嗚呼、今朝もか。
自分とは別の塊が布団の中に入っていることに目覚めて早々気付き、エリクは溜息をついた。
エリクにくっついてすやすやと眠るリィリィを起こさぬよう静かに布団を抜け出し、着替えを持って清柳の部屋で身支度を整え清柳と朝餉の席へ。
お好に連れられて最後に一階へ降りてきたリィリィは、当然のようにエリクの隣に座る。
食事をしながら、ちらちらこちらの様子を窺ってくるリィリィの視線に気付かないフリを通すのも、ちょっと疲れる。
だが、それよりももっと憂鬱で、精神力がごっそりと削がれるのは、この後。
二人きりになる地下書庫での作業である。
今日はどうかわすか……地下書庫へ続く階段を下りながら、エリクは頭を悩ませる。
そして――――今日はリィリィ、何を思ったか。
いや、一体誰の人生を参考にしたのか!
「ちょっと待って! リィリィ!」
エリクはらしくなく青ざめ弱り切った声を上げた。
理由は勿論リィリィ。
だが、今日に限ってリィリィは積極的すぎた。
エリクが椅子に座ったのを見るや、着物の裾を割ってリィリィがその膝の上に座ってきたのである。エリクと向かい合って。
それだけでなく、首に両腕を回し、密着してくる。
首を傾けて顔を寄せてくるリィリィの身体をエリクはやんわりと押し返す。
「リィリィ。一旦、落ち着いて。今君がしていることは、未婚の女の子がしてはいけないことだよ」
少しキツめ諭しながら膝上から降ろそうとすると、リィリィはむっとして腕に力を込めて頑なに離れまいとする。
唇を尖らせて拗ねた美貌に、心臓が急に騒がしくなる。
「……落ちてくれない」
「落ち、て……?」
「あの女の人は、すぐに落としてたのに……」
嫌な予感がした。
エリクは口端をひきつらせ、
「あの女の人って、誰のこと?」
問う。
リィリィは間近でこう答えた。
「マーシャさん」
「……」
頭を抱えたくなった。
マーシャ――――マーシャ・アプリテス。
およそ五十年前、ルナールのとある街に暮らしていた娼婦の名前である。
粘着質な客の手によって凄惨な最期を遂げた彼女は、生前、娼婦仲間の客も誘惑し、周囲から疎まれていた。彼女の惨い死は自業自得だと嘲笑され、死体はぞんざいに街の外へ打ち捨てられた。
彼女の本には、エリクがすでに挿し絵を施している。
なので、リィリィが彼女のどのシーンを参考にしたのか、何となく分かった。
「マーシャさんは、好きな人にこうアピール? して落としていました」
「……うん。あれは君の思っているような綺麗なものじゃないんだよ」
あれは、マーシャの好きな人でも何でもない。たまたま通りかかったのを捕まえた名も知らぬ客だ。
アピールしていたのではなく一夜の相手に自分を選ぶよう誘惑していたのだ。
その二人の関係は恋愛などと言う純粋なものではない。金で女体を売買する一夜限りの荒んだ薄っぺらい関係でしかないのだ。
彼女の天涯孤独の幼少期や、哀れな最期には同情するが、リィリィが参考にして良い生き方をした女性ではない。
「彼女のは、恋愛ではなくてそういう《仕事》なんだ。君はまだよく分からないから混同したのだろうけど、こういうことを安易に男にやっては駄目だよ」
努めて優しく言い聞かせる。
しかしリィリィは憮然とした表情を変えず、いつまでも離れようとしない。
思い通りにいかないものだから、意固地になっているのかもしれない。
これは困った。
どうしよう。
エリクは内心憔悴(しょうすい)しきっていた。
リィリィの感触が、体温が、服越しに伝わってくるこの状態が、とても辛い。
このまま彼女の好意を受け入れて手を出してしまえとそそのかす己と、こちらとあちらの寿命を考えればリィリィの為を思って拒むべきだと忠告する己がいて、胸の内でじりじりとせめぎ合う。
嗚呼、ここが地下書庫でなければ!
妖達のいる屋敷内であればすぐに助力を乞えたのに。
こんな場所こんなことをされてしまったら、自分でどうにか回避しなければならないではないか。
首筋に顔を寄せてきたリィリィに、いよいよ危機感と頭痛が増す。
どうして今日に限って!
「……リィリィ。お願いだから、」
「――――好きなのです」
「……っ!」
耳元で、囁かれる。
瞬間頭の中心辺りがじいんと痺れるような感覚に襲われた。
その痺れは背骨を伝いゆっくりと降りていき、胸を震わせる。
理性が機能を停止しそうになるのを必死に引き留め、やむなくリィリィを強引に剥がした。
「リィリィ」
「好きなのです」
「リィリィ。君はそれが恋なのか分かっていないんだ。早とちりして突っ走ってしまったら、いつか後悔する」
リィリィは眉間に皺を寄せた。
「そんなことは、」
「ないって、言い切れる?」
こくり。彼女は頷く。
エリクは溜息を漏らした。
そっと手を伸ばし、頬を撫でた。
目を伏せエリクの手にすり寄るリィリィを見つめ、口を開き一度閉じて、また開いた。
「……リィリィ。君と僕とでは寿命が違いすぎる」
悲しみを含んだ優しい声で、告げる。
リィリィはゆっくりと目を開き、エリクをじっと見据える。
「僕はただの人間で、どんなに健康に気を遣っていたって、君を置いて逝かなければならない」
一緒にいられるのは、長くても精々五十年程度。
長命種のリィリィにとって、これは余りに短すぎる。
だから――――言葉を続けようとするエリクの口を、リィリィの指が押さえる。
軽く目を瞠るエリクを射抜くような強い眼差しで見据え、
「知ってます。自分自身のことだから」
自分がどれくらい生きるか分かった上で、あなたが死ぬまであなたの一番近くにいたいのです。
囁いて、リィリィはまたエリクの身体に身を寄せた。
戸惑うエリクの鼻先三寸まで顔を寄せ、首を軽く傾ける。
「恋というのがどういうものなのか、少なくとも今の私には分かっています」
幼い自分に逃げ込むことを止めた、今の私には。
リィリィは、うっすらと微笑んだ。
それは、エリクが今まで見たことが無い、憂いを帯びた儚げな――――あどけなさを感じさせないまったき《女性》の笑みであった。
固まるエリクに、リィリィはそのまま顔を寄せ、
口の端に軽く口付けたのだった。
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