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 成長したリィリィの、なんと美しいこと。
 見た目こそ十八歳のそれではあったが、リィリィは発育はあまりよろしくなかった。今思えばそれは魂の摂取量が足りなかったからだろう。
 庇護欲を駆り立てるいたいけなあどけなさが、今は成熟した艶やかさへと変わり、身体の急激な成長によって寝衣は、所々が破けそうに張っている。少しでも身動ぎすれば、胸の辺りが危ういかも知れない。
 幸い、胸の下をピンクのリボンで絞り、膝下まで膨らませた鈴蘭に似た形のワンピース――――有間からのプレゼントである――――なので、胸以外はまだ余裕があるようだ。

 たった一夜にして開かずの蕾が花開いたような、そんな甘やかな衝撃が、脳に直接襲いかかる。しかしそれは決して不快なものではなく、じんわりと優しく脳から脊髄を撫でられ、抱き締められているような……安心感のある魅力的な心地であった。

 半ば放心状態になって魅取れていたエリクは、女に肩を小突かれてようやっと自我を取り戻す。


「何、ぼさっとしているのよ」

「あ……」

「その子、このままにしておいたら、風邪を引くわよ。さっさと温かい所に連れて行きなさい」


 女は振り返り、歩き出す。何処行くつもりなのか……呼び止めたが、彼女の足は止まらなかった。
 エリクの呼びかけを無視し闇へ溶け込むのを見送る以外、許されなかった。

 彼女は一体、何者だったのか。
 確かめる暇を与えず、謎の女は謎のまま、エリクの前から消え去った。

 エリクはリィリィの身体を抱き上げ、屋敷に戻った。

 清柳が、玄関で待っていた。
 彼の手に持たれた提灯が、ゆらゆら揺らめいている。その光は、不安そうに頼り無い。


「お帰り、二人共……」

「うん……」


 岩魚頭の丸い目を悲しげに潤ませ、中へ招き入れた。


「目が覚めるまで、彼女と共にいてやってはくれぬか」

「……うん。そのつもり」


 目覚めた時、彼女は取り乱すだろう。

 また逃げるかもしれない。
 怒りをぶつけるかもしれない。
 狂ったように泣き叫ぶかもしれない。
 どれであろうと、エリクは受け止めようと思う。
 そのくらいしか出来ないだろうから。

 エリクは、リィリィを私室に運び込んだ。寝かせる際に、お好に彼女の身体を拭かせ、着替えさせた。
 身体は草や枝が付き、寝衣の純白も泥で汚れてしまっている。さすがに、このまま寝かせる訳にはいかない。

 お好が下がり、入れ替わってリィリィの側に座る。

 頬をそっと撫で、小さく謝罪した。
 知るべきではなかった。
 僕があのまま知らぬフリをして過ごしていれば良かったのだ。

 そうすれば、リィリィは傷つかずに済んだ。
 奥歯を噛みしめるエリク。

 後ろで、すっと襖が開いた。


「……お姫さんは?」

「怪我をしたけど、治ったよ。リィリィが自分で治した」


 源は吐息を漏らした。
 エリクの隣に、どっかと胡座(あぐら)を掻く。

 沈黙が横たわる。
 部屋の中は、隅に置かれた行灯の頼り無い光で薄暗い。

 源はリィリィを見つめ、目を伏せる。静かに首を左右に振った。


「……エリクはん。お姫さんはな、多分……そろそろ限界や」

「限界? 限界って何の?」


 源は、リィリィをじっと見つめ、「心のや」と。


「心……」

「セネルが死んでからどれだけ長い時間生きて来たか……。どっちに転んだかてお姫さんの心は限界に達しとった。ただ追い詰められるんが、孤独の中か、誰かの側かの違いや。せやったら、誰かが支えてくれる方が断然ええねん。傷は、孤独の中にいるよりも早く癒える」


 源は、リィリィにセネルのことを受け入れて欲しいのだ。そして、彼の願った通り、彼と共に生きていって欲しいと願っている。
 黙って源の横顔を見つめていると、


「セネルはなあ……ほんまに、ほんまに、一人娘が可愛えんや。それこそ目に入れたかて痛うないくらいにな。魂を調理する為に人間世界引っかき回して戦争を起こすような、魂喰みの悪魔が、ワイのところに相談しに来たんやで。悪魔の自分ではこの子を人間と同じように育てられねえ、妖でも良い、この子を人間と変わらぬように育てられる奴を知らないか……必死な、子供を愛する父親の顔でな」


 リィリィは、この世界の誰よりも、セネルに一等愛されてんねや。
 源の手がリィリィの頭を撫でる。


「……子は、誰よりも親に一番愛されとるもんなんや。悪魔のセネルかて、おんなじやった。せやからお姫さんには、あいつなりの最期の最上級の愛情を肯定して受け取ってもらいたい。大事に大事に胸の中にしまって、一生を一緒に生きてって欲しいんや」

「……でも、リィリィはセネルさんの魂を食べてしまった罪悪感にも苦しんでる」

「それは、お姫さんが感じる必要の無いもんや。むしろ、喜んでやって欲しいねん」


 喜べる筈がないだろう。
 厳しく反論するエリクを源は一瞥する。


「魂がお姫さんの所まで行けたんは、ほぼ奇跡や。魂を喰らう奴は、妖にも仰山おる。黒の獄地に至る前に消える可能性の方が圧倒的に高かったっちゅうんに、あいつは魂の損傷を最低限に抑えて娘の身体に取り込まれた」


 人と、人ならざる者と、お互いの認識はかくも異なる。
 人間らしく育てられたリィリィにそれが許せるだろうか。
 ……許せない、受け入れられないから、彼女は現実を拒絶するしかなかったのだ。

 エリクは俯く。

 その時だ。


「う……っ」


 リィリィが身動ぎし、目を開けた。

 エリクは身を乗り出して顔を覗き込む。

 すると、彼女は大きく目を剥き、上体を起こして両手を大きく振って拒絶する。じりじりと後退して逃げた。
 壁に背中をぶつけると顔を押さえて譫言(うわごと)を繰り返す。


「……ちが、う……ちがう……ちがう……ちがう……ちがうちがうちがうちがうちがうちがう!」

「リィリィ。落ち着いて。リィリィ」

「違う! お父さんはあの人じゃない! お父さんは人です! 悪魔じゃない! お父さんは絶対に帰ってくるの! 私はお家で待たないといけない!」

「落ち着くんだ、リィリィ」


 肩に手を置くと、即座に振り払われる。
 赤い目は虚ろな目だ。今の彼女には誰も見えていない。

 自分に言い聞かせている。
 必死に自身を騙そうとしている。
 認めたくない現実から、また逃げようとしている。


「そう……私は待たないといけない! お父さんを待たないといけない。待たないといけない。だから私は変わっちゃいけない。お父さんが私を見て分かるようにしなくちゃ。私はそのままでいなくちゃ……お父さんは、分からない。私を迎えに来てくれない……!」

「リィリィ。大丈夫。お父さんは――――」


 お父さんは死んでない、必ず君のもとに帰ってくる。
 言えなかった。
 言えば彼女の心を救える筈なのに、咽が閉まったかのように言葉が出てこなかった。

 何が彼女にとって正しいのか分からなくなっていた。


「だ、大丈夫……大丈夫だから……リィリィ」

「嘘つき! お父さんは生きてるのに、悪魔じゃなくて人間なのに! あなたは嘘つき! 大嘘つき!!」


 そこで初めて、リィリィはエリクを見た。涙で潤んだ目を憎らしげにつり上げて睨めつける。


「リィリィ」

「お父さんは悪魔じゃない! 私のお父さんは死んでない! 絶対に絶対に絶対に迎えに来てくれるの!」


 リィリィは叫ぶ。
 そうやってなおも現実から目を背けて自分を守ろうとする。


「リィリィ……」


 こんなにも辛い光景など、見たくなかった。
 エリクの胸は、引き裂かれそうだ。
 だが彼女の心を救う為には何を言えば良いのか、思い付かない。

 源も源で、厳しい面持ちでリィリィをじっと見つめているばかりだ。

 ただただ彼女の言葉を受け止めるだけしか、エリクには出来なかった。

 彼女が疲れ果てて、腕の中で眠るまで――――。



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