私は、とある花街の歌妓の一人。歌と舞で見る人の心を癒し、慰める。
 曹操様の妾(めかけ)にする為に、曹嵩様に買い取られた。
 半ば強制で、曹操様にも拒否権は与えられなかった。

 曹操様に私を与えた理由は、恐らくは彼に子供を作らせたいから。
 けれども彼は、私には何の興味を抱かない。
 父親の顰蹙(ひんしゅく)を買わない為にままに気を遣う程度で、顔を合わせるのは私が時候の挨拶に部屋を訪れた時だけ。

 冷たい方だけれど私は曹操様のことを嫌ってはいない。

 初めて顔を合わせた時、私は曹操様を憐れな方だと思った。

 満たされない寒い心に震え、暗いものを閉じ込めた可哀想な方。
 だから、私は曹操様に対し、憎いとも厭わしいとも思わなかった。

 むしろ、どうすれば彼の心を少しでも慰めることが出来るのか考えた。
 結果、せめて夜は安らかに眠れるように、毎夜願いを込めて自分の部屋の窓辺で歌った。
 大したことは出来ない賤(いや)しい身の女であるけれど、私の歌で曹操様の心が、僅かにでも救われれば良い。
心から願いながら、私は一日も欠かさなかった。

 ただの、私の自己満足だ。
 自覚はある。
 寵愛が欲しい訳ではない。出来る限り、曹操様を癒して差し上げたいのだ。
 花街で、富豪の家で、私は私の歌を聴く人の心に安らぎが訪れることを願って、歌った。

 私は、ずっと歌い続けた。


「○○様。最近は日が落ちると寒うございます。それに、空気も乾燥しておりますし、暫くは歌われるのはお止めに……」

「いいえ。私なら大丈夫よ。何巡(かじゅん)。花街の部屋に比べたら、ここはずっと暖かいわ」


 前髪で目を隠した少女が私の側に立ち囁くように諫めてくる。
 上質な衣を纏ってはいるけれど、その下は病的に細い腕と足が覗き、同様に細過ぎる首を古い傷痕が一巡する。
 何巡。私が身の回りの世話を頼む為に買った奴隷の少女である。表向きではそうなっている。何巡自身もそう信じている。
 実際はただ、虐げられている小さな子供を放っておけなかっただけ。これも私の自己満足に過ぎないから、誰に言うつもりもない。

 私にとっては奴隷と言うより可愛い妹のような何巡は、私からお願いして侍女としてこの屋敷に入れていただいた。

 真面目だけれど危なっかしいお陰で、他の侍女も彼女のことを助けてくれる。礼儀作法についても、交代で指導してくれているようだ。
 私にも何巡にも本当に良くして下さって、有り難いこと。


「私なら本当に大丈夫だから。あなたはもう寝てしまいなさい。あなたの方が心配だわ。私よりもずっと身体が弱いもの」

「昔よりは、だいぶましになりました」


 また、囁くように言う。
 何巡の声が小さいのは、幼少時の酷い虐待の後遺症なのだそう。花街の歌妓を中心に診て下さるお医者様がそう言っていた。
 それも周囲は分かっていてくれているから、ちゃんと聞こえるように必ず顔を近付けて聞いてくれる。
 特に、夏侯惇様や夏侯淵様には良く気を遣っていただいているようで、私もほっとしている。


「そうね。でも、だからと言って油断してはいけないわ。私、ずっと側にいてくれる何巡が風邪を引いてしまったら、心配で、寂しくて、きっと夜も眠れなくなると思うの」


 そう言えば、何巡は顔を逸らし、引き結んだ唇をもごもご動かす。照れているのだ。本当に可愛い子。
 渋々従ってくれた何巡を、隣の部屋に帰し、私は窓辺に座る。夜空を見上げ、すうっと息を吸った。

 願わくは、曹操様の心にささやかにでも安らぎを――――。



‡‡‡




――――なんて、恥ずかしい。
 何巡の言う通り風邪を引いてしまった。
 しかも、咽をやられて声も醜い。

 そらみたことか、と何巡には怒られてしまうし、侍女達は皆何巡の味方。私を擁護してくれる人は一人もいない。
 だって、なんて口答えすると大勢で叱られてしまう。

 心配してくれているのは嬉しいこと。
 でも、さすがに、私の味方をしてくれる人が一人くらい、いてくれても良いと思うの。


「酷いわ。皆さん揃って病人を叱るなんて」


 醜い声で不満を言うと、すぐさま口撃が返ってきた。


「お諫めしているのです! 何巡をこんなにも心配させる○○様が悪うございますわ。曹操様も、数日休んだくらいで、お気になさりません!」

「それはそうでしょうけれど」

「風邪が治るまで、歌は禁止致します。夜は交代で一人ずつ○○様のお部屋に寝泊まりして、しっかりと見張ります故、覚悟して下さいまし!」


 まあ、酷い。
 私が不満を言っても、彼女達は聞いてはくれない。
 どうやら本当に、風邪が治るまで私に歌わせてはくれないらしい。
 私は寝台に臥(が)して彼女達に背を向けた。

 侍女達は完治するまで絶対に寝台から出ないように口々に私に言い、私を監視する為の時間を作る為に仕事へ向かった。
 身分賤しい私が、高貴な出の侍女達から慕われているというのは、本当に有り難いことだ。
 だけどこう言う時は、少しだけ、ほんの少しだけ、不満を感じずにはいられない。

 ……でも、この咽では醜い歌になってしまうわ。
 私は咽を押さえ、溜息をついた。

 寝台の中で大人しく横になっている間、咳が絶えなかった。咳をすると咽も痛い。
 どうして風邪なんて引いてしまうのかしら。しかも、咽をやられるなんて。
 寝返りを打ちつつ、また咳をする。

 退屈だ。
 いつもなら何巡と談笑したり、刺繍をしたり、楽器を弾いたり、歌を歌ったり、自由に過ごしていたのに、今日は何もかもを禁じられている。
 何もすることが出来ないのはこんなにも辛いものだったのか、初めて知った。

 いっそ寝てしまえば楽なのに、睡魔は何処に行ってしまったのか、一向に眠くなってくれない。

 ようやっと夕方になったかと思えば、侍女達の監視によって更に過ごしにくくなる。私が就寝するまで彼女達は絶対に私の部屋から出ていかなかった。

 そんな、暇過ぎるのに自由の利かない苦しい日々を私は過ごさざるを得なかった。
 こんな生活が、完治まで続くのかと思うと、少し気鬱だ。

 しかし、私が風邪によって歌えなくなってから四日目の昼、意外な人物からの唐突な訪問を受けた。


「○○様。曹操様がお出でです」


 不安そうに言う何巡に、薬湯を飲んでいた……と言うより飲まされていた私は驚いた。
 曹操様が、私の部屋に?
 一体何故?
 まさに青天の霹靂(へきれき)だった。
 風邪がまだ治ってないことを理由に断ろうかと何巡が提案したが、妾として、仮にも夫の訪問を拒んではいけない。
 風邪を移してしまうかもしれないからあまり長居はしないで欲しいと伝えて、曹操様を中に招き入れた。

 久方振りに目にする曹操様は、前と同様に凪いだ表情をされている。
 私の寝台に近付こうとした彼を、何巡がすかさず、


「曹操様。○○様はまだお風邪が完治しておられませぬ故、御身に移らぬとも限りませぬ。何とぞ、不用心に近付かれませぬよう」

「……分かった」


 曹操様は扉の側に立ち、私をじっと見つめてくる。
 私は謝罪をして、薬湯をゆっくりと飲み干した。

 と、それを見計らったのか。


「酷いのか?」

「え?」

「……酷いのか?」

「あ……風邪のことでしょうか」

「……」


 こくり、と頷かれる。

 これに答えたのは、私ではなく何巡。


「お医者様のお見立てによりますと、あと二・三日用意した薬湯を欠かさずに安静にしていれば問題無いとのことにございます」


 曹操様は何巡を見、「そうか」と。それから私の方を見て、沈黙。
 それから、もう用は済んだらしく、安静にするようにと私に言い、足早に部屋を出て行ってしまった。
 私は何巡と顔を見合わせた。


「どうされたのかしら」

「心配されたのでしょう。……正直、意外です」

「そうね。てっきり、存在すら忘れ去られているのではないかと思っていたわ」


 「さすがに、それは……」何巡は得も言われぬ顔で否定する。私も、言い過ぎたと思うわ。
 でも、よしやそうでも、やっぱり歯牙にもかけられていなかったとは、事実ではないかしら。

 だって私が曹操様の妾になったのも、花街を訪れた曹嵩様に気に入られたからだ。曹操様に見初めていただいた訳ではない。
 初見での印象では、今の曹操様は女を抱き、子を残すということに興味を持たれていない。
 だから、彼が私に興味が無いのも、当然のこと。
 そう思っていたから今回の曹操様の訪問は私も何巡も、きっと他の侍女達すら、予想も出来なかった。


「私、気に障ることでもしてしまったのかしらね」

「夜中に歌うのを、五月蠅く感じられていたのかもしれません」

「曹操様を理由に私に止めさせようとしないでね、何巡」


 先手を打つと、彼女はむ、と唇を尖らせた。

 けれど……そうね。
 もしかすると、本当に何巡の言う通りかもしれないわ。
 結局は私の自己満足。曹操様の心が少しでも楽になればと勝手にやっていたことだもの。曹操様に鬱陶しがられているとしたら、止めなくてはいけない。
 風邪が治った後も、歌わずにいましょう。
 何巡には言わず、心の中で、私は決めた。



‡‡‡




 おかしいわ。

 私はまた突然の訪問者に、驚いた。

 風邪もすっかり治って、私はいつもの生活に戻った。
 夜に歌うことを止めた以外は、同じ日々だ。

 曹操様もきっと私のことなどもう気にかけていないだろう――――そんな予想は、また覆された。

 しかも、私の目の前に座っていらっしゃるのに、ずっと無言を貫いている。
 何か用があるのなら、遠慮無く仰ってくれても良いのに、口を閉じられたままなのだ。
 これは一体、どういうこと……なのかしら。

 曹操様が訪れるまで、私は何巡に贈る服を縫い、刺繍をしていた。
 剰(あま)りに沈黙が続くものだから気まずくて再開したいのだけれど、曹操様が前に無言で座っている手前、憚(はばか)られてしまう。
 こんなことなら、何巡を下がらせるものではなかったわ。

 嗚呼、どうしましょう。
 ここまで無言で無表情でいられると、話しかけるのも躊躇(ためら)われる。
 表面上には決して出さずに曹操様の動向を窺う。

 曹操様は、やっぱり無言を貫く。

 ……私は、どうすれば良いのだろう?
 長く続き過ぎる沈黙に耐えかね、私はとうとう口を開いた。


「あの……曹操様。何か、ご用がお有りなのではありませんか」

「……」


 曹操様は私を見つめてくるけれど、返ってくるのは、無言だ。

 私、何か悪いことでもしてしまったかしら?
 ……いいえ。そもそも風邪の折にご訪問いただいて以降、私は曹操様と会っていない。無礼の働きようがない。何巡達も、そう言ったことには注意しているのだから、大丈夫である筈。
 考えれば考える程、分からない。


「……」

「……」


 私は諦めた。

 でも曹操様はまだじっと私を見つめていて。
 何をなさりたいのだろうと、溜息が出てしまいそうになった時、


「……わないのか」

「え?」
「……歌わないのか」

「歌わ――――あっ」


 彼が言葉少なに言わんとしていることが、やや遅れて分かった。
 歌わないのか。
 それはつまり、


「私が、もう夜に歌っていないから、ここへ?」

「……」


 こくり、と首肯する。


「もしかして風邪を引いた時も、それで?」

「……」


 また、首肯。

 意外だった。
 まさか曹操様が、そんなことを仰るなんて。
 それに、先日は気付かなかったけれど……今の曹操様、態度が少し幼い?

 拙(つたな)さが出ている曹操様は、決して口には出せないけれど……子供のようで少しだけ可愛らしい。
 私は笑いを堪えて口を袖で隠し、


「私共はてっきり、私が夜歌っているのが、お嫌だったのではないかと思うておりました。先日お出で下さったのも、その抗議にいらっしゃったのかと」


 そこで、彼は沈黙する。
 また沈黙かしらとじっと見つめていると、躊躇いがちに口を開く。


「いや……さすがは花街随一の歌妓。聞きしに勝る歌声と思っていた」


 風邪を引いてから意外なことばかりが起こる。
 素直にそう伝えると、曹操様は視線を横に逸らした。気まずそうに、言いにくそうに言葉を紡ぐ。


「気疎(けうと)いと思ったことは無い」

「まあ嬉しい。実を言いますと、歌っていた時はいつも風邪を引くから止めるようにって皆に言われていたんです。曹操様が歌って良いと仰るのでしたら、あの子達も許して下さいますわ。ありがとうございます、曹操様」


 曹操様は、とても気まずそうだ。
 どんどん可愛らしく思えてくる。
 私は笑い、立ち上がった。


「曹操様。私、今までずっと部屋の中で過ごしてばかりでして……外を歩いてみたいのです。部屋を出てもよろしいですか?」

「……好きにすれば良い」


 では、好きにしましょう。
 私は頷き、部屋を出た。

 すると、曹操様も出てくるのだ。
 何巡を呼び、私の側を歩くように指示し、前を行く。


「部屋から出たことが無いのであれば、何処に何があるのかも分かるまい」

「まあ、曹操様が案内して下さるのですね。ありがとうございます」

「……」


 曹操様は、私よりも幾らか歳上。
 私と二人きりの時は何だか幼かった彼も、何巡がいるとあのいつもの玲瓏(れいろう)たる姿と変わる。
 子供の頃から歌が好きだったのかもしれない。だから昔を思い出して、幼くなってしまうのかも。
 思う程、完璧な人ではないようだ。
 このささやかな発見が、私は楽しい。

 この方とは存外上手くやっていけそうで安心した。

 屋敷の中を歩いていると、二人の男性とすれ違う。
 何巡が夏侯惇様、夏侯淵様であると教えてくれて、いつも何巡がお世話になっている二人に、お礼を言うことが出来た。

 曹操様の配下の方々とすれ違う度、何巡が誰であるか教えてくれる。私は一人ひとりに頭を下げていった。
 今までも思っていたことだけれど、曹操様のお屋敷は本当に広い。
 今日中に回りきれるかどうか分からないくらいだ。
 曹操様の案内はとても丁寧で分かりやすいし、近付いてはいけない場所についても教えてくれる。

 どうやら、部屋の外を出歩いても良いようだ。
 通りかかった中庭は、特に制限を受けなかった。
 ということは、中庭に私が出ても問題は無い。


「何巡。これからは中庭でゆっくり出来るわ。晴れの日は他の子達も一緒に中庭でお茶をしましょう」

「ええ。それはとても良い案にございます」


 何巡と笑い合い、中庭に出る。
 今日は風が強いようだ。
 悪戯に踊らされる髪を押さえ、私は曹操様を振り返った。


「曹操様や夏侯惇様達も、お暇な時にはご一緒に――――」


――――曹操様の髪が、巻き上がる。
 私は目を瞠(みは)った。


「あ……っ」


 今……私の見間違いかしら。



 曹操様の耳が何処にも見当たらなかったような……。



 ……いいえ。
 気の所為ではなかった。
 曹操様がはっと自身の髪を押さえつけ、私を打って変わって物凄い形相で見た。

 耳が、無い。
 切り落とした形跡すらも無かった。
 それの意味するところを、私は分かっている。

 その凍てついたおぞましい眼光に気圧されたものの、私はその場から動かずに曹操様を見据えた。
 このままここにいると、私以外の方が、曹操様の耳を見てしまう可能性がある。
 見られる危険性も、分かっている。


「何巡。今日は風が強く、冷たいので、もう中に戻りましょう。私も、せっかく治った風邪をまた引くのは嫌だわ。温かいお茶とお菓子を用意してちょうだい」

「畏(かしこ)まりました」

「さ、曹操様。私の部屋に戻りましょう」


 手を握ると、強い力で握り締められる。骨が軋む。

 男性の容赦無い握力とあってとても痛い。
 けれども私は、努めて平静を装って曹操様を部屋へ導いた。

 殺されるかもしれない。
 先程の形相に、この手の力――――偶然とは言え、私が彼の決して触れてはならぬ場所に触れてしまった。

 でも、私が曹操様に関わったことは、何かしらの導きなのだろうかと思いもする。

 だって曹嵩様に見いだされて何巡と共に曹操様の妾として屋敷に入ったこと、風邪の時の曹操様の訪問、それからすぐの訪問の直後に風の悪戯で曹操様の耳が無いことに気付いてしまったこと――――誰かがそう仕向けているようにも思えて。

 さすがに、その誰かに心当たりがあるのは、私の都合の良い解釈なのかもしれないけれど。

 ますは曹操様がどう出るか、どう出ても冷静に対処しなければと、私は心を引き締め曹操様と共に部屋に入った。

 刹那。


 背後から咽を掴まれ床に押し倒された。



‡‡‡




 俯せに床に押しつけられて衝撃で息が詰まる。
 痛い。苦しい。
 だが、我慢する。
 それだけ、私の見てしまったものは曹操様にとって忌避したいのだ。

 嗚呼、殺されてしまうかも。

 のし掛かられて、低く、殺意の籠もった声が私に降りかかった。


「何を見た?」


 私は目を伏せ、冷静に、冷静に、と言い聞かせる。


「人の耳が無いこめかみを」

「……」

「そしてそれの意味することが、あなたが人間ではないこと。あなたも猫族であること」


 抑揚を抑(おさ)え、静かに言葉を続けると、不意に圧力が弱まる。
 何事かと思えば手が離れた。


「今、『あなた《も》』と言ったか……?」

「あ……」


 肩を掴まれ身体を仰向けに返される。
 間近で、なおも冷たく鋭利な眼光を向けてくる曹操様の瞳は、どんな闇よりも濃い黒だ。

 そう、《金》の瞳ではなく、黒の瞳。

 その意味も遠い昔に教えてもらっている。

 迂闊にも他にも知っているような発言をしてしまったけれど、曹操様は私への殺意を収めはしない。


「驚いた。花街一の歌妓に、十三支との関わりがあろうとは……」

「十三支と申しましても、私に猫族のことを教えてくれたのは、猫族と人間の混血の異母姉でした」


 曹操様は大層驚かれた。


「混血だと!?」

「え?」

「今、混血と言ったのか!」


 私は困惑した。
 曹操様のこの大袈裟にも思える反応は、想像していなかった。
 何をそこまで驚いているのか……。

 人間の耳を持たず、黒い瞳を持つ曹操様は、私の異母姉と同じ《混血》だ。

 確かに混血とは出生率が極めて低いと聞いた。でもだからと言ってこの大陸に一人もいないとは言い切れないとも言われた。
 混血が私の異母姉だったとして、これ程の反応を見せる程のものとは思えない。

 曹操様は、私の顔を凝視し、低く問いかける。


「お前の姉は今何処にいる」

「亡くなりました。父に姉妹共々売られた時に、私が花街の歌妓の弟子として買われたのを見届けてから、自ら舌を噛ん命を絶ったそうです。遺体も、師が引き取って共に丁重に弔って下さいました。猫族のことについては、異母姉から聞いておりました故に」

「……すでにこの世に亡い、か……」


 大きく落胆し曹操様は私の上から退かれた。
 片手で顔を覆い、長々と溜息をつく。

 私も立ち上がって乱れた身形を整え、曹操様に問いかけた。


「曹操様。どうして私の異母姉が混血ということにそんなにも大きな反応をなさるのです」

「……お前には、分からぬ」

「分からぬ故に、問うております」


 曹操様は、私を一瞥した。けれど何も言わない。
 もう一度問おうとした私を、外から何巡の声が遮った。



『お茶とお菓子をお持ち致しました』

「……ええ。ありがとう。入ってちょうだい」


 私は切り替えて席(むしろ)に腰を下ろし彼女に応えた。

 曹操様も表情を変え、私の前に座る。

 しかし、時折刺すような視線を感じた。
 疑われている。
 私が、見たもの察したものを他言しないかどうか。

 心外だけれど、彼自身、過去にそれだけのことがあったのかもしれない。

 私は、世間話をしながら、曹操様について思案する。

 曹操様のお父様、曹嵩様は生粋の人間だ。
 でも猫族に対しては寛容ではない。私に対する態度から、地位の低い人間を見下しているだろう節が窺えた。そんな人間が、猫族に差別意識を持たないとは、到底思えない。

 だとすると、曹操様の出生も、穏やかなものではなかったと推測出来る。

 だから、私は初対面で彼を憐れだと思ったのだろうし、曹操様は別の混血の話にあんなにも大きな反応を見せたのかもしれない。
 見てしまった私を警戒しているのも、それが原因で……。

 嗚呼、駄目だわ。
 私にはこの人の苦しみを分かってあげられない。
 心を安らかにさせたいとの思いは変わらない。
 でも、前向きで明るい異母姉は混血であることを隠しもせず、いつも堂々としていて、誰からも好かれていた。
 猫族の母も、村の用心棒をして頼られていたし、酒乱の父や後妻の私の母を良く支えていたと周りからも感心されていた。
 父の酒乱と言う問題を除けば、恵まれた環境だったのだ。

 だから、きっと理解してあげられない。

 出来ることは、歌うくらいだ。
 それも、今となっては無意味になってしまったかもしれない。図らずも秘密を知ってしまった警戒すべき人間の歌など聞きたくもないだろう。

 せめてもう少し距離が近付いてからの方が、双方の為には良かった。

 夕方になって曹操様が部屋を出ていった後も、私はずっと考え込んでいた。



‡‡‡




 曹操様は、部屋に来なくなった。

 それでも私は毎夜歌い続けている。
 初対面で哀れと感じた心は、未だ変わらない。
 私が歌うことで安らぎが彼に訪れれば良いと思うのも、未だ。

 ずっと考えている。
 曹操様のあの反応の根底にあるものについて。

 どんなに考えても、私には想像も付かなかった。

 私の村は猫族にも混血にも寛容だった。隣人として接するのが普通で、共存出来ていた。

 幸せだった。
 酒と博打で背負った多額の借金のかたに父に売られても、怒りも悲しみも無かった。
 私が泣いたのは、異母姉が私が比較的良心的な場所に売られたことを見届けた後、自ら命を絶ってしまったことを知った時と、異母姉の遺体に縋り付いた時くらい。
 今でも家族で過ごしていた日々を幸せだと言えるし、もし父に会って謝られたら、すんなりと許してしまえるだろう。

 猫族が人の世では忌み嫌われていることは、知っている。
 だけど村は皆猫族に好意的なのが当たり前だったし、花街でも猫族――――十三支の悪口を聞くくらいで、実際に猫族が迫害されている光景を目にしたことは一度も無い。だから、今でも想像も出来ないし信じられない。

 そんな私が、曹操様のことを理解するのは難しいのだろうか。

 偉そうに誰かのお導きなんて思っていた自分が恥ずかしい。
 でも……でも、もしこれが私が思ったように姉さんのお導きだとしたら――――私はこのままではいられない。

 窓から部屋の外をぼんやりと眺めていることも増えた。何巡達には心配されたけれど……このことは何巡にも言わない方が良い。

 もし私も姉さんのように混血だったなら、良かったのかも。
 なんて、詮無いことね。

 聴く人の心を癒す歌を歌いなさい、目にする人の慰みになる舞を舞いなさいと、師の歌妓は教えてくれた。
 曹操様の心には、私の歌は……。

 ある日、私は夜中に一人こっそりと部屋を出た。
 回廊の柱に寄りかかり、歌う。


「嗚呼……やはり私が混血だったなら――――ああ、だけどやっぱり駄目だわ」

「混血だったなら、だと?」

「あ……」


 背後から聞こえてきた声に、私は軽く驚いて声を漏らした。
 振り返ると、曹操様が腕を組んで、冷たい眼差しでそこに立っている。

 他の方でなかったことに私はほっと息を吐いて、私は曹操様に拱手(きょうしゅ)した。


「己の無力さに、嫌気が差していただけです」


 曹操様は眉間に皺を寄せた。


「……それが、混血とどう関係がある」

「曹操様の心をどうすれば癒せるか……混血だったならと思うけれど、やはりそれだけでは不十分なのではないかと」


 曹操様は怪訝そうな顔をした。何を言っている、と言いたげだ。

 当然の反応だわ。
 私は苦笑した。

 そこで、ふと一つ思い出す。


「そうでした。曹操様にちゃんと言わなければいけませんでした」

「……」

「曹操様のことは誰も言いません。天に誓って。もし破った時は、この首を斬り落として下さって構いません。花街にいた時もご満足いただけなかったお客様からはお代はいただきませんでしたから」

「……」

「どうかなさいました?」


 曹操様の目はまるで珍獣を見ているかのようなものだった。
 ……私、何かおかしなことでも言ったかしら?
 私は首を傾げた。


「……頭がおかしいのか」

「あら、酷い」


 曹操様は探るような目を向けてくる。
 腕をゆっくりと持ち上げる。
 私の首を、軽く掴んだ。


「何故私にそのようなことが言える。先日のことは忘れたのか」

「いいえ。でも、私……心が変わっていないのです」

「心だと……?」

「初めてお会いした時、曹操様を哀れだと思いました。……あ、怒らないで下さいましね。夜歌っておりましたのも、少しでも曹操様の心が安らげばと思ってのことです。それは今でも変わっていません。でも、先日のことがあって、とても困っているんです」


 私、猫族が迫害されている想像が出来ず、曹操様の苦しみを理解することがどうにも難しくて、どうしたら良いものかとずっと考えていても答えが全く出ないのです。
 そう言うと、曹操様は溜息を漏らして私の首を解放した。


「……馬鹿馬鹿しい。無駄なことだ」

「私にはとても大切なことですわ」

「何故」

「だって、私の心が全く変わらないのですもの。毎夜歌っても、やはり不十分なのだと思えてしまって。どうしましょう」


 問いかけると、鬱陶しそうに言葉が返ってきた。


「私が知るか」

「ならば、もう少しここで考えてみます。……曹操様。今宵は冷えますので、温かくしてお休み下さいましね」


 また柱に寄りかかって、思案に戻る。

 それからややあって、溜息が聞こえた。
 意識がそちらに向いた次の瞬間、肩を掴まれ強引に後ろを向かされる。何処か苛立った曹操様の顔を見た直後に腕を引かれ歩かされる。


「曹操様。私考え事をしたいのですが」

「部屋でやれ」

「部屋では無理だったので外に――――」


 一睨みで遮られた。

 機嫌が悪くなった曹操様は無理矢理に私を部屋に押し込み、無言で立ち去ってしまった。
 もう一度外に出ようと扉を開けて様子を窺ってみると、少し離れた場所で見張られていて、断念せざるを得なかった。

 仕方がないので、いつも通り、歌を歌うことにした。

――――その結果。


「……○○様」

「ごめんなさい。何巡。また風邪を引いてしまったわ」


 笑って言うと、「笑い事ではありません」ぴしゃりと叱りつけられた。
 私は肩をすくめて苦笑する。

 翌日、私はまた風邪を引いてしまったのだった。


「やはり夜中に歌うのは止めていただいた方がよろしいですね。私の方から曹操様にお願いして参ります」

「でも今回は咽は無事よ」

「風邪であることに変わりありません」


 取り付く島も無い。
 風邪を引いたのは間違い無く昨夜外に出たのが原因だ。
 何巡達は私が一人部屋を出たことに気付いていないから、肌寒い夜に歌ったから風邪を引いたのだと思われている。

 憤然と夜の歌禁止令を出してくる何巡達のキツい言葉をかわしていると、部屋の外から足音が聞こえた。何となく、曹操様かもしれないと思った。

 すると、


『私だ』

「どうぞ」


 本当に曹操様だった。
 これは、驚きだわ。何となくそう思っただけだったのに。

 何巡は溜息をつき扉を小さく開けて、小声で何かを伝えた。
 きっと……いえ、間違い無く私がまた風邪を引いたことを伝えているんだわ。
 今、「またか」なんて呆れた声も聞こえた。


「たまたまですわ。曹操様」

「たまたまで何度も風邪を引かれては侍女も困るだろう」

「嫌ですわ。曹操様が何巡達と結託されてしまったら、私、夜に歌えなくなってしまうではありませんか」


 おどけて言うと、曹操様の肩が一瞬だけ震えたように見えた。表情は凪いだままだったけれど。


「……後で医者に薬を用意させる」


 曹操様は私をじっと見つめ、溜息混じりに身体を反転させた。「治るまでは安静にしておけ」そう言って、部屋を退出した。

 何巡が扉を閉めながら感心した様子で、


「……存外、お優しい方なのですね。曹操様は」

「そうね。私も、気にも留められていないと思っていたのだけれど」


 私が頷くと、何巡は嬉しそうに笑った。前髪のかかる頬がほんのりと赤い。


「ようございました。ここにいれば、きっと○○様は花街にいた頃よりも、恵まれた生活を送ることが出来ましょう」


 私を思っての心からの言葉に、彼女への愛しさが膨らんだ。本当に可愛い子。

 見れば他の侍女達も、愛おしげに何巡を見つめている。



‡‡‡




 なんてことでしょう。
 いつの間にか、曹操様は軍を率いてお屋敷を出ていた。

 黄巾討伐に向かわれたのだのだと、後になって――――風邪が治ったのを見計らって何巡達から知らされた。

 お見送りもさせてくれないなんて、なんて酷い方。
 ……そんな恨み言、言っても風邪を移されてはたまったものではないと呆れながら返ってきそうだ。

 風邪を引いた私が悪いけれど、それでも一言くらい、直接教えて欲しかった。

 私は、曹操様達が無事に戻られることを祈った。
 戦に赴き、帰らぬ人となったお客様は何人もいた。運良く生きて帰って来れても、身体の何処かを失っている方もいた。
 曹操様も、夏侯惇様も夏侯淵様も、そうならない保証は無い。
 だから、私は毎夜歌うのではなく夜空に向かって祈り続けた。

 私の祈りが天に届いたなんて、そんな身の程知らずなことは思っていないけれど。

 曹操様達がご帰還なさったと知らされた時には、本当に安堵した。


「お帰りなさいまし。曹操様。皆様も、お役目ご苦労様でした」


 彼らを迎えた私は、曹操様に笑いかけ、その背後に隠れる真っ白な影に気付いて覗き込んだ。

 驚いた。
 でもじわじわと顔に滲み出てくるのは笑顔だ。
 私はその子の前にしゃがみ込み、怖がらせないように頭をゆっくりと撫でた。


「まあ、可愛らしい子。私は○○と言うの。坊やのお名前は?」

「○○様! 十三支に名乗るなど」

「夏侯惇様。ごめんなさい。私はこの子に訊ねているのですが」


 私を諫めた夏侯惇様に笑顔を向けただけなのに、彼は鼻白んだ。深々と頭を下げ、謝罪してくれた。

 気を取り直して、真っ白な子供に名を訊ねる。


「ぼく……ぼく、劉備」

「劉備君ね。素敵なお名前。疲れたでしょう。私のお部屋でお茶をしましょうか。曹操様、よろしいですか?」


 曹操様は、疲れた顔で「好きにしろ」と。では、好きにさせていただきましょう。


「何巡。お菓子を沢山用意してくれる?」

「……畏まりました」

「じゃあ、劉備君。行きましょう。ちょっとだけ歩くけれど、大丈夫?」

「うん。平気だよ」

「とっても強いのね」


 褒めると、劉備君は擽(くすぐ)ったそうに笑った。
 劉備君の手を引いて、疲労と呆れの入り交じった顔の曹操様の前を辞す。

 劉備君を見下ろし、私はその愛らしさに笑みが隠せなかった。
 ぴょこぴょこと色んな方向を向く落ち着きの無い猫の耳。
 そして、まるで異世界に飛び込んだみたいに好奇心にきらきらと輝いた金色の瞳。
 劉備君は純血の猫族の少年だ。

 見る限り大切に守られてきたと分かる綺麗な身形で、性格も純粋そうだ。
 何処からこんな子を連れてきたのか、後で訊ねてみた方が良いかもしれない。

 劉備君は、私の部屋でちょっと話をしただけで、お菓子も食べること無く眠ってしまった。
 でも、ちょっとの会話だけで彼がどんなに良い子なのか良く分かった。
 劉備君を私の寝台に寝かせ、お菓子はそのまま、お茶は起きてから新しく淹れることにして、今は疲れを癒せるよう気を配った。

 侍女達は猫族に対して恐怖心が否めないようで、私は何巡だけを残して下がらせた。
 世の中では、彼女達の反応の方が当たり前だというのが、やはり信じられない。
 こんなにも可愛らしい寝顔なのに。
 人間の子供のそれと、何も変わらないのに。

 人の世の中って、本当にお堅いものだわ。
 劉備君の寝顔を眺めながら、私はぼやかずにはいられなかった。
 どうして曹操様が連れてきたのか分からないけれど、せめて私と一緒にいる間くらいは、辛い思いをしないように私がしっかり守ってあげたいわ。

 でも、劉備君が目覚めるとお菓子を食べる暇も無く曹操様が連れて行ってしまった。
 ついて行こうとしたけれど、劉備君に与える部屋の準備を命じられてしまっては逆らうことも出来なくて、私は劉備君に酷いことをしないように強くお願いして、渋々従った。
 劉備君が快適に過ごせるように、曹操様に教えられた場所の空き部屋を、何巡と二人でしっかり丁寧に整える。


「ねえ、何巡。劉備君は私の部屋で預かっても良いと思うのよ」

「さすがにそれはお止めになった方がよろしいかと。曹操様の側室なのですから」

「……でも、あんなに小さくて可愛い子をここにたった一人住まわせるのは私が許せないの」


 この屋敷では、ほとんどの人間が猫族を十三支だと蔑む。
 露骨に表に出す者もいるだろうし、少しでも心の負担を軽くしてあげたい。

 どうにかならないか、曹操様に経緯を訊ねるのと一緒に相談してみましょう。

 何巡に言うと「無駄だろうと思いますが……」渋面で言う。


「とにかく! 劉備君がこの部屋に来たら、曹操様の所へ行ってみるわ。その間、劉備君の相手を頼んでも良いかしら」

「畏まりました。ならば、今のうちに部屋からお菓子をこちらへ持って参りましょう」

「ええ。ありがとう」


 何巡は呆れながらも私の意思に従ってくれた。一礼してお菓子を取りに行く何巡を見送り、私は部屋の準備を再開するのだった。



‡‡‡




「駄目なのですか?」

「ああ」


 私は肩を落とした。

 劉備君が部屋に来てからすぐ、私は曹操様を訪ねた。
 そして劉備君が来た経緯と、私の部屋で面倒を見てあげられないか相談してみたところ、経緯も教えてもらえなかったし、相談もはね退けられてしまった。


「曹操様。でもあんなに小さいのですよ?」

「見た目はあれでも、十五だそうだ」


 十五……十五ですって?


「まあ、十五歳? なら発育に問題があるのかもしれませんわ。なおさらたった一人で過ごさせられません。私がお世話を、」

「ならぬ。どうせ他の十三支が会いに来る。それで十分だ」

「他にも猫族の方がいらっしゃるのですか? どうして仰って下さらないのです。その方々にもお部屋を用意して差し上げなくては」

「郊外に陣屋がある」

「郊外に陣屋なんて! 劉備君がここにいるのなら、この洛陽に彼らも住まわせるべきです。曹操様、お忙しいならば私が付近の空き家を探して参りますわ」

「必要無い」


 私が執拗な所為だろう、曹操様の機嫌が徐々に悪くなっていく。

 だけど、猫族のことをこのまま放置しておくことは出来ない。
 私は背を向けた曹操様の前に回り込んで、もう一度お願いした。

 曹操様の眉間にくっきりと皺が寄った。


「……十三支に愛着が湧いたか? 自分の立場を忘れるな」


 一際太い声に、怒気が滲んでいる。


「忘れてはいません。私は曹操様の側室です」

「ならば、」

「私は花街の歌妓として、お客様の心を癒す為に歌い、舞っておりました。人の為に出来ることは何でもしたいんです。それは相手が曹操様でも、劉備君でも、人間でも、猫族でも、混血でも、同様です」


 曹操様の唇が震えた。


「どの人種でも同様に、か。お優しいことだな」


 口角が歪む。
 苛立っているのに、寂しげな笑みだ。
 曹操様は、ご自身の表情に気付いていらっしゃるのだろうか。


「偽善も大概にしておけ」

「偽善だなんて」

「お前風情が何も救えるものか。お前の自己満足に振り回される他人は良い迷惑だ」

「そんな、」

「部屋に戻れ。暫く外出を禁じる」


 私の肩を掴み、部屋から追い出す。
 扉を開けようと手をかけても、曹操様を呼んでも、扉は開かず私を拒絶する。

 しつこく食い下がり過ぎてしまった。
 私は肩を落とし、曹操様の部屋を離れる。

 けれども、私は自分の部屋には戻らなかった。
 遠回りをしながら頭を切り替え、劉備君の部屋へ向かう。
 劉備君の部屋に入ると、何巡とお茶を飲んでいた劉備君が笑顔で出迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、○○様」

「ありがとう、何巡。劉備君。お菓子はお口にあったかしら?」

「うん! とっても美味しいからね、こんど、関羽と張飛と、いっしょに食べるね」


 関羽と、張飛。
 知らない人名が出たけれど、猫族のお友達の名前なのだろう。
 友人と離れた場所で暮らさなければならないのが、とても心苦しい。


「劉備君。寂しくない?」


 私の問いに劉備君は大きく頷いた。


「大丈夫だよ。関羽たちも、遊びに来てくれるって!」

「そう……立派だわ」


 頭を撫でると劉備君は胸を張る。

 十五歳でこの幼さ……見目は病弱という風でもない。
 先天的の障害、病気があるのかもしれない。
 そんな子を仲間から引き離してどうするの……。
 私は目を伏せて劉備君を抱き寄せた。


「事情は教えてもらえなかったけれど、困ったことがあったら遠慮無く私に言ってちょうだいね。お菓子も、無くなってしまわないように、定期的に何巡に持って行かせるわ」

「うん。ありがとう。○○!」


 劉備君は無邪気な笑顔を浮かべる。

 私は劉備君を放して、部屋を辞した。何巡は、暫く劉備君の相手をするようによくよく頼んだ。

 自室に戻った私は寝台に腰掛けた。
 曹操様に言われた、偽善という言葉が蘇る。
 両手を見下ろし、溜息が漏れた。

 確かに私のしていることは自己満足。偽善と言われても仕方がない。
 花街の夢は儚い。
 歌妓の与える癒しも、一夜限りのものでしかない。
 翌朝には、花街の客も現実に戻っていく。

 歌妓のすることに、意味は無いのかもしれない。

 曹操様は、歌妓が分不相応なことをしようとする姿が不快だったのだろう。
 でも夜の私の歌を気にかけていたのも事実。
 今宵私はいつも通りに歌うべきなのか、分からなくなってしまった。

 侍女達が私の様子を見に来て、気遣ってくれる。
 彼女達に大丈夫だからと返したけれど、あまり説得力は無かったかも。



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