のみで、ほとんど昔と変わらない。ほんの少しだけ、安堵した。そんなこと、表には絶対に出さないが。

 エリクは朗らかに、再会の挨拶を彼へかけた。

 アルフレートはエリクを見て、嬉しそうでありながらも困惑の色を表した。


「エリク。お前も元気そうで何よりだ。だが、何故お前がここに……?」

「アリマがディルク殿下に頼んでマティアス陛下に要請した人材派遣の件じゃないんスか?」


「そうなのか?」アルフレートがまた驚いて言う。
 エリクは笑って頷いた。


「そう。僕が書庫の管理を手伝うことになったんだ。取り敢えず、一ヶ月だけね」

「……そうだったのか」


 すると、アルフレートは破顔した。
 きっと心内ではエリクであれば安心だとでも思っているのだろう。有間に会いたい気持ちがあっただけに、異母兄からの曇り無い信頼が少し痛い。


「良く来てくれた。しかもこんなに早く駆けつけてくれるとは、本当に有り難い」

「少しでもアリマ達の力になれるなら、喜んで」

「んじゃ、案内役の俺はこれで」

「ありがとう。気を付けてね」

「アルフレート殿下以外に初めてかけられましたよ、そんな優しいお言葉」


 サチェグは苦笑し、深々と一礼、そのままきびすを返した。

 彼を見送るエリクに、アルフレートは笑顔で声を掛ける。


「では、この書庫の管理人のもとへ案内しよう。アリマや錫も喜ぶ」

「うん。ありがとう」


 エリクは笑い、靴を脱いだ。
 アルフレートが入ってきた方の部屋に入り、奥へと進む。

 この屋敷には廊下が無いようだ。コの字型に幾つも広間を繋げており、アルフレートの話では、普段広間を横切って移動するが縁側を通って遠回りすることもあるそうだ。
 なお、こちらでいうトイレに当たる厠(かわや)は、扉が外側に設置されているので縁側を通らなければならない。台所になっている土間は最奥だ。それを使うのは有間のみ。となると管理人は料理が苦手な人物らしかった。


「書庫は一階と地下だ。置く書物の類が異なるから、管理人の指示を聞いてくれ」

「この階が書庫……っていう割には、ほとんどすかすかだね」

「一階に置く書物はまだそんなに集まっていないんだ」

「ふうん……?」


 やがて、最奥の奥座敷に至る。
 だが階段は何処にも無い。

 怪訝に眉根を寄せるエリクにアルフレートは「こちらだ」と端の畳を隙間に指を入れて持ち上げた。
 すると、そこには確かに、横に長方形に開いた石造りの階段が。人が二人並んでも余白がある広さだ。
 階段のある床下はやはり水の張った堅い石かと思えば、不思議な文字が発光する砂利が敷き詰められていた。恐らく、湿気を防ぐ為の処置であるらしい。


「……ここが?」

「そうだ。取り扱う書物の内容が内容なのでな」

「だから口の堅い人間を欲しがった訳か」

「それもある」


 それ《も》?
 ということは別に他言して欲しくないことがあるということか。
 先に階段を下りたアルフレートに続く。壁にはまたあの光る茸が群生しており、お陰で足下もよく見える。
 存外長い階段だった。辟易し始めた頃にようやっと重厚な両開きの扉が。木製だが、これにも砂利に書かれてあったような文様が埋め尽くし、それぞれが薄く発光している。

 扉を開いてまず目に飛び込んだのは異様に背の高い本棚の列だ。
 左から右へずらりと並び、カトライアの王立図書館以上の圧迫感を覚えた。
 上を見上げ、声を上げる。
 本棚は天井にぴったりとくっついている。教会並の高さの天井にまで至っているなど……。

 こんな場所があの屋敷の地下にあったなんて。
 圧倒されるエリクの横で、アルフレートが何かを見つけ朗らかに声をかけた。


「! ……リィリィ。丁度良かった」

「リィリィ? ────あ」


 瞠目。
 本棚からひょっこりと顔を出した少女の見目に、エリクは絶句した。

 褐色の肌。
 綿飴のような銀髪は膝裏までと長い。
 真っ赤な瞳は丸く、怯えに揺れていた。
 そして何より、顔の左右から突き出す長く尖った耳。

────ダークエルフ。
 かつて絵本で読んだ悪の種族の名称が、頭に浮かんだ。



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