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 戻ったエリクを、リィリィが出迎えたのには少しだけ焦った。
 すぐにくっついてきた彼女に動揺を悟られまいと平静を装いながら、エリクはリィリィに笑いかける。


「ただいま、リィリィ」

「お帰りなさい。エリクさん。源さん」

「おう。ほな、ワイはこれをお好に渡してくるさかい」

「うん。頼むよ。僕は部屋に戻って――――」


 その時だ。
 くい、と肩口の服が一瞬だけ引っ張られた。

 リィリィだ。
 視線を落とすと物言いたげにエリクを見上げている。
 彼女の表情を見てどきりと心臓が跳ね上がった。
 見透かされているような気がした。


「何や何や、お姫さん。そない、二人きりになりたいんか」


 リィリィは頷いた。


「なりたいのです」

「さよか。ほな、夕餉に遅れんように、外に出たらあかんで」

「はい」


 源はエリクに一瞥をくれて厨の方へ歩いて行った。

 エリクは源を見送ってからリィリィに視線を戻すと、彼女はエリクの腕に自身の腕を絡めて歩き出す。

 彼女に連れられて向かったのは妖達が入ってこられない地下書庫だ。
 リィリィと二人きりになると反射的に警戒心を抱いてしまうところだが、リィリィの思い詰めたような顔に不穏なモノを感じ取った。


「リィリィ?」

「……は、話したんですか」


 震えて掠れた声を絞り出す。

 どくん。
 また心臓が跳ね上がる。


「話したって……」

「サチェグさんのこと……」

「……!」


 エリクは身体を強張らせた。


「どうしてそれを……」


 思わず漏らして、しまったと思ったがもう遅い。
 リィリィは目を伏せて「やっぱり……」呟いた。

 カマをかけられたのだ。


「リィリィ……」

「しない筈がないと分かっていました」


 リィリィはエリクから離れ、向かい合って立つ。
 躊躇が覗く彼女は数度口を開けては閉じ、ようやっと発した言葉は、


「お、お願いが、あるのです……」


 意を決したリィリィに、エリクは不安を覚えた。



‡‡‡




「どうも、殿下。お久し振りっす」


 玄関に立ったサチェグは、軽い態度で片手を挙げた。

 出迎えたエリクは、やや引き攣った笑みで返し「いきなりごめんね」謝罪した。


「いやいや、良いんスよ。たまたまのんびり過ごしてたところだったんで。それで、俺に何の用なんですか?」

「それは中で話すよ。上がって」

「んじゃあ、お邪魔します」


 サチェグは何を疑うことも無く靴を脱ぐ。

 エリクは不安ではち切れそうな胸がじくじく痛むのを堪えながら、サチェグを地下書庫へ誘導した。

 何も言わずに地下書庫へ下りるのを全く不審がらないサチェグが少しだけ怖い。
 もしかすると彼はエリクの話を察しているのではないだろうか。
 その上でここまでついてくるということはエリクの話を聞いてくれるのだと、良い方に判断しても良いだろうか。

 書庫への扉を開く。蝶番の軋む音が、いつもより大きく聞こえた。

 ふわっと押し寄せた冷えた空気で冷や汗が体温を奪う。

 地下書庫には、先客がいた。
 有間だ。
 本を読んでいた彼女は二人に片手を挙げ、机上を指でとんとん叩いた。

 その指示通りに同じ机に、有間とエリクがサチェグが向かい合う形にそれぞれ座る。

 やはり、サチェグはこの場面でも特にリアクションを起こさなかった。


「それで、何を話すんです? ここを選んだってことは、源達には聞かせられない話なんでしょう?」


 話を促すサチェグ。
 有間が面倒そうに溜息をついた。


「大方予想ついてるくせに、白々しい」


 ああ、やっぱり。

 サチェグは肩をすくめた。


「予想は予想だし。確実なところは本人の口から聞かんと分かんねえじゃん」

「うちらが聞きたいのはリィリィのことだよ」


 途端、サチェグの動きが止まる。笑顔が一瞬で剥がれ落ちた。
 暫し沈黙し、頭を掻きながら顔を逸らした。


「予想が当たって欲しくなかったって?」

「何で察しが良いかな俺のマブダチ」

「それなりの付き合いだからだろマブダチ」


 サチェグは溜息をつく。
 とても気まずそうな顔をしている。嫌、とまではいかないが、答えにくそうに閉じた唇を歪める。


「……俺が、リィリィの両親について知ってるか、でしょう? ここに住まわせた時から、いつかは訊かれるんだろうなとは思ってましたよ」


 長々と溜息をつく。

 有間は「ごめん」謝罪する。


「うちらが触れて良いことじゃないのは分かってる。でもね、知りたがってるのはうちとエリクじゃなくて、リィリィなんだよ」

「……リィリィが?」


 これは予想外だったらしく、サチェグは驚いた。


「どうして……」

「あの子なりに考えたんだろうさ」


 有間はエリクに視線をやりつつ答える。

 エリクは頷いた。

 先日、リィリィはエリクに直接サチェグに話を聞いて欲しいと言った。
 リィリィも知っていた。サチェグが伯父であり、両親を殺した仇であると。
 けれどその時のリィリィは途方に暮れていたように見え、エリクは、了承する前にサチェグを恨んでいないのか訊ねた。

 その答えは、『分からない』だった。

 父親が死んだ事実を拒絶していたリィリィは、サチェグが両親を殺したのだと一目で分かっても気付いていないフリをした。何も知らないフリを通した。それを口に、表に出してしまえば、セネルの死を認めることになるから。

 サチェグもセネルの記憶を見たのは間違いないだろうに、リィリィに対し何も気付いていない態度で接していた。けど、父親はきっと何処かで生きているなんて慰めは絶対に口にしなかった。両親の話題を、リィリィの前では絶対に出さなかった。

 彼は、とても優しかった。
 リィリィが保護されこの屋敷に住み始めて間も無い頃、リィリィが父親を恋しがった時を見計らってサチェグが現れ、大気中から集めた水で様々な動物を作ってみせたり、ヒノモト中の伝説を枕元で話してくれたりしていた。時々、旅の途中で買った土産なんかもリィリィの気付かぬうちに部屋に置いてくれていた。

 周りの目がある時には敢えて距離を取って接していたけれど、エリクがここに来るまでサチェグは彼らに隠れてリィリィを気にかけてくれていたという。勿論、他の者には絶対に内緒だと固く約束を交わして。

 サチェグのお陰でここのでの生活が苦ではなくなったのも、部屋が寂しさが紛れるくらいに明るくなったのも事実。
 だけど、サチェグが両親を殺してしまったから、リィリィは独りぼっちになってしまった。彼が父を殺さなければ、今もあの家で父と暮らせていた。

 恨むべき相手だ。
 そう思うけれど、恨むにはあまりに温かいものを彼から沢山貰った。

 今この身体になって、サチェグに対し自分がどうするべきなのか、リィリィは分からなくなってしまった。

 だから、サチェグの真意を知りたい。
 知れば自分の気持ちも定まる気がするから――――。

 エリクに頼んだのは、自分よりもエリクや有間に訊かれた方が、サチェグが答えやすいと気を遣ったからだ。
 今、リィリィはこの書庫の何処かで息を殺してサチェグの言葉を待っている。サチェグが気付かないように、有間が何重も術をかけて気配を消させた。

 有間は促すでもなく無言でサチェグを見つめる。

 エリクも、彼が語り出すのを待って何も言わなかった。

 サチェグは暫くだんまりだった。
 頭を掻いたり首筋を撫でたり、首を左右に振ったりと、なかなか話し出さない。

 それだけ、彼にとって重いことなのだ。

 リィリィよりも長い時を生きてきたサチェグ。
 今まで彼はどのような人生を送って来たのか。


「……気分、悪くなると思いますよ。殿下」


 やがて口から零れたのはこちらを気遣う科白。


「良いよ。僕達よりもっと、辛いのは君だろうから」


 エリクは努めて穏やかに返した。

 サチェグは一瞬だけ、顔を歪めた。



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