部屋の外から出てはならないと言われたことは、翌日に何巡達に話した。

 何巡はそれについて曹操様に抗議に向かったけれど、納得がいかない顔をして戻ってきた。


「○○様。私、あの方のことが分かりません」


 そう言って、首を傾げる。

 私も他の侍女達も何があったのかと訊ねれば、


「曹操様は○○様の外出禁止については一貫してお許し下さいませんでした。けれど……それなのに昨夜○○様が歌われなかったことを気になさっておいでだったんです」

「……まあ」


 昨夜は確かに私は歌わなかった。
 怒らせてしまったその日に何事も無かったかのように歌えば、また気に触ってしまうのではないかと危惧したから……。

 何巡の言葉を聞いて、私は少し戸惑った。


「話している時も素っ気なくて、まるで子供が拗ねているみたいで……」

「あの曹操様が? どうなされたのでしょう……○○様」

「……暫く、様子を見てみましょうか」

「その方がよろしいかと。多分、今話しても何も進展しない気がします。……本当に、意外ですが」


 何巡の言う通りだ。
 私はひとまず彼の動向を窺うことにして、数日の間は言われた通りに部屋から出ずに劉備君には何巡を頻繁に向かわせた。

 劉備君は私が贈るお菓子を気に入ってくれているようで、いつも楽しみに待ってくれているみたい。
 私が来ない理由は何巡が上手く言ってくれているから大丈夫。

 何巡から劉備君の様子を聞くのが最近の私の楽しみになっている。

 そんな日々を送っていると、ある日の昼、何巡が私の部屋へ数人の客を連れてきた。


「劉備さんに加え、猫族の関羽さんと張飛さんです」


 何巡に紹介された関羽という名の少女は、私を見ながらぼうっとしていたようで、はっとして私に頭を下げた。


「あ、あの……劉備がお世話になっていると聞いたので……!」

「○○がこっちに来れないから、みんなで遊びにきたんだよ」

「あらあら、とっても嬉しいわ。関羽さんも、私が好きでやっていることなのだからそんなこと気にしなくたって良いのよ。何巡。皆さんにお茶とお菓子を」

「畏まりました」

「何も無いところだけれど、ゆっくりくつろいでね」


 関羽さんと張飛君が劉備君を挟んで座ったのを見て彼らの正面に座った。
 何巡がてきぱきと動いてお茶会の準備をしてくれ、劉備君の勧めで彼女も私の隣に座って参加する。彼女の分のお茶は関羽さんが用意してくれた。


「劉備君、お菓子は飽きていない? 飽きたら遠慮無く言ってちょうだいね。新しい物を用意するわ」

「ううん。どれも大好き!」

「それは良かったわ」


 劉備君のとろけるような愛らしい笑顔に、こちらもつられて笑みがこぼれる。

 私をじっと見つめている張飛君が、ぽつりと呟いた。


「曹操の嫁さんだからもっと酷い人なんだと思ってたけど、滅茶苦茶良い人だな」


 関羽さんが張飛君を睨む。


「ちょ、ちょっと張飛!」

「世の中ではあなた達は十三支だなんて言われているものね。私の故郷はそんなもの無かったから、今でも信じられないの。……あ、夏侯惇様達に酷いことをされたら、私に言いつけるって言って良いわよ」

「え、マジで?」

「張飛! ごめんなさい○○さん! そんなことしたら迷惑になるんじゃ……」

「大丈夫よ。私が猫族に友好的なのは夏侯惇様達ももう分かっていらっしゃると思うし」


 関羽さんはそれでも何度も謝って、終いには張飛君に拳固を落としてしまった。
 何だか姉弟みたいだわ。
 懐かしい。

 二人を眺めていると、不意に関羽さんの目が黒いことに気が付いた。


「関羽さん。もしかしてあなたも混血なの?」


 関羽さんは驚いて私を見た。困惑に黒い瞳が揺れる。
 困惑がありありと浮かんだ顔で、首肯した。


「そうなのね。私の腹違いの姉も、混血だったのよ」

「え!? ほ、本当ですか!」

「ええ。嬉しい偶然だわ」


 それから、関羽さんは一気に打ち解けてくれて、姉の話を聞きたがった。
 私も何巡以外に異母姉との思い出を語るのが楽しくて、ついつい長話をしてしまった。
 話の中では私が花街の歌妓をしていたことにも触れ、その流れで歌うことにもなり、私は外の様子に気を配ることを失念してしまった。

 五人ではしゃぎ過ぎたのを聞き咎められてしまった。


「……何をしている。○○」

「あ……曹操。これは……」

「部屋に戻れ。私はお前達がこの部屋に入ることを許可したこと覚えは無い」

「何であれこれ決められねえといけねえんだよ! 劉備が世話になった奴に礼を言いに来ただけろーが!」

「部屋に戻れ、劉備。金輪際○○と会うな」


 曹操様の声は、殺気を孕(はら)んでいる。
 この間よりも怒っている。
 どうして?


「曹操様、あなたは何を……」

「出て行けと言っている!」


 声を荒げる曹操様に劉備君が大きく、身体を震わせた。恐怖から潤んでいく金の瞳に、私は咄嗟に曹操様に寄り添い何巡を呼んだ。


「何巡。劉備君達を送ってちょうだい。関羽さん達も陣屋まで」

「……分かりました」


 一瞬、承伏しかねるような顔をしたものの、私が目で訴えると、曹操様を睨めつけて劉備君の身体を抱き締めるように立ち上がらせて関羽さん達と共に部屋を出て行った。

 扉が閉まって息を吐いたのもつかの間、首を掴まれて寝台に押し倒された。
 間近に曹操様の凍てついた顔が迫り、私は息を呑む。


 黒い瞳が、表情を裏切ってとても寂しげなのだ。


 なんて、不安定な……。
 思わず見入っていると、低い声が私に降りかかる。


「何のつもりだ」

「何、の……?」

「十三支と馴れ合って何をするつもりだ」

「馴れ合う? それはどういった意味での言葉でしょう。もし何かをもくろんでいると言う意味で仰っているのでしたら、誤解です。……あの子達はただ挨拶に来てくれただけです。それを冷たく追い返すことなど出来ますか」

「だから楽しげに話すだけに留まらず、歌を聴かせるまでに親しくするのか。……夜に歌うことを止めて」

「!」


 また、歌だ。
 曹操様はいやに歌に拘(こだわ)っている。
 それに怒っているのに瞳は置いていかれた子供のように頼りなげで寒そうで……。
 彼は、自分の心の中に気付いているのだろうか。そんな疑問が浮かぶ。

 私は曹操様を見つめ、問いかけた。


「曹操様。今のあなたの心中をお聞かせ下さい」

「何を……?」

「曹操様が何を思って部屋から出ることを許さず、劉備君達と話し歌を聴かせたことにお怒りで、私が夜歌っていたことを気にかけていらっしゃるのか、私には皆目分かりません。分からなければ納得出来ません。納得出来なければ夫であろうと従えません。ですから、教えて下さいまし」


 「私の心中……?」曹操様が私の言葉を繰り返し、たじろぎ、私の上から退いた。
 私は身を起こして、彼の袖を掴んだ。


「教えて下さいまし。分からぬうちは、私はあなたの命令には決して従いません」


 曹操様は目を剥いた。
 何かを言おうとするけれど、口が開いた途端に閉じ、結局言葉は出てこない。

 彼は暫くそのままでいた。
 何かを考え込んでいるようだ。
 私の問いは、考える必要のあることなのだ。

 それは、つまり――――。

 曹操様の答えは、だいぶ時間が経過してからぽつりとこぼれた。


「……分からぬ」

「分からない?」

「ああ」

「少しも、分からないのですか?」

「ああ」


 曹操様は両手を見下ろし眉間に皺を寄せた。自分でも答えが出ないことが信じられない様子である。

 私は曹操様を見据え、「では」と。


「あなた自身理由が分からずに、私に何を禁止出来ましょう。私はその答えが出るまで、好きに過ごします。妾とて、夫の頭ごなしの命令にただ従うばかりでは妻として勤まりませぬ」


 「お戻り下さい」そう言いながら私は曹操様は身を押した。
 曹操様はとても神妙で、私の語気を強めた言葉に従って、部屋を出ていった。やや茫然として、また考え込んでいるようだった。

 きっと、彼は部屋に帰ってからも悩むだろう。
 何一つ分からないとありありと顔に浮かんでいた。

 自分でも分かっていなかった曹操様に、私は一方的に怒りをぶつけられていたのだ。

 ……でも、一人で答えを出せるかしら、曹操様。
 先程の様子を思い出し、心配になった。

 曹操様との会話を、戻ってきた何巡に話すと、彼女は軽く驚いた。


「……曹操様が、ですか」


 意外そうに言う。
 何巡は私にお茶を淹れ直してくれた後、外を見て渋面を作った。


「何巡?」

「……曹操様が夏侯惇様と歩いていて、こちらをご覧になっておられました」


 窓に寄って外を見ると、曹操様はもう歩き去っていった後で。曹操様と夏侯惇様の後ろ姿が柱の影から垣間見れただけだった。



‡‡‡




 それから、曹操様は時折私の部屋を訪れるようになった。

 お茶に誘うと無言で座り、私の様子をじっと見つめて何かを考え込んでいるのだ。
 恐らくはまだ私の問いに対する答えを探しているのだろう。

 ただ……こちらから話しかければちゃんと会話はしてくれるけれど、強い眼差しでずっと凝視されるのはちょっと気まずい。
 侍女達も私達のただならぬ状態に困惑しているから、何巡だけを側に置いてお茶をする形が定着してしまった。
 何巡が気を利かせて夏侯惇様達を呼ぼうとしても、曹操様は即座に断ってしまう。

 たまに劉備君達が遊びに来てくれた時にも重なってしまうと、もう大変だ。

 嬉しいことに、劉備君だけでなく関羽さんや張飛君達も私に懐いてくれている。
 でも曹操様はそれも気に食わないみたいで、決まって何かと理由を付けて彼らを追い返しては険悪な雰囲気になるのだ。

 その様子を見ていて、まるで玩具を取り合う子供の喧嘩だと、思わないでもなかった。

 運良く重ならなかった時も、稀に曹操様が途中で部屋に現れて冷たく追い出してしまう。

 ……問いかけたのは間違いだったのかしら。
 何だか、どんどん厄介なことになっているような気がするわ。


「○○さん。曹操って、あなたの前だとまるで子供みたいですね」


 たまたま曹操様が外出している昼間に、劉備君と関羽さんが私の部屋に遊びに来てくれた。

 関羽さんも、曹操様の不審な行動に振り回された結果、こうしてお茶の間にも頻繁に外の様子を警戒するようになってしまった。何だか申し訳ないわ。

 私は謝罪の後に、先日曹操様に問いかけたことを話した。
 すると、関羽さんは顎に手を添えて、眉根を寄せた。


「もしかして曹操って○○さんのこと、好きなんじゃ……」

「どうしてそう思うの?」

「あ、いえ……何となくです。何となくそうかもって思っただけなのでわたしの勘違いかも」

「でもそれは、私も思っていました」

「あっ、そ、そうなの!?」

「まあ、何巡まで」


 何巡は頷き、


「とは言え、どうも行動が幼い故に、男女の恋愛と断定出来はしないのですが」


 と。
 関羽さんも大きく頷いて同意を示す。

 曹操様が私を……とてもそうは思えない。
 だって私達はお互いのこと、何も知らないじゃない?
 私も曹操様も、互いに一線を引いて接していると思う。
 そんな感情が芽生える関係だとは言い難い。
 そう言うと、関羽さんは不思議そうな顔をした。


「だけど……そんなこと考えたことも無かったわ。曹操様と私が、男女の感情を持つだなんて」

「? 好きで曹操の奥さんになったんじゃないんですか?」


 関羽さんの問いに、今までお菓子に夢中だった劉備君がぱっと顔を上げて首を傾げた。


「○○。曹操のこと好きじゃないの?」

「そうねえ……私は、曹操様のお父様曹嵩様に気に入られて、曹操様の側室にと買われたの。だから、側室として曹操様に尽くすつもりではいるけれど、愛している、とは言えないわね」


 「そうだったんですか!?」関羽さんは大袈裟に驚いた。


「夫婦なのに、お互いのことが好きじゃないなんて悲しい……。買われて側室にされたから男の人に尽くすなんて、悲しくないんですか?」

「いいえ。人間の世界では当たり前のことだから、気にしなくて良いのよ。それに、ここに来て酷く扱われたことは一度も無いわ。曹操様は私を見下すようなことはなさらないし……少なくとも、黄巾討伐に向かわれるまでは」


 劉備君が連れてこられてから、どうも曹操様との関係が上手く行かなくなってしまっている。
 どうすれば元の通りに会話が出来るのかしら。
 私は私を思いやって眦を下げる関羽さんに笑いかけ、窓の外を見やり、あっと声を上げた。


「如何なさいました」

「曹操様が窓の外から見ておられたの。私と目が合うと行ってしまったけれど……」

「曹操もいっしょにお菓子、食べたいのかな」

「どうかしら……」


 お菓子が食べたい訳ではないと思うけれど……。
 首を傾けると、劉備君が笑顔で立ち上がった。


「関羽! 曹操も呼んでこよー!」

「え? あ、待って劉備!」


 名案だ、とばかりに部屋を飛び出す劉備君を、関羽さんが大慌てで追いかける。
 止めなければと思った時にはもう遅くて、念の為に何巡についていってもらった。

 曹操様は多分、誘われても断ると思うのだけれど……。
 そんなことを思いつつ、劉備君達のお茶を淹れ直して彼らを待っていると。


「○○ー! 曹操来たよ!」

「え……あら、まあ……」


 本当に劉備君は連れてきてしまった。
 予想外のことに唖然としている私の前に、劉備君がぐいぐい背中を押して曹操様が立つ。関羽さんが申し訳なさそうに肩を落としていた。

 機嫌のやや悪い曹操様と見つめ合うこと暫し、何巡に呼ばれてようやっと私は言葉を発することが出来た。


「あ、ええ、と……曹操様。お茶を飲んでいかれますか?」

「……一杯だけだ」


 ぎろりと劉備君を睨めつけるのを、関羽さんが宥めた。


「そ、曹操。あの、劉備は曹操が○○さんと仲良く出来るように……」

「あのね。このお菓子が一番おいしいんだよ」

「劉備……!」


 悪意の無い純粋な厚志(こうし)に曹操様は渋面を作る。
 私が劉備君を先に座らせて曹操様を招くと、彼は関羽さんも睨んで私の隣に座った。

 何巡は曹操様のお茶を淹れた後、少なくなった――――ほぼ劉備君が食べてしまった――――お菓子の補充の為部屋を出ていった。


「ごめんなさい、○○さん……」

「謝るのは、私ではないのか」

「ここに来るまでに散々謝ったじゃない! 夏侯惇にも睨まれちゃったし……」

「夏侯惇様には私から謝っておくわ。気にしないで。でも曹操様。夏侯惇様といらっしゃったのなら、お忙しいのでは? よろしければお茶とお菓子をお部屋にお持ち致しますわ」


 気を遣って問いかけると、曹操様は私を一瞥し、私に聞こえるくらいの声で囁くように言った


「私がいるのは迷惑か?」

「いいえ。そんなことはありませんが……むしろ、曹操様のお邪魔になりませんか?」

「少しの時間ならば問題無い」


 と、早口に言う曹操様。

 関羽さんが口元に手を当てて目を半眼に据わらせ、探るように曹操様を見つめる。
 やっぱり……と口が動いた。
 また先程のように曹操様が私を好いていると思っているのかしら。
 私は、違うと思うのだけれど。
 曹操様が関羽さんの視線に気付いて彼女を見ると、不自然に劉備君に構い出す。


「劉備。今度わたしもお菓子を作ってくるわね」

「ほんと? 嬉しい!」

「まあ、そんなことしなくたって良いのよ。お金がかかるでしょう? まだまだ若いんだから、こちらのことは気にしないで、お金は自分の為に使ってちょうだい」


 関羽さんは笑顔で首を横に振った。


「いいえ。これくらいしか出来ないけど、いつもお世話になっているお礼を返したいから、○○さんこそ、気にしないで下さい」

「そう? ……じゃあ、関羽さん手作りのお菓子を楽しみに待っていても良いのかしら?」

「はい! ……あ、いえ。あまり期待しないで下さい」

「ふふふ……そう。分かったわ。程々に待っているわね」


 関羽さんは、ほっとしたようだ。
 曹操を見、ちょっと考えた後にぐいっと身を乗り出す。


「ねえ曹操。もっと沢山、○○さんとお茶をしてみてはどう?」

「私が?」

「そうよ。だって二人は夫婦なんでしょう? 夫婦ならお互いのことを知るべきだわ」


 関羽さんのこの言葉に、曹操様は微かな反応を示した。
 薄く唇を開き、何かを呟いたようだ。声が無く誰にも聞こえなかった。
 一瞬だけ黒い目が私を見る。

 関羽さんの提案に言葉は返さなかったけれど、かと言って無視した訳でもなさそうだ。

 私は苦笑して、関羽さんを窘(たしな)めた。


「関羽さん……曹操様はお忙しい方だからそんなことを言ってはいけないわ」

「でもこんな関係じゃやっぱり駄目だと思います。どんな形でなったとしても夫婦なんだから、理解し合えた方がずっと上手くいきます。愛し合えればもっと上手くんです!」


 拳を握り締めて、きっぱりと言う。
 夫婦と言えども私達は関羽さんが思うような形の夫婦ではない。彼女は何とかそんな風にしたいと思っているようだけど、それはきっと難しいこと。
 関羽さんは一人大きく頷き、劉備君はきょとんと首を傾けた。

 それは関羽さんと何巡の個人的な見解に過ぎない。
 曹操様だって、そんなことを言われても困る筈だわ。
 曹操様に苦笑を向けた私は、えっとなった。

 彼は私を凝視していたのだ。
 思わずたじろいでしまっても視線は動かない。
 何か考え込んでいる様子で、私が驚いていることに気付いていない。
 困惑して名前を呼んでようやっと我に返った。


「……、……何でもない」

「そう、ですか……?」


 何でもないことはなかろうに、そう言われてしまっては追求することは出来ない。
 私は首を傾けながら引き下がった。

 そこで、何巡が沢山のお菓子を抱えて戻ってくる。


「関羽さん。余った分はお持ち帰り下さい。劉備さんの部屋にも後程補充しておきましょうね」

「ありがとう!」

「わたしの方も、ありがとう。張飛達も喜ぶわ」


 何巡は頭を下げ、私の後ろに立った。その際に、曹操様の様子を一瞬怪訝そうに見やった。

 それから、関羽さん達と話していたのだが、曹操様は上の空で、かと思えば私を凝視しては何巡や関羽さんに問いかけられていた。
 関羽さんの言葉でそうなったのは間違い無い。
 でも、どの言葉に考え込むようになってしまったのかが分からない。

 関羽さんはやはりと言いたげな顔を時折している。

 二人が帰った後、変な事態には、ならないわよね?

 そんな不安を抱いた。

 お茶自体は、何の問題も無く終わった。

 関羽さんや劉備君は何巡に送らせた。

 後は、曹操様だけだ。結局は、最後まで彼は残っていた。
 座ったままの彼に歩み寄り、呼びかける。


「曹操様。お仕事は大丈夫ですか?」

「……ああ。そろそろ、戻る」

「はい」


 曹操様は扉に近付き、手をかけた。
 そこで肩越しに私を振り返って、


「……また、来る」

「え? あ、はい……お待ちしております」


 曹操様は黙して頷き、部屋を出て行った。
 私は部屋の外まで出て、拱手(きょうしゅ)して彼を見送った。

 その時まで危惧したことも無かった。

 だけどその二日後から、私の部屋に贈り物がよく届くようになった。
 煌びやかな衣装に、装飾品、化粧道具、調度品……一度に沢山、様々な物が送り届けられた。
 どれも私には高価過ぎる物ばかりで、使うことも憚られるくらいだった。

 それが二日に一回と頻繁にあるから、正直困惑している。

 侍女達は少しだけでも使った方が良いと、服には袖を通し、まるで舞を踊る前みたいにこの身を飾り、化粧もして、調度品も入れ替えた。
 でも、さすがに届き続けると彼女達も困り果ててしまう。

 お茶に来た時に断ろうにも、ご厚意でいただいている物だから切り出しにくい。

 何を思って、私に贈り物をするのか……関羽さんの言葉が原因だろう。
 まさか関羽さん達の言うように私のことを……。
 いいえ、そんなのやっぱり有り得ないわ。
 好きになる程接している訳ではないもの。


「……どういうおつもりなのかしら、曹操様」


 裁縫の途中に、ぽつりとこぼした疑問を、何巡が拾った。


「やはり、私や関羽さんが仰っていた通り、好きだと自覚されたのではないでしょうか。その方が納得出来ます。でなければ妾に上等な贈り物を定期的にする筈がございません。○○様は、歌妓であって、政治的利用価値のある名家の姫ではありませんから」

「でもね、何巡……」

「○○様の困惑なさるお気持ちも分からないではありませんが……あちらは○○様の歌を聴いて、気にかけていらっしゃいました。○○様の歌から、惹かれたのでは?」


 それは、とても光栄なこと。
 私の歌を気に入って下さっているのなら、多少なりとも安らぎを与えられたということだから。
 私は渋面を作り、動かしていた針を止めた。


「好き、という感情は、私には分からないわ。お客様をそんな目で見たことは無いし……私は店に住み込みで舞う時以外は何巡だけとしか話をさせてもらえなかったわ。前に、執着し過ぎたお客様に殺された歌妓がいたから」

「それは、私も同じです、何となく、歌妓に惚れて入れ込んでいたお客様に近いものを感じただけですから、関羽さんが同じ印象を持っていらしてようやっと確信に多少近付いたというだけで……今でも自信は全く」


 お互い、色恋とは無縁な生活だった。私が、安全の為にもそうしなければいけない歌妓だったから仕方のないこと。
 侍女達にも意見を求めてみると、彼女達も曹操様は私に気があるのではないかとのことで。

 そう言うものなのかしら。
 私は首を傾けた。


「○○様も、曹操様をお知りになれば、そう言った感情も分かるのではありませんか。相手を知らないのは○○様も同じなのですし」


 侍女の言葉を聞き、私は少しだけ考えた。


「……そうね。そうしてみましょう。お茶にいらした時にでも色々お訊ねしてみようかしら」

「それがよろしいですわ」


 そう……そうね。
 侍女の提案を、私はすぐに実行することとした。
 初めて、私の方からお茶にお誘いした。

 けれど、日程を変えられないかという、色好い返事ではなかった。
 それも想定していたから、使いの何巡には後日暇な時を教えて下さいと伝えるように言いつけておいた。

 果たして。



 彼からの報せが来ることは無かった。



‡‡‡




 曹操様が日の暮れかけにお屋敷を出て行かれたきり、戻らない。

 彼は私の部屋へ出掛ける旨だけを報せに来てくれたが、それ以降、夜が明けて日が天頂に昇った時にも、帰還の報せは無かった。
 ……嫌な予感がする。

 あまり政治的な部分を気にしないようにしている私であるけれど、最近少帝を殺して新しく帝を立てたのではないかと不穏な噂の流れる相国(しょうこく)の董卓様の専横が、気になっていた。

 曹操様も気にしていない訳がないだろう。
 更には、曹操様が外出なさったのは、董卓様が新しい帝を立てたその日の夕方。その件との繋がりを感じずにはいられない。

 心配と不安が混ざり合って、私は屋敷の周りを何巡と共に歩いて回った。
 しかし、曹操様は一向にお戻りにならなかった。

 三日後には劉備君や兵士の全てが屋敷――――いえ、洛陽の街から消え、使用人ばかりが残っている状況だということも分かった。

 これは、異常だ。やはり曹操様の身に何かが遭ったのだ。
 猫族の陣屋や洛陽の街の様子を何巡に確かめさせた。街自体には目立った変化は見られないとのことだったが、猫族の陣屋は引き払われて一人も残っていないらしかった。

 私達の知らないところで何かが起こったのだと確信して、私は気が気でなかった。
 猫族を兵士として利用する為に人質にされている――――そう関羽さん達に聞いた――――劉備君や兵士達だけ私達の知らないうちに連れ出されているということは、非力な人間に構っていられない急を要する事態であったのだろう。
 そう、命の危険が間近に迫っているような――――……。

 報せが無いのも使用人達が騒いで命を狙う人物に曹操様の動向を悟らせない為。

 ……ならば、私達はここに残って成り行きを眺めて、必要があれば、動こう。
 曹操様の安否も定かではない今、確かな情報を集めなくては。

 部屋で一人思案していた私は、側に控えている何巡を見た。


「……何巡。一つ、頼まれてくれる?」

「畏まりました。……曹操様について探ればよろしいのですね?」

「そう。でも自分の安全を最優先になさい」

「了解致しました」


 私が頷くと、何巡は足早に部屋を出ていった。

 それからややあって、訪問者が使用人達の心を乱した。
 侍女が青ざめて部屋に駆け込んできたかと思えば、曹操様と旧知の仲である袁紹様の従兄弟だったと記憶している袁術様が、何処か意地悪げな笑みを浮かべていた。

 私が前に立って拱手すると、値踏みをするように不躾な視線を向け、


「へえ……曹操もかなりの上玉を嫁にしてんじゃねぇか」

「お褒めいただき恐縮です。袁術様。主の不在、深くお詫び致します。何か伝言などがございましたら、よろしければ、私の方から曹操様へお伝えしておきますが」

「いや、曹操に用は無ぇ。ただ、噂が本当かどうか確かめにきただけだ」


 袁術様は私の反応を見て、口角をつり上げた。


「噂じゃ、曹操は董卓に殺されちまったらしいぜ! 悪い事は言わねえ、お前らも洛陽を離れた方が良い」

「……!」


 後ろで使用人達が騒ぎ出した。


「曹操様がお亡くなりに!?」

「そ、そんなまさか……っ」


 不安を露わにする彼らに袁術様の笑みが濃くなる。
 なんて人……皆の様子を楽しんでいらっしゃるんだわ。
 私は小さく息を吸い、使用人達を振り返った。


「静まりなさい、客人の前で見苦しい!」


 声を張り上げ使用人達を一喝した。
 しんと静まった彼らを見渡し、私は背筋を伸ばした。


「噂は噂です。真偽はまだ分かりません。確かめることもせずに屋敷を出ていくなど……もし、今日私達皆が屋敷を離れ、曹操様が屋敷に帰ってこられたら、どんな顔をしてお会いすれば良いのです? 万が一にでも曹操様が本当に亡くなっていたのならば、その時は皆で曹操様の後を追えば済むことです」


 私の言葉に、使用人達は落ち着きを取り戻したみたいで、不安から来るどよめきも収まった。

 私はほっとして、袁術様に頭を下げた。


「お報せいただき、まことにありがとうございました。袁術様。こちらも袁術様のお聞きした噂をもとに、情報を集めてみます」

「……分かった。じゃ、新しい情報が来たら、教えてやるよ」


 露骨に面白くなさそうな顔をして、袁術様は帰っていった。
 これ以上、取り乱す姿を見せる訳にはいかない。
 私は使用人達にいつも通り仕事をこなすように指示し、何巡の戻りを待った。

 何巡は、日が暮れた頃に戻ってきた。


「○○様。曹操様はご無事です。関羽さん達猫族も、曹操様と共にいると考えられます」


 何巡曰く。
 曹操様はどうやら董卓様の暗殺を試み、失敗したそうだ。
 その為に、この洛陽を猫族と共に脱出している。行き先は恐らく、曹操様の故郷豫州(よしゅう)の沛国礁県だろう。

 何巡が動いた限りで得られた情報は、それだけ。

 だけど、私には十分過ぎるものだ。


「良かったわ。では、私はこのまま残って、使用人達をしっかり守らなくてはね。何巡。ありがとう。暫くはあなたも仕事の方に集中してちょうだい」

「分かりました。何かございましたらご命令下さいませ」

「ええ。その時はお願いするわ」


 私は何巡を退がらせ、彼女が得てくれた情報をよくよく吟味した。
 董卓様の暗殺を失敗した曹操様は、洛陽には戻れまい。
 となれば、軍を起こして董卓様討伐に踏み切られる可能性が高い。
 無論、夏侯惇様達や猫族を合わせた戦力では、きっと董卓様に遠く及ばない。

 確実に董卓様を倒すおつもりなら、曹操様はまず戦力を求める筈だわ。


「曹操様だけが董卓様に不満を持っていらしたというのは、考え難いわね。……董卓様に叛意を抱く、兵力持つ諸侯に呼びかけて集めれば、打倒出来ないこともない」


 洛陽も戦火に巻き込まれる可能性が高いわ。
 曹操様に代わって、私がしっかり皆を守らなければ。


「……けど、残念ね」


 曹操様を知ろうと思った矢先にこれだもの。
 ぼやいて、私は窓の外を見やった。

 ……曹操様。どうか、ご無事で――――……。



‡‡‡




 焦げた臭いの充満する洛陽。
 見渡す限り炭ばかりで、焼け落ちた建物に生きている気配は感じられない。

 その奥もきっと、同じような光景が広がっているに違い無い。

 曹操は、その光景を見て拳を握り締めた。
 心の底からせり上がる衝動が足を動かそうとするが、理性で押し留める。
 今自分がするべきことは、彼女――――○○を捜すことではない。


 逃げた董卓を追うことだ。


 曹操は深呼吸を繰り返して冷静に努めた。
 すると。

 何処からか、歌が聞こえてくるではないか。

 聞き覚えのあるそれに、あれだけ抑え込んでいた理性は一気に退けられた。


「曹操様!?」

「曹操!」


 それまでの疲労など、歌声に払拭されたかのように、身体が軽かった。
 曹操は変わり果てた、行き慣れた道を走った。
 董卓を追わねば――――理性が自身を怒鳴りつける。

 一目だけだ。
 たった一目、彼女の姿を見れたなら、急いで追おう。

 今は彼女の無事な姿を見たい。
 反董卓連合を結成して、董卓を打倒せんと戦って――――その間、一体何度あの歌声が恋しくなっただろう。
 自分でもらしくないと分かっている。
 ○○を前にすると、自分を守る為の壁が極端に薄くなる。
 異母姉が混血だと言って、私を癒してあげたいけれど、苦しみを分かってあげらないなどと、嘘とも思えぬ程さらりと、真剣に言うあの人間の女は、容易く心に入り込んでくる。

 これは、関羽の言っていた愛し合う……愛するということなのか。
 ○○に近付く他人が疎ましく思うのも、彼女の歌が自分以外の者の為に歌われることが気に食わないのも――――それ故なのか。
 これが、答えられなかった○○の問いの答えなのだろうか。

 分からない。
 分からないから、自分のこの心の正体を分かろうと、何度も○○と接触した。

 だが、もしかしたらそうかもしれない、と思うようにはなった。
 今、彼女を求めている。
 強く、強く。

 これを、愛すると言うのか……?

 愛情など、無縁のものだった。
 誰からも与えられたことの無い、望むことすら諦めたものだった。
 それを、私は○○に抱き、同時に求めているというのか。

 否定は、しなかった。
 曹操自身、する必要を感じなかったのだ。

 そうか。
 私は。


 いつの間にか、○○を愛してしまったらしい。


 混血の、私が。
 母を狂わせた父が気に入って買い取り鑑賞の為だけに息子の嫁にあてがった、父と同じ人間の女を。

 気付かぬうちに、求めている。

 ……いや、彼女はあの男とは違う。
 人間という種族以外に、父と同じ訳がないのだ。
 でなければ、私が○○を愛する理由が、無い。

 聞こえる歌の、なんと清らかなこと。
 また自分以外の誰かの為に歌っているのだろう。
 気に食わないが、この歌は間違い無く○○が生きている証だ。

 怪我をしていても構わない。
 彼女が生きてさえいるのなら、それだけで良い――――。


「――――ッ!!」


 彼女がいた。
 屋敷の前で、洛陽に取り残された人々の前で、美しい歌声を披露していた。曹操が贈った衣装をまとい、化粧をして、軽やかに舞っている。
 まるで、風と踊る一輪の可憐な花だ。

 ○○の舞いが披露される傍ら、侍女達が食料を彼らに配っている。

 曹操は笑顔を浮かべている彼女に駆け寄った。


「……っ○○!!」


 怒鳴るように呼ぶと、彼女の歌が止み、こちらを見る。目が丸く見開かれた。
 彼女も人々に頭を下げてこちらへと駆けつける。


「曹操様、ご無事で――――」

「○○!!」

「! きゃっ」


 掴んだ腕を引っ張り強引に○○の身体を抱き締める。
 ○○は抵抗しなかった。「良かった……」安堵した独白の後、背中に手が回る。


「なかなかお戻りにならないので、私も、皆も心配しておりましたよ」

「ああ……すまなかった」

「いいえ。お屋敷のことは私でも守れましたし、曹操様達がご無事なら、それで」


 放した○○は、柔らかな笑みを浮かべ、曹操の頬を両手で挟む。
 そのとろけるような笑みを心から愛おしいと思った。

 きっと彼女は、こちらを男として見てはいないだろう。
 だが、今はそれでも良い。
 生きていることが分かっただけで十分だ。

 曹操はもう一度彼女を抱き締め、駆け寄ってきた何巡を呼んだ。


「私はこれより洛陽を捨てた董卓を追う。一部の兵士を、お前達に残して行こう。彼らと合流し、私が戻るまで待っていろ。取り残された民は、連合軍の他の者に託しても構わぬ。……何巡、○○のことをよろしく頼むぞ」


 何巡は、曹操を見て軽く驚いた様子である。
 「畏まりました」深々と一礼し、○○に目配せする。


「使用人達のことはお任せ下さいまし。曹操様、お気を付けて」

「ああ。……○○」

「? はい」


 戻った時には久し振りに歌を聴かせて欲しい――――と言おうとして、口を噤んだ。
 視線をさまよわせ、背を向ける。


「怪我人がいれば、兵に言え」

「分かりました。曹操様」


 戻られた時には、また夜に歌を歌ってもよろしいですか?
 そう訊ねてきた彼女を、また抱き締めたくなったが、それを振り切って曹操は歩き出した。


「好きにしろ」


 抑揚を押し殺した言葉を残して。


 暫く道を進むと、また歌声が聞こえてきた。
 それは耳に心地良く、頭の中にじんわりと浸透する。



●○●

 曹操だと、狂ってたり混血夢主だったりが多かったので、今までと違う、狂わない曹操の夢を書こうと思ってこんな長い作品になりました。
 人間夢主とゆっくり歩み寄る話にしたかったので、あんな終わり方です。

 夢主は、曹操に最も愛されたと言う卞(べん)夫人をモデルにしていますが、彼女にまつわる話を色々と変えています。


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