私は、とある花街の歌妓の一人。歌と舞で見る人の心を癒し、慰める。
 曹操様の妾(めかけ)にする為に、曹嵩様に買い取られた。
 半ば強制で、曹操様にも拒否権は与えられなかった。

 曹操様に私を与えた理由は、恐らくは彼に子供を作らせたいから。
 けれども彼は、私には何の興味を抱かない。
 父親の顰蹙(ひんしゅく)を買わない為にままに気を遣う程度で、顔を合わせるのは私が時候の挨拶に部屋を訪れた時だけ。

 冷たい方だけれど私は曹操様のことを嫌ってはいない。

 初めて顔を合わせた時、私は曹操様を憐れな方だと思った。

 満たされない寒い心に震え、暗いものを閉じ込めた可哀想な方。
 だから、私は曹操様に対し、憎いとも厭わしいとも思わなかった。

 むしろ、どうすれば彼の心を少しでも慰めることが出来るのか考えた。
 結果、せめて夜は安らかに眠れるように、毎夜願いを込めて自分の部屋の窓辺で歌った。
 大したことは出来ない賤(いや)しい身の女であるけれど、私の歌で曹操様の心が、僅かにでも救われれば良い。
心から願いながら、私は一日も欠かさなかった。

 ただの、私の自己満足だ。
 自覚はある。
 寵愛が欲しい訳ではない。出来る限り、曹操様を癒して差し上げたいのだ。
 花街で、富豪の家で、私は私の歌を聴く人の心に安らぎが訪れることを願って、歌った。

 私は、ずっと歌い続けた。


「○○様。最近は日が落ちると寒うございます。それに、空気も乾燥しておりますし、暫くは歌われるのはお止めに……」

「いいえ。私なら大丈夫よ。何巡(かじゅん)。花街の部屋に比べたら、ここはずっと暖かいわ」


 前髪で目を隠した少女が私の側に立ち囁くように諫めてくる。
 上質な衣を纏ってはいるけれど、その下は病的に細い腕と足が覗き、同様に細過ぎる首を古い傷痕が一巡する。
 何巡。私が身の回りの世話を頼む為に買った奴隷の少女である。表向きではそうなっている。何巡自身もそう信じている。
 実際はただ、虐げられている小さな子供を放っておけなかっただけ。これも私の自己満足に過ぎないから、誰に言うつもりもない。

 私にとっては奴隷と言うより可愛い妹のような何巡は、私からお願いして侍女としてこの屋敷に入れていただいた。

 真面目だけれど危なっかしいお陰で、他の侍女も彼女のことを助けてくれる。礼儀作法についても、交代で指導してくれているようだ。
 私にも何巡にも本当に良くして下さって、有り難いこと。


「私なら本当に大丈夫だから。あなたはもう寝てしまいなさい。あなたの方が心配だわ。私よりもずっと身体が弱いもの」

「昔よりは、だいぶましになりました」


 また、囁くように言う。
 何巡の声が小さいのは、幼少時の酷い虐待の後遺症なのだそう。花街の歌妓を中心に診て下さるお医者様がそう言っていた。
 それも周囲は分かっていてくれているから、ちゃんと聞こえるように必ず顔を近付けて聞いてくれる。
 特に、夏侯惇様や夏侯淵様には良く気を遣っていただいているようで、私もほっとしている。


「そうね。でも、だからと言って油断してはいけないわ。私、ずっと側にいてくれる何巡が風邪を引いてしまったら、心配で、寂しくて、きっと夜も眠れなくなると思うの」


 そう言えば、何巡は顔を逸らし、引き結んだ唇をもごもご動かす。照れているのだ。本当に可愛い子。
 渋々従ってくれた何巡を、隣の部屋に帰し、私は窓辺に座る。夜空を見上げ、すうっと息を吸った。

 願わくは、曹操様の心にささやかにでも安らぎを――――。



‡‡‡




――――なんて、恥ずかしい。
 何巡の言う通り風邪を引いてしまった。
 しかも、咽をやられて声も醜い。

 そらみたことか、と何巡には怒られてしまうし、侍女達は皆何巡の味方。私を擁護してくれる人は一人もいない。
 だって、なんて口答えすると大勢で叱られてしまう。

 心配してくれているのは嬉しいこと。
 でも、さすがに、私の味方をしてくれる人が一人くらい、いてくれても良いと思うの。


「酷いわ。皆さん揃って病人を叱るなんて」


 醜い声で不満を言うと、すぐさま口撃が返ってきた。


「お諫めしているのです! 何巡をこんなにも心配させる○○様が悪うございますわ。曹操様も、数日休んだくらいで、お気になさりません!」

「それはそうでしょうけれど」

「風邪が治るまで、歌は禁止致します。夜は交代で一人ずつ○○様のお部屋に寝泊まりして、しっかりと見張ります故、覚悟して下さいまし!」


 まあ、酷い。
 私が不満を言っても、彼女達は聞いてはくれない。
 どうやら本当に、風邪が治るまで私に歌わせてはくれないらしい。
 私は寝台に臥(が)して彼女達に背を向けた。

 侍女達は完治するまで絶対に寝台から出ないように口々に私に言い、私を監視する為の時間を作る為に仕事へ向かった。
 身分賤しい私が、高貴な出の侍女達から慕われているというのは、本当に有り難いことだ。
 だけどこう言う時は、少しだけ、ほんの少しだけ、不満を感じずにはいられない。

 ……でも、この咽では醜い歌になってしまうわ。
 私は咽を押さえ、溜息をついた。

 寝台の中で大人しく横になっている間、咳が絶えなかった。咳をすると咽も痛い。
 どうして風邪なんて引いてしまうのかしら。しかも、咽をやられるなんて。
 寝返りを打ちつつ、また咳をする。

 退屈だ。
 いつもなら何巡と談笑したり、刺繍をしたり、楽器を弾いたり、歌を歌ったり、自由に過ごしていたのに、今日は何もかもを禁じられている。
 何もすることが出来ないのはこんなにも辛いものだったのか、初めて知った。

 いっそ寝てしまえば楽なのに、睡魔は何処に行ってしまったのか、一向に眠くなってくれない。

 ようやっと夕方になったかと思えば、侍女達の監視によって更に過ごしにくくなる。私が就寝するまで彼女達は絶対に私の部屋から出ていかなかった。

 そんな、暇過ぎるのに自由の利かない苦しい日々を私は過ごさざるを得なかった。
 こんな生活が、完治まで続くのかと思うと、少し気鬱だ。

 しかし、私が風邪によって歌えなくなってから四日目の昼、意外な人物からの唐突な訪問を受けた。


「○○様。曹操様がお出でです」


 不安そうに言う何巡に、薬湯を飲んでいた……と言うより飲まされていた私は驚いた。
 曹操様が、私の部屋に?
 一体何故?
 まさに青天の霹靂(へきれき)だった。
 風邪がまだ治ってないことを理由に断ろうかと何巡が提案したが、妾として、仮にも夫の訪問を拒んではいけない。
 風邪を移してしまうかもしれないからあまり長居はしないで欲しいと伝えて、曹操様を中に招き入れた。

 久方振りに目にする曹操様は、前と同様に凪いだ表情をされている。
 私の寝台に近付こうとした彼を、何巡がすかさず、


「曹操様。○○様はまだお風邪が完治しておられませぬ故、御身に移らぬとも限りませぬ。何とぞ、不用心に近付かれませぬよう」

「……分かった」


 曹操様は扉の側に立ち、私をじっと見つめてくる。
 私は謝罪をして、薬湯をゆっくりと飲み干した。

 と、それを見計らったのか。


「酷いのか?」

「え?」

「……酷いのか?」

「あ……風邪のことでしょうか」

「……」


 こくり、と頷かれる。

 これに答えたのは、私ではなく何巡。


「お医者様のお見立てによりますと、あと二・三日用意した薬湯を欠かさずに安静にしていれば問題無いとのことにございます」


 曹操様は何巡を見、「そうか」と。それから私の方を見て、沈黙。
 それから、もう用は済んだらしく、安静にするようにと私に言い、足早に部屋を出て行ってしまった。
 私は何巡と顔を見合わせた。


「どうされたのかしら」

「心配されたのでしょう。……正直、意外です」

「そうね。てっきり、存在すら忘れ去られているのではないかと思っていたわ」


 「さすがに、それは……」何巡は得も言われぬ顔で否定する。私も、言い過ぎたと思うわ。
 でも、よしやそうでも、やっぱり歯牙にもかけられていなかったとは、事実ではないかしら。

 だって私が曹操様の妾になったのも、花街を訪れた曹嵩様に気に入られたからだ。曹操様に見初めていただいた訳ではない。
 初見での印象では、今の曹操様は女を抱き、子を残すということに興味を持たれていない。
 だから、彼が私に興味が無いのも、当然のこと。
 そう思っていたから今回の曹操様の訪問は私も何巡も、きっと他の侍女達すら、予想も出来なかった。


「私、気に障ることでもしてしまったのかしらね」

「夜中に歌うのを、五月蠅く感じられていたのかもしれません」

「曹操様を理由に私に止めさせようとしないでね、何巡」


 先手を打つと、彼女はむ、と唇を尖らせた。

 けれど……そうね。
 もしかすると、本当に何巡の言う通りかもしれないわ。
 結局は私の自己満足。曹操様の心が少しでも楽になればと勝手にやっていたことだもの。曹操様に鬱陶しがられているとしたら、止めなくてはいけない。
 風邪が治った後も、歌わずにいましょう。
 何巡には言わず、心の中で、私は決めた。



‡‡‡




 おかしいわ。

 私はまた突然の訪問者に、驚いた。

 風邪もすっかり治って、私はいつもの生活に戻った。
 夜に歌うことを止めた以外は、同じ日々だ。

 曹操様もきっと私のことなどもう気にかけていないだろう――――そんな予想は、また覆された。

 しかも、私の目の前に座っていらっしゃるのに、ずっと無言を貫いている。
 何か用があるのなら、遠慮無く仰ってくれても良いのに、口を閉じられたままなのだ。
 これは一体、どういうこと……なのかしら。

 曹操様が訪れるまで、私は何巡に贈る服を縫い、刺繍をしていた。
 剰(あま)りに沈黙が続くものだから気まずくて再開したいのだけれど、曹操様が前に無言で座っている手前、憚(はばか)られてしまう。
 こんなことなら、何巡を下がらせるものではなかったわ。

 嗚呼、どうしましょう。
 ここまで無言で無表情でいられると、話しかけるのも躊躇(ためら)われる。
 表面上には決して出さずに曹操様の動向を窺う。

 曹操様は、やっぱり無言を貫く。

 ……私は、どうすれば良いのだろう?
 長く続き過ぎる沈黙に耐えかね、私はとうとう口を開いた。


「あの……曹操様。何か、ご用がお有りなのではありませんか」

「……」


 曹操様は私を見つめてくるけれど、返ってくるのは、無言だ。

 私、何か悪いことでもしてしまったかしら?
 ……いいえ。そもそも風邪の折にご訪問いただいて以降、私は曹操様と会っていない。無礼の働きようがない。何巡達も、そう言ったことには注意しているのだから、大丈夫である筈。
 考えれば考える程、分からない。


「……」

「……」


 私は諦めた。

 でも曹操様はまだじっと私を見つめていて。
 何をなさりたいのだろうと、溜息が出てしまいそうになった時、


「……わないのか」

「え?」



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