私と同じ顔で、孫権様に媚びを売らないで欲しい。
 傲慢さが滲み出ている嫌らしい笑顔を孫権様に――――いいや、ここにいる人達の目に晒さないで欲しい。

 おかしいな。
 この人達が変わっていないことなんて、手紙で分かっていたじゃないか。
 どうして、私は分かっていたことを実際目にして、こんなに失望しているんだろう。


「お義姉様……よろしいんですか」


 不安げな尚香様に、曖昧に笑って見せるしか無かった。

 この場で私が咎めれば、彼らにとっては大きな恥だ。きっと厄介なことになると確信があった。

 孫権様の盃に酒を注ぎ足していく姉の、まるで自分が正妻だとでも言わんばかりの堂々とした態度に、何人かの文官や武官が苦言を呈(てい)したけれど、酔いが回り始めた両親の激しい姉至上主義な反論を受け、気味悪がって離れた。私へ同情の眼差しを向けられた。

 周瑜殿が苛立たしげに私を呼んだ。


「少し良いか」

「……はい」


 心配そうに周瑜殿と私を見上げる尚香様の頭を撫で、


「ちょっと話してくるだけだ」


 とだけ言って私を広間から連れ出した。

 孫権様に一言断りを入れておこうとしたけれど、すぐに戻るからと周瑜殿が声をかけて私の腕を引っ張った。

 連れて行かれたのは、宴が行われている広間からそう遠くはない回廊だった。
 女官が酒や料理を持って走っていくのとすれ違う。

 周瑜殿は私を柱の側に立たせ、彼自身は私からちょっとだけ距離を取った。


「アンタな、もう家族にびくびくする必要は無いんだぜ? あの女じゃなくて、アンタが孫権の妻なんだ」

「……はい……」

「いや、そういう顔をさせたいんじゃなくてな……アンタにはもっと自分に自信を持ってもらわないとこっちも困るんだよ」

「……申し訳ありません」

「だから、謝るんじゃなくて……」


 困らせると分かっていながら、私は何度も謝罪した。

 周瑜殿が舌を打つ。


「……話が進まないな」

「申し訳、ありません……」

「だから……ああ、もう良い。とにかく、アンタはもっと堂々としていてくれ。アンタは孫権に気に入られて妻になったんだ。孫権が気に入る程のものがアンタにあったってことだろ? でなければ、少なくともオレは死罪か、それに匹敵する厳しい処罰を与えるつもりだった」


 無言で俯く私に、周瑜殿は言葉を続ける。


「孫権が大事に思っているならオレも尚香もそれを尊重してアンタを守る。今回孫権がアンタの家族を呼んで宴を開くことにしたのは、アンタが塞ぎ込んでいるのは家族と仲違いしてここにいることを気に病んでるんじゃないかと気を回したからだ。だが、実際呼んでみるとあの有様で、アンタの顔色もどんどん悪くなっていく一方。アンタは本音を言わない。アンタは今何を思ってる。孫権やオレじゃ駄目なら、尚香には言えるか?」


 私が今、何を思ってるか、なんて。
 そんなの。


「……私が知りたい……」


 ぽろっと漏らしてしまった言葉に、慌てて頭を下げた。


「い、いえ、何でもありません。私……少し気分が悪いので、一旦部屋で休みます」

「○○、待てって」

「申し訳ありません」


 背を向けた私の腕を周瑜殿が掴む。

 それを振り払って私はその場から逃げた。

 部屋に飛び込むと、寝台の上に無造作に置かれた小さな小箱が目についた。
 質素な細工のそれは幼い私が父に貰った最初で最後の贈り物だ。姉の身代わりになるのだから私の私物は一切持って行くなとキツく言われていたから、家に残したままだった。

 嫌な予感はしたけれど、使い古したそれを懐かしさから手に取って蓋を開けた。

 昔は綺麗な石や気に入った形の木の実を入れていた中を見て――――絶望する。

 中には、小さな黒い丸薬が一つ。

 それを見て、私は、


 嗚呼、また死ねって言われてるんだ。


 と察しが付いた。
 これは家族が持ってきて、使用人にここへ届けさせたのだろう。
 ただの薬を、彼らが入れておく訳がない。

 これは、毒だ。

 全身から力が抜け、その場に座り込む。
 大切にしていた小箱を床に叩きつけた。

 蓋が外れ、丸薬がころころと寝台の下へ転がっていく。
 そこにはあの匕首があった。
 乾燥し始めた毒薬が塗りつけてある匕首が。


 呆然と丸薬を目で追っていると、頭の中に天罰という言葉が浮かんだ。


 何も考えずに匕首と丸薬を寝台の下から出し、二つを見下ろした。

 そして、どちらを使えば楽になるだろうと、思案した。

 入れ替わってもこの殺される。
 この丸薬はそう言うことだ。

 どちらの毒を使えば、苦痛は無いのだろうと考えているうち、段々と視界が滲んできた。
 ぼろぼろと涙がこぼれてきて、手から匕首と丸薬が落ちる。
 また転がっていく丸薬をぼやけた視界で追い、一人、声を押し殺して泣いた。

 死にたくない。
 また、それが邪魔をする。

 罰は受けなければならない。

 でも。

 姉とそっくりな顔で死にたくない。
 家族が清々する為に死にたくない。
 親から与えられた結末で死にたくない。

 死にたくない。
 死にたくない。
 死にたくない――――……。

 泣いているうち、宴で食べた物を吐いた。
 それでまた取り乱して泣いて、また吐いた。

 精神的なものだとは自分でも分かった。
 そして、頭がおかしくなりつつあるのも自覚していた。

 今の私は醜い。
 姉と両親が見たら蔑んだ目で見下して、汚いと罵るだろう。
 胸が痛いのに、吐き気が強まっているのに、何故か笑いが出た。泣きながら、笑ってた。

 そのうちもうどうでも良くなって、吐瀉物が少しかかってしまった匕首を呆然と眺め、だらだら涙を流していた。その時の私の顔は死人よりも酷かったかもしれない。
 耳鳴りがして、頭が痛い。
 何もする気が起きなくて、片付けなくちゃと思うだけで動かなかった。

 尚香様が部屋を訪れたのはそんな時だった。

 返事を返すのも億劫で、だんまりだった。

 それを不審に思ったのだろう、尚香様は謝罪しつつも部屋に入り――――私の様子に悲鳴を上げた。


「お義姉様!? お義姉様!」


 一緒にいた侍女達が慌てて私を寝台に座らせ、床の掃除を始める。

 その際に侍女が匕首と丸薬、小箱を見つけ、尚香様に相談する。

 騒ぎを聞きつけた兵士達に見せると、匕首に塗りたくられたものを見るや青ざめて、丸薬と匕首を持って何処かに走り去っていった。

 その後、侍女が匕首に添えられていた一言の手紙と、見つからないように隠していた筈の手紙を見つけ大騒ぎしているのを、私は他人事のように眺めていた。
 本当に何もかもどうでも良くなって、尚香様に抱き締められながら、ただただ何も思わず考えず、無言で泣き続けた。



‡‡‡




 真っ暗な部屋の中で、私は目覚めた。

 暗くてここが何処なのか分からない。
 寝ているのは寝台だと分かるけれど、これが城で過ごしてきた部屋の寝台なのかどうかは分からない。

 起き上がり、私はぼうっと闇を見つめた。
 暗闇に慣れてきた目で、辛うじてここが柴桑城で私に与えられている部屋なのではないかと予測する。

 目がヒリヒリする。
 私、何してたんだっけ。
 記憶を手繰り寄せる。
 けれど、部屋に戻った辺りから記憶が曖昧になっていた。

 誰かが部屋に来たような気はするけれど――――。


――――キィ。


 その時、ふと扉が開いた。
 誰かが入ってくる。


「……だれ?」


 呂律が回っていない声で誰何(すいか)する。

 私はまだ正気に戻れていないのだろう。

 私はこちらに近付いてくる、男性と思しき誰かに、恐怖は無く、誰だろうと素朴な疑問を抱くだけだった。それを深く考えようとも思わなかった。

 人影は寝台の側で立ち止まった。

 闇の中から微かに浮かび上がる輪郭に何となく見覚えがあるような気がする。
 でも、誰なのかは瞭然としない。

 人影が私へと手を伸ばす。
 私の頬を撫で、そっと私を抱き寄せる。
 密着すると濃い酒の匂いが鼻を突いた。

 相手の体重がのしかかり、一緒に寝台に沈む。

 額に濡れた温かい物が触れた。

 その後は、動きは無く。
 穏やかな寝息が聞こえてきた。
 私を抱き締める腕はしっかり力を込めたまま。

 じんわりと伝わってくる体温に、身体から力が抜けていく。
 安堵感を与えてくれる相手に身を委ね、私は目を伏せた。

 ぼそりと、私の名前を呼ぶ相手の掠れた声が、とても心地良かった。



‡‡‡




 目覚めた直後に目の前に孫権様の顔があったのに、心臓が飛び出す程に驚いた。
 咄嗟に身を離そうとしたけれど抱き締められてて逃れようとすると力がこもってむしろ密着してしまう。

 どうしてこうなってるの!?
 何とか抜け出そうと腕を解こうと苦心しながら、記憶を辿り――――動きを止めた。

 そうだ……宴……あの人達は!?
 部屋に戻った後の記憶が無い。
 姉達がどうなったのか分からない。

 孫権様に抱き締められて寝台で寝ている経緯は分からないけれど、彼がいるということは私と姉は入れ替わっていないということだ。

 全身から血の気が引いた。
 人に抱き締められているというのに一気に寒くなった。

 再び孫権様の腕の中から逃れようと身を捩ると、孫権様の身体が微かに動いた。
 瞼が痙攣し、ゆっくりと押し上がる。
 私と間近で目が合うと、孫権様は暫し制止し、目を丸くした。


「……っ!!」


 私を放すと寝台から転がり落ちるように離れ、口を押さえて目を白黒させる。

 私が身を起こして孫権様に声をかけようとすると、


「……っすまなかった……!」


 初めて聞くような焦った声だ。
 頭を深々と下げた彼は、


「すまない……昨夜、宴の後部屋で一人酒を飲んでいたところまでは覚えているのだが……まさか、私は弱っていたあなたを……」

「ええ、と……」


 私もどうして孫権様と一緒に眠っていたのか分からない。
 だからどう言おうか迷っていたのが、妙な風に取られてしまったようだ。

 彼は青ざめ、また深々と頭を下げた。


「あ、あの……た、多分、孫権様のお考えになっているようなことは……えと、そう、服! 服も乱れていませんから……っ」


 お互い服は多少の乱れはあるが、そういった行為をした形跡は無い。
 それに酷い空腹感はあるものの身体には他に違和感は無い。

 そんな行為をしたことが無いから、身体がどうなるのか分からないけれど……多分私はまだ生娘のままだと思う。思いたい。


「そ、孫権様……私は――――」


 その時だ。


「何だ、二人とも目が覚めたのか」


 周瑜殿が唐突に部屋に入ってきた。

 孫権様を見るなりにんまり笑って、彼の肩を叩き、


「どうだった、初めての女の感触は」

「「!!」」


 揶揄(やゆ)された孫権様は、青ざめた。
 よろめき、顔を押さえた。


「やはり私は……何ということを……」

「ち、違、」



- 11 -


[*前] | [次#]

ページ:11/88