目の前に立つダークエルフは、誰だろう。
エリクは見覚えのあるかんばせを凝視しつつ、そんなことを思う。
リィリィの、本来の顔だ。
それは分かっている。
けれど――――彼女は本当にリィリィなのか?
そう、思わざるを得ない変貌であった。
僕の知るリィリィは、こんなにも妖艶ではなかった。成長しても、純朴で愛らしい性質は変わらなかった。
だのに、今エリクにぴったりと身を寄せる女性はリィリィの姿をしていながら、まるで正反対。魔性の艶やかさでエリクの理性を揺さぶってくる。
妖艶なるリィリィは、爪先立ちになってエリクの耳元に口を寄せた。
「身体の成長を止めて、全てが止まると思いますか?」
「全て……って?」
リィリィが顔を引く。
目を細め、艶めいた微笑を浮かべる。
「心、知能――――精神の成長。それは、肉体の成長を止めたとしても、自我が外の世界を見、思考する限り、知識は蓄積され続け、発達していく」
「精神的な成長を戻したのが、今の姿……?」
「そう」
リィリィが顔を僅かに傾ける。さら、と雪のような白銀の髪が肩を滑り落ちた。
また爪先立ちになって顔を寄せてくるのを肩を押し返して何とか回避し、エリクは口を開いた。
「なら今までのリィリィは? 君はずっと演技していたの?」
「いいえ。ついさっき楔(くさび)を抜いて、一つになったから。もう、愚かしい程に無知で無垢な、可哀想な私は消えました」
「く、さび……?」
「そう。生きているうちに得ていく経験、知識を吸収する為に私自ら打ち込んだ楔。そうすることで、私は周りに守られる魯鈍な小娘でいられた……」
リィリィの両手がエリクの顔を挟み自らへ向けさせる。
目が合った瞬間、リィリィはエリクが身を引く前に唇を押しつけた。エリクの唇に。
リィリィの柔らかい唇は、熱かった。
どくり、と心臓が大きく鼓動する。
逃げるのを許さずリィリィの腕がエリクの首に抱きつく。
リィリィはエリクを放そうとしなかった。少しでも顔を引けば更に押しつけてくる。たまに歯がぶつかった。
まるでリィリィの心を口から流し込まれているようだ。
リィリィの急な異変に戸惑う己を嘲笑う誰かが、意識の奥底から理性へ語りかける。
このまま、彼女を受け入れてしまえば良いと。
リィリィを自分の女(もの)にしてしまえと。
恋情を……劣情を煽る声は、自分の声。
しかし、エリクの理性は譲らなかった。
これは、違うから。
自分の感情で動いてはいけないと、己に強くストップをかけた。
エリクはリィリィの肩を、先程よりも強く押し返した。
リィリィは簡単に身を離す。
「私はあなたが欲しい」
はっきりと直情的な告白は、甘ったるく耳に流れ込み脳を痺れさせる。こちらの判断能力を低下させて心を絡め捕ろうとする妖しい引力を秘めた声は、魔的だ。
「リィリィ……」
「あなたの全てを私に下さい。あなたも私が欲しい筈です」
リィリィはじっとエリクを見つめている。
エリクも彼女を見返し――――細い双肩にそっと肩を置いた。
「この辺で、ケイティ・ホーカムの真似は止めようか」
「……」
リィリィは、唇を尖らせた。
‡‡‡
「手応えがあったのに!」
「あれで落ちても君は納得出来なかったと思うよ」
リィリィは心底悔しげに言った。拗ねた子供のように頬を膨らませエリクを睨む。
エリクは苦笑を返しつつ、内心理性が仕事をしてくれたことに深く安堵していた。
途中でリィリィの行動に覚えがあると気付かなかったら、流されていたかもしれない。それくらい、彼女の誘惑の魔力はケイティ――――生前は女暗殺者であった――――を遙かに上回っていた。
あれがリィリィの本性でなくて良かった。本当に。
そして、キスされる前に気付きたかった……。
動揺していたとは言え、迫り方はケイティ・ホーカムが商売の裏で人身売買を行っていた商人を殺した際の誘惑そのままだったのだから、もっと早くに気付けた筈だった。
未だリィリィの感触が残る唇が熱い。意識してしまうとその熱が全身に広がってしまう。
深呼吸をして自身を落ち着かせた。
「取り敢えず、座って話をしよう」
「むう……」
椅子を引いて促すと、リィリィは渋々と腰掛けた。
じとーっと見つめてくる彼女に苦笑を返しつつ、自身は向かいの席へ。
「どうして隣に座らないのですか」
「向かい合った方が良いと思って」
「私は隣に座りたいです」
聞き分けのない子供のような態度や、隣に座れば何をしてくるか容易に予想が出来てしまう辺り、リィリィはまだエリクの知るリィリィのままのようだ。
ただ、前よりも深みのある知性が感じられる。
「それで、さっきの話だけど……今まで学習してきたことを全て『楔』って言うもので吸収していたから、精神的成長も止まっていたって言っていたよね」
「はい。魂を喰らい、その記憶を紙に記すことで学習したこと全て。壊れた楔から流れ込んだそれは私の意識に良く馴染み、今、本来在るべき姿の私としてあなたと言葉を交わしています」
にこりと、リィリィが浮かべた微笑は、まるで年上のそれだ。……いや、実際彼女は遙かに年上だった。
しかも、数万、或いはそれ以上の人間の人生を記してきている。それから得られる知識も経験も、普通の人間の人生を上回っているだろう。
先程拗ねた顔を見て安堵していた心も、再び種族の違いを見せつけられて厚い雨雲がかかったように重く湿っぽくなった。
嗚呼、やっぱり僕はリィリィとは……。
人間とダークエルフ。
寿命の差が、越えられない壁となる。
「だから私は、ちゃんとした言葉であなたに言います」
私は、あなたを心から愛しています。
真摯な言葉だ。
しかしエリクの胸には、寒い風が吹いていた。
困っているとも、恥ずかしげとも、嬉しげとも言えない、曖昧な笑顔を返した。
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