……。

 ……。

 赤ばかり。

 何処もかしこも赤ばかり。

 お母さんも赤。
 お父さんも赤。
 飼っていた白も赤。
 私も赤。

 赤、赤、赤、赤、赤。
 赤赤赤赤赤ばっかり。

 赤は見飽きた。
 もう、見たくない。
 痛くて苦しくて辛くて寂しい赤は、もう見たくない。

 見ていて悲しいだけだもの。

 絶望した少女は、自ら闇に沈んでいく。



‡‡‡




 諸葛亮がその娘を拾ったのは、襄陽城へ続く道の端だった。
 打ち捨てられたぼろぼろの彼女は、うっすらと目を開き、しかし何も捉えていない。
 上質な布地だっただろう衣服は破けて泥にまみれ、微細な刺繍も元の高貴な輝きを失っている。
 薄絹の如(ごと)地面に広がる漆黒の髪は際立って美しく艶めき目を惹いた。
 抱き起こして見下ろした顔は稀有なる造作であった。
 半眼に伏せられた目元に長い睫毛が影を作り、鼻筋のすっと通った小さな鼻の下の唇は異性を誘うようにふっくらと紅い。その紅さが、色白の肌に良く映える。
 痩せて頬が痩けて力無くとも儚い美を漂わせる。
 諸葛亮も、思わず魅取れた程だ。
 この娘が本来の身体に回復した時、この美貌はどれだけの輝きを取り戻すのか――――……。

 らしくなく想像しかけて、すぐに我に返った。
 娘は薄く目を開けてはいるものの、意識は無いようだ。瞬きをして、呼吸もある。 目も何も見ていない。

 襄陽から帰っている途中ではあったが、仕方がない。
 この娘を、襄陽の医者に見せねばなるまい。

 そう思い、娘を抱き上げた。
 その時だ。

 強い風が吹いた。

 風は娘の髪を巻き上げた。
 こめかみを露わにし、諸葛亮の目を縫い止めた。


――――無い。


 人間ならば、そこに在るべき物がむすめには無かった。
 諸葛亮は息を呑み、ややあって身を翻した。

 そちらは、逆方向。
 その先には諸葛亮の隠宅がある。

 彼はあの一瞬のうちに考えを改めた。
 彼女は、自分が保護しよう。
 医者に見せたとてぞんざいな診察しかすまい。
 そんなことは己が許せない――――よしや、常識からズレた行動であろうとも、これは正しいことだと譲れない。
 諸葛亮は歩きながら、無機質は娘を再度見下ろした。

 うっすらと開かれた黒目。
 その目尻から横に視線をやれば、悪戯な風によって髪が退き、《何も無い》こめかみが見える。

 本来、そこには耳殻がある筈である。人間ならば、耳殻――――それが切り落とされていたとしても、耳孔が残る。
 されど娘にはそれすら存在しないのだった。
 最初から、そこに耳など無かったかのように。

 恐らくは……そう。

 この娘は人間ではない。

 嘗(かつ)て漢帝国は大妖に蹂躙され著しく疲弊した。
 その大妖は人の手によって誅されたが、その子孫だけが今日に至るまで生き延び人々から憎悪で以て排他される。
 その子孫の名は、猫族。
 その名の通り猫の耳を頭に持ち、猫のようなしなやかに優れた身体能力を誇る。

 彼女のこめかみに人間の耳殻が無い――――つまりは、そういうこと。

 彼女は、猫族だ。

 けれども、諸葛亮は他の人間達のように、彼女を虐げようとは思っていない。
 諸葛亮にとって猫族は排除すべき化け物ではなかった。

 猫族は、幼く弱かった自分の大切な――――。

 ……だから、何としても助けてやりたくなった。
 今の自分に出来る、猫族に対する恩返しだと心定めて。

 生ける人形と化した猫族の娘を、諸葛亮は自らの家に運び込んだ。
 前述した理由により、人間の医者を呼ぶ訳にもいかず、諸葛亮一人で娘の世話を焼くことになる。

 諸葛亮とほぼ同い年であろう娘の世話をするのは、精神的に苦しいものがあった。

 まず泥にまみれた服を脱がし、身体を洗って怪我があれば治療してやらねばならない。その後で、諸葛亮の服を着せなければならない。
 やむを得ぬとは言え、年頃の、精神喪失状態の娘の全裸を見てしまうことに、苦しいくらいの罪悪感を覚える。
 なるべく視線を逸らすようには心掛けたが、恋人でもない自分が若い娘の肌に触れることに、胸が痛んだ。

 が、保護すると自らが決めた以上、その直後でそんなことは言っていられない。
 娘の服を脱がせる際に頭頂部付近に二つ、何かを引き千切ったような傷痕を見つけた。そこには耳孔も確認出来た。
 娘は、全身にも数多の古傷を持っていた。恐らくは猫族として酷い迫害を受けてきたのだろう。

 異性どころか、同性にすら見せたくなる程の惨たらしさに、心臓に何本もの針が突き刺さる。

 されど、諸葛亮はそれからも、強い罪悪感に何度も何度も胸を刺されながら、甲斐甲斐しく娘の世話を焼いた。

 ○○という名前を付け、毎日暇さえあれば話しかけもした。
 畑仕事ついでに畑の側の日陰に椅子を置き、よくよく注意して作業に従事する。

 食事についても、幸い柔らかく煮込んだ物を口に入れてやれば、反射でそのまま嚥下(えんか)する。噛まないが、食べれないよりは幾らかましだ。

 段々と肉を付け、痩せこけていた頬が健康的な桜色に色付くには、然程時間はかからなかった。
 精神以病にかかっていない○○は、満足な食事さえ与えてやれば、一月もすれば裕福な人間の姫君と比べても、余裕で勝る美貌を取り戻した。

 後は、心が戻ればそれで良い。

 だがそれは更に難題であった。
 話しても、反応は返らない。目の前で手を振れば黒い瞳は手の動きを追いかける。そういった反応があるから、かけた言葉が彼女に届いている可能性も無きにしもあらずだ。

 少しでも彼女の意識を取り戻そうと、諸葛亮は一日も欠かさず、○○に話しかけ続けた。

――――そんな彼が、その一族と道を交わらせたことは、○○にも悪いことではなかっただろう。

 襄陽城の主劉表に招かれ登城した折、諸葛亮は劉表の息子劉キに連れられた猫族と鉢合わせた。
 猫族の白き長、劉備の姿もそこにあった。
 かの官渡の戦いの子細は諸葛亮も耳に入れている。

 その中心人物、劉備。
 彼はそうとは思えない程に幼い精神であった。
 されども彼が、間違い無く今よりも成長した姿で残虐非道な行いをしたのだ。

 内に危ういモノを抱えた劉備が精神だけを大人びて、諸葛亮を欲して訪れた時、真っ先に○○を思った。
 渦中の彼らに同行するとなれば当然、○○も連れて行かなければならない。

 南征に踏み込んだ曹操軍に襲われた場合、戦闘は免れぬ。一人で動くことの出来ぬ彼女を、諸葛亮は愚か、猫族の誰も守れまい。
 彼女の為に劉備の言葉を拒むのか。
 猫族の為に彼女を置いて行くのか。
 諸葛亮は選択を迫られる。

 結局――――彼が取ったのは○○であった。 

 生ける猫族人形を拾い中途半端に面倒を見ておいて、自分は大勢の猫族と共に行くから邪魔と切り捨てることに、何よりも罪深い不義を感じたのだ。
 拾ったのなら、彼女が目覚めるその時まで側で話しかけ続けよう。

 自身が○○に傾倒している自覚はあった。
 それでも構わないと思うくらいに彼女に入れ込んでいる。
 そのように思わせる感情が、胸の内で熱を持って揺らめいている。

 その感情に、諸葛亮は気付かぬフリをする。
 彼女をそういう目で見てしまえば、自分は浅ましい男と成り果てる。
 彼女を守るにあたり、下衆には成り下がりたくはない。どんな目に遭って、どんな衝撃を心に受けてあのようになってしまったのか、想像を働かせると同情に胸が締め付けられる。

 彼女が本来の姿に戻れた暁には、別に安住の地を与えて自身は二度と会うまい。
 浅ましい欲を抱いた人間の男にあらゆる世話を焼かれていたと知れば、如何に清らかでも凌辱を受けたも同じだ。
 精神を病むかもしれないのなら、知る前に離れるべきだ。

 諸葛亮は、再び家に戻る。

 が、しかし。
 劉備は、諦めなかった。 
 劉キに案内され、諸葛亮の隠宅に押し掛けた。

 そして、猫族は○○の存在を知った。

 諸葛亮から○○のことを聞いた劉備は諸葛亮が応じなかった理由を理解し、ならば共に連れていけば良いと提案した。

 だが、諸葛亮はそれを固く拒む。
 猫族の現状では、必ず○○を満足に守ってれない事態が訪れる。
 劉備に突き付けると彼も否定はしなかった。

 だが、やはり同族のこと。心配し、自らも力になりたいと、それは彼の本心だ。
 諸葛亮だけでなくもっと色んな人々に話しかけられたら、少しは変わるのではないだろうか。
 諸葛亮への気遣いも見せ、しかし自らの思いも真っ直ぐに向け劉備は諸葛亮を乞い続ける。

 劉備は、襄陽での会話以上に諦めが悪くなった。
 ○○のことや、彼女の世話を一手に引き受けている諸葛亮を案じるが故だろう。
 彼は諸葛亮が折れるまで、隠宅に滞在し続けたのだった。

 そして、諸葛亮は○○を連れ、劉備に従うことを決める。



‡‡‡




「○○。今日は良い天気ね」


 寝台に腰掛け沈黙する娘に笑いかけ、関羽は隣に腰を下ろした。
 博望坡に落ち着いてすぐ、猫族の女ということで、諸葛亮から――――物凄く不本意そうだったが――――○○を頼まれた関羽は、自身も精力的に、○○の身の回りの世話を焼いた。

 それというのも、彼女が自分と《同じ》だからだ。
 半分しか開かない瞳は漆黒。

 黒い瞳の猫族は、混血の証なのである。

 この人はわたしと同じ混血。
 即座に親しみを持ち、同時に絶世の美貌に憧れを抱いた。

 どんな声で喋るのかしら。
 どんな風に笑うのかしら。
 どんな風に怒るのかしら。
 どんな風に、
 どんな風に、
 どんな風に――――。

 早く、彼女を元に戻してあげたい。
 諸葛亮も知らぬ本来の彼女は、どういう女性なのか、関羽は想像を膨らませる。

 ○○についてあれこれ想像するのはとても楽しい。
 けれど、わたしは、やっぱり本当の○○を知りたい。

 それは関羽だけではない。
 劉備や、毎日必ず○○の元を訪れる張飛達だって、きっと同じ気持ちの筈。

 諸葛亮は――――わたし達よりもずっと強いでしょう。
 何となく、関羽は感じていた。

 関羽にはやたら当たりのキツい諸葛亮は、○○に話しかける時、眼差しが打って変わって柔らかい。
 彼女のことをとても大事に思っているのが、こちらにも微かに伝ってくるくらい。


「○○。大丈夫よ。ここにいる人達は、あなたに酷いことはしない。ええ、絶対よ」


 だから怖がることなんて何も無い。
 関羽は微笑み語りかける。

 美しい彼女に、少しでも前向きになって欲しくて。
 いつか言葉を交わして意思疏通が出来る日が来ると信じて、それを少しでも早めたくて。
 なるべく、大袈裟なくらいに感情を乗せて、言葉をかけ続けた。



‡‡‡




 ○○は、一向に目覚めない。
 時だけが過ぎ今や諸葛亮にとって望ましくない状況に猫族は置かれていた。

 荊州は曹操の手に落ち、猫族はまた彼から逃れる為長期の苦しい逃避行を余儀無くされた。
 ○○も当然、連れていく。
 こうなることは、劉備の望みを受け入れた以前に予想していた。
 だが受けてしまった過去は変えられない。

 諸葛亮は、現実を己の選択の結果として受け入れざるを得なかった。

 ○○は猫族が交代で背負い、運ぶこととなった。

 長く鈍い旅路だ。
 大勢の新野の民まで連れ、江陵へ逃れる旅に、諸葛亮は焦れ、苛立った。
 劉備が新野の民をも連れていくと言い出さなければ、もっと楽に逃げ延びた筈だ。

 だのに――――。

 いや、止そう。
 受け入れたつもりで、文句を垂れているではないか。
 今はこれからどうするかを思案しなければならぬ。

 ○○を一刻も早く安全な場所に落ち着ける為にも。

 いざ、曹操軍に追い付かれた時、私は、彼女を守れない。
 いや、それどころか、私自身も足手まといになるやもしれぬ。
 だから早く、猫族を江陵へ入らせたかった。

 時代はしかし、そんな臥龍を嘲笑う。


「諸葛亮! 曹操軍が! 曹操軍が追い付いてきたわ!!」

「……」


 速い。
 諸葛亮は、舌打ちした。
 夜も更け、ほとんどの者達が寝静まった頃。
 劉備と呉に赴く旨の話し合いをしていた諸葛亮のもとに、凶報は届けられた。

 先の戦いで本来の身体に成長した劉備は、腰を浮かせ、色を失った。
 諸葛亮は、即座に指示を出した。


「光無い暗闇だ、大軍ではないのだろう?」

「ええ! 偵察していた小隊だったわ。張飛達が不意を突いて奇襲したけれど、二人逃がしてしまったって」


 ならば、曹操は報告を受けてすぐに軍を動かすだろう。
 偵察隊の範囲に入ってしまったのなら、本隊も近い。


「関羽。お前は劉備様と○○を連れ一足に先に逃げろ」


 それに異論を唱えたのは劉備だ。


「それは出来ないよ。僕だけが――――」

「こちらもすぐに散り散りに避難させます。あなたには、身動き出来ぬ足手まといの○○を移動させていただきたい」


 はっきりと言う諸葛亮に、凶報をもたらした関羽が避難の声を上げた。


「あ、足手まといだなんて! そんな言い方――――」

「そんな甘い考えが通用する生易しい状況だとお前は思うのか」


 キツく責めると関羽は口を噤む。
 彼女も頭が悪い訳ではない。
 大軍で以て猫族に追い付いた曹操軍に相対し、ただでさえ非力な民を大勢連れていると言うのに、彼らに加え一人では全く動けない○○を大事に守りながら戦うなど無理だ。

 ならば、猫族が雑念無く民を避難誘導出来るよう、二人を離せば良い。
 この闇が明けるまでに、出来るだけ多くの民や猫族の安全を確保しなければ――――。

 諸葛亮は、天幕を出た。

 声が諸葛亮の身体から熱を奪ったのはその半瞬後のこと。


「う、うわあぁぁっ!!」

「だ、誰か、誰かぁっ!!」

「……何事だ」


 猫族が集中して休んでいた方角から動揺に震えた大音声が上がる。
 まさか曹操軍の小隊が別に襲撃してきたか!

 諸葛亮は、舌打ちせずにはいられなかった。

 天幕から飛び出した劉備と関羽が諸葛亮を呼ぶ。


「どうしたの!? 今、皆の悲鳴が――――」

「りゅ、劉備様ぁー!!」


 駆けつけた猫族の男は満身創痍であった。
 地面に倒れ込んだのを劉備と関羽が支えてやった。

 諸葛亮は、衣服が何かに引き裂かれたようにぼろぼろで、頭から大量の血を流す男の前に屈み込み、何事か問いかけた。

 それは、その場にいた者達を即座に凍りつかせた。


「○○が……○○が、突然獣化したんだ!! それも張飛の時みたいなものじゃねえ!! もっともっと恐ろしいものだったんだ……!」

「○○か獣化ですって!? どうして!?」


 男が言うには、曹操軍の偵察隊と交戦した者達を支えながら○○のいる天幕の側を通過したそのすぐ後に、○○のものとおぼしき悲鳴が聞こえ、寸陰の間も置かず真っ黒な四つ足の獣が飛び出してきたらしい。

 獣はすぐに逃げ出し、天幕にいた筈の○○を捜すも、中には誰もおらず、千々に破けた彼女の衣服が散らばっていたと言う。

 そういった状況から、その獣が○○なのではないか、と……。


「……馬鹿な」


 思わず、漏らした。
 無理からぬことである。
 ○○は目を開き、微細な反応を見せるが、意識は無い。
 人形のような彼女が、どうして獣化などしようか。

 だが、男はそうでなければおかしいと必死に言う。


「わたしが様子を見てくるわ」

「なら、僕も――――」


ぐぉおおん
  ぐぉおおん


 劉備の言葉を遮ったのは、獣の咆哮であった。
 その身体を震わせる威圧的なそれに、諸葛亮の脳裏に、動かぬ○○の姿が浮かぶ。
 まさか――――有り得ない。そんな筈がない。
 浮かぶ否定は、願望に近かった。

 今まで獣化どころか、四肢が動くことすら無かった彼女が、獣に変わるなど、到底信じられるものではない。

 けども――――。


「! き、来た!!」


 狼狽した声に諸葛亮は顔を上げた。
 そこに、黒の獣はいた。


 ぐぉおおん


 鼓膜を壊されそうな暴力的な咆哮に全身が痺れた。
 黒い獣は、闇に紛れ輪郭が朧気に浮かび上がっている程度で、諸葛亮の肉眼ではようやっと見えた。
 低い唸り声を上げながら黒い獣は、前に飛び出した関羽を睨めつけ、姿勢を低くした。


「え、これが……○○なの……?」


 有り得ない。関羽の口からも疑いの言葉が漏れる。
 けれども偃月刀を構え、迎撃の構えを取り、獣の動向を注意深く窺う。

 獣は、しかし関羽ではなく、その向こうを見ているように思えた。
 奇異なることだが、目が何処にあるか判然としないのに、諸葛亮には不思議と獣の視線が自分に向けられているように思えてならなかった。

 どうにも、胸が苦しくなる。
 獣が諸葛亮にすがっているような気がする。

 諸葛亮は○○と推定される――――本人は信じていない――――黒き獣に歩み寄ろうとした。

 すかさず関羽が止めた。
 獣が、僅かに足を前に出したのだ。

 阻む関羽を押し退けた直後、獣はくるりときびすを返した。後ろ足を蹴り上げその場から逃げ出す。

 諸葛亮は間を置かずして追い掛けた。

 関羽らの制止など彼の耳は全く聞こえていない。走り出したのも無意識だった。
 反応の遅れた彼らを置いて、諸葛亮は獣を追う。

 背を向けた刹那、獣は、諸葛亮から逃げたように思えた。

 仮に――――仮に、あの黒き獣が○○だったとして。
 それが、○○の心の動きであったとしたら。
 諸葛亮に対し、何かしらの感情があったと言うことではないか。

 追いかけている自分を冷静に見つめ、己が思う以上に早くも猫族の言葉を真実と受け入れかけていると分析する。
 それでいて関羽達に任すことはせずに自身の足で追いかけている己の心にも、冷静な思考は働いた。

 恐らくは、確かめたいのだ。
 獣に変じた○○の心を。
 人形のように存在するだけで無機質に時を過ごしていた彼女の、本来の感情を。
 誰よりも、先に――――。


 ぐぉおおん
       ぐぉおおん……


 獣の咆哮。
 先程とは、違っている。
 何処か寂しげで、苦しげで、心の底から希求している。
 彼女は、何を望んでいる?

 知りたい。
 知って、自分に出来ることであれば叶えてやりたい。
 もう一度、感情の伴う生に、彼女が戻れると言うのなら。



‡‡‡




 どれだけ走っただろう。
 徒人(ただびと)の身体はもう限界だ。
 獣はもう見失ってしまった。

 追い付けなかった。
 もう見つけられまい。
 諸葛亮はそこで膝をつく。荒い呼吸を繰り返していると、咽の奥から血の味がする。吐きそうだ。
 思わず口を押さえ近くの朽ちかけた木に寄りかかる。


「……○○……お前は、何処に……」


 私に、何を思って背を向けた?
 この時、諸葛亮は完全に獣を○○と見なしていた。
 それ故に、彼女を見失い、自身にも追いかける力が残っていないことに絶望する。

 勝手ながら、想いを寄せていた相手が消えたことが、これ程までの苦痛を生むとは、知らなかった。
 最初こそ、自身にとって英雄と疑わぬ猫族への恩返しにと保護を決めた筈だったのに、一年も経たぬうちにこの有り様だ。
 なんと、卑しい心か。

 諸葛亮は自嘲し、息も整いきらぬうちに立ち上がった。
 幸い、我を忘れていた訳ではない。どの方角を走ってきたか、覚えている。
 闇の中、よくこんな状態になるまで○○を追いかけられたと思う。己の掌すら、ぼんやりと、見える程度だと言うのに……。

 自らが目指して走った方角に背を向けた。
 重い諦念と後悔を抱え、諸葛亮は猫族のもとへと戻っていった。





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