16





 質素で冷たい、家の中。

 たった独り、粗末な机の前に立ち尽くす。
 手作りだと一目で分かる拙(つたな)い机である。使い古されて何本もの傷が走り、四つ角は丸く削れている。
 机上にはペン代わりの木炭と、何枚も重ねられた紙束。

 それをじいっと見つめている。
 滲んだ視界はゆらゆら揺らいで全ての輪郭を朧にする。


「……私、は」


 私は、こんなこと望んでいなかった。
 それよりも側にいて欲しかった。

 だのに――――。


 あの人はあの人の望みを押しつけて、私の望みを踏みにじる。




‡‡‡




 走り去っていく足音を聞きながら、源は溜息をつく。
 と、背後に冷たい殺気が出現する。

 源は、振り返らずに言った。


「お好。そない怒らんでもええやろ。エリクはんがお姫さんを追いかけたんやから、あれに任しとけばええ」

「……何故」


 胸中に煮えたぎる怒りをそのまま口から絞り出したような、おどろしき激情を秘めた声である。
 源は目を伏せ、


「もうええやろ。セネルとお姫さんを救ったろうや。自分は知らんねん。大事に思うとる人間が、頭ん中からも胸ん中からも自分のこと排除して……拒絶し続けて暮らしていくんは、ほんまに、キッツいねん」


 吐息混じりに、お好を諭す。
 我がことのように感慨深く語る源に、お好はゆっくりと歩み寄り、彼の正面に腰を下ろした。エリクが先程まで座っていた場所である。

 お好はじっと源を見つめる。

 源は鼻を鳴らし、肩をすくめた。


「昔、似たようなことがあってん」


 それだけしか、言わなかった。お好に言う必要は無い。そう思った。

 その昔、生まれたばかりの源は人間達と助け合って南の森に生きていた。
 妖と親しい人間はよくは思われない為、親密にはしなかった。
 共に生きていた人間達が、セネルに魂を喰われた者達だった訳だが、その中で一人、源が守りきった少女がいる。

 この少女、源を友達と一方的に決め、事あるごとに源のもとを訪れては拒絶されても遊びに誘ったり世間話をしていく不思議で肝の据わった少女であった。

 源も次第に彼女に心を許していったが、セネルから命辛々守った翌日に、悲劇は起こった。


 少女は、悪魔に襲われた恐怖から全てを忘れてしまったのである。


 己が生まれた村のことも、両親のことも、友人のことも――――源のことも。
 全てを彼女は忘れてしまった。
 源を見た時、怯え、逃げ出した。
 それを、源は責めはせぬ。か弱き人間なのだから仕方のないことだと、彼女を気絶させ、遠き地の巫女に預けた。

 以後、少女は源へ抱いた恐怖を糧に生きた。巫女に師事し、成人した後は妖を殲滅する旅へ出たと言う。

 二度と会うことは無く、何処でその人生を終えたかも、彼は調べなかった。
 調べたところで、あの小さき友人は源を憎んでいた。もう彼女の心には悪として認識されている自分が、今更彼女を捜して、どうなると言うのか。

 源はただ、願うだけだ。
 セネルによってもたらされた地獄を、死ぬまで、再び経験しなかったことを。

 似たようなものだ、セネルも。
 それが実の娘である分、もっと苦しいだろう。

 それに、リィリィだって寂しいに決まっている。
 真実から無理矢理目を逸らし続けて、帰ってこないと分かっている父親を待ち続ける行為の、なんと虚しいことか。

 どちらも辛い。

 源は、どちらも、救ってやりたかった。
 源とあの少女のように、解決しないまま終わらたくなかった。


「自分には、よう分からへんやろなぁ……いや、分からん方がええねん。あないな感覚は、知らん方が……」


 お好は沈黙したまま、源を見つめる。ゆっくりと立ち上がり、部屋を出ていった。
 彼女にエリク達を追いかける様子は無かった。

 恐らくは、朝餉の支度に向かったのだろう。
 ひとまずは、源の意思を尊重してくれるらしい。
 源は長々と嘆息し、後ろに倒れた。翼も腕も左右に投げ出し、嘴(くちばし)を開閉させる。


「……いつまでもそれじゃあ、あかんのや。お姫さん。セネルはなぁ、お姫さんを独りぼっちにせえへんと、本という触れられるもんになることを選んだんやからな」


 今、何処を走っているのかも分からぬ家主へ語りかけ、源は目を伏せた。



‡‡‡




 空はまだ、夜の帳に覆われたまま。

 エリクは暗く不安定な道を、明かりも無く駆け抜ける。
 何度転んだだろう。
 何度物にぶつかっただろう。
 されど、彼は走り続けた。前から消えていく小さな姿から目を逸らさなかった。

 見失ってしまったら、彼女がそのままこの世界から消えてしまう――――そんな気がして、恐かった。

 彼女は、今まで真実から目を背けてきた。
 どんなに辛かっただろう。
 どんなに寂しかっただろう。
 永い永い時の中をそうやって過ごしてきた、その虚しさを、ただの人間でしかないエリクには到底理解出来まい。

 理解出来ない自分は、果たして何をしてやれるだろう。

 分からない。
 分からないけれど、彼女の傍にいたい。

 ゆらゆら左右に揺れる白銀を追いかける。

 リィリィは存外に足が速い。洞窟を抜け真っ直ぐ走る。ほとんど外に出る機会の少ない彼女には、行く宛が無い。
 闇雲に道を曲がって行かないだけ、まだましだ。何とか見失わないで済む。

 けれど、足下が疎かになっている。


「あ!」


 転んだ。
 そのまま前に傾いだかと思えば左に傾き、姿を消してしまう。

 エリクは焦った。


「リィリィ!!」


 彼女が転んだ場所は、左手が岩肌の剥き出しになった急斜面になっていた。大方、豪雨に見舞われた時に、一部だけが土砂崩れを起こしたのだろう。たまたまそこで転んでしまった為に滑落した。

 リィリィの姿を捜し、足下に細心の注意を払いながら身を乗り出す。

 この暗闇では、分からない。
 果て無き闇が溜まっているだけだ。

 嗚呼、明かりがあれば!!
 エリクは舌打ちする。

――――その時だ。


 何処かで何かが弾けるような、小さく乾いた音がした。


 エリクが顔を上げるよりも早く、リィリィを呑み込んだ闇が、四方へ逃げていく。
 一瞬エリクの周囲に浮かんだ模様があった。
 誰かが自分に術をかけた――――エリクにはすぐに分かった。

 誰がそんな術を……?

 ばっと周りを見渡してみるが、光に照らされたように見えるのは斜面の下だけ。姿を見られぬよう、リィリィの落ちた斜面下以外にこの術は適応されないようだ。
 不審な現象に警戒心を抱きつつも、エリクはもう一度斜面を見下ろした。

――――いる。

 リィリィは、斜面の側に倒れている。下は岩ではなく地面だ。

 エリクは斜面を降りた。

 側に片膝をつき彼女を呼びながら呼吸の有無、頭部や頸部、両手両足の状態を確かめる。
 額が横にぱっくりと割れて血が溢れ出し、右脹ら脛が赤く、大きく腫れ上がっている。


「頭を打ってるし……足が折れてる……内出血も酷い……!」


 胴体――――最悪脊髄にも損傷がある可能性も……。
 エリクは全身が冷えていく感覚に襲われた。


「早く屋敷に戻って手当てをしないと……!」


 しかし、頭も打っている彼女の身体を安易に動かせない。

 舌打ちが漏れた。
 一旦屋敷に戻って妖達を呼ぶか?

 そんな時間は無い!


「……っどうすれば……!」

「――――放っておけば良いのよ」


 不意に、声が降ってきた。

 振り返るよりも早く襟を掴まれ後ろに強く引かれた。

 瞬間。


 空気が一気に冷えた。


 まるで氷の檻に閉じ込められたかのようだ。
 リィリィの周りの空気だけが、急速に、異様に低下していく。
 それだけではない。


 ぞっとした。


「これ、は……」


 枯れていく。
 彼女の周りに生えている雑草が、彼女を中心に枯れていくのだ!

 これが何を意味するのか――――。


「まさか、植物の魂を……」

「喰らっているの。あの子の父親も、傷ついた身体は魂を吸収して治していたわ」


 女の声だ。
 すぐ後ろに立っている。

 振り返ろうとしたが、「振り返っちゃ駄目」頭を叩かれ制された。


「離れなさい。あの程度でこの環境なら、動物の魂を奪うまでもないでしょうけど、念の為」

「君は……」

「あなたが知る必要は無いし、こっちが教える義務も無いわ」


 すげない返事だ。
 不信感が募るも、リィリィが心配でたまらないエリクは、ひとまず今はリィリィの様子を注視することを選んだ。


「すぐに済むわ。この子、見た目や性格とまるで違って、ぞっとするくらい貪欲なの。永遠に満腹を得られない餓鬼と同じね」

「……」

「事実なんだからそんなに怒らないでよ。……ほら、リィリィが自己修復を終えるわ」


 エリクは、驚いた。
 確かに女の言う通り植物の枯死は止まった。

 代わりに――――。


「あ……!」

「……」


 リィリィの身体が、変化する。



 地下書庫で見た、あの女性の姿に。



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