「……歌わないのか」

「歌わ―――――あっ」


 彼が言葉少なに言わんとしていることが、やや遅れて分かった。
 歌わないのか。
 それはつまり、


「私が、もう夜に歌っていないから、ここへ?」

「……」


 こくり、と首肯する。


「もしかして風邪を引いた時も、それで?」

「……」


 また、首肯。

 意外だった。
 まさか曹操様が、そんなことを仰るなんて。
 それに、先日は気付かなかったけれど……今の曹操様、態度が少し幼い?

 拙(つたな)さが出ている曹操様は、決して口には出せないけれど……子供のようで少しだけ可愛らしい。
 私は笑いを堪えて口を袖で隠し、


「私共はてっきり、私が夜歌っているのが、お嫌だったのではないかと思うておりました。先日お出で下さったのも、その抗議にいらっしゃったのかと」


 そこで、彼は沈黙する。
 また沈黙かしらとじっと見つめていると、躊躇いがちに口を開く。


「いや……さすがは花街随一の歌妓。聞きしに勝る歌声と思っていた」


 風邪を引いてから意外なことばかりが起こる。
 素直にそう伝えると、曹操様は視線を横に逸らした。気まずそうに、言いにくそうに言葉を紡ぐ。


「気疎(けうと)いと思ったことは無い」

「まあ嬉しい。実を言いますと、歌っていた時はいつも風邪を引くから止めるようにって皆に言われていたんです。曹操様が歌って良いと仰るのでしたら、あの子達も許して下さいますわ。ありがとうございます、曹操様」


 曹操様は、とても気まずそうだ。
 どんどん可愛らしく思えてくる。
 私は笑い、立ち上がった。


「曹操様。私、今までずっと部屋の中で過ごしてばかりでして……外を歩いてみたいのです。部屋を出てもよろしいですか?」

「……好きにすれば良い」


 では、好きにしましょう。
 私は頷き、部屋を出た。

 すると、曹操様も出てくるのだ。
 何巡を呼び、私の側を歩くように指示し、前を行く。


「部屋から出たことが無いのであれば、何処に何があるのかも分かるまい」

「まあ、曹操様が案内して下さるのですね。ありがとうございます」

「……」


 曹操様は、私よりも幾らか歳上。
 私と二人きりの時は何だか幼かった彼も、何巡がいるとあのいつもの玲瓏(れいろう)たる姿と変わる。
 子供の頃から歌が好きだったのかもしれない。だから昔を思い出して、幼くなってしまうのかも。
 思う程、完璧な人ではないようだ。
 このささやかな発見が、私は楽しい。

 この方とは存外上手くやっていけそうで安心した。

 屋敷の中を歩いていると、二人の男性とすれ違う。
 何巡が夏侯惇様、夏侯淵様であると教えてくれて、いつも何巡がお世話になっている二人に、お礼を言うことが出来た。

 曹操様の配下の方々とすれ違う度、何巡が誰であるか教えてくれる。私は一人ひとりに頭を下げていった。
 今までも思っていたことだけれど、曹操様のお屋敷は本当に広い。
 今日中に回りきれるかどうか分からないくらいだ。
 曹操様の案内はとても丁寧で分かりやすいし、近付いてはいけない場所についても教えてくれる。

 どうやら、部屋の外を出歩いても良いようだ。
 通りかかった中庭は、特に制限を受けなかった。
 ということは、中庭に私が出ても問題は無い。


「何巡。これからは中庭でゆっくり出来るわ。晴れの日は他の子達も一緒に中庭でお茶をしましょう」

「ええ。それはとても良い案にございます」


 何巡と笑い合い、中庭に出る。
 今日は風が強いようだ。
 悪戯に踊らされる髪を押さえ、私は曹操様を振り返った。


「曹操様や夏侯惇様達も、お暇な時にはご一緒に――――」


――――曹操様の髪が、巻き上がる。
 私は目を瞠(みは)った。


「あ……っ」


 今……私の見間違いかしら。



 曹操様の耳が何処にも見当たらなかったような……。



 ……いいえ。
 気の所為ではなかった。
 曹操様がはっと自身の髪を押さえつけ、私を打って変わって物凄い形相で見た。

 耳が、無い。
 切り落とした形跡すらも無かった。
 それの意味するところを、私は分かっている。

 その凍てついたおぞましい眼光に気圧されたものの、私はその場から動かずに曹操様を見据えた。
 このままここにいると、私以外の方が、曹操様の耳を見てしまう可能性がある。
 見られる危険性も、分かっている。


「何巡。今日は風が強く、冷たいので、もう中に戻りましょう。私も、せっかく治った風邪をまた引くのは嫌だわ。温かいお茶とお菓子を用意してちょうだい」

「畏(かしこ)まりました」

「さ、曹操様。私の部屋に戻りましょう」


 手を握ると、強い力で握り締められる。骨が軋む。

 男性の容赦無い握力とあってとても痛い。
 けれども私は、努めて平静を装って曹操様を部屋へ導いた。

 殺されるかもしれない。
 先程の形相に、この手の力――――偶然とは言え、私が彼の決して触れてはならぬ場所に触れてしまった。

 でも、私が曹操様に関わったことは、何かしらの導きなのだろうかと思いもする。

 だって曹嵩様に見いだされて何巡と共に曹操様の妾として屋敷に入ったこと、風邪の時の曹操様の訪問、それからすぐの訪問の直後に風の悪戯で曹操様の耳が無いことに気付いてしまったこと――――誰かがそう仕向けているようにも思えて。

 さすがに、その誰かに心当たりがあるのは、私の都合の良い解釈なのかもしれないけれど。

 ますは曹操様がどう出るか、どう出ても冷静に対処しなければと、私は心を引き締め曹操様と共に部屋に入った。

 刹那。


 背後から咽を掴まれ床に押し倒された。



‡‡‡




 俯せに床に押しつけられて衝撃で息が詰まる。
 痛い。苦しい。
 だが、我慢する。
 それだけ、私の見てしまったものは曹操様にとって忌避したいのだ。

 嗚呼、殺されてしまうかも。

 のし掛かられて、低く、殺意の籠もった声が私に降りかかった。


「何を見た?」


 私は目を伏せ、冷静に、冷静に、と言い聞かせる。


「人の耳が無いこめかみを」

「……」

「そしてそれの意味することが、あなたが人間ではないこと。あなたも猫族であること」


 抑揚を抑(おさ)え、静かに言葉を続けると、不意に圧力が弱まる。
 何事かと思えば手が離れた。


「今、『あなた《も》』と言ったか……?」

「あ……」


 肩を掴まれ身体を仰向けに返される。
 間近で、なおも冷たく鋭利な眼光を向けてくる曹操様の瞳は、どんな闇よりも濃い黒だ。

 そう、《金》の瞳ではなく、黒の瞳。

 その意味も遠い昔に教えてもらっている。

 迂闊にも他にも知っているような発言をしてしまったけれど、曹操様は私への殺意を収めはしない。


「驚いた。花街一の歌妓に、十三支との関わりがあろうとは……」

「十三支と申しましても、私に猫族のことを教えてくれたのは、猫族と人間の混血の異母姉でした」


 曹操様は大層驚かれた。


「混血だと!?」

「え?」

「今、混血と言ったのか!」


 私は困惑した。
 曹操様のこの大袈裟にも思える反応は、想像していなかった。
 何をそこまで驚いているのか……。

 人間の耳を持たず、黒い瞳を持つ曹操様は、私の異母姉と同じ《混血》だ。

 確かに混血とは出生率が極めて低いと聞いた。でもだからと言ってこの大陸に一人もいないとは言い切れないとも言われた。
 混血が私の異母姉だったとして、これ程の反応を見せる程のものとは思えない。

 曹操様は、私の顔を凝視し、低く問いかける。


「お前の姉は今何処にいる」

「亡くなりました。父に姉妹共々売られた時に、私が花街の歌妓の弟子として買われたのを見届けてから、自ら舌を噛ん命を絶ったそうです。遺体も、師が引き取って共に丁重に弔って下さいました。猫族のことについては、異母姉から聞いておりました故に」

「……すでにこの世に亡い、か……」


 大きく落胆し曹操様は私の上から退かれた。
 片手で顔を覆い、長々と溜息をつく。

 私も立ち上がって乱れた身形を整え、曹操様に問いかけた。


「曹操様。どうして私の異母姉が混血ということにそんなにも大きな反応をなさるのです」

「……お前には、分からぬ」

「分からぬ故に、問うております」


 曹操様は、私を一瞥した。けれど何も言わない。
 もう一度問おうとした私を、外から何巡の声が遮った。



『お茶とお菓子をお持ち致しました』

「……ええ。ありがとう。入ってちょうだい」


 私は切り替えて席(むしろ)に腰を下ろし彼女に応えた。

 曹操様も表情を変え、私の前に座る。

 しかし、時折刺すような視線を感じた。
 疑われている。
 私が、見たもの察したものを他言しないかどうか。

 心外だけれど、彼自身、過去にそれだけのことがあったのかもしれない。

 私は、世間話をしながら、曹操様について思案する。

 曹操様のお父様、曹嵩様は生粋の人間だ。
 でも猫族に対しては寛容ではない。私に対する態度から、地位の低い人間を見下しているだろう節が窺えた。そんな人間が、猫族に差別意識を持たないとは、到底思えない。

 だとすると、曹操様の出生も、穏やかなものではなかったと推測出来る。

 だから、私は初対面で彼を憐れだと思ったのだろうし、曹操様は別の混血の話にあんなにも大きな反応を見せたのかもしれない。
 見てしまった私を警戒しているのも、それが原因で……。

 嗚呼、駄目だわ。
 私にはこの人の苦しみを分かってあげられない。
 心を安らかにさせたいとの思いは変わらない。
 でも、前向きで明るい異母姉は混血であることを隠しもせず、いつも堂々としていて、誰からも好かれていた。
 猫族の母も、村の用心棒をして頼られていたし、酒乱の父や後妻の私の母を良く支えていたと周りからも感心されていた。
 父の酒乱と言う問題を除けば、恵まれた環境だったのだ。

 だから、きっと理解してあげられない。

 出来ることは、歌うくらいだ。
 それも、今となっては無意味になってしまったかもしれない。図らずも秘密を知ってしまった警戒すべき人間の歌など聞きたくもないだろう。

 せめてもう少し距離が近付いてからの方が、双方の為には良かった。

 夕方になって曹操様が部屋を出ていった後も、私はずっと考え込んでいた。



‡‡‡




 曹操様は、部屋に来なくなった。

 それでも私は毎夜歌い続けている。
 初対面で哀れと感じた心は、未だ変わらない。
 私が歌うことで安らぎが彼に訪れれば良いと思うのも、未だ。

 ずっと考えている。
 曹操様のあの反応の根底にあるものについて。

 どんなに考えても、私には想像も付かなかった。

 私の村は猫族にも混血にも寛容だった。隣人として接するのが普通で、共存出来ていた。

 幸せだった。
 酒と博打で背負った多額の借金のかたに父に売られても、怒りも悲しみも無かった。



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