「――――出来た」


 満足の行く仕上がりである。
 エリクは自信に満ちみちたとろけるような笑みで一冊の本を見下ろした。
 黒地に白で『シェリィ・アバヒエーダ』と題名を刻まれた装幀(そうてい)の本は、彼が手ずから仕上げた作品だ。

 ここまで仕上げるのに丁度一ヶ月。書棚の整理なども手伝いながらの作業であったにも拘(かか)わらず、作業は順調だった。
 明日にはこれから先どうするか問いに有間がこの屋敷を訪れることになっている。
 その前の仕事としては良い結果だ。有間達もさぞ驚くことだろう。

 エリクはリィリィに笑いかけ、本を片手に席を立った。

 シェリィの人生は、まるで丁寧に作られた恋愛物語のようであった。

 母に似て美しく育った彼女は十三歳の頃に、とある貴族の長男ジーン・ゼッツィオ・アバヒエーダに一目惚れをした。
 しかし彼女にとって貴族はまさに雲上の人。すぐに諦め、母の強い薦めで大通りに構える店で働きに出た。
 病床の母の看病で己の時間を作れなかった彼女は、彼以外に恋をすることも無く、ただただ汗水垂らす毎日を送っていた。
 それが、二十一歳の春。たまたまバーを訪れたジーンが、シェリィに恋をするのだ。
 美しいシェリィは気立ても良かった。恋をすることは無かったが、嫌われる要素の無い彼女に想いを寄せる男は後を絶たなかった。
 ジーンは毎日のようにシェリィを口説いた。ジーンは生来誠実な性分で、彼なりにシェリィへの想いを乗せた言葉は実直そのものだった。
 元々先に一目惚れしたのはシェリィ。身分の差を考えて拒み続けていた彼女も、次第に圧し負けて、二人は恋仲となる。

 だが、ここからが身分違いの恋には避けられない障害が数多立ちふさがる。
 それでもシェリィは折れなかった。ただジーンを愛している、その真っ直ぐな想いを支えに、母の死を乗り越え、周りからの心無い仕打ちも受け入れ、自分を否定する言葉に負けずしっかりとした足取りでジーンの隣に寄り添って生きた。

 それを一ページ一ページ我がことのように見ていくのには気恥ずかしさや覗き見している後ろめたさがあったが、それ以上に感動や、尊さを感じた。
 シェリィは、辛いことも楽しいこともひっくるめて、生まれて死ぬまでの自分の人生を幸せだと、最期に断じて逝った。
 その時の周りの親族の顔も、穏やかだった。
 ありがとう、おめでとう、良かったね――――かつては彼女に酷い仕打ちをした者も含めた全員が、別れを惜しまず、彼女の為にと笑顔で夫の後を追って旅立つ老婦人を見送った。
 エリクの目から見ても、幸せな、満ち足りた最期だった。

 僕も、死ぬ時そんな風に思えるだろうか。
 彼女のように死ねるような人生を、送っているだろうか。
 分からない。
 分からないから、彼女を羨ましいと思い、同時にシェリィと言う、全ての苦痛や悲嘆すら最期には幸福とまとめてしまった女性を尊敬した。

 人生は一度きり。失敗も成功も無い。
 ただ死ぬ間際、思い返して己自身が何を思うかだ。
 その為に、僕はどう生きていけば良い?
 分からない。
 未来がどうなるのか人は分からない。
 だからその時その時自分なりの答えを見つけ出して進んでいくのだ。

 人生が完成するのは、死ぬ時。
 評価は、己自身の心。

 エリクは丁寧に、いたわるようにそっと本棚へシェリィの生涯を記した本を収めた。

 後ろにはリィリィ。
 赤い目を瞬かせエリクを見上げている。
 彼女に絵を教え始めて、急速に距離は縮まった。今なら頭を撫でても驚かれないし、嫌がられない。リィリィの方からエリクに近寄って話しかけてくることも増えた。


「この人は素晴らしい人だね」

「凄い人達は他にも沢山いるのです」

「他にも……うん。確かにそうだ」


 本棚を見上げ、頷く。

 この膨大な本の中には、勿論ベオネルのような非道な道を歩む人間もいるだろう。
 けれど世界は広い。色んな人間がいるのは当たり前だ。
 その一人ひとりの魂と向き合って、リィリィは文字に人生を記していく。
 リィリィの力を、とても尊く思う。

 彼女の手伝いが、もっとしたい。
 エリクは強く、そう思う。
 それが一ヶ月手伝った中で自然と浮き上がった答えだ。

 他にも数多の色んな人生がある。
 どれだけの人生を絵に表現出来るか分からない。
 でも……僕はやりたい。
 彼らの人生を描きたい――――。

 生き甲斐と言えば大袈裟だ。
 使命と言う程張り詰めて臨むことではない。

 ただただ、僕自身がやりたくてやりたくてたまらない。


「リィリィ。僕、これからここでお世話になるよ」

「いてくれるのですか? じゃあ、」

「うん。上手くなるまで絵を教えてあげられる」


 すると、リィリィは嬉しそうに笑った。
 頭を下げて、たたたっと階段の方へと駆けていく。
 きっと、妖の誰かにこのことを伝えているのだろう。そんなに喜んでくれるのが、エリクも嬉しかった。

 微笑んでいたエリクは本棚に視線を戻し、薄めの本から攻めていこうかと見渡した。

 すると、ふと。
 目を引く程に分厚い本を見つけた。
 エリクの手を広げても足りない分厚さは異常だ。百や二百なんてものじゃない。
 同じ程の分厚さの本が、三つ並んでいる。よくよく見ていると、名前は同じだ。
 『セネル』の人生、全三巻。
 こんなにも長生き、或いは濃厚な人生を送った人間がいるのだろうか。
 名前から思うに、この人物はルナールかファザーンなどの、横文字の国の人間だろう。

 興味が湧いたが、手には取らなかった。
 今はそちらではなく、ページ数の少ない本から着手するつもりでいる。
 気にはなるが分厚い物に目を通すのはもっと後で良い。
 視線を外し、もう一度整頓された本棚を探す。

 そして、その中で最も薄いと感じた本を取り出し、手に取ってみた。


『リンシー・シュトルド』


 開いてページを軽く数えてみても、二十以下だ。
 これなら一週間もあれば出来そうだ。
 エリクは机の方へ移動し、本を開いた。


『零年、冬。エドモンド・ベル・シュトルド、エミリー・ランダン・シュトルド夫妻の長男として誕生。
 二年、夏。飢餓の悪魔に魅入られ、この悪魔を喰らう。
 五年、春。隣家の犬を喰らう。
 六年、春。通りかかった猫の親子を喰らい、幼馴染みを喰らう。
 十三年、冬。娼婦と行為、娼婦を生きたまま喰らう。
 十三年、夏――――』


 ……さすがに、これは無理だ。
 想像するだけでもぞっとするし吐き気もする。
 こんなもの、良く仕上げられたものだ。
 魂を選べないとはいえ、こういった狂気的な人間の人生を見るなど、純粋なリィリィの心の負担になっていないだろうか。

 最後のページだけを見てみると、リンシーの最期は悲惨な物だった。


『十五年、秋。エクソシスト、ペールによって祓われるが、その際ペールの頭部の上半分を喰らい、道連れとする。』


「結局最後は……悪魔として死んだんだ」


 悪魔だのエクソシストだの……きっとティアナや有間に出会う前の自分には、信じられなかっただろう。
 だが、今はすんなりと肯定出来る。
 あまりに非現実的な現象を目にしてきたが故に、いつしか鷹揚(おうよう)になったのだった。

 これは……絵にするべきではない。
 この男の人生を覗きたくもない。
 それが正しい選択だ。
 エリクは本を元の場所に戻した。

 同じくして、リィリィが戻ってきたようだ。
 長い銀髪を揺らしながら小走りにエリクに駆け寄ってくる。
 だが、笑顔は無かった。不安そうに眦を下げた。


「どうしたんだい?」

「……お客様が、いらっしゃっているのです。エリクさんに……」

「僕に?」


 ぎゅ、と袖を掴んでくる。
 エリクは不安そうなリィリィの頭を撫で、


「……取り敢えず、行ってみようか」


 リィリィの手を取って地下書庫を出た。



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