話が終わると、サチェグは逃げるように早足に地下書庫を出て行ってしまった。
一瞬、周囲を見渡す素振りを見せたところを見ると、彼はリィリィの存在に気付いていたらしい。恐らく、最初から。
そんなサチェグの様子に、有間は驚いた風も無い。ほんの少し悔しげな顔をしただけだ。
エリクはサチェグの足音が聞こえなくなるのを待ってリィリィを呼ぼうとした。が、声を出す寸前に有間に止められてしまう。
有間は声を大きくして、
「あいつ、多分森を散歩して来るんじゃない?」
ややあって、リィリィがエリク達のいる机から四、五メートル程の距離の本棚の影から姿を現した。申し訳なさそうな顔をして。
有間が呆れて溜息を漏らす。
「あのさぁ。うち、もっと離れた場所に隠れるように言ってたと思うんだけど」
リィリィは俯き加減に謝罪した。
「……ごめんなさい。その……あの人の、表情が、見たくて」
耳を僅かに下げ、胸の前で両手の指をすり合わせる。
有間は苦笑いを浮かべた。
「それで、どうする? 追い掛けるなら早い方が良いだろうね。遅いと追いつけなくなるよ」
リィリィは瞳を揺らした。
エリクに視線を向けるも、何も言わずに有間へ戻す。
「……い、行ってきます……」
彼女の小さな声の僅かな震えが心配になって、エリクは「僕も行こうか」声をかけた。
リィリィの表情が明るくなったのもつかの間、はっとして首を左右に振った。
両手に拳をキツく握り、
「一人で行けます」
自分に言い聞かせるようにな硬い声を残してリィリィは足早にサチェグを追い掛けて行った。
「大丈夫かな」
「大丈夫だと思うよ。サチェグだから」
有間は言いつつ徐(おもむろ)に腰を上げた。「うちらも戻ろう」エリクに顎で扉を示してゆっくりと歩いていく。
エリクはやや遅れて後に続いた。
上に戻ると、座卓に清柳の姿があった。
有間が彼の隣に座ったので、エリクも彼の向かい側に腰を下ろした。
清柳の前に置かれた湯呑みには、太い茶柱が立っている。
「清柳」
「今し方、砂月殿が森へ散策に向かわれた」
「リィリィは?」
「砂月殿を追い掛けて行った」
「そうかい。じゃあ、日が暮れても心配する必要は無いね」
「左様。砂月殿の側程に安全な場所はこの世に無かろうて」
「……確かにそうだ」
有間は清柳をじぃと見つめ、目を細めた。
探るような眼差しだ。
訝ったエリクが問うように呼ぶと、
「……なあ、清柳」
「何であろう」
「君さ、サチェグと初対面じゃあないだろ」
「え?」
エリクはぎょっとして有間を見た。
更に驚いたのは、
「ああ、そうさ。まだ人間……山奥の小さな寺の住職であった頃、酷い姿の砂月殿に一夜の宿を貸した」
清柳があっさりと認めたのだ。
エリクに笑いかけ、清柳は大事そうに湯呑みを手にした。揺れる茶柱を見下ろし目を細めた。
「もう、儂しか覚えておらぬことよ。……覚えておると言っても、朧気にではあるがな。己の戒名や、小坊主らの顔も忘れてしまった」
清柳は湯呑みを軽く揺らす。
「だのに、あの時の抜け殻となった砂月殿のことだけは鮮明に覚えておる。恐らく、彼を初めて目にした時の姿が強烈であった故であろう」
強烈な、姿?
「……どんな風だったのか、聞いても良いかい?」
エリクの問いに清柳は頷いた。
顔を少し上向けて顎を、ゆっくりと腕を組む。
「髪も髭も伸び放題、歯は黄ばみ、全身は傷だらけで治療を施した形跡も無く、食事は摂っていたようだが糞尿が垂れ流し……浮浪者よりも酷い、死んでいないのがおかしい有様だった。すぐに湯殿に押し込んで皆で丹念に洗ってやった。一週間鼻がろくに機能せんかった」
有間が嫌そうにえずいた。
「想像したくないね」
「今の姿からはとても想像出来ぬ哀れな姿であったよ。一言も発せぬので言葉を知らぬものかと思っていたが、ふと、寺の庭で育てていた花を見て掠れた声を漏らした。『妹が、あの花が好きだと言っていた』とな」
清柳はそこで訊ねた。
妹御がいるのかと。
サチェグは無表情に答えた。
殺した。もう俺に家族と呼べる者は全ていなくなった。俺は、永遠に独りだ。
それからというもの、サチェグは日中その花が咲く庭を眺めて過ごした。
時折、清柳と会話をすることもあった。依然表情は動かぬままだったが、清柳は彼の声の僅かな抑揚から感情を察することが出来た。
彼がまだ辛うじて人間でいることを止めていないと分かり、安心したという。
「あれは……そうだ、確か新月の日であったかな。砂月殿は手紙を残し、姿を消した。その数日後本堂に大量の小判が置かれていたが、砂月殿であろう。それ以降、砂月殿が寺に来たことは一度も無かった」
「清柳がその姿になるまで?」
「左様だ、有間殿。いやはや、有間殿のご友人として紹介された時は鰓(えら)が剥がれ落ちるかと思うたわ」
「ごめんその喩えはちょっと良く分かんない。っていうかさ、清柳。前々から気になってたんだけど、君陸上にいる間は鰓呼吸どうしてんの?」
突拍子もない有間の話題転換。
にもかかわらず、清柳は柔軟に返した。
「自然とこちらの鼻に切り替わるようになっておる」
清柳は口の上をとんとんと叩いて見せた。確かにそこには、二つの穴がある。魚には無い穴だ。
更に顔の両側の鰓蓋(えらぶた)を開いて二人に見えるよう首を回した。
「その間は、ほれ。鰓が裏返っておろう」
エリクは身を乗り出して中を覗き込んだ。
「本当だ」
「魚の鰓ってちょっと気持ち悪いよね」
「そう言うてくれるな、有間殿」
有間の正直な言葉を清柳は笑って受け止める。
が、すぐに周りを気にし、声を潜めて、
「くれぐれも、砂月殿にはこのことは内密に頼む。今更、わざわざ思い出す程のことでもない。……あまり知られたくなかろう姿を話してしもうたしな」
「……ああ、確かに」
エリクは苦笑いを浮かべ、「分かったよ」頷いた。
有間も、からかいのネタにするつもりはないらしく、
「林檎ー。うちらにもお茶頼むー」
大きめの声で姿無き林檎を呼んだ。
この話はこれで終わり。
言外に告げた。
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