15





 エリクは、セネルの人生を記した本を閉じた。

 視界が滲んでいる。同調し過ぎた。
 目を伏せて沈黙する。

 魂喰みの悪魔セネルはリィリィの実父だった。
 彼はもうこの世にいない。

 リィリィはこれを知っていたのだ。いつ知ったのかは分からない。
 知っていて知らないフリをしていた。真実に鍵をかけ、帰ってくる筈のない父親を、ずっとずっと待ち続けていた。

 分かりたくなかっただろう。
 今まで、死んだ人間の魂を喰らっていたなんて。
 悪魔であった父親がすでに死んでいて、その魂すらも自分は喰らっていたなんて。
 信じ受け入れることなど、どうして出来ようか。

 父親で、魂喰みの悪魔であるセネルの魂は、リィリィには食べられない。
 彼は娘が食べられるように、最期の瞬間自ら変異させた。
 その意図も、エリクには見えた。

 リィリィにも当然見えていた筈。

 彼女は知ったこと全てに蓋をした。
 唯一の肉親はまだ世界の何処かで生きていて、いつか必ず自分を迎えに来てくれると、永い時の中自分を欺き続けることを選んだ。
 そうしないと、心が保たないから。


「……あなたは、そうすることで、大事に守ってきた娘を傷つけてしまうかもしれないと、思わなかったのか……?」


 本は、何も答えぬ。アルフレートやエリクに働きかけてきたのだ、僅かにもセネルの魂が本に宿っているのかもしれない。

 エリクはリィリィを傷つけたくない。
 彼女が望むのなら、このままでも良いとすら思う。帰ってくる筈のない父親を待ち続けたって……彼女の心が、安らぎはしないまでも、凪いでいられるのならそれが良いに決まっている。
 受け入れたとして、彼女の心が救われると誰が断言出来る?

 そんな自分には、死ぬ寸前にセネルが望んだことは叶えてやれない。


「すみません」


 謝罪し、エリクは本を棚へ戻した。
 書庫を出て自室に戻った。

 が――――部屋の中に客がいる。


「……源」

「……」


 卓の前に座る烏天狗が、ゆっくりとエリクを見上げた。やおら片手を上げ、座るように促す。

 彼と向かい合って座す。
 平時と打って変わって張り詰めた様子の源は、暫く一言も発しなかった。

 重苦しい沈黙が、明かりの無い部屋に横たわる。

 ようやっと源が口を開いた時、エリクはいつの間にか拳を堅く握り締めていることに気が付いた。開いてみるとじっとりと汗を掻いている。さほど長くそうしていた訳ではあるまいに、余程緊張していたらしい。


「見てしもたんやな。エリクはん」

「……うん。ごめん」

「謝るのは、何でや?」


 源は、まとう雰囲気のみでエリクを責め立てる。

 エリクは暫し沈黙し、ゆっくりと口を開いた。


「僕は、多分セネルさんの望むことは出来ない。リィリィに、鍵をかけるくらいに拒絶していたことを伝えてしまったら、とても苦しむだけだから」


 源はまた黙してエリクを見つめる。


「……黒の獄地は、見たか?」

「うん」

「あそこはな、今じゃもう誰も知らへんねんけど、自然に出来たとこやないねん。元は普通の、生き物で賑わう森やった」


 曰く。
 リィリィは周りにいる全ての動植物から魂を奪って喰らう。
 セネルは、出来る限り、娘が己の性質を自覚することを避けたかった。
 その為、全ての生物から魂を奪う必要があった。
 セネルとて、大量の魂を喰らい過ぎれば身体の毒となる。何日かに分けて、森そのものの命を消し去った。
 休み休みでも、随分と消耗したようだ。本に記されていなかったのは、その間の記憶が欠如していたからだ。過食による過労が原因だろう。

 彼は娘の為に休むことは無かった。
 娘が、本当に大事だったから、彼女の為になることを早くしてやりたかった。

 母親代わりが必要になると、妖の女を連れてきた。姑獲鳥(うぶめ)なら大切に育ててくれるだろうと、相談を受けた源が与えた助言に従ってのことだと言う。


「源、彼は君に相談しに来ていたのかい?」

「黒の獄地を作った後でな。だいぶ近場におったワイしか思いつくもんがおらへんかったんやろ。ワイは、また人間の魂喰いに来たんちゃうかと思て身構えとった。せやけど、どえらい慌てて子育ての出来る妖を紹介してくれへんかっちゅうんで、めっさ驚いたわ」


 それで相談に乗って、妖を紹介してやる源も、優しいものである。
 源は肩をすくめる。が、厳しい雰囲気は変わらぬまま。


「結局は姑獲鳥もセネルが生きとる間にまだ制御でけへんかったお姫さんに喰われてしもて……その後は、自分以外の誰もお姫さんの側には置かんかった。エリクはん、あいつの死ぬ間際の思いは、どえらい強かったろ」


 少しの躊躇いの後、エリクは頷いた。


「セネルさんは……リィリィの側にいたかった。死んでもなお、魂を喰らわせ、人生を記した本となって、愛娘の側にいたかった。せめて、孤独から守ってあげたくて」


 セネルが死んだ原因は、彼の激情による暴走だった。
 憤怒に取り憑かれた彼は我を忘れてとある人物を殺さんとし――――返り討ちに遭った。セネルを殺した人物は、誰も知らない方が良い。エリクは墓場まで、持って行くつもりだ。

 セネルにとって幸いだったのは、相手がその場で息を止めず、瀕死の彼を放置したまま立ち去ったこと。
 猶予があったから、彼は自らの魂を変化させ、娘のもとへ飛んでいくことが出来た。

 死ぬその時まで娘のことを思っていた父親が、娘に拒絶され、無かったことにされる。側にいたいと願って自ら喰われることを選んだのに……とうの娘が受け入れずにまだ父親が生きていると無理矢理に思い込み、真実を無視し続ける。

 とても辛いことだろう。


「……でも、そうやって自分を守ることで、リィリィは心を保ってる。受け入れられないから、そうしているのなら……」

「分かっていながら分からないフリをするのも大概辛いで。それならもう、受け入れさせたった方がすっきりしてお姫さんの為にもなる」

「受け入れたら彼女は傷ついてしまう」

「人間、生きとれば傷つくことは大なり小なり山程ある。エリクはんもそうやった筈や。それでも生きて来とるんなら、どない大きな傷でも癒す方法は必ずある。お姫さんはそんな人間とほとんど変わらん。そろそろ、逃げとる現実から向かい合わな、あかんねや。これ以上、傷が深うならんうちに」


 そして、彼女の中に停滞した《時間》が、暴発してまう前に。
 源はそこで、片手を振った。暗闇の中うっすらとしか見えなかったが、辛うじて分かった。

 すると、襖が独りでに開かれる。

 エリクは驚愕した。


 月光を受けて、輪郭を浮き彫りにするその影――――、


「リィリィ……」


 である。



.




栞を挟む