屋敷に戻ると、リィリィは真っ先に地下書庫へ入ろうとした。
リィリィとエリクがいないことに気付いて地下書庫の入り口付近にいたお好に見つかり、風呂に入れとキツく叱りつけられた。
地下書庫に入りたいリィリィと、泥だらけの姿が放っておけないお好。
軍配は当然ながらお好に上がった。
リィリィは憮然として風呂へ連行された。
エリクは何があったのかと説明するよりもまず、リィリィからセネルの本を預かり、地下書庫に降りた。
いつもリィリィが座っている机の上に三冊横に並べた。
本には焦げ一つ無い。
ヘルタータは、松原ほととぎすの本が目的だった。
本人との約束を果たす為に。
その為だけにここに来たのではないとは、彼女の一連の行動から明らかだ。
何の意図があってセネルの本も持ち出し、リィリィにセネルの死を認めさせようとしたのだろう、セネルの魂を食い残しているとリィリィに教えたのだろう。
考えれば、到達する結論は一つ。
《母親》だからではないか――――。
『私はあの子の母親ではなくなったのだもの』 本人はああ言っていたものの、やはり情はあったのではないか。
……いや、芽生えた、のか。
サチェグの異母妹がどんな人物だったか、大まかにだが聞いている。
だから母親の情というものを持ち合わせることなど有り得ないとも、理解している。
情が芽生えたというのなら母性よりもセネルに対する罪悪感が先なのでは? とも考えられる。
けれどもエリクはあくまで母性であると結論付けたかった。
そうであって欲しいと強く、心から強く思う……これはきっと、自身の願望だろう。
リィリィは、母親からもちゃんと愛されているのだと――――。
もう二度とヘルタータがリィリィに会うことは無い。
そんな予感がすればこそ、それを本当のこととしてしまいたいのだった。
長兄にそっくりな己の父のことがあるからそう思うのやもしれぬ。
セネルの魂が、この本に残っている。
永い時の中娘の拒絶に耐え続け、彼女の側にいた。
セネルの魂を食べ残していたと知ったリィリィが、どのようにセネルと向き合うのか。
後はリィリィ次第。
エリクはセネルの本へ軽く会釈し、地下書庫を後にした。
‡‡‡
リィリィは、エリクが風呂に入っている間に地下書庫にこもったらしい。
お好が案じて、注意するようにエリクに頼んできたが、彼女の為にもこのまま出てくるのを待っていて欲しいと頼んだ。
渋い顔で抗議するお好を宥め、取り敢えずエリクが地下書庫への入り口がある間で寝泊まりすることを条件に納得してもらった。
リィリィは、エリクが寝る頃になっても地下書庫から出てこなかった。
さすがに朝になれば降りてくるだろうと思っていたが、朝餉の支度を始めてもリィリィは上がってこなかった。
さすがに朝餉を運んでおこうと、盆に乗せて地下書庫へ降りた。
リィリィの姿はエリクがセネルの本を並べた机にあった。
本を三冊とも開き、ぼそぼそと何か語りかけているようだ。
その頬は紅潮し、快晴の下咲いた花のような屈託の無い晴れやかな笑顔だ。
彼女と父の会話に水を差すのは憚られたので、黙って横合いからそっと視界に一部が映り込むように食事を置いた。
その際、彼女がセネルに何を熱心に話しているのか分かった。
今までのことを、自分の言葉でセネルに伝えているのだった。お好の話題だった。
エリクに気付いて言葉を止めたリィリィに一言詫び、エリクは足早に地下書庫を出た。
今日の仕事は、休みかな。
邪魔する訳にはいかない。
お好達にリィリィの様子を伝えた後、部屋の掃除を念入りにするかと予定を立てた。
源は何処かへ出かけ、清柳も外へ散歩に出た。
部屋の掃除をするとお好に伝えると、ついでに二階廊下の掃除も頼まれた。
この屋敷では箒で掃いた後拭き掃除に移る訳だが、雑巾掛けではなく、有間がカトライアの物に似せて作ったモップで拭く。
リィリィを除いてローテーションを決めて定期的に掃除していたようで、エリクも住んでいる以上これは義務だろうと思い自らローテーションに加わった。
ファザーン王族の自分が、こんなこと……とは思わない。
むしろ、ファザーンの恵まれすぎた生活とは正反対のここでの暮らしを楽しんでいる。
エリクは自身の部屋の掃除を午前中一杯使っていつも以上に入念にし、昼餉の後に二階の廊下を手すりまで徹底的に掃除した。リィリィの昼餉を運ぶ際に、朝餉の盆は下げてある。
掃除で出たゴミの処理は、一階を掃除したお好に任せて頼むこととした。
すっきりと清々しい気分で部屋に戻る。
時間はまだある。
夕餉にはまだ時間が早い。夕餉の支度の手伝いをしようにも、林檎には迷惑だろう。
清柳や源がいれば、話し相手になってくれるのだけど、二人共出かけている。
そこで、地下書庫へ昼餉の盆を下げ忘れていたことを思い出す。
加えてリィリィの様子も確認しておこうと部屋を出た。
地下書庫へ降り、仄暗い中未だ夢中になって話しかけているリィリィを見る。
昼餉は、もう食べ終わっているようだ。盆が机の横に置かれていた。
また邪魔をしないようにそうっと近付き静かに盆を下げた。
リィリィは昼も今も、エリクに気付くと朝と同じように言葉を区切った。
だが――――この時だけは、更にぺこりと小さく頭を下げたのだ。
エリクは驚いて一瞬だけ動きを止めた。
咄嗟に浮かべた笑顔はぎこちなかったかもしれない。
リィリィに「身体には気を付けてね」と震える声をかけて、地下書庫を出ようと身体を反転させた。
その背に、焦ったような声がかかる。
「あ、あの……っ」
ありがとうございました。
リィリィは何故か、エリクに感謝を告げた。
エリクはリィリィを振り返り、苦笑した。
「君が感謝すべきなのは、僕じゃないと思う」
エリクがリィリィを現実に引き戻さなければ、こうなることも無かったかもしれない。
けれど、エリクは後悔もした。拒絶させたままで良かったのではないか迷い、見守る以外に何も行動しなかった。
だから、礼を言う相手は、自分ではない。
ヘルタータだ。
困惑に眦を下げるリィリィに一度はお好達に顔を見せるように言って、エリクは地下書庫を後にした。
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