侍女の言葉を聞き、私は少しだけ考えた。


「……そうね。そうしてみましょう。お茶にいらした時にでも色々お訊ねしてみようかしら」

「それがよろしいですわ」


 そう……そうね。
 侍女の提案を、私はすぐに実行することとした。
 初めて、私の方からお茶にお誘いした。

 けれど、日程を変えられないかという、色好い返事ではなかった。
 それも想定していたから、使いの何巡には後日暇な時を教えて下さいと伝えるように言いつけておいた。

 果たして。



 彼からの報せが来ることは無かった。



‡‡‡




 曹操様が日の暮れかけにお屋敷を出て行かれたきり、戻らない。

 彼は私の部屋へ出掛ける旨だけを報せに来てくれたが、それ以降、夜が明けて日が天頂に昇った時にも、帰還の報せは無かった。
 ……嫌な予感がする。

 あまり政治的な部分を気にしないようにしている私であるけれど、最近少帝を殺して新しく帝を立てたのではないかと不穏な噂の流れる相国(しょうこく)の董卓様の専横が、気になっていた。

 曹操様も気にしていない訳がないだろう。
 更には、曹操様が外出なさったのは、董卓様が新しい帝を立てたその日の夕方。その件との繋がりを感じずにはいられない。

 心配と不安が混ざり合って、私は屋敷の周りを何巡と共に歩いて回った。
 しかし、曹操様は一向にお戻りにならなかった。

 三日後には劉備君や兵士の全てが屋敷――――いえ、洛陽の街から消え、使用人ばかりが残っている状況だということも分かった。

 これは、異常だ。やはり曹操様の身に何かが遭ったのだ。
 猫族の陣屋や洛陽の街の様子を何巡に確かめさせた。街自体には目立った変化は見られないとのことだったが、猫族の陣屋は引き払われて一人も残っていないらしかった。

 私達の知らないところで何かが起こったのだと確信して、私は気が気でなかった。
 猫族を兵士として利用する為に人質にされている――――そう関羽さん達に聞いた――――劉備君や兵士達だけ私達の知らないうちに連れ出されているということは、非力な人間に構っていられない急を要する事態であったのだろう。
 そう、命の危険が間近に迫っているような――――……。

 報せが無いのも使用人達が騒いで命を狙う人物に曹操様の動向を悟らせない為。

 ……ならば、私達はここに残って成り行きを眺めて、必要があれば、動こう。
 曹操様の安否も定かではない今、確かな情報を集めなくては。

 部屋で一人思案していた私は、側に控えている何巡を見た。


「……何巡。一つ、頼まれてくれる?」

「畏まりました。……曹操様について探ればよろしいのですね?」

「そう。でも自分の安全を最優先になさい」

「了解致しました」


 私が頷くと、何巡は足早に部屋を出ていった。

 それからややあって、訪問者が使用人達の心を乱した。
 侍女が青ざめて部屋に駆け込んできたかと思えば、曹操様と旧知の仲である袁紹様の従兄弟だったと記憶している袁術様が、何処か意地悪げな笑みを浮かべていた。

 私が前に立って拱手すると、値踏みをするように不躾な視線を向け、


「へえ……曹操もかなりの上玉を嫁にしてんじゃねぇか」

「お褒めいただき恐縮です。袁術様。主の不在、深くお詫び致します。何か伝言などがございましたら、よろしければ、私の方から曹操様へお伝えしておきますが」

「いや、曹操に用は無ぇ。ただ、噂が本当かどうか確かめにきただけだ」


 袁術様は私の反応を見て、口角をつり上げた。


「噂じゃ、曹操は董卓に殺されちまったらしいぜ! 悪い事は言わねえ、お前らも洛陽を離れた方が良い」

「……!」


 後ろで使用人達が騒ぎ出した。


「曹操様がお亡くなりに!?」

「そ、そんなまさか……っ」


 不安を露わにする彼らに袁術様の笑みが濃くなる。
 なんて人……皆の様子を楽しんでいらっしゃるんだわ。
 私は小さく息を吸い、使用人達を振り返った。


「静まりなさい、客人の前で見苦しい!」


 声を張り上げ使用人達を一喝した。
 しんと静まった彼らを見渡し、私は背筋を伸ばした。


「噂は噂です。真偽はまだ分かりません。確かめることもせずに屋敷を出ていくなど……もし、今日私達皆が屋敷を離れ、曹操様が屋敷に帰ってこられたら、どんな顔をしてお会いすれば良いのです? 万が一にでも曹操様が本当に亡くなっていたのならば、その時は皆で曹操様の後を追えば済むことです」


 私の言葉に、使用人達は落ち着きを取り戻したみたいで、不安から来るどよめきも収まった。

 私はほっとして、袁術様に頭を下げた。


「お報せいただき、まことにありがとうございました。袁術様。こちらも袁術様のお聞きした噂をもとに、情報を集めてみます」

「……分かった。じゃ、新しい情報が来たら、教えてやるよ」


 露骨に面白くなさそうな顔をして、袁術様は帰っていった。
 これ以上、取り乱す姿を見せる訳にはいかない。
 私は使用人達にいつも通り仕事をこなすように指示し、何巡の戻りを待った。

 何巡は、日が暮れた頃に戻ってきた。


「○○様。曹操様はご無事です。関羽さん達猫族も、曹操様と共にいると考えられます」


 何巡曰く。
 曹操様はどうやら董卓様の暗殺を試み、失敗したそうだ。
 その為に、この洛陽を猫族と共に脱出している。行き先は恐らく、曹操様の故郷豫州(よしゅう)の沛国礁県だろう。

 何巡が動いた限りで得られた情報は、それだけ。

 だけど、私には十分過ぎるものだ。


「良かったわ。では、私はこのまま残って、使用人達をしっかり守らなくてはね。何巡。ありがとう。暫くはあなたも仕事の方に集中してちょうだい」

「分かりました。何かございましたらご命令下さいませ」

「ええ。その時はお願いするわ」


 私は何巡を退がらせ、彼女が得てくれた情報をよくよく吟味した。
 董卓様の暗殺を失敗した曹操様は、洛陽には戻れまい。
 となれば、軍を起こして董卓様討伐に踏み切られる可能性が高い。
 無論、夏侯惇様達や猫族を合わせた戦力では、きっと董卓様に遠く及ばない。

 確実に董卓様を倒すおつもりなら、曹操様はまず戦力を求める筈だわ。


「曹操様だけが董卓様に不満を持っていらしたというのは、考え難いわね。……董卓様に叛意を抱く、兵力持つ諸侯に呼びかけて集めれば、打倒出来ないこともない」


 洛陽も戦火に巻き込まれる可能性が高いわ。
 曹操様に代わって、私がしっかり皆を守らなければ。


「……けど、残念ね」


 曹操様を知ろうと思った矢先にこれだもの。
 ぼやいて、私は窓の外を見やった。

 ……曹操様。どうか、ご無事で――――……。



‡‡‡




 焦げた臭いの充満する洛陽。
 見渡す限り炭ばかりで、焼け落ちた建物に生きている気配は感じられない。

 その奥もきっと、同じような光景が広がっているに違い無い。

 曹操は、その光景を見て拳を握り締めた。
 心の底からせり上がる衝動が足を動かそうとするが、理性で押し留める。
 今自分がするべきことは、彼女――――○○を捜すことではない。


 逃げた董卓を追うことだ。


 曹操は深呼吸を繰り返して冷静に努めた。
 すると。

 何処からか、歌が聞こえてくるではないか。

 聞き覚えのあるそれに、あれだけ抑え込んでいた理性は一気に退けられた。


「曹操様!?」

「曹操!」


 それまでの疲労など、歌声に払拭されたかのように、身体が軽かった。
 曹操は変わり果てた、行き慣れた道を走った。
 董卓を追わねば――――理性が自身を怒鳴りつける。

 一目だけだ。
 たった一目、彼女の姿を見れたなら、急いで追おう。

 今は彼女の無事な姿を見たい。
 反董卓連合を結成して、董卓を打倒せんと戦って――――その間、一体何度あの歌声が恋しくなっただろう。
 自分でもらしくないと分かっている。
 ○○を前にすると、自分を守る為の壁が極端に薄くなる。
 異母姉が混血だと言って、私を癒してあげたいけれど、苦しみを分かってあげらないなどと、嘘とも思えぬ程さらりと、真剣に言うあの人間の女は、容易く心に入り込んでくる。

 これは、関羽の言っていた愛し合う……愛するということなのか。
 ○○に近付く他人が疎ましく思うのも、彼女の歌が自分以外の者の為に歌われることが気に食わないのも――――それ故なのか。
 これが、答えられなかった○○の問いの答えなのだろうか。

 分からない。
 分からないから、自分のこの心の正体を分かろうと、何度も○○と接触した。

 だが、もしかしたらそうかもしれない、と思うようにはなった。
 今、彼女を求めている。
 強く、強く。

 これを、愛すると言うのか……?

 愛情など、無縁のものだった。
 誰からも与えられたことの無い、望むことすら諦めたものだった。
 それを、私は○○に抱き、同時に求めているというのか。

 否定は、しなかった。
 曹操自身、する必要を感じなかったのだ。

 そうか。
 私は。


 いつの間にか、○○を愛してしまったらしい。


 混血の、私が。
 母を狂わせた父が気に入って買い取り鑑賞の為だけに息子の嫁にあてがった、父と同じ人間の女を。

 気付かぬうちに、求めている。

 ……いや、彼女はあの男とは違う。
 人間という種族以外に、父と同じ訳がないのだ。
 でなければ、私が○○を愛する理由が、無い。

 聞こえる歌の、なんと清らかなこと。
 また自分以外の誰かの為に歌っているのだろう。
 気に食わないが、この歌は間違い無く○○が生きている証だ。

 怪我をしていても構わない。
 彼女が生きてさえいるのなら、それだけで良い――――。


「――――ッ!!」


 彼女がいた。
 屋敷の前で、洛陽に取り残された人々の前で、美しい歌声を披露していた。曹操が贈った衣装をまとい、化粧をして、軽やかに舞っている。
 まるで、風と踊る一輪の可憐な花だ。

 ○○の舞いが披露される傍ら、侍女達が食料を彼らに配っている。

 曹操は笑顔を浮かべている彼女に駆け寄った。


「……っ○○!!」


 怒鳴るように呼ぶと、彼女の歌が止み、こちらを見る。目が丸く見開かれた。
 彼女も人々に頭を下げてこちらへと駆けつける。


「曹操様、ご無事で――――」

「○○!!」

「! きゃっ」


 掴んだ腕を引っ張り強引に○○の身体を抱き締める。
 ○○は抵抗しなかった。「良かった……」安堵した独白の後、背中に手が回る。


「なかなかお戻りにならないので、私も、皆も心配しておりましたよ」

「ああ……すまなかった」

「いいえ。お屋敷のことは私でも守れましたし、曹操様達がご無事なら、それで」


 放した○○は、柔らかな笑みを浮かべ、曹操の頬を両手で挟む。
 そのとろけるような笑みを心から愛おしいと思った。

 きっと彼女は、こちらを男として見てはいないだろう。
 だが、今はそれでも良い。
 生きていることが分かっただけで十分だ。

 曹操はもう一度彼女を抱き締め、駆け寄ってきた何巡を呼んだ。


「私はこれより洛陽を捨てた董卓を追う。一部の兵士を、お前達に残して行こう。彼らと合流し、私が戻るまで待っていろ。取り残された民は、連合軍の他の者に託しても構わぬ。……何巡、○○のことをよろしく頼むぞ」


 何巡は、曹操を見て軽く驚いた様子である。
 「畏まりました」深々と一礼し、○○に目配せする。


「使用人達のことはお任せ下さいまし。曹操様、お気を付けて」

「ああ。……○○」

「? はい」


 戻った時には久し振りに歌を聴かせて欲しい――――と言おうとして、口を噤んだ。
 視線をさまよわせ、背を向ける。


「怪我人がいれば、兵に言え」

「分かりました。曹操様」


 戻られた時には、また夜に歌を歌ってもよろしいですか?
 そう訊ねてきた彼女を、また抱き締めたくなったが、それを振り切って曹操は歩き出した。


「好きにしろ」


 抑揚を押し殺した言葉を残して。


 暫く道を進むと、また歌声が聞こえてきた。
 それは耳に心地良く、頭の中にじんわりと浸透する。



●○●

 曹操だと、狂ってたり混血夢主だったりが多かったので、今までと違う、狂わない曹操の夢を書こうと思ってこんな長い作品になりました。
 人間夢主とゆっくり歩み寄る話にしたかったので、あんな終わり方です。

 夢主は、曹操に最も愛されたと言う卞(べん)夫人をモデルにしていますが、彼女にまつわる話を色々と変えています。


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