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 お好は丁度、部屋を出てきたところだった。
 リィリィの様子を訊ねると、今は眠っているそうだ。
 こういう場合は横になった方が楽になると聞いたことがある。
 目が覚めた時、少しでも辛さが緩和していれば良いのだが……。

 お好に、自分が戻るまでリィリィの様子を見ていて欲しいと頼まれた。

 気を遣ってくれたのだろう。
 有り難く厚意に甘えることにし、部屋に静かに入ったエリクは、布団に伏したリィリィに眉根を下げた。

 女性特有の生理現象について、男にはどうしてやることも出来ない。

 有間の出産の際のアルフレートもそうだった。
 ヒノモトでは、出産の際には陽である男は絶対に近付いてはならない。
 部屋の外で長い時間を悶々と過ごすしか無かった。

 ……いや、ファザーンでもそうだ。
 呪術的な要素を重んじるヒノモトのような厳しい慣習の無いファザーンでも、自然と出産は女だけが出来る、女だけの大仕事だと認識が生まれおり、男は夫であろうともその場には立ち会わない、立ち会ってはいけないというのが通例だった。
 ただ、国民の間では夫が妻の手を握ったり、側でずっと声をかけ続けたりもすることを考えると、王族や貴族――――特に王が私事より仕事を優先する傾向が強いことも影響しているのだろう。実際、自分の出産の際にも、父は生まれる直前までカトライア使者の謁見中だったらしい。

 女を守るのは男の役目だ。
 だがこういう時、何も出来やしない。
 まだ顔色の悪いリィリィを覗き込み、エリクは目を伏せた。

 時を元に戻した所為で、彼女は女になった。
 戻す前も見た目こそ十八歳ではあったが、そうした部分も含めて、時間を止めていたのだろう。

 変化を強いられることに、どれだけ恐怖しただろう。

 間違いだったのだと認識が、エリクの中でますます強くなっていった。
 願わくは、誰かに否定して欲しい――――。


 そんな他人任せな願いを見透かしたように、彼女は現れた。


「こんにちは」

「!」


 不意に背後に気配と共に声が降ってきた。

 仰天し慌てて振り返ったエリクは、あんぐりと顎を落とす。


「あ、あなたは……?」


 声だけは聞いたことがある。

 漆黒の大きな布で顔どころか全身を覆い隠した人物は、まだ記憶に新しい声で小さく笑った。唯一露わになっている口元は、妖しい艶を含んだ紅唇が緩やかな弧を描いている。肌は褐色だ。

 だがそれだけの情報では何者なのか推し量れない。


「もしかして、あの時の人ですか」

「ええ、そうよ。声だけで分かるなんて、楽でも嗜(たしな)んでいたのかしら?」


 女は枕元にしゃがみ込み黒い手袋でリィリィの頭をそうっと撫でた。優しげな手つきだ。

 彼女は一体何者なのか。
 どうしてセネルのことも、リィリィのことも知っているのか。
 どうして今、ここに現れたのか。


「あなたは、一体……」

「さあ。あたしにも分からないわ」

「え?」

「あたしにとっては、もうどうでも良いことだもの」


 「けど……」言い差し、口を閉じる。


「けど?」

「あたしのことなんてあなたが知る必要の無いことだわ。あたしはこの子の関係者。でもあなたと事情を知り合う必要の無い女」


 リィリィの関係者――――彼女は今、そう言った。
 エリクが問い詰めようとするのを避けるように女は立ち上がる。


「その子の時間はもう二度と戻らない。あなたがどんなに後悔しても、何にも変わらないわよ。自分の選択を否定して欲しいなんて他力本願なことを考えるより、自分がこれからどうしたいか考えたら? 仮にもあなた、野心を持ってた元王子でしょ。それなりの頭脳はまだ持っている筈ではなくて?」

「それは……」

「この子の為にしたいことが思いつかないのなら、この屋敷を去ることをお勧めするわ」


 突然背後に現れた女は、襖を開けて廊下に出た。
 不法侵入の自覚があるのか無いのか……堂々と歩いていく。

 何処に行くつもりなのか分からず、追いかけたかったが、お好が戻ってくるまでは誰かがリィリィの側についていた方が良いだろうと踏みとどまった。

 ここには心強い妖達が住んでいる。
 得体の知れない彼女が何か行動を起こせば、きっと彼らが対処してくれる筈だ。
 それに彼女は自分をリィリィの関係者と言った。
 それが本当なら、自分が知らないだけで有間やアルフレートや、妖達と面識があるやもしれぬ。

 ……今は、そう思っておこう。

 エリクは暫く開けっ放しの襖を見つめ長々と溜息をついた。

 と、その時。
 リィリィが身動ぎした。
 掠れた呻きを漏らしてゆっくりと起き上がろうとし、腹を抱えて布団に沈んだ。


「い、たい……」

「無理しないで。まだ寝ていた方が良い」


 手を伸ばしかけるが、声をかけるだけに留めた。

 リィリィは布団の中から顔を覗かせエリクを見るが、何も言わずに布団の中へ潜り込んだ。
 相変わらずの拒絶振りに、エリクは肩を落とす。もう慣れてはいるが、なかなかに辛い。

 エリクが側にいると分かったからか、彼女は黙りを決め込んだ。

 気まずい沈黙が部屋に横たわり、エリクの精神を容赦無く攻める。

 いたたまれない。
 が、あの女を追いかけず、お好が戻るまで残ると決めた以上、今更逃げることも出来なかった。

 気まずさを振り払う為に彼に出来ることと言えば、先程の女の言葉を頭で反芻(はんすう)することだった。


『自分の選択を否定して欲しいなんて他力本願なことを考えるより、自分がこれからどうしたいか考えたら?』

『この子の為にしたいことが思いつかないのなら、この屋敷を去ることをお勧めするわ』



 自分がこれからどうしたいか――――僕はリィリィの側にいたい。
 それは変わらない。考えた上で、拒絶されても側で見守り続けている。

 だが、リィリィの為にしたいこと……など、まるで思いつかない。

 彼女の一番の望みを潰したエリクが何をしたって、救いになる訳がない。
 顰蹙(ひんしゅく)を買って屋敷から追い出されてしまうだろう。

 今の彼女から離れること程怖いことは無い。

 もしそんな事態になってしまったら、絶対に一生後悔するだろう。

 エリクは頭を悩ました。
 片手で顔を覆い、指の隙間から畳を睨む。

 その様子を、リィリィが怪訝そうに眺めていることにも気付かず、悶々と思案し続けた。



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