※設定上、夢主の名前はほとんど出てきません。



 私は、昔から『使い勝手の悪い身代わり』だった。
 双子として生まれたのに、姉は私よりも優れていた。何でも上手くこなすことが出来た。

 私は、何だって下手くそで失敗ばかりで、取り柄が無い。
 私の唯一の長所と言えば、姉と瓜二つの綺麗な顔だけ。でもお化粧は苦手だから、いつも素の顔だ。つまりは姉も、化粧しなくても十分綺麗だけど、化粧をすればもっと綺麗になる。私も多分、そう。

 顔が似ているだけの身代わりなんて、意味が無い。
 だから、私の扱いはあべこべだった。

 体型を維持する為に姉と同じ食べ物を食べるけれど、部屋の中は粗末なものだ。調度品はその辺の家から安く仕入れたから、全てが古びて使いにくい。
 姉のようにきらびやかな装飾品や、手触りの良い美しい衣も、まとうことは許されない。

 そんな私が、生まれて初めてそんな豪奢な物をまとったのは、本当に姉の身代わりとしてだった。
 先方に正体が知られぬように入念に着飾られ、仕種も癖も嫌になるくらい教え込まれた。
 私はいない。
 私でいてはいけない。
 ここに、私の居場所は無いのだ。


『私、あの人に嫁ぐのは嫌だからあなたが私の代わりに嫁ぎなさい』


 否も応も無い。私に拒否権は最初から与えられていない。
 私は、意思を訊ねられる程の存在でないから。
 ……私だって家族、の筈なのにね。

 姉の嫁ぎ先は呉の孫権様。
 父が勝手に決めてきた縁談で、姉は最初から乗り気でなかった。
 姉にはすでに将来を誓い合った殿方がいる。勿論両親には秘密。はしたなくも、何度も身体を重ねた仲だと言う。こんなこと、両親に知られたら大騒ぎだ。結局は許されるのだろうけれど、二人は二度と会うことは出来ない。
 もしかすると、私が代わりに孫権様に嫁いだ後、二人は悠々駆け落ちするのかもしれない。

 ……でもきっと、すぐに帰ってくるに決まっているわ。あの人は贅沢に慣れきってしまってるから、不自由な生活に堪えられる訳がない。将来を誓い合ったと言ったって、暮らしやすい環境に戻りたくなれば、男を捨てて私とまた入れ替わるに違い無い。
 だから私はそれまで姉のふりをしていれば良いの。

 私は、姉の身代わり。出来損ないの身代わり。出来損ないなりに、身代わりを勤めなければならない。私はそれだけの存在なのだから。

 半ば投げ遣りな気分で私は偽りの花嫁として孫権様に嫁ぐ。勿論供は限られた人数しか連れていない。

 孫権様が現在の拠点にしていると言う柴桑は、色んな物があった。
 貿易が盛んな町なればこその雑多な彩りに満ちた市場には色んな人間が行き交い、密集し、車の中から見ているだけでも息苦しさや熱気を感じた。
 でもそれが新鮮に思えて、私は楽しかった。少しで良いから見て回ってみたい。心からそう思った。駄目だけど。

 柴桑城の城門には、文官や武官、武将達が粛々とした佇まいで列を成していた。
 江東では非常に名の知れた名士である父の娘をめとることで支配を安定させたいと、呉の思惑が見て取れるようだった。
 孫権様の兄孫策様が呉の四姓に属する陸康様と彼の一族の大半を殺めた為に、江東では孫家に対して反感が強まったままだ。
 それを、何とか、少しでも緩和させたいのだろう。

 父もまた、そもそもは弱小豪族に過ぎなかった孫家に最愛の娘を嫁がせるなんて気が進まなかった。
 けれども、孫策様と違い名士との関係を重んじた彼らの亡き父君孫堅様の代からお仕えしている武将と親しくしている縁と、後々の戦乱の変化を考え、ご決断なされたようだ。
 それでも、私が姉の身代わりになったことに、心から安心していた。私なら、別に構わないのだった。

 私は車から顔を出さず、供と呉の臣下との会話を聞いているだけ。
 それによると、孫権様は今故あって都督と共に留守にしているらしい。
 私は一瞬、羨ましいと思った。

 私は自分の意思で外を歩けたことが一度も無かったから。

 私は結婚相手の顔も知らないまま、城の奥への立派な部屋へと案内(あない)された。
 私が部屋に落ち着いた途端に帰った供を不審に思われたけれど、そこは父に言われた通り、母が臥せっていて、看病するにも、人手が足りないのだと、言っておいた。信用されたかどうか、怪しいところだ。

 仮に私が身代わりだと知られたとして、私は離縁されるだけでなく家族からも見限られて切り捨てられそうだ。ただでさえ役立たずで何の取り柄も無い私が、家族に不名誉を与えて私自身の価値を落としたらもう救いようが無い。

 でもいっそそうなった方が、楽かな。
 何も考えなくて、感じなくて、心を動かさなくて良くなるのだ。

 それは、ある意味では解放なんだろうって、思う。
 私自身に、自発的にそんなことをする勇気なんてこれっぽっちもないのだけれど。
 それにきっと、いざそうなったら、今みたいに解放されたとは思えないし、全然喜べない。ただただ絶望するんだろうな……。

 ひとまずは、孫権様がお帰りになるまで、姉の身代わりだと悟られぬよう、部屋から出ずに息を殺さなければ。

 帰って来た後のこともちゃんと考えなければならない。
 思案に没頭する時は、一人の方が良い。考え込みすぎると、声は出さないけれど口が動いてしまう癖があるから。読唇術を心得た人間に悟られてはならない。
 それに、姉にこんな癖は無かった。

 私は綺麗な部屋を見渡し、重たい心を持て余して溜息を漏らした。



‡‡‡




 彼女が部屋を訪れたのは、その二日後だ。
 何とはなしに空を眺めていたところ、扉の向こうから控え目な声が聞こえてきた。


『あの……秀鈴様。入っても、よろしいでしょうか』

「え? ああ……どうぞ」


 「失礼致します」そう言って中に入ってきたのは、私より幾らか若い姫君。守ってあげたくなるような可憐で儚い雰囲気の子だった。
 椅子に腰かけていた私は立ち上がり、頭を下げた。

 すると姫君は慌てて、


「あ、あの……! どうかお顔を上げてください!」

「いえ、そう言う訳には……」

「将来義姉になられる方にそんな真似をさせてしまったとなると、お兄様に怒られてしまいますから」


 私は瞠目した。


「まあ……では、あなたは孫権様の……」

「はい。妹です。この度お兄様の奥となられる方がいらっしゃったと侍女に聞き、居ても立ってもいられず……本当は昨日、お訪ねしたかったのですが、まだお疲れかもしれないと注意されてしまって」


 縁談が持ち上がった時から、私、とても楽しみにしていたんです。
 心底嬉しそうに、私の両手を取る。

 私は罪悪感を覚えた。
 この姫君は純粋に兄の縁談を喜んでいる。
 でも、私は姉の我が儘で――――。
 私は何も言えずに曖昧に笑うしか出来なかった。
 でもきっと、私達が入れ替わったとしても彼女は気付かないだろう。

 ここではずっと、姉の外面を真似して、過ごすから。
 身代わりの私は、私があってはならないのだ。


「まだご祝言を迎えられてはおられませんが、あなたのことを、お義姉様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」

「え……? あ……わ、私は、別に構わないけれど……」


 戸惑いながらも頷くと、妹姫は本当に可愛らしい笑みを浮かべた。
 私の胸中は複雑だ。

 姉だったらきっと、胸中で自分の方が綺麗だと嘲笑うことだろう。私から見ると、この姫君の方が可愛らしくて素敵に思える。

 ……そんなこと、姉に言ったらぶたれるだけじゃ済まないかな。

 彼女の名前は尚香と言った。
 尚香は私を義姉として、「お義姉様」はにかんで呼んだ。

 尚香は余程、兄が妻を迎えることが嬉しいらしかった。
 毎日のように部屋を訪れ、お茶や異国の菓子を振る舞っては世間話や、呉について語ってくれた。

 私は新鮮な話が聞けて嬉しかったけれど、反面居たたまれなさを感じた。
 このまま接していると、いつか私と姉が入れ替わった時、尚香にバレてしまうような気がした。そうならない為に、本音は彼女と過ごしたくはなかった。
 危機感が増していく毎日に、寒気を感じる。

 でも、雑じり気の無い好意を露わにしてくる尚香の訪問を体良く断る言い訳も思い付かなくて、彼女の好きにさせてしまっている。
 姉だったら平気で仮病を使うだろうけど、私は嘘が昔から苦手だった。どうしても、すぐにバレてしまう。

 そんな風に、来たばかりでもだもだしていると、とうとう孫権様が城に戻ったらしい。
 私が来たことは臣下の方々から帰城直後に聞かされたようだ。
 その足で、私の部屋を訪れた。

 私が扉を開けて迎えた孫権様は、尚香と良く似ていた。
 けれど、物静かと言うか……堅すぎる印象が強すぎて、緊張してしまう。


「秀鈴殿。到着された折の不在の無礼、まことに申し訳ない」


 律儀に頭を下げた孫権様に私は慌てた。


「あ、いいえ……こちらこそご不在とは知らず、ご迷惑を……」

「いや、あなたが近々お出でになると分かっていながら、私は周瑜と共に国を離れた。あなた方に非は無い」

「悪いが、こっちは今大事な問題を抱えててな」

「あの……だから、私は特に不快に思っておりませんから――――」


 ……え?
 孫権様の後ろに立つ殿方を見上げ、私は固まった。
 ……耳……猫の耳が、頭の上に生えているわ。
 え、でもこの人は人間、よね? 猫の耳が生えている以外は人間の男性とほぼ変わらないのだし。

 私が耳を凝視していることに気付いた彼は、苦笑を浮かべた。


「アンタ、もしかして猫族を見るのは初めて?」

「まおぞく……?」

「十三支って言った方が分かるか?」

「じゅうざ……」


 まおぞくや、じゅうざって何ですか?
 そう問いかけると、大層驚かれた。


「あの、知らなければいけないことなのでしょうか? でしたら、申し訳ありません。私、あまり部屋から出ないので、物を知らなくて……」

「いや……まさかオレ達のことを知らない人間がいるとは思わなくてな」


 視線を逸らされ私はひやりとした。
 ああ、これはマズイ。
 私は即座に頭を下げ謝罪した。


「あー、別に良いって。猫族のことを知らないならその方が良い」

「ですが……知らなければおかしいことなのでしょう?」

「おかしいって程のことじゃないさ。ただ珍しいってだけ。だから、気にするなって」


 それでも私がまた謝ると、困った顔をした。


「そんな悲しげな顔ばかりじゃ可愛い顔が台無しだろ?」

「えっ……かわ……え!?」

「……周瑜。秀鈴殿を困らせるな」

「このくらいは良いだろ。堅物のお前に嫁いでくれる子なんだぜ?」

「だからこそだ。この婚姻の意味を考えれば、彼女に無礼な振る舞いは出来ぬ」


 私を見、孫権様は断じる。
 私は恐縮し、頭を下げた。

 ああ、どうしよう。
 私は姉の身代わりなのに。
 本来この人達がこんな風に接するのは私ではなくて姉なのに。

 この人は、良くも悪くもとても真面目な性格のようだ。
 けれども『まおぞく』の周瑜という男の人は飄々としているけれど、何処か油断が出来ないように感じる。
 ……バレないように、しなければ。
 姉と入れ替わった時、不審がられないようにしなければ。

 私は、姉の身代わりなのだ。
 改めて、私は自分に言い聞かせた。



‡‡‡




 孫権様は、律儀な方だ。
 毎夜必ず私の部屋を訪れる。
 訪れると言っても挨拶くらいで会話らしいことは無い。

 今、呉は河北を制した曹操という雄の脅威に脅かされている。そう、周瑜殿に教えられた。
 だから私との結婚どころではない筈なのに、彼は寡黙ながら、私への配慮を忘れなかった。

 それが、私の中の危機感を増幅させる。
 真面目に妻になる娘に接してくれるのはとても良いことだ。姉が蔑ろにされることはない。だけど私にとっては厄介極まりない問題だった。
 ますます、姉との入れ替わりが難しくなってきた。

 どうしよう……。ここ数日、完璧に姉と同じく振る舞えていないことは私自身良く分かっている。
 このままじゃ――――このままじゃ襤褸(ぼろ)を出してしまいそうで恐ろしい。


『秀鈴殿。私だ。……少し良いだろうか』

「! あ……は、はい! 今開けます!」


 孫権様の声に、私は弾かれたように立ち上がった。

 珍しい。
 咄嗟に窓を確認して、私は軽く驚いた。
 まだ、昼だ。
 いつも夜に来る筈の孫権様のご訪問に少しだけ戸惑った。どうしたんだろうか。まさか……いや、そんな筈はない。まだ襤褸は出していない、と思う。

 何事かと恐々としていると、孫権様は私に謝罪して、椅子に座った。
 それから私を見つめ、何か言いたげに口を開いて、すぐに閉じてしまった。

 私の中で危機感は強まっていく。

 どうしよう……バレていて、帰れと言われてしまったら……。

 ざわりと身体が寒くなる。


「……」

「あの……孫権様?」

「……、……あなたに一つ、訊ねたいことがある」

「え……」


 孫権様は意を決したように私を見据え、口を開いた。


「……じきに、大きな戦が始まる。未熟な私も、あなたのことを気にかける余裕も無くなるだろう」

「そ、そう、なんですか……それは、大変ですね。私には、難しいことでお力にはなれないと思いますし……きっとお邪魔になってしまいます。私のことはどうか、お気になさらないで下さいまし」


 唐突な戦の話に私は辿々しく返す。
 遠回りして、いつ核心を突くか私の反応を見ているのだろうかと、猜疑(さいぎ)が浮かぶ。

 多分そんな人じゃない。そう思うのだけれど、やっぱり不安ばかりが先に出てしまう。
 私は孫権様に促され、彼の正面に座った。顔が見れない。俯いてしまう。

 孫権様はまた暫く沈黙して、


「……こちらに来てくれたあなたには、我が国のことでご迷惑をかけてしまい、申し訳なく思っている」

「あの、本当に、気にしていませんから……」


 そこで、口を噤む。
 孫権様が探るように私を見てきたからだ。うっと言葉に詰まり私は口を閉じた。


「……秀鈴殿は、それが普段のお姿か」

「え……っ」


 私は多分、見ても分かるくらいに顔色を変えてしまっただろう。
 ひきつる顔を上手く引き締められないし、笑い飛ばして誤魔化すことも出来ない。

 どうしよう。どうしよう……!
 バレてしまった? そんな……。
 本当に、私って何も上手くこなせない。

 私は胸の前で拳を握り、身体を固く強張らせた。
 呼吸が乱れた。
 何て言ってかわせば良いんだろう。ああ、駄目だわ。良い言葉が思い付かない。
 でも、それでも、何とか誤魔化さなければ……。


「あの……ど、どうして、そのようなことを……?」

「いや……私の気の所為ならば、それで構わない。私はあなたのことを良く知らない。それ故に、あなたの言動に、何かがずれているような違和感を感じてしまうのだろう」


 ……いけない。
 これは、いけない。
 私は無理矢理に笑みを浮かべ――――実際笑顔になっていたかは、私には分からない――――震える声を絞り出した。


「も、申し訳ありません……実は、私……あ、朝から何だか体調が優れなくて、休ませていただいてもよろしいでしょうか」


 孫権様は、瞠目して少し慌てた様子で立ち上がった。
 大股に私に歩み寄り、背中を支えて立たせた。顔を覗き込みながら寝台まで連れていってくれた。
 また孫権様に支えられながら横になると、謝罪と共に側に畳まれていた寝衣を広げて身体にかけてくれた。額に手を当てられた。


「……すまなかった」

「い、いえ……」

「後で医者を呼ぼう」

「そんな……ご迷惑をおかけする程ではありません。ただ一日休んでいれば、きっと大丈夫です。大事な戦の前に、申し訳ありません、孫権様」


 孫権様は静かに首を振り、そっと寝台を離れた。
 もう一度謝罪の言葉を口にして、退室した。

 その後ろ姿を見つめ、私は扉が閉まると同時に身体を丸めた。
 段々と痛くなる頭と胸。
 あってはならない事態になりつつあることに私はただただ困惑した。下手くそな私の咄嗟の嘘を見抜かれていないことを願うばかりだ。

 嗚呼……どうすれば良いのか、分からない――――。



‡‡‡




 あれから孫権様は一度も私の部屋を訪れなかった。
 代わりに、私の体調を心配した尚香が、毎日私の見舞いに来る。
 だけど、彼女も今、呉に迫る危機に気が気でない様子で、ままに呉のこれからを不安がっているような発言が出た。
 私は、さすがに余所者だから何も言えず、静かに聞き手に徹していた。

 彼女の話では、軍はすでに陸口に陣を張り、曹操軍も対岸の烏林に着陣しているそうだ。
 でも、北の軍勢なら水軍はいない。如何に屈強でも、船上の戦いでは実力を思うように発揮出来ない筈。荊州の兵を取り込んでいても、限られた時間での訓練はきっと不十分だろう。

 数で威圧してきているそうだが、それも満足に戦えないなら意味が無い。物量で士気を削げば容易いけれど、数が多ければ多い程、崩された体勢を建て直すのは難しい。指示も円滑に伝達されない。
 混乱も大きくなるのは必定だ。

 孫権様は周瑜殿の――――呉の水軍の力を心から信頼している。だから、自らは柴桑で華々しい戦果を持って帰還する時を待っているのだと、尚香は言った。
 それでも、やはり余裕は無いのだ。信じていても、心の何処かでは不安や疑心が、あるのかもしれない。

 そんな風に思って尚香の話に耳を傾けていた私は――――……。

 ……。

 ……。


 ……気付けば何故か、孫権様の部屋の前にいた。


 手には盆と、淹れたてのお茶……。
 私、いつ部屋を出て、いつこんなお茶を用意して、いつ孫権様のお部屋に来たのかしら。
 全く記憶が無い。

 自分でも不可解極まる行動に、ただただ困惑する。

 私、こんなことしようなんて思っていなかったわ。
 ただ……ただ、ほんのちょっとだけ、大変なのねって思っただけ。
 それがどうして――――。


「……か、」


 ……帰りましょう、今すぐに。
 そうよ。バレたかもしれない人に自分から接近するなんて馬鹿だわ。襤褸を出してしまうかもしれないのに。

 私はそうっと部屋から離れ、きびすを返した。

 ……が。


『そこに誰かいるのか』

「いいいません!」


 馬鹿な言葉を返したのは完全に反射だった。
 私は青ざめその場から一目散に逃げた。
 途中女官に見つかって呼び止められたけれど、逃げなければとそれだけで頭が一杯で、弁解する余裕は無かった。

 それがいけなかったと頭を抱えるのは、その翌日のことだ。

 悶々寝台の中で恐々とする私を、彼は訪れたのだ。
 その時の私は、きっとこの世の終わりを見たような顔をしていたに違いない。

 体調不良で回避しようかと思ったけれど、昨日あんなに走って逃げ帰った私だ。不自然に思われてしまうかもしれない。

 恐る恐る扉を開けると、いつも通り無表情の孫権様が。

 これはマズイ。私は顔をひきつらせた。
 彼の用は昨日の《あれ》だろう。
 私は肝を冷やしながら、努めて平静を装って笑顔を繕った。


「孫権様。戦のことを気にしておられたのでは……」

「……昨日、あなたが私の部屋へいらしたのは、私に何か用でもあった為ではないかと。あなたとすれ違った者が、茶を携えていたと」


 何か、あなたにとって不愉快なことでもあっただろうか。
 孫権様の言葉に私は視線を逸らしてしまう。
 孫権様と言い、尚香と言い、私の罪悪感に満ちみちた胸を容赦無く抉ってきてばかりだ。

 私は首を左右に振り、「ただ、道に迷ってしまっただけですから」と謝罪と共に扉を閉め、それ以上の気遣いを拒んだ。

 孫権様に対して失礼だったけど、姉は平気でこんなことは出来る筈。だから、問題は無い。
 私は姉の身代わりだ。

 なのに私は、一体何をやっているんだろう。

 私は頭を抱えて深い溜息をつかずにはいられなかった。


「……何処まで私は、無能なのよ……」


 今まで何一つ上手くやれた試しの無い自分自身に辟易(へきえき)する。



‡‡‡




 孫権様は次の日にも私の部屋を訪れた。
 どうしてか尚香に背中を押され、強引に部屋に押し込まれる形で。

 困惑する私に尚香は、孫権様の背中をぐいぐい押して座らせると、両手を腰に当ててこれ見よがしに嘆息した。


「聞いて下さい、お義姉様! お兄様ったらお義姉様が心から心配なくせに、何にもなさろうとしないんです!」

「え……はい?」


 憤って何を言うかと思えば、そんなこと。


「戦のことも気がかり、お義姉様のことも気がかりなら、まず身近な気がかりに相対するべきだと思うんです。お兄様、周瑜も、くれぐれも将来の妻と仲良くするようにと言っていたでしょう!」


 熱弁する尚香に孫権様はこめかみを押さえて溜息をついた。


「……尚香。秀鈴殿は、」

「体調が回復されたばかり、でしょう? でもお義姉様は病み上がりのお身体で、お兄様にお茶を持っていかれたのです。それないお兄様と来たら……!」

「……」


 ……尚香に、まるで違う解釈をされている。
 違うの、と否定しようと口を開いた瞬間、部屋に数人の女性達が入ってきた。尚香専属の侍女だ。

 皆、お茶とお菓子をてきぱきと並べると、そのまま足早に退室した。
――――尚香と共に。


「あ、あの、尚香さん……!?」

「ではお兄様、しっかりなさって下さいね」


 尚香は孫権様に両手を握って力んで見せ、扉を閉めた。

 沈黙が、気まずい。
 私は置かれたお茶を凝視しつつ身体を固くする。頭の中では『どうしよう』が沢山、沢山ぐるぐる回っている。


「秀鈴殿。妹が失礼した。勝手な勘違いもして、困らせた」

「い、いえ……勘違いされてしまうようなことを、私がしてしまったのですから……」


 顔を上げられない。
 失礼な態度だけれど、孫権様は気を悪くした様子も無い。基本的に寡黙な彼はまた黙り込み、お茶に手を伸ばした。
 こくりと、液体を嚥下(えんか)する音がいやに目立つ。

 緊張に心臓を絞め付けられるかのようだ。生きた心地がしない。

 このまま無言で、そのうち帰ると言い出してくれないかと密かに願っていると、不意に、


「……秀鈴殿」

「あ、は、はい」

「何か、望みがあれば言ってくれないか」

「望み?」


 思わず顔を上げると、孫権様は静かに頷かれた。


「私は、女性の機微(きび)に疎い。あなたのことを良く知らぬ故に、何をすればあなたが心地好く過ごせるのか……全く思い付かない」

「お気遣いなどなさらなくて構いません。孫権様にも尚香さんにも、良くしていただいています。私は、今のままで十分ですから、どうかそこまで悩まれないで下さいまし」


 姉だったら、ここぞとばかりにこんな服が欲しい、あんな装飾品が欲しいとつらつらと要望を並べるだろう。
 だけども、私は化粧や衣服のことにはとんと疎い。だからこれは、姉のようには出来ない。

 なるべく緊張が伝わらぬよう努めて穏やかに言うと、孫権様は私を見据え、また沈黙した。

 無口な方だから仕方の無いことなのは分かっている。
 でも私の顔を見て黙り込んでしまうのは止めて欲しい。とても気まずいし、本当は何もかも見透かされているのではないかと不安が首をもたげる。

 孫権様はお茶を置き、ようやっと口を開いた。


「何か、欲しい物は、」

「いいえ、今のところは、何も」

「行きたい所などは」

「……いいえ」


 一瞬間が開いてしまったのは、柴桑に来た時に見た市場の賑わいが丁度思い出されたからだった。一度だけで良いから行ってみたいな、なんて、今でもちょっとだけ思っていた。

 孫権様が反応したのに少しだけ焦ったけれど、幸い追求は無かった。

 代わりに、菓子を一つ取って私に差し出してきた。
 食べろということなんだろう。

 私は、それを一口頬張り目を丸くした。


「……美味しい」

「そうか……」


 孫権様は安堵した様子で目を伏せた。
 うっすら笑っていたように見えたのは、気の所為だろうか。
 まさか、彼が笑う人だとは思わなくて、私はつい孫権様の顔を凝視してしまった。


「……何か?」

「あ、い、いいえ……このお菓子、とても美味しいですね。上品な甘さはしつこくないですし、食感も不思議……」

「尚香が侍女に買わせた輸入品だ。秀鈴殿が気に入られたならばあれも喜ぶ」

「後で尚香さんにお礼を言わねばなりませんね」

「そうしてくれると、有り難い」


 ……あ、また笑った。
 今度ははっきりと分かるくらいの柔らかな微笑だ。
 見目が良い人だから、滅多に見れない――――私だけかもしれないけれど――――孫権様の微笑は、胸をつつかれるような……痛痒い感触を得た。

 知らぬうちに、また孫権様を凝視してしまったようだ。
 不思議そうな顔で名前を呼ばれ、はっとして俯き謝罪した。


「先程から、私の顔に何か付いているのだろうか」

「ち、違います。ただ、初めて笑われたなと」

「……そうか」


 孫権様は目を伏せ、何事か思案なさっているようだ。


「孫権様?」

「……そうだな。私には、愛想が無い」

「あ……そ、そう言う訳では、」

「あなたが素の姿でいられないのも、その所為かもしれない」


 どきり、と心臓が跳ね上がった。
 また、言われた。

 笑顔を取り繕ってそんなことはありませんと言うと、孫権様は「そうか」と沈黙した。

 それから口を開いたかと思えば、柴桑に集まる貿易品について話してくれた。

 私の態度については言及せず、ずっとそればかりだった。
 気を遣われているのだと分かっているから、私は新鮮な話に惹かれながらも落ち着かなかった。

 やっぱり、孫権様は気付いている。
 私が誰かのふりをしていることまでは分からないようだけれど、私らしく振る舞っていないことだけは察知されているようだ。

 嗚呼、どうしよう。
 考えたって、頭の悪い私に名案が浮かぶ筈もなかった。





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