29





 有間は開口一番に言った。


「あ、悪い。思ってたのとちょっと、いや大幅に違ってるから一旦帰るわ」

「待ってアリマ。少しで良いから話をしよう」


 背中を向けて玄関を再び通過しようとしたのを、エリクが早口に引き止めた。言葉でしか止められなかったのは腕に重い力が加えられているから。

 言わずもがな、リィリィである。
 エリクの腕を自身の両腕でしっかりと捕まえているのだ。

 何処にも逃すまいとしている彼女の力は思いの外強い。人間と大きく差がある訳ではないが、これもダークエルフの身体的特徴なのかも知れない。

 リィリィはエリクが有間に近付くのすら許せないらしい。
 彼女はリィリィの保護者的な存在だし、アルフレートという夫と山茶花という子供がいるのにもかかわらずだ。
 エリクがリィリィの気持ちを受け入れなかったことで不機嫌になっているのも一因だろう。

 困ったなあ……。
 さすがに、理性も万能でも柔軟でも強固でもない。
 心中で弱音を吐いた。

 特に男を誘惑する術も堂々と披露するようにもなって、非常に厄介な事態にもなってしまった現状、エリクには彼女の色香に長時間堪えられる自信が無い。
 それだけ、惚れ込んでいるのだから。

 予想以上の色香への危機感から冷や汗を掻いたエリクに、有間は足を止め、面倒臭そうに身を翻した。


「うちさあ、もうちょっと賢くなってると思ってたんだよ」

「アリマ。彼女のこと知ってたんだね?」

「ちょっと違う。知ってたんじゃなくて、予想していた」


 「茶でも飲みながら話すか」言って、有間は家に上がった。擦れ違い様、リィリィの頭を叩くように撫でて行った。

 リィリィの様子を見ると、拗ねた不機嫌顔でいながら、ちょっとだけ嬉しげな複雑な顔表情をしていた。
 子供地味た嫉妬心を剥き出していながら、有間に抱く好意が隠せていないのが可愛らしい。微笑ましく思うと同時に、少しだけほっとした。



‡‡‡




 すでに、屋敷の妖達は有間の訪問に気付いていたらしい。
 お好が現れ案内した客間にはすでに茶柱の立った湯飲みと茶菓子が用意してあった。

 エリクが一連の出来事を話した後、卓に肘をついて手に顔を載せ、有間は確認した。


「で。これ以上の成長は無いってことで良いんだね? リィリィ」

「……はい。もう楔は完全に抜けましたから」


 ぶすう。
 エリクにくっついたまま、リィリィは頷く。


「君はどうしたい?」

「このままここで暮らしていたいのです」

「そう。じゃあそれで良いよ」


 有間はあっさりと了承した。


「君がいる限りは源達もここを離れないだろうし、管理については問題ないだろ。ただ、一応アルフレートと父さん、あと、サチェグには話しておくから」


 サチェグ。
 エリクは「ちょっと待って」割り込んだ。

 有間は知らない。
 リィリィがヘルタータの娘、すなわちサチェグの姪であることを。
 加えてリィリィにとっては伯父が父親の仇でもある。

 今後サチェグとに接触は避けるべきだと説明したいが、この場では無理だ。

 制止しておきながら言いにくそうに黙り込むエリクの様子に、有間も察してくれたらしい。話の中でサチェグの名は出さなかったが、多分、感づいてはいるだろう。


「エリク。マティアスからの手紙で君の様子を訊かれたから、ついでに手紙書いといて。今日は泊まるから。そこにいるんだろ、林檎。いきなりだからうちの分の食事の用意はしなくて良いよ。適当にこの菓子貰っとくから」

「アリマ。産後の身体なんだから、ちゃんと栄養のある物を食べた方が良いよ」
 
「今日ばかりは仕方がない」


 有間は肩をすくめた。


「それと、リィリィ。風呂にはうちと一緒に入ろう。楔が抜けて悪い影響が無いか見ておきたい」


 ぴくっとリィリィの身体が震えた。
 顔を見れば唇を真一文字に引き結び小さく痙攣している。

 ああ、喜んでいる。
 有間と風呂に入れることに喜んでいる。
 精神の成長も取り戻したというダークエルフの可愛らしい姿に笑みが零れてしまう。


「まだ成長が馴染んでいないらしいね」

「馴染んでます。馴染みます。すぐに」

「どっちだよ」


 有間は苦笑いを浮かべた。


「まあ、取り敢えず暫くは魂を喰うのは禁止な。身体を休ませといた方が良い」

「はい」

「じゃあ、うちはいつもの部屋にいるから」


 腰を上げ、お好を呼ぶ。
 林檎と同じようにお好も客間の近くで待機していたらしく、すぐに姿を現した。
 いつも泊まる部屋へと向かう有間の後ろにお好がついて客間を出る。

 今すぐにでも彼女を追いかけてサチェグのことを話したかったが、リィリィがエリクを放さない。
 これじゃあ今夜時間があるかも分からない。

 まさかとは思うけど……また寝床の中に入っては来ないよね?

 有り得そうだ。
 そして更に悪化してそうだ。絶対に添い寝だけでは済まない。

 ああ、頭が痛くなってきた。

 しかしそんなエリクに思わぬ助け舟が。


「おーい。エリクはん。すまんけどちょいと手伝うてもろてもええか?」


 源である。襖の隙間からぬっと顔を出した。


「たった今お好に山菜摘んで来い言われてなあ」

「うん。分かった。リィリィ。君は部屋で休んでいて」

「……私も行きたいのです」

「あかん、あかん。お姫さん。もうすぐ暗なるし。娘が出歩く時間やのうなるで。お姫さんに怪我させてしもたら、セネルに祟られるわ」


 源が真顔で諭すと、リィリィは渋々と頷いた。


「気を付けて」

「ありがとう」


 助かった。
 山菜を摘み終えた後にでも有間に話しに行こう。
 エリクは唇の動きだけで源に礼を言った。

 源は何やら含みのある顔で、片目を瞑って見せた。



.




栞を挟む