私が泣いたのは、異母姉が私が比較的良心的な場所に売られたことを見届けた後、自ら命を絶ってしまったことを知った時と、異母姉の遺体に縋り付いた時くらい。
 今でも家族で過ごしていた日々を幸せだと言えるし、もし父に会って謝られたら、すんなりと許してしまえるだろう。

 猫族が人の世では忌み嫌われていることは、知っている。
 だけど村は皆猫族に好意的なのが当たり前だったし、花街でも猫族――――十三支の悪口を聞くくらいで、実際に猫族が迫害されている光景を目にしたことは一度も無い。だから、今でも想像も出来ないし信じられない。

 そんな私が、曹操様のことを理解するのは難しいのだろうか。

 偉そうに誰かのお導きなんて思っていた自分が恥ずかしい。
 でも……でも、もしこれが私が思ったように姉さんのお導きだとしたら――――私はこのままではいられない。

 窓から部屋の外をぼんやりと眺めていることも増えた。何巡達には心配されたけれど……このことは何巡にも言わない方が良い。

 もし私も姉さんのように混血だったなら、良かったのかも。
 なんて、詮無いことね。

 聴く人の心を癒す歌を歌いなさい、目にする人の慰みになる舞を舞いなさいと、師の歌妓は教えてくれた。
 曹操様の心には、私の歌は……。

 ある日、私は夜中に一人こっそりと部屋を出た。
 回廊の柱に寄りかかり、歌う。


「嗚呼……やはり私が混血だったなら――――ああ、だけどやっぱり駄目だわ」

「混血だったなら、だと?」

「あ……」


 背後から聞こえてきた声に、私は軽く驚いて声を漏らした。
 振り返ると、曹操様が腕を組んで、冷たい眼差しでそこに立っている。

 他の方でなかったことに私はほっと息を吐いて、私は曹操様に拱手(きょうしゅ)した。


「己の無力さに、嫌気が差していただけです」


 曹操様は眉間に皺を寄せた。


「……それが、混血とどう関係がある」

「曹操様の心をどうすれば癒せるか……混血だったならと思うけれど、やはりそれだけでは不十分なのではないかと」


 曹操様は怪訝そうな顔をした。何を言っている、と言いたげだ。

 当然の反応だわ。
 私は苦笑した。

 そこで、ふと一つ思い出す。


「そうでした。曹操様にちゃんと言わなければいけませんでした」

「……」

「曹操様のことは誰も言いません。天に誓って。もし破った時は、この首を斬り落として下さって構いません。花街にいた時もご満足いただけなかったお客様からはお代はいただきませんでしたから」

「……」

「どうかなさいました?」


 曹操様の目はまるで珍獣を見ているかのようなものだった。
 ……私、何かおかしなことでも言ったかしら?
 私は首を傾げた。


「……頭がおかしいのか」

「あら、酷い」


 曹操様は探るような目を向けてくる。
 腕をゆっくりと持ち上げる。
 私の首を、軽く掴んだ。


「何故私にそのようなことが言える。先日のことは忘れたのか」

「いいえ。でも、私……心が変わっていないのです」

「心だと……?」

「初めてお会いした時、曹操様を哀れだと思いました。……あ、怒らないで下さいましね。夜歌っておりましたのも、少しでも曹操様の心が安らげばと思ってのことです。それは今でも変わっていません。でも、先日のことがあって、とても困っているんです」


 私、猫族が迫害されている想像が出来ず、曹操様の苦しみを理解することがどうにも難しくて、どうしたら良いものかとずっと考えていても答えが全く出ないのです。
 そう言うと、曹操様は溜息を漏らして私の首を解放した。


「……馬鹿馬鹿しい。無駄なことだ」

「私にはとても大切なことですわ」

「何故」

「だって、私の心が全く変わらないのですもの。毎夜歌っても、やはり不十分なのだと思えてしまって。どうしましょう」


 問いかけると、鬱陶しそうに言葉が返ってきた。


「私が知るか」

「ならば、もう少しここで考えてみます。……曹操様。今宵は冷えますので、温かくしてお休み下さいましね」


 また柱に寄りかかって、思案に戻る。

 それからややあって、溜息が聞こえた。
 意識がそちらに向いた次の瞬間、肩を掴まれ強引に後ろを向かされる。何処か苛立った曹操様の顔を見た直後に腕を引かれ歩かされる。


「曹操様。私考え事をしたいのですが」

「部屋でやれ」

「部屋では無理だったので外に――――」


 一睨みで遮られた。

 機嫌が悪くなった曹操様は無理矢理に私を部屋に押し込み、無言で立ち去ってしまった。
 もう一度外に出ようと扉を開けて様子を窺ってみると、少し離れた場所で見張られていて、断念せざるを得なかった。

 仕方がないので、いつも通り、歌を歌うことにした。

――――その結果。


「……○○様」

「ごめんなさい。何巡。また風邪を引いてしまったわ」


 笑って言うと、「笑い事ではありません」ぴしゃりと叱りつけられた。
 私は肩をすくめて苦笑する。

 翌日、私はまた風邪を引いてしまったのだった。


「やはり夜中に歌うのは止めていただいた方がよろしいですね。私の方から曹操様にお願いして参ります」

「でも今回は咽は無事よ」

「風邪であることに変わりありません」


 取り付く島も無い。
 風邪を引いたのは間違い無く昨夜外に出たのが原因だ。
 何巡達は私が一人部屋を出たことに気付いていないから、肌寒い夜に歌ったから風邪を引いたのだと思われている。

 憤然と夜の歌禁止令を出してくる何巡達のキツい言葉をかわしていると、部屋の外から足音が聞こえた。何となく、曹操様かもしれないと思った。

 すると、


『私だ』

「どうぞ」


 本当に曹操様だった。
 これは、驚きだわ。何となくそう思っただけだったのに。

 何巡は溜息をつき扉を小さく開けて、小声で何かを伝えた。
 きっと……いえ、間違い無く私がまた風邪を引いたことを伝えているんだわ。
 今、「またか」なんて呆れた声も聞こえた。


「たまたまですわ。曹操様」

「たまたまで何度も風邪を引かれては侍女も困るだろう」

「嫌ですわ。曹操様が何巡達と結託されてしまったら、私、夜に歌えなくなってしまうではありませんか」


 おどけて言うと、曹操様の肩が一瞬だけ震えたように見えた。表情は凪いだままだったけれど。


「……後で医者に薬を用意させる」


 曹操様は私をじっと見つめ、溜息混じりに身体を反転させた。「治るまでは安静にしておけ」そう言って、部屋を退出した。

 何巡が扉を閉めながら感心した様子で、


「……存外、お優しい方なのですね。曹操様は」

「そうね。私も、気にも留められていないと思っていたのだけれど」


 私が頷くと、何巡は嬉しそうに笑った。前髪のかかる頬がほんのりと赤い。


「ようございました。ここにいれば、きっと○○様は花街にいた頃よりも、恵まれた生活を送ることが出来ましょう」


 私を思っての心からの言葉に、彼女への愛しさが膨らんだ。本当に可愛い子。

 見れば他の侍女達も、愛おしげに何巡を見つめている。



‡‡‡




 なんてことでしょう。
 いつの間にか、曹操様は軍を率いてお屋敷を出ていた。

 黄巾討伐に向かわれたのだのだと、後になって――――風邪が治ったのを見計らって何巡達から知らされた。

 お見送りもさせてくれないなんて、なんて酷い方。
 ……そんな恨み言、言っても風邪を移されてはたまったものではないと呆れながら返ってきそうだ。

 風邪を引いた私が悪いけれど、それでも一言くらい、直接教えて欲しかった。

 私は、曹操様達が無事に戻られることを祈った。
 戦に赴き、帰らぬ人となったお客様は何人もいた。運良く生きて帰って来れても、身体の何処かを失っている方もいた。
 曹操様も、夏侯惇様も夏侯淵様も、そうならない保証は無い。
 だから、私は毎夜歌うのではなく夜空に向かって祈り続けた。

 私の祈りが天に届いたなんて、そんな身の程知らずなことは思っていないけれど。

 曹操様達がご帰還なさったと知らされた時には、本当に安堵した。


「お帰りなさいまし。曹操様。皆様も、お役目ご苦労様でした」


 彼らを迎えた私は、曹操様に笑いかけ、その背後に隠れる真っ白な影に気付いて覗き込んだ。

 驚いた。
 でもじわじわと顔に滲み出てくるのは笑顔だ。
 私はその子の前にしゃがみ込み、怖がらせないように頭をゆっくりと撫でた。


「まあ、可愛らしい子。私は○○と言うの。坊やのお名前は?」

「○○様! 十三支に名乗るなど」

「夏侯惇様。ごめんなさい。私はこの子に訊ねているのですが」


 私を諫めた夏侯惇様に笑顔を向けただけなのに、彼は鼻白んだ。深々と頭を下げ、謝罪してくれた。

 気を取り直して、真っ白な子供に名を訊ねる。


「ぼく……ぼく、劉備」

「劉備君ね。素敵なお名前。疲れたでしょう。私のお部屋でお茶をしましょうか。曹操様、よろしいですか?」


 曹操様は、疲れた顔で「好きにしろ」と。では、好きにさせていただきましょう。


「何巡。お菓子を沢山用意してくれる?」

「……畏まりました」

「じゃあ、劉備君。行きましょう。ちょっとだけ歩くけれど、大丈夫?」

「うん。平気だよ」

「とっても強いのね」


 褒めると、劉備君は擽(くすぐ)ったそうに笑った。
 劉備君の手を引いて、疲労と呆れの入り交じった顔の曹操様の前を辞す。

 劉備君を見下ろし、私はその愛らしさに笑みが隠せなかった。
 ぴょこぴょこと色んな方向を向く落ち着きの無い猫の耳。
 そして、まるで異世界に飛び込んだみたいに好奇心にきらきらと輝いた金色の瞳。
 劉備君は純血の猫族の少年だ。

 見る限り大切に守られてきたと分かる綺麗な身形で、性格も純粋そうだ。
 何処からこんな子を連れてきたのか、後で訊ねてみた方が良いかもしれない。

 劉備君は、私の部屋でちょっと話をしただけで、お菓子も食べること無く眠ってしまった。
 でも、ちょっとの会話だけで彼がどんなに良い子なのか良く分かった。
 劉備君を私の寝台に寝かせ、お菓子はそのまま、お茶は起きてから新しく淹れることにして、今は疲れを癒せるよう気を配った。

 侍女達は猫族に対して恐怖心が否めないようで、私は何巡だけを残して下がらせた。
 世の中では、彼女達の反応の方が当たり前だというのが、やはり信じられない。
 こんなにも可愛らしい寝顔なのに。
 人間の子供のそれと、何も変わらないのに。

 人の世の中って、本当にお堅いものだわ。
 劉備君の寝顔を眺めながら、私はぼやかずにはいられなかった。
 どうして曹操様が連れてきたのか分からないけれど、せめて私と一緒にいる間くらいは、辛い思いをしないように私がしっかり守ってあげたいわ。

 でも、劉備君が目覚めるとお菓子を食べる暇も無く曹操様が連れて行ってしまった。
 ついて行こうとしたけれど、劉備君に与える部屋の準備を命じられてしまっては逆らうことも出来なくて、私は劉備君に酷いことをしないように強くお願いして、渋々従った。



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