実の家族と絶縁となった私は、孫堅様の代からの宿将である黄葢様に養女として引き取られることとなった。

 孫権様に嫁ぐ者に相応しい教養を身に付ける為、尚香様の侍女に加えられ、日々女官長様や黄葢様から厳しいご指導を賜(たまわ)っている。

 元の家族との繋がりを断絶した証左として名前を『歩練師』に変えた。
 民の間では孫権様が歩練師と言う娘を見初めて妻にと乞うた為、黄葢様が養女に迎え尚香様の侍女にあてがった、ということに表向きはなっている……らしい。

 だから、皆私のことを練師と呼ぶ。尚香様も、周瑜様も。

 ただ一人、孫権様だけが、二人きりになった時に私の本来の名前を呼ぶ。
 まるで、特別な言の葉を口にするかのように、とても慎重に、とても大切そうに、私の名前を――――『○○殿』と。

 孫権様に呼ばれると恥ずかしさや罪悪感を感じるよりも、凄く、凄く安堵するのは、きっと練師と呼ばれる度に、自分の犯した罪を思い出し心も身体も酷く緊張してしまうからだろう。

 私の家族は、孫家を見下し、決して赦されないことをした。私も立派な共犯だ。

 だのにこんな私を赦し、娶(めと)りたいと仰った孫権様。
 彼から与えられた罰はあまりにも甘い。
 だから、私は彼へ一生をかけて償い、返しきれない恩を返し続けなくてはならない。

 その為に、私はこの優しい罰を受け入れることを決めた。

 勿論、私に対して辛辣に接する方はとても多い。臣下の方々は言うまでもなく、女官の大半も私の罪を赦していない。直接的、或いは間接的に、私に城を出て欲しいと言う。

 彼らの主を見下し欺き、侮辱したのだから当たり前だ。
 これも私に対する罰だ。

 彼らにも、私は償わなければならない。
 それが、彼らの言葉を受け入れるだけではまったくの不足だけれど、私の頭ではそれ以外に思い付かない。

 だから、私は面と向かって言われる時には彼らの気が済むまで黙って受け止めることに決めている。辛くとも、それだけのことをしたのだから、これは義務だ。

 孫権様達も、そのことにきっと気付いておられると思う。
 私の意思を尊重して下さっているのか、止めろとは誰も仰らないし、彼らを咎めることも無い。
 代わりに、別のところで気を遣って下さった。

 本当に、有り難いこと。

 彼らの優しさに甘えすぎてはいけないと分かっていても、自分の心に今まで無かった芯が通ったっているように思えた。
 私の勘違いでも良かった。
 その勘違い一つで、情けない私は逃げたいと思わずに全ての言葉を受け止められるのだから。


「あなたのような咎人が孫権様に嫁ぐなんて、身の程知らずも甚だしい」

「卑しさが顔に滲み出ているようよ。そんな見目で、孫権様の妻になるつもり?」

「黄蓋様も黄蓋様だわ。どうしてこんな人間を養女に……しかも孫権様に嫁がせることに反対もしないなんて!」


 苛立ちを露わに私の前に立ちはだかるのは、三人の女官。
 三人共、私とそう変わらない年齢で、私なんかよりも綺麗な女性だ。私へ直接厳しい言葉をかけてくる人達の中では、特に頻繁に会っていると思う。

 彼女達はそれぞれ孫堅様の代から仕えていらっしゃる武将のご息女。私と違って些細な所作一つにも気品があるし、孫権様と尚香様を心から敬愛している。
 だからこそ、私のような女が孫権様に嫁ぐことを許せないのだろう。

 周瑜様がよく、『うちは一枚岩じゃないから』と仰るけど、全然そんなことはない。孫権様も尚香様も周りの方々に凄く慕われていると、侍女をしているとよく分かる。

 孫権様に私が嫁いでしまって、本当に良いのだろうか……孫権様達の為に私を排除しようとする彼らの言葉を聞いていると、どうしても怖くなってくる。
 口にしてしまえば、優しい孫権様達にやんわりと否定されるのだろうから、絶対に言えない。

 ああ、姉のあの自信が少しでも私にあればもっと堂々と立ち向かえたのかもしれない。
 今さらそんなことを考えたって詮ないことだけど。


「ちょっと、聞いてるの?」

「はい。聞いております」

「……」


 女官の一人が目を細める。

 怒らせてしまったかもしれない。背中に少しだけ力が入ってしまった。

 女官は冷たい眼差しで私を睨み、ふと私に近付いた。

 無言で視線を交わすと突然襟を掴まれて引き寄せられた。
 間近で、ぞっとするくらい低い声で囁かれた。


「孫権様に嫁ぐなんて止めて、早急にこの国から消えなさい。でないと私……何をするか分からないわよ」

「……っ」

「あそこは、あなたがいなければ私が立つ場所だったの。咎人のあなたごときが私の人生を邪魔するなんて、絶対に許さない……」


 冷めきった目の奥に、強い憎悪が燃え盛っている。
 彼女は本気だと、私でも分かった。

 言葉を返せずにいる私の襟を放した瞬間、首に爪を立て、がり、と皮膚を引っ掻いた。
 出そうになった声をすんでのところで堪えると微かな舌打ちが聞こえた。

 女官は私を突き飛ばし、鼻を鳴らしてきびすを返した。大股に歩き去っていくのに、他の二人も私へ蔑視を残しついていく。

 あの二人には、彼女の言葉は多分聞こえていない。私にどんな眼差しを向けていたのかも、分からなかっただろう。

 引っ掻かれた首筋に触れると、微かにぬるついた。
 視認すれば指の腹にうっすらと血が。
 確認した途端、傷がぴりぴりと痛みを訴え出した。

 肉体へ攻撃されたのは今回が初めてだ。
 何をするか分からない――――この傷は彼女の脅しが嘘ではない証左。

 彼女の本気が怖い、そう思う。

 だけど、どうしてだろう。


 何だか私、彼女のことを憎めない……。


 血が乾いていく指を凝視し、私は暫くその場を動けなかった。
 金縛りに遭ったような私を元に戻したのは、


「練師? 廊下の真ん中で何突っ立ってるんだ?」

「……! あ……」


 たまたま通りかかったらしい、周瑜様の不思議そうな声だった。

 私は咄嗟に周瑜様を振り返り――――しまった、と首筋を押さえた。傷口を擦ってしまって強い痛みが走った。顔が、ほんの一瞬だけひきつってしまった。

 周瑜様の目が、怪訝に細められる。
 彼の金色の瞳は、私の首筋に向けられている。


「おい、アンタ、それは……」

「も、申し訳ありません……その、む、虫刺されが、痒くて、つい……」

「虫刺されだって? 虫刺されであそこまで引っ掻くか?」


 ああ、やはり見られていた。
 あくまで虫刺されで引っ掻いてしまったと通しきろうと、頭を働かせる。

 けれど、


「あっ」


 腕を捕まれ、首筋を剥がされる。
 顔を少しだけ近付けられて、背筋がひやりとした。

 周瑜様は目を丸くした。


「……って、酷いじゃないか!」

「だっ、大丈夫ですっ。大丈夫ですから……!」


 掴まれた腕をやんわり剥がし、何度も何度も頭を下げ『大丈夫』を繰り返してその場から急いで逃げた。

 私室に駆け込み、暫く外の様子を窺う。
 どうやら、周瑜様は追いかけてこなかったらしい。胸を撫で下ろす。
 でも、よりにもよって周瑜様が現れるなんて……しかも傷を見られるなんて!


「周瑜様、酷いと仰っていた……」


 あの驚きよう……もしかして虫刺されを引っ掻いたという理由では無理があったのだろうか。
 恐る恐る傷を触って確かめてみる。

 ぼこりと盛り上がった固まりかけの血の感触が、思ったよりも長く横に走っている。
 瘡蓋で正確な状態は分からない。
 鏡で確認してみると、赤黒い太線が。そこから、二本程赤い線が下へ少しだけ垂れている。
 一カ所だけ垂れた赤が薄く横に擦れているのは、私が触れたからだろう。

 それだけではなく、その上下にもうっすらと赤く引っ掻かれた痕がある。

 鏡面に映った自分の首筋を、茫然と見下ろした。

 これは確かに、


「……虫刺されと言うには、少し、無理があるかも……」


 周瑜様が驚く筈だ。
 虫刺されを引っ掻いた程度ではこんなに長い線にはならないもの。


「……どうしよう」


 このことはきっと……いいえ、絶対に孫権様のお耳に入る。
 周瑜様なら、本当のところはどうなのか察しているかもしれない。もし、それを話していたら……。

 私は頭を抱えてその場に座り込んだ。



――――けれど。

 その日も翌日も、孫権様が私を呼ぶことも、私の部屋を訪れることも無かった。



‡‡‡




 目の前で、尚香様がにこにこと嬉しそうに笑っている。

 反対に、私の顔は硬く強ばっていて、きっと妙な表情になっていたと思う。
 薄く開いた口を微かに痙攣させて尚香様を凝視する。


「……ぇ……え? い、今、何と……?」


 ようやっと絞り出した声は掠れ、震えていた。

 尚香様は両手に握った拳を上下に振った。


「ですから! お兄様が、お義姉様との祝言の時期を早めると仰ってくれたのです!」

「……は……早、め、る……?」


 延期する、ではなくて?
 確認してみると、尚香様は笑みを一転、不満げに唇を尖らせた。


「お義姉様は、お兄様と結婚なさりたくないんですか? 私やお兄様はずっと心待ちにしているのに……」


 すぐには言葉を返せなかった。
 私は孫権様の妻になることを待ち望んでいるのか――――。

 本心を言えば、孫権様に嫁げることがとても嬉しい。
 多分……いいえ、間違いなく、私は孫権様を一人の殿方としてお慕いしている。
 家族で犯した罪を背負いながら、彼の妻になれることを内心凄く喜んでいる。

 我がことながら、面の皮の厚いこと。嫌になる。

 いつまでも答えを返さない私に、尚香様の顔はどんどん不満を濃くしていく。


「お義姉様」

「……嫌という感情は持っていません。あのような愚かな真似をしておきながら、孫権様にご恩情をかけていただいたばかりではなく、妻にと望んでいただけるのは、身に余る光栄と存じます」

「でしたら、」


 身を乗り出す彼女に「ですが」私は首を横に振った。


「孫権様や尚香様がお赦し下さっても、そうでない方々の気持ちを私が無視する訳にはいきません。私達は一国の主である彼らの主君を見下し、欺(あざむ)いたのです」


 尚香様はそれでも何かを言おうとして口を開くけれど、言葉を発せずに閉じた。

 孫権様の家臣の感情は孫権様でも尚香様でも抑えきれるものではない。いいえ、抑えては、押さえつけてはいけないもの。
 だってそれは全て、孫権様の為に抱く怒りなのだから。

 尚香様だって、周瑜様や黄蓋様を含め、孫権様に忠誠を捧げる家臣の方々のことも、心から大事に思っていらっしゃる筈。
 申し訳なさそうな、泣きそうな顔で俯く尚香様に、私は深々と頭を下げた。


「……けれど、お兄様はもう、そのつもりです。周瑜達も準備を早めるようあちこちに指示を出しておりましたし……」


 その時、頭の中に私の首を引っ掻いた、何故か憎みきれない女官の顔が浮かんだ。

 彼女には、あれから何度か怪我をさせられている。周りには偶然を装い、事故である風に見せているけれど、私を見る目の奥に宿る不穏な光が、どんどん強く、澱んでいる気がしている。



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