リィリィはエリクの後ろから離れようとしなかった。
人の踏み入れぬ土地で育った彼女は極度の人見知りだ。彼女が知る人間と言えば限られているし、会ったことの無い彼女の父親を除いてはほとんど一般の感性をしているとは言い難い……などと、エリク自身のことは棚上げしている。
屋敷を訪れたのは、エリクの異母兄夫婦であった。
マティアスと、ティアナ。
彼らは護村にて子供を預け、アルフレートの案内でエリクの意思を訊きにこの屋敷に訪れた。
有間は、今日は体調が優れないらしい。臨月間近の身重である為、少しでも体調が悪い時にはなるべく外を出歩かないようにさせている。今も式達がしっかりと看病をしているから、心配は要らない。
アルフレートが二人をリィリィを紹介するが、リィリィは梃子でもエリクから離れない。マティアスとティアナというイレギュラーに対し、強い警戒と怯えを抱いている。
予(あらかじ)め説明を受けていた二人は、リィリィの態度に気分を害した様子も無く、興味深そうにダークエルフの少女とエリクとを交互に眺めた。
「この一ヶ月で、かなり懐かれたようだな」
「うん。共通の趣味があったからね」
リィリィの頭を撫でてやると、目を細める。
「それで、どうだった。一ヶ月」
「とても楽しいよ。ここでずっと働きたいくらい」
即答するとマティアスは軽く目を瞠った。
予想外だったのだろう。「本当か?」確かめるように問いかけた。
エリクは大きく頷いた。
「ここの住人は皆とても楽しいよ。ここで働くことはちっとも苦じゃない」
「そうか……それは良かった。ならばこのままここで世話になれ。その方がアリマも安心出来るだろう。じきに、満足に動けなくなる筈だ」
マティアスの言う通りだ。
臨月や、出産を迎えれば有間は気軽にこの屋敷へは来れなくなる。アルフレートだって、満足に動けない妻に代わって護村やディルクを支えつつ、夫としてサポートもすることになる。満足にリィリィを気にしてやれなくなるのは明らかだ。
エリクなら、護村への道を覚えているから連絡役が担える。
エリクがいることでリィリィや源達、リィリィ達も助かるのだ。
誰かを助けることが出来る。それに、心から安堵した。
マティアスは微笑み、ティアナを見た。
「心配は要らないようだ」
「私の言った通りだったでしょう? マティアス」
ティアナは自慢げに胸を張った。
それに、エリクも思わず微笑む。
するとリィリィが控えめに服を引っ張った。早くこの場を去りたいと訴えかけてくる。そろそろ、この空間に耐えられないようだ。
これ以上この場に留まらせると、一人ででも飛び出してしまうかもしれない。
「それじゃあ、僕達は作業に戻るよ」
「ああ。暫くは視察も兼ねて護村に滞在する。何かあれば報せてくれ」
「うん。リィリィ。行こうか」
手を差し出すと、彼女はマティアス達を怯えたように見ながら、そっと握る。
気を利かせたアルフレートが襖で部屋を遮断してくれるまでずっと動向を警戒していた。
リィリィのマティアス達に対する態度を見ていると、初対面で名前を褒めていて本当に良かったと思う。あの時距離を近付けていなければきっと同じ態度を取られていたに違い無い。
地下書庫へと続く階段を降りようとして、外から羽ばたいて入ってきた源が閉じられた襖を見やり、「もう面会は終(しま)いかいな」
「これ以上、あの場に留まると、リィリィが耐えられないだろうからね。マティアス達はすぐに帰ると思うよ」
「そらそうやな。ほな、ワイらはもう少し身を隠しとこかー」
「今まで隠れてたの?」
「おん。驚くやろ、異邦人は」
源達の気遣いに、エリクは小さく首を傾ける。
思い浮かんだのは有間の式達だ。彼らの中にも結構、衝撃的な姿をしている者がいる。エリクもマティアスもティアナも、もう見慣れてしまっていた。
「大丈夫だと思うよ。僕達はアリマの式を見ているし、ティアナに至っては、みてくれがかなり酷い妖も見てきたみたいだし。むしろ顔を見せた方が、こっちの様子が分かって良いんじゃない?」
マティアス達の目的には、きっとそれもあった筈だ。
エリクが住み込みで働く屋敷がどんな場所なのか、確かめて安心したかったのだろう。
今でも異母兄に心配されているのだと分かってしまうのは、自分が成長した証だろうか。正直、認めたくない。
エリクの言葉を受け、源も一考した。
襖を見、
「ほな、ちょいアルフレートはんに挨拶がてら顔見せとくわ」
「うん。……あ、一応その翼は気を付けておいた方が良いよ」
「……何でや?」
「まあ、行けば分かるよ、きっと」
源の翼はとても綺麗で触り心地が良いから。
動物好きのティアナが目を付ける可能性が高いのだ。有間の式の山椒だって、何度か尻尾を狙われた。他にも被害者ならぬ被害妖は数名。
もふもふではないが、艶々とした美しく手触りの一等良さそうな黒翼に彼女が惹かれない保証は無い。
頭に疑問符を浮かべつつ一旦外へ飛び出していく源を見送り、リィリィを見下ろした。
「じゃあ、仕事に戻ろうか」
「はい」
地下書庫に降りた後、エリクは再び次に絵を添える本を見繕う。
不思議そうに歩み寄ってきたリィリィにそう教えてやれば、彼女も手伝ってくれた。多分、完成した絵を見たいのだと思う。
条件だけを伝え、並んで本を探す。
時折リィリィがこれはどうかと本を差し出してくる。彼女なりに、エリクの精神に負担がかからないような『凄い人』の本を選んでくれていた。
それらにざっと目を通した。
どれも短期間で、負担にならずに書けそうだ。
自分の選んだ物も含めて、六冊。
「ありがとう。暫くはこの分に挑戦してみるよ。勿論、書庫管理もちゃんとこなして、君に絵を教えながら。どのくらいの時間がかかるか分からないけどね」
「楽しみなのです」
「ん。僕も楽しみだよ。どんな人生を描くか」
確認の為に見たのは、ほんの一部。
それぞれどんな人生を送り、死んでいったのか……自分の画力で、何処までリアルに表現出来るか。
エリクは一人頷き、それぞれの背表紙を指で撫でた。
.
≪ ≫
栞を挟む
←