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 セネルは、魂を喰らって永遠に近い命を生きることに常々鬱屈していた。
 いつも何か刺激が無いか、何も無い生に華を添える何か――――世界中を回りながら、自らを楽しませる存在を希求した。

 かの若い烏天狗はなかなかに面白い妖だった。だがまだまだ未熟。今少し、待たねば面白くない。

 それまでの退屈凌ぎを、探そう。

 刺激を求めた悪魔。
 永い永い時を生きる。

 人の情念を弄び、苛烈な戦争を引き起こす。死体を離れ救いを求めてさまよう魂は喰らわず、死にかけて生に執着する人間の心を振り回しては憤怒と憎悪を膨大させてから喰らう。こうするとたまらなく甘美な餌となる。

 されども、人間にとっては大いなる災いも、セネルにとってはただの食事の為の調理に過ぎぬ。
 退屈を埋めるスパイスには、到底なり得ぬ。

 そんな彼に、今まで感じたことの無い狂おしい情熱をもたらしたのは、一人の、人間なのか魔物なのか分からぬ女であった。

 女には二つの名があった。
 セネルの前に現れた時には、彼女は『ヘルタータ』という名前だった。

 セネルは、ヘルタータと目が合った瞬間、抗い切れぬ引力に負けた。
 《魂喰み》が、ヘルタータに惚れた。

 人間達の繁殖の営み、それに繋がる感情に何の興味も持たなかったセネル。
 自制、理性、気遣いという言葉を知らぬ悪魔は、男としてヘルタータに溺れた。

 ヘルタータという女は奇異なる女である。
 ヒノモトの邪眼一族の血を引き、同時に魔女の素養も備えていた。

 魂も、見るからに極上の匂いを漂わせ、食欲をそそる。
 それ以上に、女は、喪(うしな)うには惜しい魅力を備えていた。
 人間の言葉を用いるならば、彼はヘルタータに骨抜きにされた。

 人間と感性の異なるセネルには、ヘルタータの異常に強い好奇心と欠落した良識に問題を感じなかった。

 悪魔は、人に姿を似せた時、等しく人を超越した美貌を備える。魔的な美しさは、人ならざるものの証明になろうが、悪魔はそんなことには気が付かぬ。
 セネルもその例に漏れなかった。

 だが、ヘルタータもまた人としては十分異常と言える美貌を持っていた。
 異様に見た目の良い者同士、釣り合わないことは無い。

 ヘルタータは、セネルに一度も靡(なび)かなかった。
 いや、彼女は異性に興味を持たなかった。

 たった一人、異母兄を除いて。

 彼女の愛は歪んでいる。
 兄以外何も要らない。兄以外の何もかもが、ただの好奇心を満足させる研究対象以上の価値が無い。
 悪魔であろうが何だろうが、心は動かないのだ。

 そんな彼女だから――――セネルと身体を重ね、六人の子を孕んだのも、ただの実験でしかなかった。

 ヘルタータは、人間ではあるが、母方の遠い先祖にダークエルフを持つという。
 この場合、ごく稀に子孫の中にダークエルフが現れることがあるそうだ。先祖返りである。

 その相手に悪魔を選んだのも、並々ならぬ好奇心、貪欲な知識欲に逆らわぬからこそ。
 悪魔と人間のハーフについても、彼女は調べようとした。

 五人目までは解剖され、殺された。

 命を救われたのは、六人目。
 けども命を救われたとしても、不幸な娘であった。

 ようやっと生まれた、ダークエルフの娘は、母ではなく父に似た。
 魂を糧に生きる赤ん坊は、母親の魂まで喰らおうとした。
 十メートル以上離れても彼女はヘルタータの魂を喰らう。平気なのは、セネルだけだ。セネルの魂を、娘は喰らおうとしなかった。

 十分な解剖も観察も出来ぬ娘に、ヘルタータは途端に興味を無くした。
 何も言わずにセネルのもとを去っていった。

 セネルは、娘を育てることにした。心から愛おしい女との間に出来た、唯一の娘だったから。

 名も無き娘に、名前を付けることとした。

 娘が可愛らしい声で笑うと、昔手遊びに滅ぼした村を思い出す。
 人間にしては良い音を響かせる巨大なベルが村の中心にあった。気に入っていたから、ベルだけは壊さずにおいた。今はどうなっているか分からない。

 そのベルの名前は――――『リィリィ・ルベル・ベル』。


 娘にその名前を付け、セネルは人間の皮を被り直した。



‡‡‡




 全身が凍り付くような思いだった。


「リィリィ・ルベル・ベル――――リィリィ」


 繋がってしまった。
 魂喰みの悪魔と、リィリィが。

 リィリィは……悪魔と、悪魔が惚れた女の間に生まれた、娘。

 しかも女は、サチェグの異母妹だ。
 エリクは話に聞いた程度でしかない。しかしサチェグの妹が邪眼と魔女の混血というのは、聞いていた。

 リィリィはサチェグの姪にあたる。

 エリクは弾かれたように立ち上がった。

 リィリィはこの本を読んでいた。……いや、その手で、書き記した。

 ならば――――。


「だから、鍵をかけていたのか……」


 閉じ込めたのだ。
 真実を。
 彼女は受け入れずに、鍵を閉めた。

 エリクは、三冊の本を見下ろした。

 この本の最後を読めば、セネルの最期が分かる。

 三巻目に手を伸ばすとまた本は独りでに表紙を開いた。
 エリクに開いたのは、最期のページではなく、最初のページである。


『冬。リィリィに魂の喰らい方を指南する。』


 指先で、触れる。

 瞬間景色は無彩色に変わる。

 無機質な世界だ。
 空は灰色。
 大地は黒。
 黒いぶよぶよした物体が何十匹も至る所を這いずっている。
 生きている気配が全く無い。黒いぶよぶよを生き物だとは、到底思えなかった。

 色の無い不気味な世界に、ぽつねんと大岩をくり抜いた、家がある。
 側面に空いた小さな穴に透き通った紗幕をかけ、人一人通れる隙間に黒い簾(すだれ)がかかっているだけの、粗末な家だ。

 それでもセネルにとっては、大事な宝箱。
 あの中に唯一の宝が収まる。
 悪魔だのに恋に溺れた果てに得た、掛け替えのない娘が生活する。

 大切な宝は、今、セネルの足下にいる。
 セネルが盗んできた紙束とペン代わりに細長く削った木炭を持って、父親を見上げる。

 セネルは、五歳の小さな頭を撫でた。


「リィリィ。たまに、お前の頭に別の人間の記憶が蘇る。それは、お前の体質を思えば仕方のないことだ。だから、今から対処法を教えるから、ちゃんと覚えるように」

「はい」


 セネルが教えるのは――――他人の記憶を、シーンを余さず一枚一枚紙に記していく技術である。
 その行程全てがエリクの見たもののまま。違うことと言えば、材料不足で本にする作業が不可能なことくらいだ。

 冷たい氷の蜘蛛が、腹の底から咽へ這い上がってくるような心地だ。

 ああ、やはりそうなのか。
 彼女はただ、迷い込んできた死霊の記憶を、記して残してあげていたのではない。



 リィリィは、さまよう魂を糧としていたのだ。



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