「その程度で身を引くなら、私はここにいない」

「そうですよね。良かった……」

「これ以上自由勝手を許すことなど出来ぬ。あの男のことは私の方で対処しよう。解決し次第、○○と会わせてもらっても構わないか。出来れば、誰にも見つからぬように」

「それはあたしに考えがあります。でも、あいつは暴力沙汰も辞さない男です。失礼ですが、荒事が得意なようには見えませんけれど……」

「ああ。確かに。が、暴力沙汰も辞さぬ男とて、敵わぬ相手はいるだろう」


 そう言って、諸葛亮は早速、と腰を上げた。



‡‡‡




 私の為に、翠宝が苦労している。

 私に色々と気を遣ってくれているのが、申し訳なくも有り難い。
 今はとにかく怖い。何が怖いというのではないのだけれど、一人でいるとただただ怖いのだ。何かが来るような、何かが起こるような、何かが後ろにいるような――――色んな恐怖が混ざり合って私の肺を締め付ける。
 だから、翠宝の優しさに甘えてばかりだった。

 さすがに昼に窓から入ってくる訳にはいかないけど、夜は毎日必ず来てくれる。
 私が怖くないように。そして、あのことを誰にも知られないように。

 私はまだ清いままだから堂々としていなさいと、翠宝は言う。
 けれど犯されかけたと言って、純潔のままだと信じられるだろうか?
 不美人の上に、汚れた身体なんて……救いようの無い、醜女(しこめ)だわ。

 でもこれで縁談なんて無くなるだろう。
 それは良いことだ。
 諸葛亮様が私を娶らずに済む。
 嫌なことでも良いことが一つだけあった。

 ……そう思いたいのに、胸の痛みが拒絶する。
 その理由を、考えたくはなかった。
 答えはすでに私の中に在る。それは隠しようの無い事実だけれど、意識したくなかった。
 だって認めてどうなる? どうにかするつもりが私自身にないのだから、認めたって無駄になるではないか。
 ただ苦しくなるだけなら、そのまま捨て置いてしまおう。
 そう、私は思うのに――――。


「――――え、外、に?」

「ええ。少しで良いから、夜を歩きましょう。いつまでも夜に怯えていてはいけないわ。少しずつ散歩の時間を延ばして行けば、きっといつかは平気になる。○○があいつが植え付けた恐怖にいつまでも苛まれるのは、あたしが見ていて腹立たしい。そのうちあいつを刺しに行くかも」

「な……っ」


 最後の言葉に私は色を失った。

 だけど私の顔を見て彼女は笑い出す。


「あんたが夜が平気になれば良い話よ。だから、ほら。行きましょう。怖いなら手を繋いであげるから」

「……」


 差し出された手を見つめ、私は ゆっくりと手を重ねた。

 最近よく出入り口扱いをされる窓から抜け出すと、翠宝は周囲を見渡し、私の手を引いて歩き出した。
 夜の冷たい空気に触れていると、刺すような冷たさの中にあの時の感触が紛れて蘇る。
 無意識に森を見てしまい、一度足を止めて、翠宝に宥められた。

 暫く歩いて、翠宝の家近くになった時、今度は翠宝が足を止めた。


「……あ、ごめんなさい。あたし、忘れ物をしてきたわ」

「え? 忘れ物?」

「お菓子を作ったのよ。太ってしまうかもしれないけれど、甘いお菓子を食べた方が木は楽でしょ?」


 悪戯っぽく笑う翠宝に、私はつられて笑った。笑えるなんて思っていなくて、意外だった。

 心の中で、私を見下していたくせに、と醜い私が悪態をつく。弱っているからそんなことを思うのだと、すぐに戒めた。
 確かに、翠宝には酷いことをされた。でもそれは幼さ故の無邪気であればこそ残酷になる優越感があったからだ。大人になってそれを引きずるようなことはしないし、それに翠宝は私に優しくしてくれたこともあった。
 幼馴染に対して、なんて下劣なことを思うの。

 自己嫌悪に陥りそうになったのを引き留め、私は翠宝の部屋に、私の部屋のそれよりも大きな窓から入った。翠宝が周りの様子を確かめながら、私が先に。

 真っ暗な部屋の中、私の足が探りながら床を踏み、二歩進んだその直後、部屋の隅で影が揺れた――――ような気がする。


「翠宝、部屋に誰か――――」

「――――私です。○○殿」


 部屋の隅から、穏やかな声が聞こえた。

 一瞬、誰だか分からなくて掠れた悲鳴を上げたけれど、「諸葛亮です」とまた穏やかな声がして、肩から力が抜けた。


「諸葛亮様? どうして、翠宝の部屋に諸葛亮様が……」

「あたしがお呼びしたの」


 とは、窓の外から。
 翠宝を振り返ると、彼女は部屋に入ろうとせず、諸葛亮に「○○をお願いします」と言って立ち去ってしまった。
 私も慌てて出ようとするけれど、動かない諸葛亮様の声に止められた。


「翠宝殿から、あなたがあの男に嫌がらせを受けて落ち込まれているとお聞きした」

「え……」

「何をされたのかは絶対に訊かぬようにと釘を刺されました。ですから、もしあなたが不快になるような発言があれば、どうか隠さず言って下さい。そちらに椅子があります。私はここは動きませぬ故、どうぞお座り下さい」


 彼の言葉にどきりとしたものの、本当に彼は嫌がらせを受けたことくらいしか教えられていないのだと分かってほっとした。
 諸葛亮様の言葉に従い、手探りで椅子を探し、これに腰を下ろした。


「ご迷惑をおかけして、すみません……」

「いえ。あなたの力になりたいと思う心に嘘はありません。あなたがまた笑って下さるのであれば、喜んで協力致しましょう。……と言って、あなたが信じて下さるかは分かりませんが」

「いえ……そのご温情、疑うべくもありません。ですが、やはり……私ごときのことで諸葛亮様を振り回してしまうのは……」


 諸葛亮様は、暫し無言だった。


「……あなたは、ご自分をあまりに卑下し過ぎている。あなたは、私などよりも優れた方だと言うのに」

「そんなことはありません。私は、女としての役割を満足に果たせません。私を娶れば、あなたは笑い者になってしまう」

「私は、山奥に一人で暮らしています。それに人の評価を気にするような人間ではない。自分が最低の人間であると、すでに分かっていますから」

「最低の人間だなんて……そんなこと、」


 諸葛亮様は、小さく笑われたようだ。


「○○殿が、私の過去の罪を知れば、きっと私を軽蔑なさる」

「そんな……」

「私は幼い頃、戦火の中で妹と弟を見捨てました。自分の保身の為に」


 私は息を詰めた。
 保身の為に弟妹を見捨てたなんて……戦禍に襲われた経験が無い私にとって、そんな過酷な事実なんて、想像も付かないことだった。


「……あの、諸葛亮様がお嫌でなければ、詳しくお話を聞いても?」

「ええ。どうせ軽蔑されるなら、一だろうと十だろうと、変わりませんから」


 そうとは、限らない。
 私はそう思った。
 だって今、私は嫌悪なんて無い。ただ、残酷な戦火で辛い目に遭った人を前に衝撃を受けただけ。
 先の言葉だけを聞いて、諸葛亮様が悪いと、そんな風には全く思えない。

 だから、諸葛亮様の様子を気にしつつ、問うた。

 諸葛亮様は、嫌がる素振りを見せずに何処か諦めた風情で話し始めた。

 諸葛亮様が戦火に巻き込まれるそもそもの発端は、戦でお父様が亡くなられたことだった。
 年の離れたお兄様が呉で職に就いていたけれど、お母様しか養う余裕が無く、諸葛亮様と二人の弟妹は叔父様のもとでお世話になることになった。
 幼い子供三人で、叔父様のもとへ向かわれたけれど、戦の脅威は足が速い。狂気じみた思念を孕み、幼い子供達を呑み込んでしまった。
 どんなにか怖かっただろう。私には想像することも難しい。
 混乱極まる中で、必死に逃げた三人。
 意識すら瞭然としない極限の状態まで追い詰められた諸葛亮様は、気付けば両手からある筈の感触を感じなくなっていた。
 いなかったのだ、二人の弟妹が。
 振り返っても誰もいない閑散とした光景に、諸葛亮様は、絶望されたことだろう。
 その罪悪感から、戦場にいるとどうしてもそのことが蘇り、発作が起きて最悪気を失ってしまうようになってしまった。
 それだけではない。
 夢で、当時を追体験しているのだ。
 まるで責められるように、弟妹が側からいなくなるところまでを、鮮明に見てしまう。

 話すうち、諸葛亮様の声が、僅かに震え出した。
 必死に抑えているのが痛々しい。

 その声にやはり嫌悪感も何も浮かばない。ただ、過去に苛まれる姿を見て、心から憐れだと思う。
 少しでも彼が楽になれるようになれたら――――そう思う私は、身の程知らずだ。
 私は戦禍に大切な存在を奪われる苦しみも、その中で必死に生き残る人々の血を吐くような強い思いも分からない。
 そんな私が慰めを言って、どれだけの力を持っているだろうか。

 自己満足で終わるに決まっている。
 分かっているけれど、座っているだけでいられなかった。


「近付いてもよろしいですか?」

「……あなたがよろしいのであれば。ただ、足元に気を付けられて下さい。翠宝殿が邪魔になるような物は先に退かしておられますが」

「ありがとうございます」


 諸葛亮様の影はぼんやりと見えている。
 私は立ち上がってゆっくりと彼に近寄った。
 彼の前に立ち、しゃがみ込む。


「手を」


 差し出すと、ややあって探るように動く指先が私の手の甲に触れる。私はその手を両手で包んだ。手は、微かに震えている。ご自身も気が付かれているのだろうか。


「私は、有り難いことに戦禍から免(まぬか)れて生きて参りました」

「それで良い。あなたには、あのような狂気に澱んだ悲しい惨状の中にいて欲しくはありません。出来ることなら、一生安全に暮らしていて欲しい」


 優しい人だ。
 だから、弟妹の手を離したことで、こんなにも苦しまれている。
 だけどこの手は、土砂から一人で抜け出した私を抱き上げて村まで運んで下さった。
 その時の力強さは、今でも覚えている。

 私は――――私には、何が出来るだろうか。
 どうしたら、私にも彼を少しでも楽にしてあげられるだろうか。
 両手で包んだ大きな手の震えを感じながら、私は思案する。

 暫くして、


「……私があなたに慰めを言ったとて、あなたの心を軽くは出来ないでしょう。むしろ、お怒りになられるでしょうね」

「……いえ、そんなことは」

「諸葛亮様、酷なことをお訊ねすることをお許し下さい。あなたは手を離れた弟さんや妹さんのご遺体を見たのですか?」

「いいえ。何しろそれまでの記憶があやふやでしたから、何処で離れたのかも」

「でしたら、私は、お二人が何処かで生きていることを信じようと思います」


 ぴくりと手が反応する。
 気を悪くされただろうか。
 されど私は言葉を続けた。


「あなたは、お二人の亡くなった姿を見ていない。ならばその可能性も残っていると言うことでしょう。ですから私はあなたがいつかその苦しみから解き放たれるように、何処かで生き延びてあなたを捜していると、信じます。それくらいしか、私などには出来ませんから。お気を悪くしてしまいましたら、申し訳ありません」

「……いえ」


 そこで、私の手の上に諸葛亮様の手が乗る。力がこもる。



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