後編-1





 賈栩の様子が、おかしい。

 厩(うまや)に入る賈栩が何処となく苛立っているように思えるのは、気の所為だろうか。
 張飛と顔を見合わせ、関羽は口に手を添えた。小声で、そっと張飛に話しかける。無論、賈栩についていきながら、である。


「ねえ、張飛。もしかして賈栩って、その奥さんのこと……」

「だよなぁ……。賈栩が自覚出来てないだけかもって気がする」


 賈栩が妻帯者であることが分かったのは、一月も前のことである。
 とは言え、元々五月蠅い縁談の数々を黙らせる為に適当に選んだのがたまたま男のような女性であり、数年経っても顔も合わせず、お互いがお互いをほとんど何も知らない冷めた関係であるとは、賈栩の言である。
 人間の感覚が希薄な賈栩らしいと思いつつ、そんな彼の妻になった○○という女性を哀れに思う。

 男のように振る舞っているのであれば、ひょっとするとさほど気にしていないのかもしれない。
 でも、関羽個人は、その寂しい関係を何とかしたいと思ってしまうのだ。
 よしや恋仲にまではならずとも、少しは友好的になれないだろうか。
 話を聞いてすぐに思ったのはそれだった。

 けれども────今の賈栩の様子と来たら。
 こちらが変に勘ぐってしまうような、挙動不審を無自覚に晒しているのである。今はまだ微かに感じ取れる程度で、関羽と張飛以外には分かっていないのかもしれない。

 ……いや。
 もう一人、可能性のある人物がいる。
 諸葛亮なら、関羽達のもっと前に────それこそこの話をしている際の賈栩の様子に気付いていただろう。でなければ、賈栩の名ばかりの妻を人質として連れて来る算段を、わざわざ呉から周瑜を呼び出して話し合う筈がない。

 ただ連れてくるだけでどうして周瑜を呼び出して話し合う必要があるのか、その理由は分からないが、ともかく周瑜が間違えてしまった本物の賈栩の妻を、一刻も早く見つけて無事を確認しなければならない。

 それが、賈栩の為にもなるならなおさら大事だ。
 賈栩が人らしい感覚を手に入れる為に、きっと妻の存在は必要不可欠だ。
 確証は賈栩の様子だけだけれど、関羽はそう信じることにする。
 関羽は厩番に手配を済ませた賈栩に小走りに近寄った。

 張飛も自分達も出ることを伝える側で、やはり微かに苛立っている彼に問いかけた。


「ねえ、賈栩。奥さんとは本当に会話をしたことが無いの?」

「ああ。無いね、一度も」

「だけど姿を見かけたことくらいはあるでしょう? すれ違ったりなんてことも、」

「一度、庭先で豪快に転んで侍女と笑っていた姿を見ただけだね、俺の記憶にあるのは。あとは……ああ、侍女が彼女の部屋の周囲に罠を仕掛けていたところを傍観していたくらいか」

「……、……あ、え? 罠?」

「踏めば毒粉がまき散らされ、通れば上から匕首の束が落ち、或いは柱の影から自動的に弩を撃たれ────ああ、鏃(やじり)にも猛毒が仕込まれていた。あとは、部屋に火矢が撃ち込まれたり、屋敷を歩いているだけで何処からともなく同様の毒矢が飛んできたりと」


 関羽は、足を止めた。
 侍女、というのは間違いなくあの周瑜が間違えて連れてきてしまった可愛い女性だ。武術の心得があるのはその所作から見て取れたが、とても、そんな殺意ある罠を仕掛けるような人物とは思えない。

 ああ、そうか。
 賈栩がこんな感じだったから、きっと守ろうとしたのね。
 その割には徹底的な罠ではあるが、関羽は一人、無理矢理納得する。


「でも酷い話よね。周瑜ったら。幾ら男に見えるって言ったって、女性なのに。傷跡が残ってたら大変だわ」

「賈栩。そんなに間違えやすいのか? 奥さん」


 話を聞いていたのか手配を済ませ戻ってきた張飛がかけた問いに、賈栩は少しの間思案した。
 そして、


「笑えば……女性に寄るのかもしれない」


 そう、答えた。
 その賈栩の声は、いつもよりも穏やかだったように思う。



‡‡‡




 近くの村に住む青年に助けられたのは、とても運が良かった。
 青年の母親に手当てをしてもらって、着替えまで貸してくれて、本当に優しい人達で良かった。
 きちんとお礼をするのが礼儀なのだけれど、今の俺にはそんな暇は無い。勿論、傷の完治を待つ暇も。

 俺は見知らぬ男に連れて行かれてしまった蓮々を助けに行かなければならない。俺と間違われて誘拐された先、何をされるか分からない。
 戦えなければさして頭も良くない俺が何をしたって、また昨夜のように斬り付けられ、最悪死ぬかもしれなかった。
 でも、両親も困惑するくらいにあべこべな俺を慕ってくれていた大切な侍女だ。彼女が俺の代わりに手痛い仕打ちを受けて良い筈がない。

 危ないと引き留められてほんの三日だけ休養し、それでも心配してくれる恩人達に別れを告げ、俺は人目を忍んで真昼の獣道を進む。
 傷は勿論かなり痛いが弱音は吐いていられない。
 何もされていなければ良い。それなら、痕に残ってしまう傷を作ってしまった上に、無理押しで自分を助けようとしたなんてとしこたま怒られるだけさ。


「……っ、いって……」


 躓(つまず)いた。転びはしなかったが、咄嗟に全身に力を込めた為に肩から胸にかけての傷が痛み出してしまう。
 襟を開いて傷口が開いていないことを確認し、その場に座り込む。木の幹に背中を預けた。

 そも、俺が蓮々みたく武に秀でていたら、蓮々をむざむざ連れて行かせるなんてこと、無かった。
 己の女にしては大きめの手を見下ろし、嘆息する。
 こんな手が、針や包丁、楽器しか持てないなんて……な。
 自分の見た目を自覚する度、脳裏に父の落胆の顔がよぎる。

 両親は、俺が嫁いだ後どう過ごしているのかなんて、きっと気にも留めていない。


「……ぅし、」


 膝を軽く叩いて、立ち上がる。歩き出す。

 傷のこともあり、短い休憩を挟みながら、急ぎ足で悪路を進む。時折傷に負担をかけてしまう場面もあったが、幸い傷口が開くまでには至らなかった。

 山道を下っていると、


「○○殿」


 名前を呼ばれたのだ。男性の声だ。それも、聞き覚えがあるような────。

 もう一度周囲を見渡そうとしたその直前だった。

 背後から腕を掴まれ、強い力で引かれる。
 体勢を崩したところを支えたのは、やや柔らかめで温かい壁だ。
 勿論壁なんてある筈がない。

 じゃあ、この壁は何なのだろう。
 顔を上げて、一瞬思考が停止した。
 誰だっけと考えたのも玉響(たまゆら)、だいぶ朧だけれど記憶に残っている相貌。


「か、賈栩殿……?」


 余所の捕虜となった筈の、名ばかりの夫が、何故かここにいるではないか。


「え? ……っえ? は? 何でここに……」


 賈栩殿は無言だ。
 無言で俺の服の襟に手をかけ、


 勢い良く開いた。


「うわあぁぁ!?」

「ちょっと賈栩!? 何してるの!?」


 襟を大きく開く賈栩殿の腕に、おおわらわでしがみついて止めようとするのは、娘だ。しかも何故か頭に頭巾を被っている、とても可愛らしい華奢な女の子。
 ますます訳が分からない。彼女は赤面して賈栩殿を必死に止めつつ、俺から引き剥がそうと苦心する。けれども賈栩殿は微動だにしない。

 彼の視線が向けられているのは、俺の傷を覆う包帯である。
 眉間に皺を刻む顔は、初めて見る。淡泊で感情の起伏が無い人間だと思っていたけれど、実際はそうでもないのかもしれない。
 いや、今はそれどころではなくて!

 包帯で胸が隠れているとは言え、慌てて襟を戻そうとすると、賈栩殿はそれよりも早く包帯に手を這わせた。


「いって!」


 圧迫され走った痛みに顔をしかめると、少しだけ指が離れた。かと思えば今度はそっと触れる。痛みはあるが、さっき程じゃない。
 無表情かつ無言で包帯を撫でる賈栩殿は、少し不気味だ。しかも、夫婦になってから会話を一切していなかっただけに、怖い。
 俺は恐る恐る問いかけた。


「か、賈栩殿? どうして、あなたがここに……敵軍の捕虜になった筈では?」

「……。傷は?」

「は……傷? 傷は、まあ、とても深いし痕になるだろうと助けて下さった方々は言っていたけれど……」


 賈栩殿は無言である。
 ……何となく機嫌が悪そうな気がするのは気の所為だろうか。いやでも俺が悪い……訳じゃあないよな? 気に障るようなことは言っていない。
 むしろ、こちらが早く襟を閉めさせて欲しいところだ。さすがの俺でも、包帯付きだとしても、仮にも夫とは言え、異性に胸を見られて平気な筈がない。


「賈栩殿……その、取り敢えず放してもらえないか。あと地味に痛いから包帯を撫でるのも止めてくれると有り難い」


 そう言うと、賈栩殿は意外とあっさり放してくれた。眉間の皺が酷くなったように見えたのは気の所為だと思うことにする。今のは絶対俺は悪くないと思う。
 衣服の乱れを正し、賈栩殿に改めて問いかけた。


「それで、どうしてあなたがここに?」


 俺の問いに答えてくれたのは、賈栩殿ではなかった。


「わたし達、あなたを迎えに来たのよ。最初は別の人が行っていたんだけど、勘違いをしてしまって、あなたを傷つけてしまったの。侍女の方は無事よ。江陵に留まってもらっているわ」

「っ、蓮々が、」

「彼女には何もしていないわ。怪我もしていないし、体調も崩していない。だから安心して。女性の方なのに、酷いことをしてしまって本当にごめんなさい」


 娘は深々と頭を下げる。
 彼女の話を聞いて、俺は全身から力が抜けた。その場に座り込もうとしたのを賈栩殿に支えられる。


「あ……申し訳ない。蓮々が無事だと分かったら……」

「いや……○○殿、歩けるかい」

「少しだけ休ませてもらえれば」


 蓮々が無事だった。それだけで表情が弛む。
 吐息をこぼすと、娘が俺の顔を凝視した。目が合うと、ふんわりと微笑んで賈栩殿を見やった。


「本当に、賈栩の言う通りね。笑顔のとても綺麗な人」

「はあ?」


 俺は頓狂な声を上げずにはいられなかった。
 いやだって、仕方がない。
 娘の言動が、あまりに有り得ないものだったから……。


「じ、冗談は止めてくれ。そんな、俺に笑顔など……」

「確かに男みたいに見えるかもしれないけれど、笑うと本当に女性らしいのよ。賈栩の言ってた通りだわ」

「そこまで大仰には言っていないがね」


 やんわりと訂正するが、否定はしない賈栩殿に驚いた。
 混乱して賈栩殿を見上げると、彼は何も言わずに俺を軽々と抱き上げて歩き出した。やることが全て突然すぎる。
 絶句する俺に構わず、彼は山道を降りていく。

 娘が、何処か興味深そうに────微かに嬉しそうに見えるのは何故だろうか────隣に並んで賈栩殿を見上げてきた。


「賈栩? どうしたの?」

「さあ。俺にも分からない。ただ、……」


 ただ、何?
 賈栩殿は言い澱み、俺を見下ろす。
 何と言えば良いのか分からないといった様子で、いつまで経っても続きを言わない。

 暫くして、「やはり、分からないらしい」と、訳の分からない客観的な言葉を漏らして足を早めた。

 その後ろで娘が「やっぱり……」とまた嬉しそうに呟く。

 俺は、何がなんだかさっぱりだ。
 自分がどんな状況なのか、捕虜である筈の賈栩殿がどうして俺を迎えに現れたのか、皆目分からず、ただただ今の体勢に不慣れな為に羞恥で身を堅くしているしか無かった。

 彼らのもう一人の同行者のもとに着いた頃には賈栩殿の機嫌が少し良くなっていたことも、解せない。





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