※注意(嘔吐シーン)



 姉の身代わりとして周りを欺いた私は孫権様の温情で許された。

 けれど私は、私に対する処遇――――このまま孫権様の妻として残ることを拒んだ。私には、そんな優しい処遇を受け入れる資格は無いと思ったから。

 私は、ここにいてはならない。
 家にも二度と帰れなくなってしまったけれど、私が犯した失態を考えれば、仕方がない。
 本来ならば処刑されても当然のことをしでかしてしまったのだからと、私はこの城からも、家族のもとからも消えることを選んだ。

 なのに、尚香――――様や周瑜殿に毎日のように諭されて、最終的には尚香様の涙に勝てずに、自分の決意を曲げて処遇を受け入れることになってしまった。

 あの一件について関係者以外に知らされることは無く、また孫家が実家とどのように話をつけたか私が顛末(てんまつ)を知ることも無かった。
 だから、何も気にしなくて良い、私はここにいて良いのだと、ここを私の帰る場所にして良いのだと、孫権様達は言った。

 妻になった以上は跡継ぎを産まなければならないけれど、孫権様はまず私の心を癒すのが先だとあれこれ気を遣って下さる。

 尚香様も毎日のように私の部屋を訪れお茶に誘って下さるし、周瑜殿も街で買い過ぎてしまったと色んなお菓子や小物を分けて下さったりする。

 情に流されて安易に受け入れてしまった私は、優しくされればされる程、申し訳なさで息苦しくなっていった。

 祝言を挙げてしまった以上もうどうにもならないけど、どうしてあそこで折れずに自分の主張を通さなかったのかと後悔した。

 私は姉の我が儘を許し、呉の君主を欺いた罪人だ。
 孫権様達が私を許しても、それは未来永劫変わらない。

 罪人がこのまま優しいあの方の妻でいて良いのだろうか?
 良い訳がない。
 罰は必ずくだるだろう。

 あの優しい処遇を受け入れるべきではなかった。
 私は許されてはいけないのだと、彼らの優しさに甘えてはいけないのだと、勘違いしないよう必死に自分に言い聞かせた。

 私は罪人だと、家族からの手紙にも書いてある。

 姉同様、飛ぶ鳥を落とす勢いだった曹操軍に大勝したことで呉への見方を変えた家族は、呉の君主の室という立場に高い価値を見出した。

 家族の誰のものでもない筆跡で書かれた手紙は決まって、私が如何に出来の悪い女か、姉が如何に素晴らしい女か、色んな角度から見たそれぞれの評価を述べ姉と私の雲泥の差を明らかにするところから始まる。
 家にいた頃から周りに言われていたことと変わらない酷評の後は、家格に不相応だった私を、本来ならば捨てる筈だったところを温情で今まで育ててやった、その恩をお前は忘れたのかと厳しく責め立てる。
 そして、呉の君主を欺いて富を貪ろうと図(はか)り、親不孝を働いた罪人は償いをしなければならない、その一環として今お前が座っている椅子を、この世で最も相応しい姉に譲るべきであると断言して終わる。

 段々と脅迫が混ざってきているが、毎回全く同じ内容。

 手紙は月に一度、接触を禁じている孫権様達に見られないように、人当たりの良い侍女を選んで遣わし兵士にお金を握らせて私へ手紙を届けさせる。

 私にも、手紙の文面でくれぐれも孫権様達に悟られぬようにすぐに廃棄しろと指示している。

 人に見つからないように廃棄する方法は私の頭では思い付かなかったので、誰も見ないだろう場所へ隠している。
 今のところ誰にも見つかっていないから、かさばって隠しきれなくなるまでは大丈夫だと思う。

 手紙を隠すのは、家族の為と言うよりも、孫権様達の目に触れて要らぬ憂い事を増やしたくなかったから。
 これ以上私達のことで、優しい人達を振り回してはいけない。そう思ったから、私は手紙を隠し、手紙の指示にも従わなかった。

 家族からすれば、出来損ないの反抗が続き、さぞ腹立たしいことだろう。


「『言う通りにしなければ、死ぬことになる』……か」


 とうとう殺害予告にまで発展してしまった手紙を見下ろし、私は溜息をついた。


「……そうよね。あの人達は、私なんか簡単に殺せるのよね」


 姉と入れ替わってこの城を出たあの時のように。

 不出来の自覚があるから蔑まれることには慣れているけど、さすがに私が死んでも家族はどうとも思わないというのは、正直堪える。

 たとえ男を知った未婚の姫でも、あの人達は姉の方が大事なんだわ。
 私なんて、いたら目障りなだけ。
 そんなこと、分かり切っていたことなのに。

 それでも私は、今でも、心の何処かで彼らにも私に対して少しくらいは情があると願っていたんだろう。
 落胆する自分を自覚して、苦笑する。

 もしこれで言う通りに入れ替わったら、今度こそ用済みの私は殺される。

 入れ替わった姉も、すぐにバレて厳しく処罰されてしまうだろう。
 同じ手は通用しない。そんな簡単に騙せる人じゃない。

 それは両親だって分かっている。だって孫権様がじかにお話をされたんだから。
 だのにまだ入れ替われと私に強いてくるのは、多分自信があるからだ。
 姉と触れ合えば、必ず私以上に優れた女だと分かり、私以上に気に入ってくれると。

 私を選んだのは、姉を知らないからだ。私という卑しき女に籠絡されて、その目が曇ってしまっているのだ。
 私と入れ替わって姉を知れば、洗脳が解けて姉の魅力に気付くに違いない――――本気でそう信じ込んでいるんだと思う。

 私も、姉のようだったなら、少しはましな人生だったのかしら。
 なんて考えても、詮無きこと。
 今更生まれのことをあれこれ考えたってどうにもならない。

 殺されても、それは私への報いだ。
 本来裁かれて死ぬべき罪人の私が、孫権様達に許され優しくされ続けるのは間違っている。


「私に、孫権様の妻である資格は無いのよ……私にはいつか罰が下る……いつか、必ず……」


 自分に言い聞かせるように囁く。
 手紙が届く度に、繰り返す。

 微かに痛む胸に見ないフリをして――――。



‡‡‡




 唐突に、周瑜殿に訊ねられた。


「アンタ、何かしたいこととか無いか?」


 いつものように城下で買い過ぎたと言って私の部屋にお菓子を持って現れた周瑜殿は、答えられずに俯く私に、困ったように続けた。


「アンタが肩身の狭い思いをする必要は無いんだぜ?」

「……」

「そりゃあ、確かにアンタの姉や親がしたことは、孫権に対する侮辱だ。許されることじゃない。だが、孫権がアンタを気に入って、アンタだけは許して傍に置くと決めた以上、オレも尚香も、アンタを責めたりはしない。アンタはもう自由なんだ。好きなことをして良い」


 優しい言葉だ。
 その言葉が、私を突き刺す。
 頭を撫でられた。
 優しくされればされるだけ、私は顔を上げられなくなってしまう。

 そのうち、周瑜殿も諦めたようで、また次来る時までに何か考えておくように言い置いて、仕事へ戻っていった。

 一人になって、私は寝台の下に隠した荷物を取り出す。つい先程届けられた荷物だ。
 見つからなくて良かった。

 初めて布に包まれた何かが届けられたことに、少し嫌な予感がした。
 大きさは大体私の手首から肘にかけてと同じ程。
 厳重に布で覆われた中身を取り出して、私はぎょっとした。

 匕首……だ。
 しかも、鞘から抜けば、刀身に軟膏のような物がべったりと塗りつけてある。
 一緒にくるまれていた手紙を恐る恐る読んで、ぞっとした。

 手紙にはたった一言。


『罪人は潔く死ね』


 刀身に塗られているのは、間違い無く毒……。
 どんな毒なのかは分からないけど、ちょっと切っただけでも確実に死ぬだろうことは察せられる。

 自害しなければ、本当に殺害予告通りに私を殺しに来るだろう。あの時、みたいに。

 私は匕首と手紙を交互に見、深呼吸を一つ。
 鈍い光を放つ刃を手首に近付ける。

 押し当てて、ちょっとだけ皮膚を裂けば、私は死ぬ。

 また、深呼吸。

 ……。

 ……駄目だ。

 怖い。

 肌に触れることの無かった匕首を下ろし、手紙と一緒に布にくるんで寝台の下に隠した。
 自分で自分の命を絶つ程の勇気なんて、私は持っていない。

 罪人の私は報いを受けるべきだと分かっているのに。
 自らを殺すことが私に下った罰なのだとすれば、逆らってはいけないのに。

 死ぬのが、とても怖い。

 私は寝台に座り、両手で顔を覆った。

 その日の夜にも、もう一度匕首を握った。
 でも、やはり皮膚に当てることすら躊躇ってしまう。

 毎日のように、匕首を出した。

 だけど、情けないことにことごとく死への恐怖が勝ってしまった。

 日を経るごとに、次の手紙に対する焦りも生じ、心が押し潰されそうになる。
 それを、他人の前では表に出さないようにするのも辛くて、知られてしまうことが怖くて、体調不良を理由にお茶の誘いを断ったり、中に入れずにそのまま帰ってもらうことが増えた。

 心配をかけているのが申し訳なくて、また苦しくなる。

 余裕が無くなっていくのが、自分でも分かった。

 罪人は罰を受けなければ、でも怖い。
 早くしなければ知られてしまう、でも怖い。

 恐怖が邪魔をする。

 気付けば、家族からの手紙が届く頃になっていた。

 今度は、外見は普通の手紙で、中身の確認もまだなのに座り込むくらい安堵した。

 中を開き、文字を追う。

 内容が、今までと全く異なっていた。


「う、たげ……?」


 孫権様のご厚意で、宴に家族で呼ばれたと、それを喜ぶ手紙だった。

 私がやっと罪を償う気になって、父母は嬉しく思う、娘もお前の罪を許すと言っている。
 さあ、この通りに動き、その座を娘に渡すのだと、初めて父の筆跡で私でも分かる杜撰(ずさん)な計画が書かれていた。聡明な父が考えたにしては、あまりに稚拙だった。

 こんな穴だらけの計画、絶対看破されるに決まってる。
 呆れを通り越して、彼らのふてぶてしさに孫権様達へ申し訳なくなってくる。


「でも、どうして宴なんて……」


 その時だ。


『○○殿。私だ』

「!」


 孫権様の声が扉の向こうから聞こえ、咄嗟に口を押さえた。
 慌てて手紙を枕の下に隠し、私は深呼吸をしてから扉を開けた。


「お待たせ致しました……」

「……何か、取り込み中だっただろうか」

「いえ。少し、うとうとしておりましたので……」


 そう言うと孫権様は納得してくれたようだ。
 ほっとして、孫権様を部屋へ入れ、いつものようにお茶を用意した。


「すまない」

「いえ……私の方こそ、いつもお茶しか出せずに申し訳ありません……」


 何かお茶菓子をお出し出来れば良いのだけれど、以前周瑜殿が持ってきてくれたお菓子は尚香様との席で食べてしまったし、孫権様達のご厚意で侍女をつけることを断った私の世話をしてくれる女官数人に仕事以外に頼みごとをするのは憚(はばか)られる。

 孫権様は構わないとお茶を一口飲み、私に座るように促した。
 向かい合うように座ると、


「本来ならば、○○殿の意見を求めるべきだったのだろうが……あなたの家族を呼んで宴を開くことにした」

「宴、ですか?」 さっきの手紙にもあったこと。
 私は初めて知ったフリをした。


「あの人達も……」

「あなたが嫌だと思われるならば、今ならまだ止めることも出来る」

「……いえ。私のことなら、どうかお気になさらず」


 正直、孫権様がどのような意図で接触を禁じていた筈の私の家族を宴に呼ぼうと思ったのか気にはなった。
 訊ねることも出来たけど、しなかったのは家族の話になったら手紙のことがバレてしまうと、守りに入ったから。

 孫権様は私をじっと見据え、


「……○○殿。あなたはどうしたい?」

「どうしたい、とは?」

「このまま私の決めた通り家族と絶縁するのか、多少なりとも繋がりを残しておきたいのか。もしあなたが家族のことで憂い事があれば、あなたが望むままにしよう」


 抑揚の無い声に、少しだけ悲しげな響きがあった。

 私は、困惑した。
 また胸が苦しくなる。


「私、は……大丈夫ですから。私のことも、家族のことも、孫権様の心のままになさって下さい。元々、私は罪を免(まぬか)れる代償として家族との接触を禁じられた身ですから、家族は少し反発するかもしれませんが、私は孫権様の判断に従います」


 家族との繋がりは、孫権様の知らないところにある。
 孫権様がどうなさろうと、家族からの要求は止まないのだ。

 努めて笑って言うと、孫権様の眉が一瞬動いた……気がする。
 目を伏せて暫く沈黙した後、


「……やはり、まだあなたは、」

「え?」

「……いや、何でもない。宴は旬日後に行う。○○殿にも出席して欲しい」

「分かりました」


 きっと、姉は張り切って着飾ってくるだろう。
 孫権様を籠絡する為に。

 姉は、私よりもずっと頭が良い筈だ。
 だけど、両親と同じく自分の都合の良いように世界は回っていると思い込んでいる節がある。

 だからあれだけ無礼なことをしておきながらも、自分は誰からも許されて当たり前だと思っているのだ。
 そんな訳、ないのに。
 現実は思い通りに動かせるような甘いものじゃない。

 入れ替わりが失敗したことも、私が孫権様の妻になったことも、そう。
 なのに……姉は、まだ世界が自分の為のものだと思っている。

 そんな風に、両親に育てられた。

 姉だけが可愛い可愛いと言う人達だから、私なんて出来損ないは殺したって構わないのだ。
 自害しろと実の娘に匕首を送りつけることが、出来るのだ。

 私って、何の為に生まれて、何の為に生きているんだろう……。


『お義姉様、尚香です』

「あ……はい。どうぞ」


 部屋に入ってきた尚香様は、孫権様がいることに軽く驚きながらも、丁度良いと荷物を抱えた侍女と、私の世話をしてくれている女官を数人率いて私を立たせた。

 尚香が彼女達に頷くと、荷物を――――肌触りの良さそうな色とりどりの布を私の身体にあてがい始めた。


「あの……尚香様。これは一体……」

「宴の為に、お義姉様に服を仕立てて差し上げたいのです。お義姉様のことだから、きっとご自分からは遠慮なさって望まれないだろうと思って。お兄様がいらっしゃるなら、殿方のご意見が伺えますね」


 楽しそうに自分も私に布を当ててこれでもないそれでもないと侍女達と相談する尚香様。

 孫権様はその様子をじっと見つめているが、多分戸惑っていると思う。


「……尚香。私の意見よりも、周瑜に訊ねた方が、」


 む、と尚香様が孫権様を睨む。


「お義姉様は、周瑜ではなくお兄様の妻なのです。伴侶以外の殿方の意見が反映された服を、ご自分の妻に着せて良いんですか?」

「私はそういったことは苦手だ」

「ええ、存じています。お兄様は、私達の案が好きか嫌いか仰るだけで充分です」


 今度は表情に出るくらい困っている。

 私が遠慮して、尚香様の好きに決めてもらって構わないと口を挟むと、尚香様は頬を膨らませて私を睨んだ。睨んだ、とは言ったけれど、可愛らしさが強くて全く怖くない。


「お義姉様! これはお義姉様の為にも大事なことなのですから、お義姉様ももっと真剣になさっていただかないと困ります!」

「え、あ……ご、ごめんなさい……?」


 何故か、私まで怒られてしまった。
 作る衣装が今回行われる宴で私にとってどれ程重要な役目を果たすか、それに尚香様だけでなく孫権様の意見を投影することでどんな効果があるか、懇々(こんこん)と説教され、私は困惑しながらも黙って彼女の熱弁を聞いた。

 話し終えた尚香様は神妙な私に満足そうに笑って頷き、彼女の熱の入り様に気圧されている孫権様に布を押しつけた。


「尚香……」

「さあさあ、ぼうっとしていないでどの色がお義姉様に一番似合うかお兄様も捜して下さい!」

「……あの、」

「お義姉様も! お好きな色があれば遠慮無く仰って下さいね!」

「あ、は、はい……」


 私も尚香様に気圧されて、頷くしか無かった。

 尚香様と、普段から私をもっと飾りたいと言っていた尚香様の侍女や女官達の気合いに、私も孫権様も完全に呑まれて、質問におどおどと答えていった。

 ようやっと解放された時には、私よりも孫権様の方が疲れているようで、座り込んで長々と溜息をついた孫権様にまたお茶をお出しした。



‡‡‡




 宴は、日が落ちてから行われる。

 妻となった私は当然孫権様の隣だと尚香様にも周瑜殿にも断言されてしまい、宴の準備で女官達が慌ただしく城中を駆け回る中、私は部屋で尚香様と侍女と女官達によって、べったりと化粧をされたり、今までほとんど同じような髪型だった髪を複雑に結い上げたり、昔の私では見ることも出来なかった煌びやかな装飾品の数々を取っ替え引っ替えしたり、長時間座らされてまるで着せ替え人形のようだった。

 ようやく解放されたのは丁度宴が始まる頃だった。

 その時にはいつの間にか尚香様もしっかり着飾っていて、美しさと可愛さが上手く同居しているその姿は、私なんかよりもずっと素敵だった。

 私も見目だけは姉とそっくりだから着飾ればそれなりに綺麗にはなる。
 だけど鏡を見せられた瞬間私の心の中に生まれたのは、自信でも喜びでもなく、姉とそっくりになった自分に対する嫌悪感だった。
 見ているうちに私が私じゃない気がして、鏡を叩き割ってやりたい衝動に駆られた。
 すぐに我に返ってそんな自分に驚いた。

 姉としてここに来た時、姉と同じように化粧を施し、着飾った。私の外見が私じゃなくて姉になってしまったと思いはしたけど、嫌悪感は無かった。あの時は諦念と不安が胸を占めていたような気がする。

 それが、今の私は姉とそっくりになった自分を気持ち悪いと思っている。

 ただただ驚いた。

 そんな私を、尚香様達は緊張しているのだと勘違いしてくれて、他愛ない話で私の気を紛らわそうとしてくれた。

 そして、尚香様に連れられて宴の席へ。
 孫権様は広間の奥に座り、空席になっている彼の隣が私の席なのだろう。
 ざっと見渡した広間にはまだ、両親も姉もいない。

 きっと姉を念入りに着飾って到着が遅れているんだろう。
 また、私と入れ替わるつもりで。

 手紙にあった計画通りにいく訳がない。
 そう思っている私は、しかし今になってもどうするべきなのか決められないでいる。

 孫権様は尚香様と共に広間に入った私を見ると微かに目を瞠り、やや慌てて立ち上がった。
 文官や武官から一斉に拱手を受けてたじろいだ私に早足に近寄り、こちらへ、と手を差し出した。

 彼の手を躊躇いつつも取り、席へ導かれる。

 私を座らせて自身も座った丁度その時に、女官が私の家族の到着を報せた。
 自然と全身に力が入ってしまう。
 真っ先に入ってきたのは姉だ。自信満々と言った風情で闊歩(かっぽ)してきた彼女は私を見るなりにっこりと威圧的な笑みを浮かべ、さも当たり前のようにこちらに歩いてこようとした。

 けれど、別の女官に席はこちらですと阻まれ、眉間に皺を寄せた。
 女官はえっと驚いたけれど、すぐに表情を引き締めて仕事をこなす。

 後から入ってきた両親も、不思議そうに側の文官に私を示して訊ねている。
 何を奇妙なことをと言いたげながら質問に笑顔で答えている文官に両親は顔を険しくして、二人で何か話している。
 文官に促され不服そうに私を睨みつけて、私から大きく離れた席に三人並んで座った。

 ぎろっと三人に睨めつけられて、そう言えば、と思い出した。
 手紙には、宴では孫権様の側に自分達を据えるようにとの指示もあったっけ。
 三人は、いきなり計画と違うことをした私を責めていたのだった。

 孫権様が側に座っていた周瑜殿に身を寄せて何か問いかけている。

 周瑜殿は首を傾げ、三人を広間へ案内した女官と、こちらに寄ろうとした姉を案内した女官、両親の応対をした文官を呼び寄せた。
 彼らに何事か訊ねるが、一様に困惑した様子で三人をちらちら窺いながら説明している。

 周瑜殿がまた首を傾げて、私の方へ身を乗り出してきた。


「なあ、○○。アンタの家族がこの席じゃない筈だって言ってるんだが……アンタから何か言ったのか?」

「……いえ……私からは、何も……」


 平静を装ったつもりが、声が震えてしまった。

 周瑜殿が一瞬だけ眉根を動かしたのに、肝がすっと冷えた。


「そうか……孫権、席を変えるか?」

「……ああ。尚香と○○殿の間に移動していただこう」

「良いのか?」


 孫権様が頷くと、周瑜殿は承伏しかねるような顔で私を見、女官に指示する。

 そこに尚香様が口を挟んだ。がっしと私の腕を掴んで、


「お兄様。私、お義姉様の隣が良いです。絶対に譲りません」


 と強い口調。


「分かった。ならば、周瑜」


 周瑜殿は嫌そうな顔をした。


「オマエの隣にあの家族を持ってくるのは止めておいた方が良い。○○には悪いが、嫌な予感しかしない」


 それが正解だ。
 心の中で同意しても、表には出せない。

 周瑜殿が私をじっと探るようにじっと見つめてくるのが気まずくて、思わず視線を落とした。

 ややあって、溜息。


「分かった。尚香の隣に行くよ」


 女官に指示を出し、尚香様の隣の文官達と話をして、渋々席を移動する。
 暫くして、孫権様の隣に姉が、その隣に両親が、それぞれ満足そうな顔して座った。

 周りの臣下の人達も怪訝そうに私の家族を見るが、孫権様が何も言わないことから、誰もこのことに触れようとはしなかった。

 そして、宴が始まる。
 姉は私を無視して孫権様に酒を注ごうとして周瑜殿に止められる。

 けれど無視だ。汚らしい物でも見るかのような目を向けるだけ。
 両親も止めずに周瑜殿を見ながら二人でこそこそと、多分陰口を叩いている。

 私が代わりに周瑜殿に謝罪するけれど、父が大声で私と姉の差を語り出したり、母が私の欠点を一つ一つ丁寧に説明したりして、姉を売り込もうという下心が丸見えで、その姿が娘の私から見ても浅ましくて情けなかった。

 あのことがあっても何も変わらない家族の姿を見ていて、心が冷えていく。

 孫権様に身体を刷り寄せる姉が、この上無く醜く思えた。
 その姉と同じ顔の私自身も、救いようが無い程汚く思えた。

 私と同じ顔で、孫権様に媚びを売らないで欲しい。
 傲慢さが滲み出ている嫌らしい笑顔を孫権様に――――いいや、ここにいる人達の目に晒さないで欲しい。

 おかしいな。
 この人達が変わっていないことなんて、手紙で分かっていたじゃないか。
 どうして、私は分かっていたことを実際目にして、こんなに失望しているんだろう。


「お義姉様……よろしいんですか」


 不安げな尚香様に、曖昧に笑って見せるしか無かった。

 この場で私が咎めれば、彼らにとっては大きな恥だ。きっと厄介なことになると確信があった。

 孫権様の盃に酒を注ぎ足していく姉の、まるで自分が正妻だとでも言わんばかりの堂々とした態度に、何人かの文官や武官が苦言を呈(てい)したけれど、酔いが回り始めた両親の激しい姉至上主義な反論を受け、気味悪がって離れた。私へ同情の眼差しを向けられた。

 周瑜殿が苛立たしげに私を呼んだ。


「少し良いか」

「……はい」


 心配そうに周瑜殿と私を見上げる尚香様の頭を撫で、


「ちょっと話してくるだけだ」


 とだけ言って私を広間から連れ出した。

 孫権様に一言断りを入れておこうとしたけれど、すぐに戻るからと周瑜殿が声をかけて私の腕を引っ張った。

 連れて行かれたのは、宴が行われている広間からそう遠くはない回廊だった。
 女官が酒や料理を持って走っていくのとすれ違う。

 周瑜殿は私を柱の側に立たせ、彼自身は私からちょっとだけ距離を取った。


「アンタな、もう家族にびくびくする必要は無いんだぜ? あの女じゃなくて、アンタが孫権の妻なんだ」

「……はい……」

「いや、そういう顔をさせたいんじゃなくてな……アンタにはもっと自分に自信を持ってもらわないとこっちも困るんだよ」

「……申し訳ありません」

「だから、謝るんじゃなくて……」


 困らせると分かっていながら、私は何度も謝罪した。

 周瑜殿が舌を打つ。


「……話が進まないな」

「申し訳、ありません……」

「だから……ああ、もう良い。とにかく、アンタはもっと堂々としていてくれ。アンタは孫権に気に入られて妻になったんだ。孫権が気に入る程のものがアンタにあったってことだろ? でなければ、少なくともオレは死罪か、それに匹敵する厳しい処罰を与えるつもりだった」


 無言で俯く私に、周瑜殿は言葉を続ける。


「孫権が大事に思っているならオレも尚香もそれを尊重してアンタを守る。今回孫権がアンタの家族を呼んで宴を開くことにしたのは、アンタが塞ぎ込んでいるのは家族と仲違いしてここにいることを気に病んでるんじゃないかと気を回したからだ。だが、実際呼んでみるとあの有様で、アンタの顔色もどんどん悪くなっていく一方。アンタは本音を言わない。アンタは今何を思ってる。孫権やオレじゃ駄目なら、尚香には言えるか?」


 私が今、何を思ってるか、なんて。
 そんなの。


「……私が知りたい……」


 ぽろっと漏らしてしまった言葉に、慌てて頭を下げた。


「い、いえ、何でもありません。私……少し気分が悪いので、一旦部屋で休みます」

「○○、待てって」

「申し訳ありません」


 背を向けた私の腕を周瑜殿が掴む。

 それを振り払って私はその場から逃げた。

 部屋に飛び込むと、寝台の上に無造作に置かれた小さな小箱が目についた。
 質素な細工のそれは幼い私が父に貰った最初で最後の贈り物だ。姉の身代わりになるのだから私の私物は一切持って行くなとキツく言われていたから、家に残したままだった。

 嫌な予感はしたけれど、使い古したそれを懐かしさから手に取って蓋を開けた。

 昔は綺麗な石や気に入った形の木の実を入れていた中を見て――――絶望する。

 中には、小さな黒い丸薬が一つ。

 それを見て、私は、


 嗚呼、また死ねって言われてるんだ。


 と察しが付いた。
 これは家族が持ってきて、使用人にここへ届けさせたのだろう。
 ただの薬を、彼らが入れておく訳がない。

 これは、毒だ。

 全身から力が抜け、その場に座り込む。
 大切にしていた小箱を床に叩きつけた。

 蓋が外れ、丸薬がころころと寝台の下へ転がっていく。
 そこにはあの匕首があった。
 乾燥し始めた毒薬が塗りつけてある匕首が。


 呆然と丸薬を目で追っていると、頭の中に天罰という言葉が浮かんだ。


 何も考えずに匕首と丸薬を寝台の下から出し、二つを見下ろした。

 そして、どちらを使えば楽になるだろうと、思案した。

 入れ替わってもこの殺される。
 この丸薬はそう言うことだ。

 どちらの毒を使えば、苦痛は無いのだろうと考えているうち、段々と視界が滲んできた。
 ぼろぼろと涙がこぼれてきて、手から匕首と丸薬が落ちる。
 また転がっていく丸薬をぼやけた視界で追い、一人、声を押し殺して泣いた。

 死にたくない。
 また、それが邪魔をする。

 罰は受けなければならない。

 でも。

 姉とそっくりな顔で死にたくない。
 家族が清々する為に死にたくない。
 親から与えられた結末で死にたくない。

 死にたくない。
 死にたくない。
 死にたくない――――……。

 泣いているうち、宴で食べた物を吐いた。
 それでまた取り乱して泣いて、また吐いた。

 精神的なものだとは自分でも分かった。
 そして、頭がおかしくなりつつあるのも自覚していた。

 今の私は醜い。
 姉と両親が見たら蔑んだ目で見下して、汚いと罵るだろう。
 胸が痛いのに、吐き気が強まっているのに、何故か笑いが出た。泣きながら、笑ってた。

 そのうちもうどうでも良くなって、吐瀉物が少しかかってしまった匕首を呆然と眺め、だらだら涙を流していた。その時の私の顔は死人よりも酷かったかもしれない。
 耳鳴りがして、頭が痛い。
 何もする気が起きなくて、片付けなくちゃと思うだけで動かなかった。

 尚香様が部屋を訪れたのはそんな時だった。

 返事を返すのも億劫で、だんまりだった。

 それを不審に思ったのだろう、尚香様は謝罪しつつも部屋に入り――――私の様子に悲鳴を上げた。


「お義姉様!? お義姉様!」


 一緒にいた侍女達が慌てて私を寝台に座らせ、床の掃除を始める。

 その際に侍女が匕首と丸薬、小箱を見つけ、尚香様に相談する。

 騒ぎを聞きつけた兵士達に見せると、匕首に塗りたくられたものを見るや青ざめて、丸薬と匕首を持って何処かに走り去っていった。

 その後、侍女が匕首に添えられていた一言の手紙と、見つからないように隠していた筈の手紙を見つけ大騒ぎしているのを、私は他人事のように眺めていた。
 本当に何もかもどうでも良くなって、尚香様に抱き締められながら、ただただ何も思わず考えず、無言で泣き続けた。



‡‡‡




 真っ暗な部屋の中で、私は目覚めた。

 暗くてここが何処なのか分からない。
 寝ているのは寝台だと分かるけれど、これが城で過ごしてきた部屋の寝台なのかどうかは分からない。

 起き上がり、私はぼうっと闇を見つめた。
 暗闇に慣れてきた目で、辛うじてここが柴桑城で私に与えられている部屋なのではないかと予測する。

 目がヒリヒリする。
 私、何してたんだっけ。
 記憶を手繰り寄せる。
 けれど、部屋に戻った辺りから記憶が曖昧になっていた。

 誰かが部屋に来たような気はするけれど――――。


――――キィ。


 その時、ふと扉が開いた。
 誰かが入ってくる。


「……だれ?」


 呂律が回っていない声で誰何(すいか)する。

 私はまだ正気に戻れていないのだろう。

 私はこちらに近付いてくる、男性と思しき誰かに、恐怖は無く、誰だろうと素朴な疑問を抱くだけだった。それを深く考えようとも思わなかった。

 人影は寝台の側で立ち止まった。

 闇の中から微かに浮かび上がる輪郭に何となく見覚えがあるような気がする。
 でも、誰なのかは瞭然としない。

 人影が私へと手を伸ばす。
 私の頬を撫で、そっと私を抱き寄せる。
 密着すると濃い酒の匂いが鼻を突いた。

 相手の体重がのしかかり、一緒に寝台に沈む。

 額に濡れた温かい物が触れた。

 その後は、動きは無く。
 穏やかな寝息が聞こえてきた。
 私を抱き締める腕はしっかり力を込めたまま。

 じんわりと伝わってくる体温に、身体から力が抜けていく。
 安堵感を与えてくれる相手に身を委ね、私は目を伏せた。

 ぼそりと、私の名前を呼ぶ相手の掠れた声が、とても心地良かった。



‡‡‡




 目覚めた直後に目の前に孫権様の顔があったのに、心臓が飛び出す程に驚いた。
 咄嗟に身を離そうとしたけれど抱き締められてて逃れようとすると力がこもってむしろ密着してしまう。

 どうしてこうなってるの!?
 何とか抜け出そうと腕を解こうと苦心しながら、記憶を辿り――――動きを止めた。

 そうだ……宴……あの人達は!?
 部屋に戻った後の記憶が無い。
 姉達がどうなったのか分からない。

 孫権様に抱き締められて寝台で寝ている経緯は分からないけれど、彼がいるということは私と姉は入れ替わっていないということだ。

 全身から血の気が引いた。
 人に抱き締められているというのに一気に寒くなった。

 再び孫権様の腕の中から逃れようと身を捩ると、孫権様の身体が微かに動いた。
 瞼が痙攣し、ゆっくりと押し上がる。
 私と間近で目が合うと、孫権様は暫し制止し、目を丸くした。


「……っ!!」


 私を放すと寝台から転がり落ちるように離れ、口を押さえて目を白黒させる。

 私が身を起こして孫権様に声をかけようとすると、


「……っすまなかった……!」


 初めて聞くような焦った声だ。
 頭を深々と下げた彼は、


「すまない……昨夜、宴の後部屋で一人酒を飲んでいたところまでは覚えているのだが……まさか、私は弱っていたあなたを……」

「ええ、と……」


 私もどうして孫権様と一緒に眠っていたのか分からない。
 だからどう言おうか迷っていたのが、妙な風に取られてしまったようだ。

 彼は青ざめ、また深々と頭を下げた。


「あ、あの……た、多分、孫権様のお考えになっているようなことは……えと、そう、服! 服も乱れていませんから……っ」


 お互い服は多少の乱れはあるが、そういった行為をした形跡は無い。
 それに酷い空腹感はあるものの身体には他に違和感は無い。

 そんな行為をしたことが無いから、身体がどうなるのか分からないけれど……多分私はまだ生娘のままだと思う。思いたい。


「そ、孫権様……私は――――」


 その時だ。


「何だ、二人とも目が覚めたのか」


 周瑜殿が唐突に部屋に入ってきた。

 孫権様を見るなりにんまり笑って、彼の肩を叩き、


「どうだった、初めての女の感触は」

「「!!」」


 揶揄(やゆ)された孫権様は、青ざめた。
 よろめき、顔を押さえた。


「やはり私は……何ということを……」

「ち、違、」

「そういうことだから、責任はきっちり取れよ」


 ばしんと背中を叩き、周瑜殿は私の方を見て目を細めた。


「アンタ、今は大丈夫か? 胃に優しい物を作って貰ってるが、食べれるか」


 打って変わって真面目に問いかける周瑜殿に、私は恐る恐る頷いた。

 周瑜殿は扉の外へ顔を出し、そこにいたのだろう誰かに指示を飛ばした。
 そして孫権様を座らせ、懐から一通の手紙を取り出した。

 ぞわ、と背筋が凍った。


「あ……」

「アンタ、一人でずっと家族と連絡を取ってたんだな。孫権から言われた筈だ。家族との接触は禁じると」


 私は俯いた。
 小さく謝罪すると、頭を撫でられる。


「どうして誰にも言わなかった。あんな状態になるまで……」

「……あんな状態?」

「覚えてないのか?」


 私が部屋に戻った後、私自身に何があったか問いかけると、周瑜殿は躊躇いつつも話してくれた。

 尚香の侍女が慌てて周瑜殿のもとに私の異変を報せに来て、孫権様と共に駆けつけると、放心状態の私は尚香様に抱き締められ、吐瀉物を片付けたり見つけた手紙を読んで泣いて怒って大騒ぎしている侍女達を涙を流しながら眺めていた。

 医者を連れてきた兵士から、侍女が私の部屋で見つけた匕首や丸薬の報告を受け、それから『罪人は潔く死ね』と書かれた手紙を含むこれまで私に届けられた手紙を読み、また姉が入れ替わろうと両親と画策していたことを知った孫権様達は即座に三人を帰せと指示。

 医者によると精神的な要因によるものだという。

 私は、医者の診察を受けて薬を飲んだ後、突然意識を失ったそうだ。

 私の看病を尚香に任せて一旦広間に戻ると、強制的な退城を告げられて逆上した姉が、輿入れの際私と入れ替わったことを大声でバラし、更に私を口汚く罵ったばかりか孫権様まで悪口の標的にし、酔いもあっただろう、憤った武官に斬られて倒れていた。
 両親がこの武官に襲いかかるが、二人も武官も周りの人間が押さえ込み、幸い致命傷は避けられた姉の手当てをして、有無を言わさず送り返した。

 当然、私達のことを臣下にも話さなければならなくなった孫権様には、私と離縁すべきだと進言した人もいたみたいだ。
 けれど、


「彼らの言葉を受け入れる方が、君主としては正しいのだろう。だが、それでも私はあなたと離縁するつもりはないと臣下に伝えた」


 はっきりと、真っ直ぐに私を見据えて孫権様は告げた。

 どうして、と問う。
 孫権様が答えるのを待たずに、


「姉は、孫家を見下し私と入れ替わって呉を騙しました。両親も孫家を見下すが故に姉を嫁がせることを拒み、姉の我が儘を許容していました。ですが、曹操に大勝した途端に掌を返し、私を姉と入れ替えようとした。許されるべきではありません。それは、私も同じことです」

「だが今回だけは、アンタは入れ替わらなかった。部屋の中で毒がたっぷり塗られた匕首と、一粒で人を殺せる劇薬に腹の中のものをぶちまけて……家族の言いなりにならずに、ここに残ってるじゃないか。今何を思っているか自分が知りたいと言っていたが、アンタは家族から解放されたかったんじゃないのか?」


 周瑜殿は優しく、諭すように問いかけてくる。
 私を誘導して、頷かせようとしているんだと思う。


「……分かりません。私は罪人です。孫権様達がお許しになってもいつか必ず罰を受けるだろうと、ずっと思っていました。でも、分からない。何も……自分がどうしたいのか、何を思っているのか、分からない……」

「○○殿……」


 孫権様が立ち上がり、寝台に腰掛ける。
 両手を握り、


「被害を受けた人間が許しているというのに、どうして罰を与える必要がある」

「受けるんです。受けなければいけないんです。私は本来なら許されてはいけない。あの匕首で、死ぬべきだった……」


 親から匕首を送りつけられた時に、これが罰なんだと思った。
 だから死のうとした。匕首で肌を裂こうとした。
 でも、駄目だった。
 何度も何度も試しても駄目だった。
 死ぬのが怖くて、躊躇って、止めてしまう。

 罰なのに。
 罪人は報いを受けなければならないのに。

 震え出す私の手を、孫権様がぎゅっと握り締める。


「けど、死にたくないんです。死ぬのが怖いんです。罰を受け入れなければならないのに私は……匕首を何度肌に押し当てても、恐ろしくて切れないんです……!」

「アンタが塞ぎ込んでいた原因は、それか」


 周瑜殿が溜息をつく。

 そこで、


「……やっと、あなたの本当の心が見えた気がする」


 孫権様が周瑜殿を呼んだ。


「……暫く、席を外してくれ」

「良いのか?」

「ああ」


 周瑜殿は私を見、小さく頷いて外へ出て行った。
 扉が閉まってから、孫権様は私を真っ直ぐに見つめた。


「あなたは罰されたいのか?」

「……私は、姉達と共に罰されなくてはいけないんです。それだけのことを、しましたから……」


 孫権様は暫し沈黙した。


「ならば、私があなたを罰すれば、あなたは納得してくれるか?」

「孫権様が、私を……ですが、もう、」

「今回のことで、臣下にも○○殿のことは知れてしまった。これから、あなたは呉を欺いてのうのうと私の側にいる女だと臣下から厳しい非難を受けることになるだろう。私も、彼らに知られた以上何の咎めも無く終わらせることは出来ない」


 孫権様の手が離れる。


「あなたには、私が決めた臣下の養女になっていただく」

「え?」

「加えて、あなたの行動は女官や兵士に常に監視させる。単独の行動、元の家族含め外部との接触は一切の手段を禁じる」

「……」

「そして……」


 孫権様はそこで、言いにくそうに口を閉じた。


「髪を切ってもらう」

「髪、を……?」


 孫権様は、申し訳なさそうに頷く。

 確かに髪は、とても大事なもの。
 だけど――――それだけ?
 私は呆然とした。


「それだけで良いんですか……?」

「臣下達のあなたに対する辛辣な態度を、私は止められない。心が悲鳴を上げようとも、死ぬことを許さない。それも含めて、あなたへの罰とする」


 何で、どうして、そんなに優しいの。
 どうして、どうして、どうして――――……。


「どんな目に遭おうとも死なずに、最期まで私の側にいて欲しい」

「どうして、」


 視界が滲んでいく。

 孫権様の手がヒリヒリと痛む目元をそっと拭う。


「私は、あなたのことを愛している」

「……っ」

「ずっと考えて、やっと分かった。○○殿に対して抱いていた感情が如何なるものか。私は失いたくない、心から愛おしいと思う女性を。その為なら、どんなことでもするだろう」


 名を呼ばれ、頭がじんと痺れる。
 そっと抱き寄せられ、私は全身から力が抜けていった。


「私は意識の無いあなたに乱暴をした罪があり、我欲に駆られてあなたへの罰を理由に側に置こうとしている。私はあなたを許したが、あなたは私を許さなくて良い。あなたが私を憎むのなら、私はそれを私への罰だと思って生きていく」


 この人は、優しすぎる。真面目すぎる。
 私に乱暴していないと思うのにそう思い込んで、優しいのに罰を利用したから憎まれるんだと思って。

 この人に名前を呼ばれるのが、《私》が認識されているのが、《私》を愛していると言ってくれたのが、心の底からとても嬉しいと思った。
 この人の側で生きていきたいと、思った。

 姉じゃない、姉の身代わりじゃない、《私》自身が。

 私は、声を上げて泣いてしまった。

 ぎょっとした孫権様が離れようとするのにしがみついて、わんわん子供のようにみっともなく大泣きした。

 暫くして、私の頭を孫権様が撫でてくれた。
 それで、また涙が止まらなくなってしまった。

 ようやっと落ち着いて、深呼吸を繰り返す私の背中を撫でてくれる孫権様に、震えた声で乞う。


「孫権様が……切って、下さい……私の髪……」

「……○○殿が望むのなら」


 孫権様は泣き腫らした私の目元に左右どちらも口付けて、頷いた。

 周瑜殿が尚香様を連れて戻ってきた時、孫権様に切ってもらった髪はすでに寝台に落ち、私は肩に触れるか触れないかにまで短くなった自分の髪に、喪失でなく、満たされるものを感じていた。

 ただ、まだ現実に承伏しかねる自分がいて、重苦しいものが胸に渦巻く。

 それを察してくれているのか、孫権様はその日ずっと側にいて、私の手を握り締めてくれていた。

 本当に、優しい人。
 その優しさに、私は囚われていたいと、孫権様の手の温度を感じながら、心から願った。



.

- 8 -


[*前] | [次#]

ページ:8/88