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 『セネル』はこっそり本棚に戻し、リィリィに不自然でないように、その時気付いた風を装って鍵のことを報せた。
 あれから一週間、エリクのもとに『セネル』の本は一度も現れていない。

 一度きりの現象だったのだろう。
 特に気にせずに日々を過ごす中、ふと懐かしい妖が屋敷を訪れた。

 真っ赤な女物の着物をまとい、艶やかな緑の黒髪は腰までさらさら流れ、白粉(おしろい)や紅で女性めかしく化粧を施した麗人と見紛う男。
 だが人間ではない。
 尾骨の辺りからふさふさとした尻尾を生えているのだ。柔らかな尻尾は、根本から先へかけて金色の毛が黒へと変わっている。
 有間の式、野狐(やこ)の山椒である。


「源さん、お久しゅう」

「おお。北の栄狐(えいこ)やないか。ひっさし振りやなぁ」

「嫌ですねえ、その名前はもうあたしの名じゃねござんせんって」


 にこにこと機嫌良く源の隣に腰掛けた山椒は、エリクにも会釈した。

 ちなみにここはエリクの部屋である。源はいつものことだが、山椒も、ノックや声がけ無く入ってきた。
 山椒のことだからこちらの様子を察して必要無しと判断したのだろうが……人間にはマナーというものがある。有間に従っているのだから、理解はしているだろう。分かっていて人間のあれこれに構わないのだ。

 エリクは苦笑し、山椒にお茶を淹れてやった。


「ああ、ありがてえや。丁度咽が渇いてやして」


 山椒は煎餅を取り、ばりぼりと食べる。
 入って早々我が物顔でくつろぎ始めた妖に、エリクは何も言わない。そもそも源がそうなのだ、今更妖の行動を人間の物差しで測ることはしない。


「それで、山椒は源に何か用があるんだい?」

「用? 用はありませんねえ。源さんはあたしの数少ない昔馴染みの飲み仲間なんでさあ」

「せやなあ。昔からどっちからともなく会っては夜が明けるまで飲み明かしたなあ」

「あの頃は、もっと沢山の飲み仲間がいやしたが、今となっちゃあ……あたしと源さんだけになりやしたね」


 懐かしそうに追想する二人に、エリクは興味を持った。
 身を乗り出し気味に、その飲み仲間について訊ねた。


「ねえ、その飲み仲間って、どんな妖がいたの?」

「ん? せやなあ……龍と鬼の混血もおったし、蛇もおったし」

「天狗に塗り壁に覚(さとり)……ああ、そうそう。物好きな悪魔もいやしたねえ。あの人、一緒に飲んでて楽しいお人だったんですか、何も言わずに突然いなくなっちまって、今は何処にいるのやら……」

「悪魔って、ヒノモトじゃないよね?」


 山椒は笑って手を振った。


「だから、物好きなお人なんですよ。何処の国の生まれだかあたしは知りやしませんけどね。あたし以上に源さんとの付き合いが長くてらしてねえ……ああそうだ。源さんは確か、白耳長(しろみみなが)とも黒耳長(くろみみなが)とも仲が良うござんしたね」

「白耳長……?」

「エルフとダークエルフのことや。ワイの若い頃は、まだ純血種が暮らしとってん。こっちの耳長は、よう人が好きでなあ。自分達から関わっては知恵を授けて助けてやっとった」


 ヒノモトの耳長は、最後まで人間と上手くやっとったんや。
 囁くように吐き出された言葉に、エリクは全身に鳥肌が立った。

 今の声は本当に源だったのか。
 とてもそうは思えぬ程に――――。
 まじまじと凝視したエリクに、源はにっこりと笑う。かかっと笑い声をあげて一つ手を叩いた。


「まあ、絶滅してもうたもんの話をしてもしゃあないわな。山椒も知らん話やし」

「それだったら塗り壁の話でも。あいつぁ間抜け面の割にネタの尽きねえ奴でしたからねぇ」

「そう言えばそうやったなぁ。塗り壁はん。四六時中じーっとしてはるくせに、飲みに集まる度おもろい話仰山持ってきてくれはったわぁ」


 そこから一気に談笑に花が咲く。

 まるでエルフの話題から遠ざけてしまおうとしているかのように感じたのは、エリクの気の所為だろうか。
 エリクは話に聞き入りながら、心の中で首を傾げた。



‡‡‡




 しかしながら、エリクは問わずにはおれなかった。


「ねえ、源。エルフやダークエルフの話を、君はどうして避けたんだい?」


 ちゃっかり夕餉も食べた山椒も護村に帰り、後は風呂に入って寝るだけと言う夜に、エリクは部屋に居座る源に問いかけた。

 源は沈黙した。
 ばりぼり、ばりぼり。煎餅を砕く音だけが無音の部屋にいやに響く。

 それは拒絶だ。

 だが、エリクは待つ。
 人と仲が良かったヒノモトのエルフ、ダークエルフというのがどうしても気になったのだ。

 諦めて引き下がる気配の無いエリクに、源は暫く無言の抵抗をしていたが、やがて折れた。
 両手を挙げ、長々と吐息を漏らす。
 そして目を細め、嘴を開く。


「あんな、エリクはん。聞いたら、自分が辛い思いするんやで」

「良いよ」

「……さよか……後悔して怒るんは堪忍やで」


 しつこく念押しして、彼はようやっと話し出す。

 その言葉は、エリクに大きな衝撃を与えた。


「……ヒノモトの耳長はな、ファザーンによって殲滅されたんや」

「え?」


 鈍器で殴られたような感覚に襲われエリクは固まった。

 源は言葉を続ける。


「余所の耳長が偉そうか何かで、こっちの耳長も同じと思われて排除されたんや。外国であろうと、人間と上手く共存出来ていようとファザーンは耳長の存在を許さへんかった。ルナールかてそうやったんや。耳長は人間の敵っちゅうんが、当時の常識やったんやろうな。世界の何処にも耳長は要らへん。そないな種族、おったらあかん。勝手に決めつけられて、ヒノモトの耳長は全員殺されてしもうた」

「……ヒノモトの人達は、何もしなかったの?」


 そうだ。
 人間と友好的だったのがヒノモトの耳長だ。
 お互いに絆があったのなら当然人間達は異国の兵士から友を守ろうとする筈ではないか。
 問いかけるが、


「帝をな、人質にされたんや。昔、帝は神と同格の存在として崇められとった。ファザーンの王との会談でファザーンに赴いた帝を捕らえ、その命と引き替えに、ファザーンの耳長殲滅に目を瞑らなあかんかった。勿論、それでもと耳長を守ろうとしたもんはおる。せやけどそれも、殺された。ヒノモトが国交を断絶したのはファザーンによって耳長が全滅したからっちゅう恨みもあるやろうな」


 エリクの顔を見て源は苦笑した。


「エリクはんは、あの頃のファザーン人とちゃうやん。そないな顔せんでええ。もう、ワイ以外誰も覚えてへんことやでな」

「……耳長は、」

「耳長は、帝を助ける為に絶滅を受け入れた。全てファザーンの兵士の前に並び、一人ずつ首を斬り落とされた。ワイら耳長と親しい妖に、決して何もするなと釘を刺して……な。もう、ヒノモトの耳長はおらん。混血も先祖返りもおらん。あの馬鹿優しい奴らのことは、妖の中でもワイしか覚えてへんねん。ファザーンに何もかんも無かったことにされてしもうて、事実が容赦無く歪められて、長い時の中で間違った歴史がヒノモトで真実になってしもた」


 最後の言葉は、吐息と共に空気に溶け込み消えていった。

 母国は、なんてことをしてくれたんだ。
 エリクは先祖の墓に向かって怒鳴り散らしたかった。口汚く罵っても足りない。

 その憤怒は、リィリィを愛するが故の激情。
 もしヒノモトの耳長が殲滅されておらず、閉鎖されたこの国で生き延びていたら、リィリィも彼らに混ざって父親と共に幸せに暮らせていたかもしれない。
 そう思うと、怒りは更に膨れ上がった。

 エリクの憤怒を感じ取った源が、煎餅を差し出した。


「耳長のことはもう遙か昔に終わったことや。今のファザーンとは関係無い」

「……ごめん。ごめん、源」

「せやから謝らんでええって」

「ごめん……ごめん、ごめん」


 謝らずにいられようか。
 きっと当時の源は苦しかったに違いない。
 怒りと、寂しさと、絶望と、無力感と。
 様々な感情にもみくちゃにされて、辛かったに違いない。

 かつて一応はファザーンの王位継承権を持っていたエリクには、謝罪以外の言葉が出てこなかった。

 源は笑い、煎餅をエリクの手に持たせた。


「マティアスに、伝えるよ」

「ええってええって。もうだぁれも覚えてへんことを今更蒸し返したって、どうにもならへんわ」

「だけど、」

「エリクはん、さっき心から謝ってくれはったやろ? それだけで、ワイはええ。嫌になるくらいお人好しだった耳長も、きっとそうや」


 彼自身は気付いていないのかもしれない。
 源の笑みは、寂しげだ。



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