お好が戻ってきたので、エリクは自室に戻った。
出る前にリィリィに声をかけたけれど、当然返事は無い。
あの女の言葉が頭の中をぐるぐると回っているエリクに、好いた人の素っ気ない態度を僅かにも気にするような余裕は無かった。
同じことをずっと繰り返し考え続け、気付けば自室の前を通過していた。
気付いたのは、何故かエリクの部屋にいた女が扉を開けて呼び止めたからだった。
「ここ、あなたの部屋じゃないの?」
「え……あ――――」
振り返り顎を落とす。
自分の部屋に女がいたことよりも、彼女が分厚い本を持っていることの方に驚いた。
その装幀(そうてい)と分厚さには見覚えがある。
「その本、『セネル』の……」
女は本に目を落とし、肩をすくめた。
「そうよ。奇特な悪魔の人生を記した本」
部屋に引っ込んだ彼女を追い、エリクも自室に入る。
彼女と卓を挟んで座る。
「セネルの知り合いだったんですか?」
「知り合いと言えばそうだし、そうではないと言えばそうね」
肯定でも否定でも無い曖昧な返答をし、女はセネルの本を読み始める。
セネルの本を読む為だけにこの部屋にいたのか、彼女は。
溜息をつきつつ目を落とした卓上には、セネルのものとは別に本があった。こちらを向いている背表紙には『松原ほととぎす』と。ヒノモト人のようだ。
どうせ似たような返事しかしないだろうから、ほととぎすという人物について訊ねはしなかった。
だが、ああは答えても彼女は確実にセネルを知っているとエリクは思う。
リィリィの関係者だと言っていたし、何よりセネルが悪魔だと知っているのだから。
更に女は本の性質も知っていた。
一ページ一ページ撫で、宿った記憶を見ている。
彼女は、一体何者なんだ。
女は、どうでも良いことだから分からないと答えた。
エリクに己の事情を話さない為の防壁の一つなのか、それとも本当に分かっていないのか。
女の言動を待つも、彼女は本から目を離さないし、口も開かない。
セネルとほととぎすの過去を見ることに専念して、まるでエリクの存在など無いかのようだ。
エリクは仕方なしに、立ち上がった。
すると、
「あら、お茶も出さずに客人を放っておいて何処に行くつもり?」
女が顔を上げてふてぶてしく言うのに、溜息が出た。
「……僕はキッチンに立てないので、お茶は出せません。お茶が欲しいなら、ここで暮らしている女性に頼んで下さい」
「正しくは女の妖でしょう? あなた、妖を人間扱いするの?」
「悪いですか?」
馬鹿にされている風ではなかったが、言葉に少し棘を含んで問い返した。
女は肩をすくめた。
「悪かないけど……変な人。異国の人間ならそういうの気味悪がると思ってた」
「ここに長く暮らしていますから、慣れてしまったんだと思います」
「順応力高いのねえ」
心底感心されることでもないと思うのだが、エリクは曖昧に笑って謝辞を返すだけにとどめた。
外に出ると女が、
「ああ、一応あたしのことは誰にも話さないでね。不法侵入だし、これ読んでるってバレたら面倒だから」
「……」
さっき堂々と歩いていったのは何だったのか。
奇妙な女の言動に少々動揺した。
駄目元で指摘してみたが、彼女は意識を本に戻してエリクを無視する。
彼女のよく言えばマイペース、悪く言えば自己中心的な態度に、いっそ妖達に話してしまおうかと考えたが、止めた。
話したところで、その時には彼女は姿を消している――――そんな気がしたからだ。
「言わないようにしますが、あなたが見つかるかどうかは、僕と言うよりあなたの行動次第だと思います」
「冷たいのね」
「冷たいというか、あなたの言動がよく分からないからどう対応したら良いのか分からないだけです」
「そう。じゃあ仕方がないわ」
「読み終わったら、本は全て元の場所に必ず戻しておいて下さい」
「はいはい」
ひらりと片手を振って、エリクを送り出す女。
本当によく分からない人だ。
首を傾げつつ、エリクは一階に降りた。
中庭でのんびりとしていた源と世間話をして過ごし、そのまま夕食を摂った後部屋に戻ると、女の姿は何処にも無かった。
帰ったのだろうが、セネルとほととぎすの本は書庫に戻したのか、戻したのだとすればいつ書庫に入ったのか、全く分からなかった。
どうも、胸が騒ぐ。
‡‡‡
女の不在を確認した後すぐに、一人書庫に入って棚を探す。
セネルと、松原ほととぎすの本がきちんと戻されているか確認する為だ。
どうにも嫌な予感がしてならなかった。
釘も刺しておいたし、彼女にもある程度の常識は備わっている筈だと自身に言い聞かせつつ、まずセネルがあった棚に直行。
「――――な、」
無い。
ぽっかり空いた空間にエリクは顎を落とした。
慌てて松原ほととぎすの本を探す。
一冊分の隙間は、簡単に見つかった。
書庫に戻せと言ったのに!!
エリクは血相を変えて書庫を飛び出す。
屋敷を、洞窟を駆け抜け、薄暗い森の中を探した。
名前を知らないので彼女を大声で呼ぶことが出来ない。
本を持ち出してどうするつもりなんだ!
まさか売り飛ばすつもりでは?
松原ほととぎすはどういう人物なのかは分からないが、セネルは実在の悪魔だ。その想像だと決めつけられていた悪魔の中でも数奇な人生が覗き見ることが出来る本なら、好事家が喜んで飛びつきそうだ。
そうなれば、好事家の興味はリィリィにも向けられるだろう。
彼女は悪魔と人間のハーフにして、ダークエルフの先祖返りだ。
見目も優れた貴重な存在を、こぞってステータスとして側に置きたがるのは目に見えている。
あの女がそんな浅ましいことをするようには思えないと頭の何処かで冷静に考える自分がいるが、彼女の言動はよく分からないこそ、楽観視が怖かった。
実際、戻せと言ったのに、本を持ち出してしまっているのだから。
あの人は何処だ!?
息急き切って女の姿を探して回るが、女がいつ屋敷を出たのか分からない。
もうすでに護村に行ったのかもしれない。
護村には寄らずにエリクの知らない場所へ行ってしまったのかもしれない。
日が暮れていくにつれ、焦りが増していく。
取り敢えず、護村へ向かおうと足を早め――――。
「返して!!」
「!?」
聞き覚えのある声がした。
驚いて足を止める。
どうして彼女の声がする?
「リィリィ……?」
夕食も体調不良を理由に拒んで横になっていた筈の彼女がどうして屋敷の――――洞窟の外にいる?
焦り頂点に達し、エリクは声のした方へ駆け出す。
声は近かった。
さほど経たずして、小池の畔に二つの人影を見つけた。
リィリィは座り込み、女と向かい合っている。
女は何か術でも使っているのだろう、池の上に立ち本を脇に抱え、分厚い一冊を見せつけるように片手で弄(もてあそ)んでいる。
リィリィは地面に爪を立て、女を泣きそうな顔で凝視している。
エリクはリィリィの横に膝をつき、女をぎろりと睨む。
女は肩をすくめた。
「帰ろうとしたら、この子に見つかってしまったのよね。これを返せと五月蝿いの」
「僕はその本は必ず戻せと言った筈ですよね」
「気が変わったのよ」
本を開き、リィリィを見やる。
「竜だけじゃなくて、悪魔が実在してた証拠なんてこの世に残さない方が良いと思うの」
「だから、地下の書庫に保管してあるんじゃないですか」
「何処だろうと《存在》すること自体が問題だと思わない? それに、あそこ簡単に入れて持ち出せるじゃない。あなたはあたしに戻すように注意しただけ。人に必ず良心があるなんて幻想だわ」
あたしは無情な女なの。
女は鼻で一笑し、本を閉じる。
ややあって、その本が、炎に包まれる。
リィリィが、金切り声を上げた。
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