幽州は右北平。
 外れの丘に、その飯店はあった。
 毎日昼夜常連客で賑わう飯店の存在を趙雲が知るところとなったのは、偶然助けた翁(おきな)を助けた縁であった。
 快晴の今日は日差しが強く、翁は飯店に向かう道途で眩暈に襲われ道端にうずくまっていた。

 飯店に行くのが日課になっているからどうしても帰る訳にはいかないと言い張る翁は、趙雲が背負って連れていった。

 翁の目指した飯店の存在を、趙雲は聞いたことが無い。
 数年前までは人気の飯店が右北平の外れの何処かにあったとは噂に聞いたが、店主が亡くなり空き家になったとのことだ。件の店は、同じではあるまい。

 翁の道案内に従い、緩やかな上り坂を進んでいくと、一件の家屋が見えてきた。
 看板らしき立て札がある。
 あれが贔屓にしている飯店だと、翁が安堵して言った。

 店舗は相当年期が入っているようだが、壁や屋根には所々修復された後が見られる。
 翁を椅子に座らせるまでと、引き戸に手をかけた趙雲は、次の瞬間店内から轟いた男の悲鳴に引き戸を勢い良く開いた。


「なっ……!?」


 愕然。
 店内は三列二台の計六台の机それぞれに四脚の椅子が備え付けられており、正面奥が厨房になっている。
 悲鳴を上げたとおぼしき男は、左奥の机に、こちらに背を向け突っ伏していた。酒の入った杯が倒れ、突っ伏した衝撃で皿から料理が溢れてしまっていた。

 尋常でない男の有り様に、趙雲は翁を下ろして駆け寄った。
 声をかけようとし、隣の席の、無精髭で口も隠れた男が、赤ら顔で止めた。


「良いんだよ、そのまんま寝かせといても」

「しかし、これは明らかに……」

「兄ちゃん、その料理一口食ってみな。そしたら倒れた理由が分かる」


 朗らかに机に備えられた箸を手渡され、趙雲は困惑する。
 だが、何度も促され、仕方なく言われた通りに料理を口に運んだ。

 咀嚼(そしゃく)し――――固まる。
 脇から差し出されたお茶を乱暴に受け取り料理諸共一気に飲み下した。

 これは……不味い。
 形容しがたい程に――――否、この世に存在するどの味にも属さぬ全く新しい不味さだ。
 こんな味を生み出すことの出来る料理人は、ある種の天賦の才を持ち合わせているのでは……本気で、そう思ってしまった。それくらいに不味い。

 趙雲は口に押さえよろめいた。


「大丈夫っすか、お兄さん」

「あ……すまない」


 お茶を差し出したのは、少年だ。十五・六と見受けられる。
 柔和な雰囲気をまとい、丸い顔には垂れ気味の大きな目、小さな鼻、薄い唇。女のようにも見えるこの少年、しかし背丈は趙雲よりも少しばかり高かった。

 少年は愛想の良い笑顔を浮かべ、「どうぞ口直しに」ともう一杯お茶を差し出した。


「ありがとう」


 改めて飲むと、まろやかな味と芳しい香りが口内に広がり、精神に落ち着きをもたらした。

 料理はお世辞にも食べれるものではないが、このお茶は存外にも非常に美味い。あの料理の後だから、そう感じてしまうのかもしれない。

 少年は趙雲から飲み干した湯のみを受け取ると、歩いてきた翁に会釈した。


「いらっしゃい、蓉爺(ようじい)。いつもの席、空いてるぜ」

「おお、すまんのう。王玲(おうれい)や。今日は、この若者も一緒に良いかぇ」

「オレは良いけど……お兄さん、胃腸は強い方? 弱いならお勧めしないっすよ 」


 ここ殺人的料理しか出さない店だから。
 真顔で言い、王玲は首を傾けた。


「いや、俺は……」


 趙雲は難色を示す。
 さすがに、料理を口にした直後にここで食事をする気にはなれない。
 が、かと言って翁の厚意を無下にも出来ぬ。翁はどうやら、この飯店の料理が好きらしい。毎日通う程。

 結局、翁の屈託の無い誘いを断れず、趙雲は翁と同じ机につき、注文も翁に任せることとなった。

 王玲は注文を受けるも、心配そうに趙雲を見下ろしてくる。


「食べた後で苦情を言ったって、オレらは何もしませんからね」


 立ち去り際、彼はそんな言葉を残した。
 それだけ、ここの料理は殺傷能力が高い……ということ。幸い、死人は出ていないようだが。

 趙雲は自身に気合いを入れ、翁との談笑に応じながら、『殺人的料理』を待った。
 すると、先程悲鳴を上げた男が、顔を上げた。


「あー! まっず!」


 思い切り貶しているが、声音は明らかに笑っている。
 不味い不味いと繰り返していると、厨房の方から怒声が飛んできた。


「うるっさいわボケェ!! 毎度毎度不味い言うんだったら来んな!! 二度と来んな!!」


 鼓膜を壊さんばかりの大音声であった。
 咄嗟に耳を押さえるが、遅かった。キィンと痛み、趙雲は顔をしかめた。
 目の前に上から落ちてきたのは、天井の破片だろうか。

 翁は趙雲の様子に懐かしげに笑った。


「儂も、初めて来た時は、あんたのような反応をしとったなあ」

「翁、今の怒鳴り声は……女性のもののようだったが」

「この店の店主だよ。王玲の姉で、王○○と言ってねぇ。先月から飯店を始めているんだが、何とも不味い料理しか作れない子でなぁ……」

「蓉爺、悪口あたしにもきっかりしっかり聞こえてるんだけど」


 不機嫌な声が降ってくる。
 はっと耳から手を離して顔を上げると、王玲と良く似た面立ちの少女が、顔をしかめて翁を睨め下ろしていた。
 趙雲に視線を移すと、にっかりと歯を剥いて笑った。


「悪いね、お客さん。驚かせちまって」

「いや……だが、とても大きな声だったな。驚いた」

「これがあたしの自慢なんだ」


 ○○は片目を瞑ってみせ、手にしていた菜箸をくるりと回した。


「ってか蓉爺。あんた身体大丈夫なのかよ。もうよぼよぼなんだから、無理してこんな所まで来たら、どっかで倒れても誰も助けてやれないんだからな?」

「いやぁ、毎日ここの料理を食べんとどうも生きた心地がせんでのう……」


 これに、隣の席の男が苦笑混じりに口を挟む。


「ここの料理を食べてても生きた心地はしないけどなぁ」

「なら食いに来るな」

「いや、何か中毒性があって。何を仕込んであるのか分からないけど」


 ○○が片手に拳を作って見せると、
両手を挙げて、食事に戻る。不味さに噎(む)せた。

 ○○は鼻を鳴らし、厨房に足早に戻って行った。

 その後ろ姿を見送り、男と翁は顔を見合わせ、小さく噴き出した。


「○○、蓉爺が遅いって随分心配していたよ」


 「しっかし本当に不味いなこれ……」鮮やかな赤が食欲をそそるだのに、男は不思議そうに料理を見下ろして言う。


「王壬(おうじん)さんの作り方そのままなんだろう? なら、もうちょっと味が良くたって良いような気が……」

「なに……まだまだ、料理に慣れていないのさ。この店を始める少し前まで、山賊じゃったそうでなぁ。手の込んだ料理なんてもの、今まで知らんかったんじゃろうて」

「山賊……?」


 趙雲は眉根を寄せ厨房を見やった。そこでは調理に戻った○○と王玲が忙しなく動き回っている。


「姉弟で?」

「ああ。何でも生まれてすぐに捨てられていたところを、山賊の頭に拾われ育てられたそうじゃ。数年前に、その頭が死んで別のもんが束ねることになったが、馬が合わなかったそうでなぁ……強引に抜けてここまで逃げてきたそうな。それを助けたのがこの飯店の前の主人さ」


 それで恩義を感じ、店主が亡くなった後店主の残した調理法を基に姉弟二人で切り盛りしているそうだ。
 などと鷹楊に語る翁に男は渋面を作った。


「蓉爺さん、それほいほい口にして良いことじゃないよ。何処で公孫賛様のお耳に入るか……今は二人共、もう足を洗ってるんだからさ」

「なに、あの子達もあっけらかんと言うておることさ。儂が言わんでも、問われればあっさりと認めるだろうて。それに、腕っぷしは強い方だと自慢しておったぞい」


 翁は飄々と笑う。

 趙雲は何故かひやりとした。
 この翁は趙雲が公孫賛に仕える武将だと分かって言っているのではないか、一瞬だけそんな、妙なことを思った。
 趙雲自身、顔は広い方だと自覚している。 
 知らぬうちに知られていることもままにある。

 だが翁は趙雲が見つけた時、まったき初対面の反応だった。それに今までそういった流れにならなかった為に、彼に名乗っていない。あれが演技だとは到底思えなかった。演技だったとするなら相当な役者である。

 つい探るように見ていた自分に気付き、慌てて視線を逸らした。

 と、男が食事を終え、世間話を始めた。
 彼としては、久し振りの一見客だそうで、趙雲の《まともな》反応を見て帰りたいらしい。
 最近、盗賊が周辺の村に出没しては血が流れていることが主な話題だった。
 これに関しては、すでに公孫賛も討伐隊を結成しており、今その為に情報収集に奔走している。

 この店の常連は全て付近の村に住んでいるので、男は誰かが犠牲になってしまうのではないかと案じていた。
 それはきっと、この店を営む姉弟も同じだろう。

 そう思うと、早く討伐して平穏を取り戻せねばならぬと使命感が生じる。

 何か情報は仕入れることは出来ないか会話に興じていると、王玲が料理を持って現れた。


「蓉爺。はいよー」


 王玲はにこやかに机に料理を並べる。
 料理の脇に、しっかりお茶がそれぞれ二杯置いてある。


「おお、すまんなあ」

「ほら、お兄さんも。マジで食べるなら気を付けて。匂いは普通でも味は最低っすから。命の危険を感じたら即食事を止めてお茶飲んで下さいよ」

「おーい王玲ー。今なら無料で首を一息に折ってやるけど?」

「わー、唯一の肉親殺せるとか何あの女超鬼畜ー。だから嫁げないんだ――――」


 カコンッ。

 厨房から飛んできた菜箸が王玲の後頭部に当たる。先程○○が持っていた菜箸だろうか。
 王玲は殴られた箇所を撫でて厨房から睨んでくる姉を睨み付け嘆息した。ぶつぶつ文句を垂れる。


「ほんともう……義理果たすんなら義父さんの言ってたように良い人に嫁いで子供産んで幸せになれってんだ」

「王玲。年齢的に丁度良い人ここにいるけど」


 男は趙雲を指差してにんまりと笑った。

 思わぬことで趙雲は反応が遅れた。


「え……」

「いや、この人一度限りかもしんないじゃないっすか。それにこれだけ顔が良ければすでに恋人いるっしょー」

「いや、そういった相手はまだだが……」

「ほら狙い目」

「だから……」


 王玲は苦笑を浮かべた。
 厨房で鍋を振るう○○を見やり、肩をすくめた。


「興味無いってさ」

「勿体無い、勿体無い」


 翁は残念そうに溜息をついた。


「もう二十も超えとると言うのに……」


 趙雲は我が耳を疑った。


「二十? 彼女は、もうそんな年齢だと……?」

「そう見えないだろ? 王玲も今年で十九」

「オレら二人揃って童顔が悩みなんすよー」


 王玲が両手を挙げて言った。

 同時に、新しい客が店に入ってくる。
 彼は……常連ではなさそうだ。薄汚いボロボロの服の下から晒された太い腕はこんがりと日に焼け、筋肉の凹凸がくっきりと見える。
 厳つい四角形の顔は粗雑そうで、中の様子を小馬鹿にしたような笑みが非常に不愉快だ。
 山賊か、盗賊か――――明らかに善良な人間ではない。

 抜き身の剣をちらつかせ威圧するその客は、適当な机に近付き、椅子に腰を下ろした。


「おい、何か料理出せや」


 王玲が吐息を漏らして賊客に足を向けた。

 が、それよりも早く、


「お客さん、悪いけどうちは見た目も性根も汚い奴はお断りなんだよ」


 あんたに食わせる料理は無いからさっさと出ていきな。
 ○○が厨房から現れ、不機嫌そうに賊客に歩み寄った。

 賊客は相手が若い娘と、いやらしい目を彼女に向ける。


「おいおい、嬢ちゃん。ここは店だろ。大事な大事なお客様はちゃあんと敬えよ」

「敬ってるよ。あたしが客と見なした奴はね。あんたは別だ。ここは人の口に入る物を扱ってるんだ、汚物を入れる訳にはいかないんだよね」

「……誰が、汚物だって?」

「あれまあ、自覚がないんじゃあ救いようが無い」


 ○○は、堂々と賊客を挑発する。そこに怯えなど無い。こちらが格上であると自信満々に構えている。

 趙雲達の机の側から王玲が離れた。何処へ行くのかと思えば、厨房だ。

 賊客が姉相手に色めき立っていると言うのに、どうして厨房に下がるのか――――不審に思う趙雲の鼓膜を賊客の怒声が殴り付けた。

 趙雲は咄嗟に立ち上がり、○○のもとへ向かおうとする。

 しかし男に止められた。


「このまま傍観しといて良いよ」

「しかしあれは――――」

「うるっせえんだよ雑魚が吠えんな見苦しい!!」

「ぐほぁっ!!」


 ずうん。
 石造りの床が揺れた。

 雷鳴の如き怒声と共に冷たい床に叩きつけられたのは、あの大柄な賊客であった。
 ○○に頭を鷲掴みにされ起き上がることが出来ぬ。

 ……。

 ……。

 ……否。
 あの賊客、ぴくりとも動かない。
 まさか、と顔色を変えた趙雲をまたも男が止めた。


「大丈夫。死んでないよ。○○も王玲も、山賊だった頃から人を殺したことは一度だって無いらしいから」

「そうなのか?」

「その辺しっかり守ってるから心配しなくて良いよ。なあ、蓉爺」


 同意を求められて翁は大きく頷いた。

 ○○は絶入した賊客を軽々と肩に担ぎ、大股に店を出ていった。
 その際、客に屈託の無い笑顔を浮かべ、


「んじゃ、ちょっくら汚物捨てに行ってきまーす」


 おう、行ってこい、早く戻ってきとくれよ、などと、彼女は常連客の笑顔に見送られた。

 そう。常連客は皆笑顔であった。誰も怯えた様子が無い。
 むしろ、慣れているといった風である。


「……ここでは日常茶飯事なのか?」

「それ程頻繁にある訳じゃないっすよ」


 趙雲の問いに、戻ってきた王玲が答える。
 その手には、小さな干菓子が。


「はいこれ、食事を邪魔してしまったお詫びっす。あ、これはオレが作ったんで味は普通」

「ああ、ありがとう」


 彼はこれを取りに行っていたらしい。趙雲達にそれぞれ渡すと、他の客にも配りに行った。


「ここは、王壬の頃からやたらとならず者が寄ってきてのう……王壬も武芸に秀でておった故に、営むことが出来ておったんじゃよ」


 何でも王壬は元々冀州の武将であったらしい。それが、老いの為に剣を捨て、こんな場所で飯店を始めたのだそう。
 元武将が元山賊の姉弟を匿(かくま)い、自らの姓を与え子供にしたとは、不思議な話だ。

 だが、二人が今真っ当に生きていられているのは、間違い無く彼のお陰だろう。
 王玲の後ろ姿を見つめ、趙雲は「彼らは、真っ直ぐだな」呟いた。

 これまでの生き方こそ肯定出来るものではないが、人は殺さないという主義を今でも貫き、義父への恩義に尽くす彼らは、真っ直ぐだと思った。
 このまま真っ直ぐでいて欲しいものだと、この時彼は心から思った。

 これが、王姉弟との、最初の出会いである。





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