21





 女の手から、炎に包まれた本が落ちる。
 水面に触れる寸前にそれを受け止めたのはエリク。

 咄嗟に飛び込んだ水面の上を走れたことを疑問に思うよりも、この本を守らなければと言う思いが強く先行し、己の手が炎に巻かれてもしっかりと本を掴んだ。
 炎は一気に腕を包んだ。


「――――ッ!!」


 焼かれる熱と激痛に、声を上げまいと奥歯を噛み締める。
 感覚を一瞬にして奪われるどころか、意識も逃げていきそうなくらい、激痛が腕から全身へ伝達する。
 それでも、決して本を放すことは無く。

 呆れ顔でエリクを見下ろす女は、溜息をつき「馬鹿ね」


「それ、偽物よ?」

「なっ!?」


 さらっと暴露され、慌てて本を確かめる。
 大部分が焼けてしまった分厚い本は、セネルのそれそっくりだが中身を開けば全ページ真っ白。

 更に、ふわっと腕が浮き上がるような感覚に襲われたかと思うと痛みが失せた。見下ろせば炎に焼かれた腕は嘘のように無傷。焦げ一つ、火傷一つ無い。

 女が指を鳴らす。
 すると、土塊のようにぼろぼろと崩れて水の中へ落ちた。

 水面に広がる波紋を唖然と見下ろしていると、女は大仰に溜息をついて見せた。


「我ながら、リアルに作りすぎたかしら」

「じゃあ、本物は何処に……」

「ずっとあの子の側にあるわよ」


 え、となって振り返る。

 座り込んで放心状態のリィリィ。
 その横に、分厚い本が三冊、重ねられている。
 『セネル』の本だ。


「本物の……?」

「さすがのあたしだって、短時間でレプリカを幾つも作れないわよ」

「もう一人の本は?」

「それは、あたしが貰っていくわ。この人と遠い昔に約束しているの」


 『本物の松原ほととぎす』の記録は、一つも残さないって。
 女が掌を上にして前に翳(かざ)すと小さな光が生まれる。光は長方形の形となり、色を帯び、暗くなり、一冊の本に変わる。
 『松原ほととぎす』の本だ。
 大事そうに両手で持って、ページを開く。


「あたしが消すべき彼女の痕跡は、これだけ。これをこの世から消してしまえば、本物のほととぎすの願いは叶うの」

「……それは、どういう、」


 女はページを開いたままエリクに差し出した。
 恐る恐る受け取り、ページに目を落とす。

『百七年、秋。桂月に「松原ほととぎす」を与える。』

 そ、と指で文字をなぞる。

 瞬間――――。


『桂月さん。私をあなたに差し上げます』


 だから、私の記録を全て消して欲しいの。
 柔らかな声が、優しく囁いた。
 ヒノモトの小屋だろう天井が視界に広がる。

 松原ほととぎすの視界には天井の他に、女性の顔が映り込んでいる。

 真っ青な着物をまとう女性だ。艶めく黒髪をうなじで一つに結い、前へと流している。白磁の肌に、真っ赤な唇は扇情的に良く映える。
 彼女は献身的にほととぎすの看病をする。

 桂月。それが、彼女の名前。
 彼女のもう一つの名前。

 ほととぎすに寄り添う彼女の姿は、エリクの記憶に残っている。


 セネルが愛した無情な女、『ヘルタータ』として。


 桂月と、ヘルタータ。
 サチェグの妹。
 ほととぎすと約束をしたのは、彼女。

 隠されている素顔は分からないが、肌の色は異なっている。

 この人は――――。

 桂月が笑う。


『ご冗談を』

『私が死んだら、あなたは松原ほととぎすになって生まれ変わりなさい。あなたの業は、私が持って行きます。全ては無理でしょうが……その歪んだ愛情に振り回されることは無くなるでしょう』

『女一人にどうこう出来る程浅いものではありませんよ』

『女ではなく、業の深い悪女です』


 桂月は動きを止めた。目を剥いてほととぎすを見下ろす。

 ほととぎすが笑う。


『私は、理に逆らった悪女。夫を蘇らせようとして魔物を生み神の怒りに触れた大罪人。何もしなければ生まれ変われた夫の魂を壊してしまった私は、黄泉へ続く道にすら入れません。ですから、私はこの世から消えなければなりません』


 桂月は薬を作る手を取め、ほととぎすに身体ごと向き直った。


『私はあなたの存在を奪う為にここにいるのではありません』

『ええ。存じていますとも。でも、あなたには感謝しているのですよ。あなたのお陰で、私にやっと死が訪れる』


 ほととぎすは笑って言う。
 桂月の複雑そうな顔を見上げ、ふと手を伸ばす。


『おいで、縁(ゆかり)』


 ややあって、小さな獣が手にじゃれついてくる。
 それもまた見覚えのある妖で。

 有間に懐く雷獣、錫にそっくりなのだった。


『あなたも、百年も私の側にいてくれてありがとう。私、やっと消えることが出来るの。望みが叶うの。あなたも、もう自由よ』


 縁は抗議するように細い指を噛む。
 ほととぎすは苦笑した。


『お願いだから、喜んで』

『喜べると思いますか』

『でも、私は消え逝く姿を二人に笑顔で見守って欲しいわ』

『まだ死にそうにありませんからご心配無く』

『そうとは限らないわ。だから、今日からあなたが「松原ほととぎす」よ』

『!!』


 桂月の身体が大きく跳ね上がった。
 眦をつり上げてほととぎすを睨んだ。

 縁も甲高い声を上げる。

 ほととぎすは、ただただ笑った――――。

 それを最後に視界が水面に戻る。


「そういうことだから、この本は魂の主の意思を尊重させてもらうわね」

「……あなたが……」


 女は……否、ヘルタータであり桂月である、サチェグの異母妹は、エリクの手から本を取り上げた。


「リィリィに言うことは無いわ。私はあの子の母親ではなくなったのだもの」


 じゃあどうしてここにいる?
 どうしてリィリィを揺さぶる?
 ヘルタータを見上げていると、彼女はリィリィを見つめ、大股に歩き出す。

 エリクは慌てて追いかけた。

 ヘルタータは、実の娘の前に立つとセネルの本を拾い上げた。
 リィリィの前に強く叩きつけて意識を引き戻し、


「馬鹿な子ね」


 嘲笑した。

 エリクが腕を掴んで止めようとするのをひらりとかわし、リィリィの目の前でセネルの本を踏みつける。

 リィリィは慌てて本を引き抜き抱き締めた。
 ヘルタータの足にはさして力が込められていなかったようで、すんなりと本が抜けた。

 リィリィも驚き、ヘルタータを見上げる。


「……?」

「あなた、気付かないの? 自分が食べ残してるって」

「食べ残し……?」

「ただの人間には分からないけど、あなたには分かるでしょう。本人なんだから」

「そんな、こと、」


 リィリィは自分が抱き締める本を見下ろし、暫し沈黙する。

 そして唐突に目を見開いて横の本に顔を向けた。
 残りの二冊に手を当て息を震わせた。


「う、そ……」

「え?」

「のこ、ってる……残ってる……!」


 声を震わし本を凝視するリィリィ。
 ヘルタータは溜息をついた。


「残ってなきゃ、勝手に移動なんてしないでしょう」

「……あ」


 確かに、そうか。
 でなければ他の本だって同じ現象が起こる筈である。
 納得は出来るが、何故それをヘルタータが知っているのか。
 この現象はエリクとアルフレートに起こり、清柳や源など、知っている者も限られている。

 ヘルタータは、何処でセネルの本が独りでに移動することを知ったのだろう。
 エリクがそれを訊ねると、


「さあ、何処でしょうね。女の秘密を暴きたいなら、色んな方法を駆使しないとね?」


 含みのある言い方で嘯(うそぶ)き、ヘルタータは歩き出す。


「何処に行くんです?」

「後のことは自分で決着をつけなさい。目的が果たせたからもうあたしに用は無いの。これ以上その子に付き合う義理は無いわ」


 曲がりなりにも母親のくせに。
 心の中で文句を言うと、それが伝わってしまったのかは分からないが、ヘルタータは肩をすくめ――――リィリィの頭を撫でた。

 リィリィが顔を上げると同時に手を離し、ふっと姿を消した。


「あっ!」


 一瞬にして消えた。
 こちらに、呼び止める暇すら与えずに。

 まさかそうなるとは思わずに、エリクは固まった。

 エリクもリィリィも、無言でヘルタータがいた場所を見つめる。

 結局、ヘルタータは松原ほととぎすの本を持って行ってしまった。


「セネルの本は残ったけど……」


 リィリィは困惑しつつも残りの本を大事に抱えて、ゆっくりと立ち上がる。

 エリクは周りを見渡し、ヘルタータの姿が無いことを確認する。溜息が出た。
 掻き回すだけ掻き回しておいて……。
 涙の乾き切らないリィリィの頬を袖で拭き取ってやり、


「……取り敢えず、屋敷に戻ろう。その本を書庫に戻さないと。ああ、その前に踏まれたところを綺麗にしないと」


 リィリィは、つかの間躊躇し、やおら頷いた。



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