18





 リィリィは、堅く心を閉ざしてしまった。
 エリクや源は勿論、お好達まで強く拒絶した。
 彼女は一人でいたがった。現実を拒むように、周りの全てを拒んだ。

 その様に、皆が胸を痛めない訳はなく。
 されども誰もエリクと源を責めることは無いのである。

 気を遣われている。
 それがエリクには、責められるよりも辛かった。

 責められれば自分の選択が過ちだったのだと思える。
 ……いや、そう思いたい自分がいるのだ。

 だが、間違いだったからと言って、変わってしまったものが戻る筈もない。

 エリクがしてやれることは、なるべく遠くから、彼女を見守ってやるだけだ。

 一人でいることに拘(こだわ)る彼女には一貫して無視をされるが、ある程度距離を保っていれば大丈夫なようだ。

 ただ、魂を喰らい人生を文字に写すという、彼女にとって糧を得る為の大事な行為を二ヶ月も怠っているのが心配でたまらない。

 食事は、最初こそ部屋に運べば完食していたようだが、最近食べ残しの量が日を追うごとに増えている。身体が不調なのではないかと気が気でなかった。

 話しかけることを拒まれているエリク達にはそれを咎めることは出来ず。
 いつ倒れるか分からない彼女を、もどかしい思いで見守るしか無かった。


「ねえ、清柳。リィリィを見なかった?」


 屋敷の中を探し回っても、リィリィの姿を見つけられなかったエリクは、部屋で医学書を読んでいた清柳を訪ねた。


「リィリィは……おお、そうだ。裏手へ出ていくのを先程見たぞい。林檎が屋根の上から見ておった」

「ありがとう。行ってみるよ」


 誰かが見てくれているのなら安心なのだが、エリクはそれでも毎日ずっと彼女の姿を見守っている。そうでないと落ち着かないのだった。

 清柳の部屋を後にし、エリクは大股に屋敷を出た。
 裏手の湖面を歩いて、ぽつんと独り座り込んだリィリィの後ろ姿を見つけた。服が濡れているが、注意しても彼女は無視をするだろう。

 一定の距離を保ち、背中を見守る。

 有間の出産に立ち会った時にはあんなにも頼ってくれたのに、鬼門の扉を開いてしまったことで堅く高い壁が間に生じてしまった。


『分かっていながら分からないフリをするのも大概辛いで。それならもう、受け入れさせたった方がすっきりして姫さんの為にもなる』



 源の言葉が蘇る。
 彼は純粋に父を慕い自分の理を曲げてまで現実を拒絶し続けるリィリィと、父親として悪魔らしからぬ深い愛情を娘に注いだセネル双方の為になることを願った。
 リィリィに現実を受け入れさせようとした。

 でも実際にこんな状態になって、リィリィの為になるとは到底思えない。

 リィリィは心を閉ざした。
 あれの何処が『すっきりした』と言えるのか。

 確かに真実に見て見ぬフリをして生きていくのも辛いだろう。
 受け入れれば、リィリィに食われることで永遠に側にいられることを願ったセネルの愛情も浮かばれる。

 けれど知らないフリをし続ければ、リィリィの心の安穏は保たれる。
 父が迎えに来るのを待つという、生きる目的が生まれるのだ。

 最愛の父親の魂を喰らったことを受け入れて、これからの長い人生をどう生きていけば良い?
 リィリィは死ぬまで続く罪悪感と喪失感に耐えられるのか?

 妖達にもエリクにも、彼女の心を埋めてやることは出来ないだろう。
 苦しいと分かっていて生きていけと言うのか。

 そんなの、あんまりではないか。

 やはり間違いだった。
 心の奥で、責め立てる自分がいる。

 変わったものはもう戻らない。
 深い深い後悔が、エリクの心を苛(さいな)んだ。

 それでも、今のリィリィの心に比べれば――――比べることすら、おこがましい。

 エリクは深い溜息をつく。

 と、ひきつった悲鳴が耳に届いた。
 その声は紛れもなくリィリィのもので、腹を抱えて前のめりになっている。

 エリクは色を失った。
 大慌てで彼女に駆け寄り、顔を覗き込む。


「リィリィ! 大丈夫!?」


 背中に手を当て、呼びかける。
 しかしリィリィは呻くだけで答えようとしない。痛みで答える余裕が無いのかもしれない。

 魂を喰らっていない影響が出始めたのかもしれないとエリクは彼女の身体を屋敷へ運び込もうとした。


 が。


「! 血が……!」


 足場となった水面に、赤い筋が漂っている。

 何処か怪我を……!?
 エリクはいっそう青ざめる。

 少し強引に仰向けに起こし、身体を確かめる。


 怪我は何処にも無い。


 強いて言うなら、下半身の衣服が、水と一緒に血を含んだのかほんのりと赤く染まっている程度。

 そっと腕を退かして見た腹部も、水に濡れているだけで怪我はしていない。

 エリクは無理をさせると分かっていつつ、リィリィに問いかけた。


「リィリィ。何処を怪我したの?」

「……」


 リィリィは喘ぐように口を動かした後、力無く首を横に振る。

 怪我をしていないということだろうか。
 じゃあこの血は何処から――――。


「――――まさか」


 腹痛。
 怪我も無いのに出血。

 それらの繋がりを思案したほんの一瞬、脳裏を掠めた一つの可能性に、エリクは固まった。

 止めていた時を元に戻し急成長した身体なら、仕方がないと言える可能性だった。むしろ今まで無かった方が不思議だろう。

 やむを得ないとは言え、男のエリクにとって、非常に気まずい女性特有の生理現象である。

 想定外の事態に狼狽(ろうばい)したエリクは、取るべき処置が分からず、何処にいるかも分からない林檎に助けを求めた。


「お好さんを呼んで!! 早く、今すぐに!!」



‡‡‡




 林檎に呼ばれて駆けつけたお好は、リィリィとエリクの様子を見てすぐに察しがついたようだ。
 エリクに背を向けて姿を現した林檎と協力して屋敷にリィリィを運び込み、然るべき処置を迅速に行った。

 林檎はエリクを気遣い、自室で心を落ち着かせていたエリクにお茶と菓子を用意してくれた。その時には、すでに姿は見えなくなっていた。

 騒ぎを聞きつけた清柳も林檎から遠回しに事情をしらされ、エリクの部屋を訪れた。


「リィリィは、取り乱しておらなんだか」

「……それよりもお腹が痛かったみたい」

「そうか。……こればっかりは、男には分からぬからなあ。側に林檎がおって良かったな」


 林檎は、屋根の上からでもリィリィの異変に気付き、二人の側に駆けつけてくれていたようだ。

 お好からそれを知らされたエリクは、先程運んできた際に近くで怒鳴りつけてしまったことを謝罪した。
 見えない手で肩を叩かれたのは気にするなということだったと、エリクは思っている。


「しかし、今回は女性なら当たり前の現象だったから良かったものの……二ヶ月も魂を喰らわずにいるあの子に、今後どんな不調が現れるか分からぬ。医者を呼んでおきたいが……頼れるのは有間殿らだけか」


 だが、有間達はリィリィの事情を知らない。
 今リィリィが成長しているなんて思ってもみないことだろう。

 清柳は岩魚頭を傾けてううんと唸る。
 幾ら、リィリィを保護したとは言え、安易に話して良いことではないと考えているのだろう。


「エリクの坊は、どう思う?」

「……話しても良いと思うよ。ただ、今は止めておいた方が良いんじゃないかな」

「……で、あるな」


 清柳はやおら頷き、腕を組んだ。


「何をするにも、リィリィが落ち着くのを待たねばならぬか……エリクの坊、リィリィの様子を見ていておくれ。儂らも気を付けてはおくが……」

「……」


 エリクは暫し沈黙した後、腰を上げた。


「ちょっと、お好さんにリィリィの様子を聞いてくるよ」

「ああ。では儂も部屋に戻ろう」


 清柳も腰を上げ、エリクよりも早く部屋を出ていく。


「お好ならばまだリィリィの部屋におるようだぞ」

「分かった。ありがとう」


 彼を見送って、エリクも部屋を出る。
 深呼吸を一つして、歩き出した。



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