いやに分厚い本が、地下書庫には何冊かある。
手伝いを続ける中で一度も気にならなかった訳ではない。
度々目にする『セネル』全三巻の他に、異常な分厚さの本は七人分見つけている。だが『セネル』に比べればまだまだ薄い。
『セネル』程、数巻に分けなければならぬ長く濃密な人生は無いようだ。
七冊のうち上下巻に分かれた『ベネッシア・チャールズ』と言う男性の本を試しに手に取ってみたが、こちらはただの人間。記憶が余程鮮明に魂に残っていたようで、微細に記憶が記されていた。
では『セネル』も?
そんな疑問は、果たして解消されることは無かった。
『セネル』の本には、三巻のどれにも鍵がかかっていたのだ。
その鍵はきっとリィリィが持っているのだろう。
エリクの把握している分だけではあるが、鍵のかかった本はこの三巻だけ。
誰にもこの人物の人生を見られたくないのだろうか。
となるとリィリィと顔見知りの人物の魂ということになる。
だが、彼女が暮らしていた地域はとても人の住めた場所では無いと聞く。父と二人きり、ある時からたった一人で暮らしていた彼女が誰と接触するというのか。
考え得る可能性は一つだが……それでは今のリィリィの態度と矛盾する。
エリクは、それ以上考えること、追求することを止めた。
『セネル』の真実を知るには、リィリィに直接訊かなければならない。源やお好は、仮に知っていてもリィリィの許可無しには話すまい。
リィリィが鍵をつけたのならそうすべき理由がある。
それを無理に知ろうとして嫌われてしまったら……想像しただけで胸が張り裂けそうだ。
エリクは、『セネル』を気にかけつつも、その何も知ろうとしなかった。
彼のこの判断は、正しい。
何故なら、この屋敷に住まう者達の中で、『セネル』という人物は忌避すべき鬼門であったのだ。
触れてしまえば、最悪リィリィの全てが壊れていく。それだけの力を持つ、重大な秘密であった。
だが、奇(く)しくも。
何がどのようになってそうなったのか。
誰が、悪意を持ってエリクを鬼門へ近付けさせたのか。それとも――――救いを求めたのか。
エリクの前に、鬼門は自ら開いたのだった。
私室にて、つい微睡みにうとうとと船を漕いでいた時のこと。
エリクは不意に背後に誰かの気配を感じた。
特に不審には思わなかった。源が断りも無く勝手に訪問することなど、日常茶飯事だったからだ。
だから、
「……お菓子なら、そこにあるから勝手に持って行きなよ……」
夢現の状態で気配に声をかけた。
源は何も言わない。いつもならお礼を言ってくる筈だろうに、今日に限っては眠りかけているエリクに気を遣ったのだろうか。珍しいこともあるものだ。
どさりと音がしたような気がする。
ややあって、やけに膝が重いことに気付く。何かが載っているようだ。
目を閉じたまま膝に手をやると、硬い物にぶつかった。
仕方なく目を開ける。
驚いた。
眠気は一気に醒めた。
「これは……地下書庫の本……」
表紙には、『セネル』と題名が記されている。その、一巻だ。
しかし奇異なることに鍵が開いているではないか。
何故……?
源が持ってきたのだろうか。
いや、それは違う。
源はリィリィのことを第一に考える。彼女の意に背くなど絶対に有り得ない。他の妖も然り。エリクと親しくしていても、彼らの最優先は常にリィリィである。
それ以前の問題として、地下書庫に彼らは入れない。
では誰が、この本をエリクの膝の上に載せた?
鍵を開けたのはどんな意図あってのことか?
不審極まるそれに、手を出す気は起きない。
エリクは警戒心を強め本を読まずに、源が来るのを待った。
しかし、どうしてか毎日現れる筈の源が、待てども待てども部屋を訪れない。
夕餉の席にも姿を見せなかった彼は、どうやら故あって旧友から手紙を貰って顔を見せに行ったらしい。戻りは三日後とのことだった。
となると、この件について相談出来るのは、清柳のみ。
エリクは夜が更けるのを待ち、本を布に包んで、密かに清柳の私室を訪れた。
「おや、エリクの坊。どうした。斯様(かよう)に深まった宵に……それは、手土産か」
「喜んでくれるような手土産なら良かったんだけどね」
言えば清柳は魚頭を傾けた。
「取り敢えず、中に入れてもらっても良いかな」
「おお。承知した。何も無いがのう」
快く迎え入れられ、エリクはほっと息を吐いた。
清柳の部屋には必要最低限の調度品しか置かれていない為、無駄が無くエリクの部屋よりも広々としているように感じる。
中央に置かれた卓袱台には、湯気立つお茶と急須、茶葉入れのみが置かれている。
清柳はすぐさまエリクの分の座布団を用意し茶も淹れた。
エリクは卓の上に包みを置き、布を解いた。
露わにした一冊の本に清柳は目を剥く。一瞬、ぽろりと落ちてしまうのではないかと心配する程剥き出しになった目玉がぎょろぎょろと動きエリクと本を交互に見る。
「これは……何と、」
言葉も浮かばぬ様子の彼に、エリクは本を手にした経緯を話した。
すると、みるみる清柳の顔が歪められていくではないか。魚の顔でも表情が歪むのは奇怪なことだと常々思うエリクであるが、今はそんなことを思う余裕は無かった。
「僕はてっきり源が持ってきたのかと思ったけど……」
「儂らは地下書庫に立ち入ることは出来ぬ」
「うん。それに鍵が開けられているんだ。まるで誰かが、僕に読ませたがっているみたいでね……」
「……ふむ……」
またか。
彼は、吐息混じりに呟いた。
エリクは片目を眇めた。
「『また』?」
「前にも、同様のことがあってなぁ……あの時は、そうだ。アルフレート殿であったかな。彼は、読んでしまったようなのだが、儂からその中身を他言せぬように口止めをした。有間殿にも話さぬようにな」
「アルフレートが?」
清柳は首肯した。
アルフレートだったとは、意外である。
エリクは本を見下ろし、眉根を寄せた。
アルフレートも同様の現象に見舞われ、そして読んでしまった。
その中身は清柳に口止めされた。
少なくとも清柳は『セネル』を知っていて、その上で話してはならぬとアルフレートに口止めをした。
そうすべき理由があるから。
なら、僕は読まないでおこう。
「この本、こっそり戻しておくよ」
「そうしてやっておくれ。この『セネル』という者は、誰も触れてはならぬ存在なのだ」
「そっか。分かったよ」
エリクは頷き、また本を大事に布に包んだ。
清柳は、悲しげな顔で、それを見つめている。
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