13





 妖達に囲まれて山茶花は目覚めた。

 小さな小さな彼女はお世辞にも受け止められる見てくれをしているとは言えない異形の者達に、しかし驚くことも怖がることも無かった。
 それどころか、姿を隠している林檎に手を伸ばして甘えたがるのだ。山茶花の可愛い金色の瞳には彼女の姿がはっきりと見えるらしい。

 林檎の為に男は一時席を外した。
 女妖らは有間に山茶花を渡されて、とても喜んだそうだ。

 エリク達も後で抱かせてもらえたが、小さく弱い命に、酷く緊張した。アルフレートも、初めはそうだったのだろうか。

 有間達が帰った後でも、まだあの弱々しい感触が、手に残っている。

 庇護欲を駆り立てる小さい、ふにふにと頼りない身体。
 こちらを驚かせる、懸命に生きていると主張する熱い体温。
 何も知らない、何もかもを吸い込んでいく無垢な双眸。

 小さな存在、その全てを愛おしいと思う。

 山茶花の感触を思い出しているうちに、一つの思いが去来する。
 父は――――かつてのファザーン王は、自分が産まれた時、愛しいと思ってくれただろうか。

 父が、ファザーンの犠牲となった大勢の魔女の呪いで、マティアス共々男に触れられない身体となったと、マティアスの口から語られたのは何年も前のこと。
 ベルントを攫い行方を眩ませた彼の消息は分からない。マティアスも捜そうとしていない。その意思が無い。

 触れられずとも、父は産まれたばかりの自分のことを愛してくれていたのだろうか。
 分からない。
 されど、不思議と嫌っていたとは思えなかった。

 エリクは父のことをほとんど何も知らない。
 けれど、彼も同じ呪いに苦しんでいたマティアスと同じだったなら。
 周りの認識が誤解だったのなら――――己の子供に対して罪悪感と愛情があったのかもしれない。

 前向きな、楽観的な捉え方だと自分でも思う。
 そうであって欲しいと思えるくらいには、エリクにも父親に対して情があったのだ。

 きっと、きっと、そう。
 どうせ否定する人間も肯定する人間もいないのだから、思い込むことにする。

 その方が、ずっと気分が良い。

 縁側で長く己の手を見下ろしていた。
 気付けばもう日は暮れ、美しい空間はなりを潜めて冷たく静まり返っている。

 それとは裏腹に温かみのある美味しそうな匂いが後ろからエリクを引き戻そうとする。
 そろそろ夕食が出来る頃だと腰を上げた直後、


「エリクの坊、夕餉の支度が済んだぞ」

「うん。ありがとう。今行くよ」


 清柳が呼びに来てくれた。

 エリクは彼に続き、居間に入る。
 リィリィはまだ来ていないようである。訊けばつい三十分程前に書庫に入ってしまったらしい。

 食事の支度が出来た時、厨から地下書庫に声が届くよう空間を繋げる術を施した筒が設置してある。
 これまで不具合が生じたことの無い筒だ、届かぬ筈もあるまいに……もしやまた本を書いているのでは?


「じゃあ、僕が呼んでくるよ」

「ああ。頼む」


 エリクは先に食べているように清柳に言い、地下書庫へ降りた。

 地下書庫は静まり返っている。
 リィリィはいつもの場所に座っていた。
 筆を手にしていないところをみると、本は書いていないようである。
 とても分厚い本を開き、読んでいる。

 声をかけようと歩み寄りながら口を開いたエリクは――――次の瞬間動きを止めた。

 その本の紙面を、褐色の指がそうっと撫でる。
 ほんの僅かな――――まさに瞬きすれば見逃してしまう刹那のこと。


 彼女の姿が、変わったのだ。


 エリクと同じ歳か、或いは一つ二つ下か。
 妙齢のダークエルフの女が、半瞬その椅子に腰掛けていたのである。

 元のリィリィに戻っても、玉響(たまゆら)の美貌は眼裏にしっかりと焼き付いた。

 今のは――――リィリィだ。
 細微に見た訳でもないのに、エリクにはそう断言出来る。
 あの年を経た姿は、リィリィの姿に間違い無い。

 が、これがどういうことなのかは、分からなかった。

 じっと見つめていると、リィリィがエリクに気付いた。丸く目を見開いて動きを固くする。


「……!」

「……ああ、ごめん。あまりに真剣に読んでいたから、声がかけられなくて。夕食の準備が出来たそうだよ。リィリィが上がってこないから、皆が心配してる」


 咄嗟に何事も無く振る舞ったのは、恐らくは正解。
 リィリィは頷き、本を閉じて棚に戻した。

 その時、エリクは本の題名を確認している。
 『セネル』の一冊だった。

 また彼の本。
 しかも、前にエリクのもとに表れた『セネル』の本と同じ一巻である。

 エリクは表面上は何も見ていない風を装い、リィリィを連れて上へと上がった。
 心の中の己は、『セネル』に注意を向けている。

 やはり、どうしても気になってしまう。
 リィリィに隠れて読もうと思った。
 リィリィに知られたら、今の関係が崩れてしまうのではないか、そんな不安が浮上する。

 されども――――。


 まだ暁にもならぬ暗い暗い時刻。
 エリクは一人地下書庫へ続く階段を降りている。


 夕食を摂ってから普段通りに振る舞い、リィリィや妖達が寝静まった頃、彼は動いた。
 物音立てず地下書庫へ入った。

 『セネル』が収められた棚に行こうとしたが、その前にその本は見つかった。
 リィリィが座っていたあの場所に。
 まるで読まれることを自ら望んで移動したかのように。

 『セネル』全巻が、表紙が開いた状態で待機していたのである。

 セネル……あなたは、やはり、リィリィに関わっている人なのか?
 どうしてリィリィはあなたの記録に鍵をかけていたんだ。
 本を見下ろし、エリクは心の中で問いかける。

 すると、彼に応えるように、ページが独りでにめくれ始めたではないか。

 一巻はとあるページで止まった。
 年齢は、書いてない。


『春。気まぐれに訪れたヒノモトにて烏天狗、源と遭遇。三日三晩争う。』


 源? 源の知り合いだった?
 エリクはページを遡った。
 最初の、セネル誕生のページを見た。


『冬。魔界の氷山で生まれる』


「魔界の氷山……」


 魔界が、本当に存在しているのか。
 エリクは源と遭遇したと記されるページに戻り、文面に触れた。

 どんという強い衝撃を胸に受けた直後、視界が真っ赤に染まるのだ。

 燃え盛る森の中、大勢の人間の死体が転がっている。
 中心でセネルは源と対峙している。


「さすが、天下に名高い《魂喰(たまは)みの悪魔》……全力でも膝さえつかへんか」

「まさか生まれたての烏天狗にここまでやられるたぁな。不愉快だ」


 源は、現在のおちゃらけた親しみのある態度など影も無い。怒りと興奮、愉悦の入り交じった凶悪な形相だ。とても同一人物とは思えない。


「面倒臭い。死ね」

「自分が去(い)ねやぁ!!」


 源が漆黒の翼を広げた瞬間無数の風の刃がセネルに襲いかかる。

 セネルはこれを軽々と避けた。
 片手に黒い炎の塊を生み出し、軽く放り投げる。

 源ははっとしてその場から飛び上がった。

 黒炎が地面に触れた瞬間、巨大な穴が耳を殴る轟音と共に地面が大きく抉られる。

 ぞっとした。
 悪魔……悪魔は、こんなことを簡単に出来るのか。
 なんて、恐ろしい。

 源も荒れ狂う嵐の如(ごと)応戦しているが、明らかに不利だ。
 だが、諦めずセネルに突進して攻撃を繰り返す。
 何かを必死に守ろうとしている。


「人間など、貴様らにとってもただの餌だろ? 何故あんなにも小さな無力のガキを守る」

「自分に関係あらへんわ! ええからさっさと死ね!! ここを餌場にした罪、絶対に赦さへん!!」


 源は、決して膝を折らなかった。
 そのうち、エリクは気分が昂揚していくのが分かった。
 セネルが徐々に徐々に楽しみ始めているのだ。

 今まで、自分に出会った者は、皆早々に生きることを諦めるか、媚びを売るかのどちらかだった。
 だがこの烏天狗はどうだ。
 親しい小さな子供の村を壊したことに憤怒し、簡単に握り潰してしまえる小さな命を身を賭して守ろうと必死に抵抗している。
 下らぬ命の為に死に物狂いで敵わぬ悪魔を退けようとする。
 死んでもきっと、こいつは魂だけでもしつこく呪わんと付きまとって来るであろう。

 このような面白い若き妖を殺すのは、まだ早い。

 セネルは、そこで攻撃を止めた。


「! 何や……」

「お前に興味が湧いた。ここで喰らうには惜しい」

「な、何やと!?」


 セネルは身を翻し、源に呼び止める暇も与えずにその場を立ち去った。

 喰らった者達の《記憶》を消化していきながら――――。


――――現実に戻る。


「記憶を、消化する……?」


 エリクはぽつりと漏らした。
 セネルが喰らったのはあの場に倒れていた者達の魂だ。
 それらから得た記憶を、彼は栄養分として消化していった。

 ざわりと、胸がざわめいた。

 いや、これは違う。
 この予感は違う。

 これだけでは、定かではない。
 ただの憶測に過ぎない。


「何を考えているんだ、僕は……」


 エリクはゆっくりとかぶりを振り、本を見下ろした。

 すると今度は、二巻目がページをめくり出すのである。
 エリクは深呼吸をして、手を伸ばした――――。



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