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 それから二ヶ月程、翠宝の元夫も姿を現さなかった。
 勿論油断なんてしていないけれど、長く顔を見ずに済んでいることにほっとせずにはいられなかった。

 ただ、彼とは別に問題が持ち上がっていることに関しては、頭が痛い。
 ここのところずっと諸葛亮様と恋人のように振る舞っていた所為で、やはり村中に誤解が広まり、すっかり定着してしまっているのだ。
 説明しようにもまだ警戒すべきとて諸葛亮様や翠宝に止められる。

 このままだと、本当に不美人が諸葛亮様と結婚しなければならなくなってしまう。
 それは何としてでも回避しなければ――――と思うのに、何も出来ない現状がもどかしい。

 私のような不美人が諸葛亮様のような素晴らしい方の嫁になってはいけないのだと、声を高らかにして村の真ん中で叫びたい。分かってもらえるまで何度も何度も叫びたい。

 そんな私の心など、諸葛亮様は知らない。
 いや、仮に知っていても、私を嫁にするとお父様の申し出を受け入れてしまった彼なら、私の意思を無視しそうだ。

 私が思った以上に大変なことになりかけているような気がしてならない。


「お母様、少し、今から森の方へ行ってくるわ。すぐに帰ります」

「一人で行くつもりなの?」

「ええ。今のところあの男が来ることも無いみたいだし。ちょっとくらい出ても大丈夫な筈よ」

「油断してはいけないわ。翠宝に一緒に行ってもらいなさい。もしあの男が接触してきたら、殴ってでも逃げてくるの。分かったわね?」


 これは、従わないと外に出してくれなさそうね。
 私は頷き、翠宝の家に寄った。

 翠宝は私が森に出掛けると言ったその直後に、強い声で行くと言った。 大袈裟ではない? と出かけた言葉は呑み込んだ。

 森へ行くのは、ただの散歩だ。
 ここのところずっと村中に広がってしまった誤解のことで頭を悩ませっ放しだったから、少し気晴らしをしたくなったのだ。

 本当にすぐ帰るつもりだったから、翠宝に付き合ってもらうほどのことでもない。
 それを正直に翠宝に話すと、心底呆れられた。あんたどうしてそこまで頑固なのよ、なんて言われた。
 頑固なのではなく、私自身が諸葛亮様のような素晴らしい殿方に嫁げるような女ではないと自負しているが故のことなのだけれど、翠宝はどうしても分かってくれない。

 そのまま散歩中ずっと翠宝からの説教を聞かされて、逆に私の心も頭も重たくなるだけだった。心配してくれているのは分かるけれど……私は、村の役に立って生きていけるのならそれで構わない。

 それの何がいけないのかも、正直分からない。
 私が女だから駄目なのだろうか。
 でも女でも、夫の評価すら貶めかねない不美人だ。異国人故の肌だとしても、この土地の人間として生きている以上女としての価値は低い。それは村人皆が分かっていること。
 女としての役目を果たせないのに、今の生き甲斐も否定されたら、じゃあどうすれば良いの? 私には分からないわ。

 私が駄目でも諸葛亮様なら別に妻となる女性が大勢現れる。私のような不美人にする必要なんて無い。

 そんなこと、翠宝やお母様に怒鳴られるから絶対に口には出来ないけれど、溜息だけは出てしまって見咎められた。
 また更に延長してしまった説教に耳を痛め、結局私はさしたる気分転換も出来ぬまま、家に帰った。

 けれども、家に帰っても両親と顔を合わせると自然と翠宝の元夫や諸葛亮様の話題になって、優しく諭されるのが五月蠅くなった。
 元々居づらくてたまらなかった所為か、いつもは聞き流していた筈の小言から、無性に逃げ出したくなった。
 どうしても一人になりたくなった私は、夜中こっそりと家を抜け出した。



 それが間違いだったのだと気付いた時には、もう取り返しがつかなかった。



‡‡‡




 昼に翠宝と散歩した森の中に一人佇んでいると、ざわめいていて痛い程に苦しかった心が次第に凪いでいくのが分かった。
 ここには、誰もいない。あれこれ小言を言う人もいなければ、誤解をされて頭を悩ませることも無い。
 自然の中で、美醜に拘(こだわ)ることも無い。
 溜め込んだものを吐き出すように、私は長々と溜息をついた。

 気が楽だ。
 苔むした倒木に座り込んで、か弱い月光だけが降り注ぐ、ほとんど何も見えない闇を見据えた。
 こんな夜中、足場の悪い森を誰も歩くまい。

 そう踏んで、私は警戒を怠った。

 認識が甘かったと後悔したのは、背後で枝が折れたような乾いた音がした直後背後から口を塞いできた手の感触に鳥肌が立ってからだった。


「やっと一人になってくれた。○○」

「んん……っ!」


 耳元で聞こえたのは、聞きたくもなかった翠宝の元夫の声だ。
 悪寒に震える身体を無理矢理に横に倒し、のし掛かってくる。叫ぼうとした口はすぐに塞がれ鳩尾に重い衝撃を受けた。
 耐え難い激痛に襲われ、呼吸もままならない。

 私は悲鳴を上げることも、抵抗することも出来ず、そのまま意識を失った。



‡‡‡




 ○○が、ここ数日部屋から全く出てこない。
 散歩をした翌日からだ。

 定期的な発明品の点検と、新たな発明への研鑽を怠らない○○が、外部との接触を頑なに拒絶するのは、異様なことだ。
 食事もろくに摂らない娘に、黄夫妻は小言が過ぎたかとだいぶ気にしている。
 母が扉越しに謝罪したが効果は無し。言葉も返らない。

 これを、翠宝は無理もないと思う。
 今、○○には余裕が無い。

 精神状態が危うい理由を唯一知る翠宝は、ある日夜が更けてから、○○の部屋へ窓から入った。


「○○。今日もお邪魔するわよ」

「……」


 寝台に横たわる○○はのっそりと上体を起こし、翠宝を振り返る。
 疲れ切った顔だ。目の下にはうっすらと隈が浮かび、手入れをしていない髪もぼさぼさだ。
 外に出られないあまりの姿に、翠宝の胸は痛む。

 自分がもっと早く、あの場に駆けつけていたらこんなことにはならなかったのにと、後悔に息が詰まりそうになる。

 翠宝は寝台に腰掛け、○○の身体を抱き締めた。
 無言で身を預けてくる幼馴染に奥歯を噛み締める。

 あの時――――あの夜○○が翠宝の元夫に襲われた時、翠宝は○○を追いかけていた。
 翠宝の父が森へ行く○○らしき人影を見たような気がすると教えてくれなければ、あの腹立たしい暴挙を止めることは出来なかっただろうが、もう少し早く追いつけなかったことが悔やまれる。

 すでに○○は絶入し、夫以外の異性の目に触れてはいけない肌を曝け出されている常態だった。翠宝は人よりも夜目が利くから、それくらいのことは辛うじて判別出来た。

 翠宝はたまたま足に当たった木の枝を手探りに拾い上げ、二人に近付こうとした。

 その時だ。
 彼が、翠宝を激怒させる言葉を吐いたのは。


『悪いな。これも劉表様とお近付きになって、出世する為なんだよ』


 あいつの目論見を瞬時に理解した。
 途端頭が真っ赤に染まって、気付けば元夫の脇腹を枝で殴りつけていた。汚い罵声も沢山浴びせた。元夫が逃げていくまで。

 あいつは、自分が成り上がる為に劉表様と親戚になりたかったんだわ!
 ○○の母親は、荊州の太守劉表の後妻の実姉だ。劉表の姪に当たる○○を娶れば、親戚となる。
 その繋がりで、ただの村人から成り上がろうと考えたのだ。確かに自信過剰のきらいがあったが、まさかこれ程膨張しているとは思わなかった。
 これは身の程知らずの愚か者としか言いようが無い。

 出来もしない妄想を信じて、○○までも利用しようとしたなんて、どれだけ最低なの!
 憤然と追い返した翠宝は、気絶したままの○○の服を正し、一人抱えて村に戻った。
 ○○の部屋に、窓から何とか入ったが、その際○○は目覚め、恐怖に悲鳴を上げかけた。咄嗟に翠宝が口を塞いでいなければ、黄夫妻にもバレていただろう。
 勿論あの二人が娘を責めることは無かろうが、親孝行に執着する娘は罪悪感に自分を責め苛むに決まっている。

 幸い、○○の純潔は翠宝がぎりぎり守れた。
 だが異性に犯されかけたという事実だけでも、女としての評価は下がってしまうだろう。
 翠宝から見ても○○に気のある諸葛亮がそんなことを気にするような男でないことは分かっているが、如何せん○○は自分自身に自信が無い。それが更に無くなることは目に見えている。

 諸葛亮もこれまで以上に拒むかもしれない。

 彼女の自信の無さは、元はと言えば翠宝や他の子供達が見目の違う○○を見下していたのが原因である。
 翠宝はそれでいながら○○が放っておけずにあれこれ世話を焼いてしまうという、どちらとも定まらぬ安定しない態度であったが、彼女の人格形成に問題を与えてしまったことに責任を感じている。
 諸葛亮と○○の関係に協力するのも、彼女の自信を奪ってしまった責任故のこと。自分勝手な償いにしかならないが、元々は#namne#を放っておけない性分も相俟(あいま)って、蟠(わだかま)りも無くなった今では世話を焼きたがる。
 ○○が受けた非情な仕打ちを、黙って見過ごすことなど出来よう筈もなかった。

 あいつがそう来るなら、こっちだって考えがあるわ!
 ○○を落ち着かせ、ひとまず寝かしつけた後、早急に手紙をしたためた。明言は避けたものの、相手が事情を察してくれるように書いた、諸葛亮への手紙だ。
 この村の子供は、○○の父黄承彦に習っている為、文字の読み書きが出来る。翠宝もその気になれば目上の者に対する礼儀も払えるくらいには、教養があった。

 それを、黄承彦に嘘をついて諸葛亮に届けてもらい、早急に○○に会いに来てもらえるように取り計らった。

 だが、彼はまだ村に来てくれない。
 翠宝は今日だけでなく、あれから毎夜窓から○○の部屋に入り、夜が明けるまで側にいてやっている。夜に恐ろしい目に遭った彼女が不安と恐怖の再発に苦しまぬように。
 なかなか来てくれない諸葛亮に気が揉めながら、○○が少しでも楽になれるよう、誰にも秘密にして気を配った。

 そして、翠宝の配慮の成果が、ある日の昼に出る。


「翠宝殿はいらっしゃるか」


 諸葛亮が、翠宝の家を訪ねてきたのだ。
 まず彼は手紙を貰ってすぐに来れなかったことを謝罪し、○○とのことで相談があると両親を気遣って遠回しに言ってくれた。

 翠宝は縁談をなかなか受け入れない○○に呆れている風を装いながら父の部屋を借りてそこで密談する。
 そこで、諸葛亮の反応も見ておくつもりだった。

 が、手紙よりも細かい事情を話して聞かせるも、諸葛亮は凪いだ表情を全く崩さない。
 話し終わってもただ一言「分かった」と返すだけだ。

 ……まさか。
 不安になった翠宝は、眉間に皺を寄せて問いかけた。


「諸葛亮様。○○のこと……」

「娶る気が失せたのではないか、と?」

「……ええ」


 諸葛亮は目を伏せ、細く息を吐いた。
 呆れたような態度に、不安は杞憂だったのかもしれないとこっそり安堵する。



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