34





 サチェグは洞窟近くの小池の畔(ほとり)に立ち、長々と溜息をついた。後頭部を掻き視線を一瞬だけ動かす。
 もう一度、溜息。


「あー……あのな? ついて来てるの、バレバレなんだよ」


 後ろへ向けて、やや声を大きくして呼びかける。

 暫くして草を踏み付ける微かな音が聞こえてきた。
 そのままサチェグに近付いて来る……のかと思いきや、足音は途中で止まってしまう。

 勘弁してくれ……。
 ただでさえ彼女が近くにいることにいたたまれないサチェグは、顔が引き攣るのを自覚しつつゆっくりと振り返った。

 五、六メートル程先にダークエルフの娘が立っている。

 リィリィだ。
 サチェグと似たような心境らしく、身体に合わせて丈を長くしたスカートの裾を両手で握り締め、視線を地面に落としている。掠れた声を漏らしてばかりで言葉をなかなか発しない。

 このまま逃げ帰ってくれないものかと期待したものの、その様子は全く無い。

 仕方がない。


「俺に何の用だ?」

「あ……あぅ……」


 全ての成長を取り戻した筈なのに、まだ子供っぽい部分が残っている。
 暫く上手く言葉に出来ない状態が続いていたリィリィはスカートから手を離すと、意を決して顔を上げた。ゆらゆらと揺れる純粋な紅い瞳でサチェグを見据え、大股にずんずんと近付いて来る。

 身体が触れ合うまであと三センチというところまで接近され、サチェグは気圧されて一歩後退した。

 リィリィは口を大きく開けて、


「わっ、私と……話をして下さい」

「は、話?」


 素っ頓狂な声が出てしまった。


「話と言われても……」


 サチェグは困って後頭部を掻いた。

 リィリィは一瞬固まり、黙り込んで沈思した。
 やがて、彼女なりに話題を出したのだが、


「あの人……お、お母さん、と、ここで会いました……」

「……ああ」


 サチェグの表情が暗いものに変わる。

 話題を間違えたと青ざめるリィリィが別の話題を考えるのを無視して、小池を振り返った。


「知ってる。分かりやすくあいつの気の残滓が残されてるからな」

「え……?」

「長くこの付近に留まるように細工がされてる。……それに、《置き手紙》も残されてる」

「置き、手紙?」


 サチェグは手を掲げ何かの文字を描くように動かした。

 小池の水面に、中央から波紋が広がる。
 波紋の中心の上かに小さな光が生じ、霧散して蛍のようにゆらりと揺らめき、また寄り集まって文字を作り出した。

 サチェグの横に立って文字を見つめるリィリィには読めず、首を傾ける。
 当然だ。ヒノモトの言語ではないし、カトライアやファザーンなどの言語でも勿論ない。
 この文字を読める人間は、この世界でも片手で数えられるくらいだ。


「あれはな、邪眼一族が使ってた文字だよ。あれが使えるのは俺や鯨(いさ)、有間に異母妹くらいだろうな」

「何て書いてあるのですか?」


 サチェグは逡巡した。
 リィリィを瞥見し、言いにくそうに、


「……『私はほととぎす。』だとさ」

「それって……」

「探しても無駄ってことだ」

「どうして?」

「さあな。あいつの考えなんて、俺にも分からん」


 サチェグがもう一度片手を振ると文字が揺らめき、消失する。
 暫く文字があった場所を見つめていたが首を左右に振って小池に背を向ける。

 リィリィはサチェグを見上げ、


「……お母さん、が」

「ん?」

「頭を撫でてくれました。ここで。いなくなる前に。その手は……凄く、優しかった」

「……そうか。良かったな」


 リィリィは頷いた。


「でも、お母さんは……私を解剖しようとしていたんですよね」

「昔の話だ。……お前は、自分の都合の良いように取っとけ。多分、あいつはもう姿を現さない」

「捜さないのですか?」

「捜すさ」


 サチェグは肩をすくめた。


「あなたは、お母さんのこと、どう思ってるんですか」


 リィリィは思い切って訊いてみる。

 答えられないことも想定しているのか少しおどおどとしている姪を見下ろし、サチェグは目を細めた。


「……さあな」


 沈んだ声が返したのは、短い言葉。
 瞳を揺らすリィリィに苦笑いを浮かべてみせたサチェグは自分の手を見下ろした。


「あの……」

「鯨を育てていた時、異母妹を思い出した。このガキもあいつと同じなんだろうなって。いつか俺がこいつを殺さなければならないかもしれないって思ったよ」


 実際、鯨は隙を見て、神を取り込んだサチェグの身体を解剖しようとした。他の邪眼一族も同様の被害に遭いかけた。サチェグが苦心して最悪の事態は免れていた。
 いつか鯨も自分が殺すかもしれないと想定して、ある程度の術しか教えてこなかった。彼が開発した術も隠れて調べ、対策も考えていた。
 生かす為に任された鯨を、気付けば将来殺すつもりで育てていた。

 けれど。


「だけどあいつは、気付いたら狭間ってガキと仲良くなっててさ。その狭間の影響か、鯨は徐々に人間らしく成長した。それで、今はちゃんと有間の養父をやってんだよ」


 鯨の父親らしい姿を見て、サチェグは考えずにはいられない。
 俺が間違えてなかったらあいつも人らしく育っていたんだろうか。
 あいつが人らしく育っていたら――――俺もこの身体になることは無く……。


「……有間と馬鹿なやり取りをすることも無かったし、リィリィも生まれることはなかったか」


 サチェグが人間の寿命を全うしていれば鯨が今のような状態に育っていたかは怪しい。そうすると、狭間とイベリスが出会って有間が生まれることも無かったかもしれない。
 有間に関わる事象全てがこの世界から失われてしまう。

 ……存外に俺の永すぎる人生は有間の人生に大きな影響を与えているらしい。


「カトライアで有間と出会ったのは、必然だったのかもな……」

「じゃあ、私は?」


 リィリィが食いつくように訊ねてきた。

 サチェグは微妙な顔をした。


「さあ、な……」

「けど、あなたがお母さんを止めたから、私は生きています。あなたは私の伯父です」

「あいつを止めたんじゃなくて殺したんだ。失敗したけど。そんでお前の父親も殺した。その所為でお前は今孤独だ。お前にとって俺は両親の仇なんだよ」


 縋る目をしたリィリィへサチェグは諭すように言う。


「良く考えるんだ。俺に親しくしたがるのは、母親にももう会えないと分かっているからだ。冷静になれば、俺に対する感情もきっと変わる」

「そんなこと……」

「有り得ないとは限らない。もしかすると本当にそうでないのかもしれねえが、今は自分に結論を急がせるべきじゃねえ」


 ちょっと躊躇った後、リィリィの頭を按撫(あんぶ)した。


「ほら、帰りな。俺は暫くここに残るよ」

「……」


 リィリィは俯き、唇を真一文字に引き結んだ。
 肩を怒らしその場に座り込む。


「おいおい……リィリィ」

「動きません。私はここから動きません」


 完全に意固地になった子供である。
 まだ子供のままなんじゃねえか。……いや、相手が《伯父》だからなのか。
 サチェグは苦笑し、暫くリィリィを促した。
 しかし、リィリィは従わない。繰り返すうちに耳を塞いでしまった。

 仕方がない。
 サチェグもその場に腰を下ろし、溜息をついた。



.




栞を挟む