2
諸葛亮様と顔を合わせるのが、とても気まずい。
出来るなら避けたい。
そう思うのに、諸葛亮様が村に来ない時は、胸に風が吹き抜けるような感覚に襲われて落ち着かない。
自分でも自分がどうなってしまったのか……分かってはいる。
けれどここで認めてしまうのは、いけない気がするの。
私は不美人。どの殿方にも嫁がない方が良い。
それに私はこの村の役に立って生きていきたいのだ。その為に一生独身でいるつもりでいたのを簡単に変えてしまったら、過去の私を否定してしまうのではないか……そう思えてしまう。
だから、私は今でも――――いえ、今以上に諸葛亮様を避けている。
両親は私が頑固だと困り果てている。最近は苛立ちに母の小言も増えた。
折角前向きに検討してもらえているのに何が不満なの、なんて言う。
不満なんじゃない。
私にも私なりの考えがあるのだと、分かって欲しい。
家族なのにギスギスし始めたことに、罪悪感ばかりが増していく。
でも、だからと言って諸葛亮様に嫁ぐことは、無い。
家にいるのが苦痛になり始めた頃、翠宝が家に飛び込んできた。
「○○! 今すぐあたしの家に暫く隠れてちょうだい!」
「え?」
「あいつが来たのよ!」
一瞬、何のことをを言っているか分からなかった。
翠宝もそれが分かったようで、深呼吸を挟んで事情を説明し始めた。
曰く、翠宝の元夫が、今村に来ているらしい。
あの、私に近付く為なんてふざけた理由で翠宝を弄(もてあそ)んだ人だ。
この村に来て何をするつもりなのか問いかけると、彼女は憤慨(ふんがい)した様子で、
「あいつ、ふてぶてしいことにあんたに求婚しに来たのよ。あの石頭の両親をどう説得したのか分からないけど!」
「……な……」
私は言葉を失った。
「どうして……」
「諸葛亮様があんたの婿候補になってるって話、あっちにも伝わってるらしいわ。それであいつも慌てているみたい。だから今のうちにものにしてしまおうって村に乗り込んできたのよ!」
あいつは何をしてでもあんたを貰うつもりよ。
翠宝の警告に私は思案した。
正直を言えば、翠宝を苦しめたその人に直接文句を言いたい。
けど……何をしてでも、という言葉に怖いと思ってしまった。
ここで悩んでしまったのが、いけなかった。
『○○。お客様よ。隣村の……翠宝の元の旦那さん』
躊躇いがちなお母様は客人を歓迎していないようだ。
翠宝が私の代わりに顔を覗かせると、二人でこそこそ話し出す。
そして、私を振り返って頷くのだ。
「どうしたの?」
「○○。翠宝の家にいなさい。あの人はこちらで追い返しておくわ」
「え……でも何処から部屋を出れば、」
「その窓から出れば良いじゃない」
「えっ!?」
窓を見やる。そっと両手で腰を触った。
……ぎりぎりだわ。
子供の頃は良く脱走していたけれど、大人になった今、さすがに難しいのでは?
視線で訴えるけど、「あんたもあたしも細いから大丈夫よ!」と強引に押し込まれてしまった。
桟(さん)に腰をごりごりぶつけて痛かった。これは絶対、痣になると思うわ。後で文句を言おう。
家を抜け出した後、私は翠宝の家に身を隠した。隠したと言っても、翠宝の部屋でお茶を飲んでお母様が迎えに来るまでのんびり過ごしていただけだ。
翠宝の元夫を無事に追い返したお母様は、安心して良いと心配そうな翠宝を宥めてすぐ、不機嫌そうに彼の悪口を早口に連ねた。
彼はもう、翠宝の名前も覚えていないし、翠宝から取り上げた子供も母親に任せっきりなのだそうだ。
あんな不誠実な男に嫁いだ翠宝に、お母様は心から同情を寄せた。
「あの男は絶対にまた来るわ。○○には既に夫となるべき殿方がいらっしゃるからと言っても、全く信じて下さらなかったもの。有り得ないとでも思っているのかしら」
「普通は、そうだと思うわ。お母様」
「○○。それ自分で言ってて悲しくないの?」
でも、それが事実だ。
醜女(しこめ)を気に入るような男は絶対にいない。だから断られはしない――――そう思ったからこそ、翠宝の元夫は堂々とこっちに来られたのだろう。
となると、私に対してもそんな態度を取るのは考えるまでもない。
私は片手に拳を作り、口許に添えて思案した。
「求婚されても断り続けるけれど、あんまりしつこいと嫌になるわね」
「あいつ相当しつこいわよ。友人にからかわれた恨みは何年も忘れないらしいし、仕返しも倍にしてするそうよ。女追いかけるのだって執念深いに決まってるわ。何かあったらすぐにあいつから離れてあたしの家に来なさいね」
「ありがとう。でも、大丈夫?」
辛くない?
問いかけると、翠宝はふふんと胸を反らして強がった。
「喧嘩は毎日のようにしてたわよ。あいつの甘ったるい母親も巻き込んで二対一でね。勿論あたしが一よ。負けたことは一度も無いわ。殴られたら殴り返していたもの」
「さすがだわ。私も彼が鬱陶しくなったらそうしようかしら。最終手段よ」
「あんたは工具を使えば良いわ。その方がもっと痛いでしょう?」
冗談めかして言う翠宝にお母様は小さく笑った。
「名案ね。○○、嫌になったらそうなさい。そんな頑なな態度でなければああいう男は諦めやしないわ」
「まあ、お母様からお許しが出たなら遠慮は要らないわね。翠宝、素敵な助言、ありがとう」
冗談に冗談を重ね、私達は笑う。お母様とは、ギスギスしていたのが普通に会話が出来ていることに安堵した。
けれども次の瞬間私の笑顔だけが固まった。
「私から、諸葛亮様にこのことをお知らせして諦めるまで頻繁にこちらにお出で下さるようにお願いしてもらうよう、お父様に言っておくわ」
「え?」
「それが良いわ。○○。諸葛亮様程の殿方ならあいつも諦める筈よ」
私は身体が冷えていくのが分かった。
ちょっと待って。
どうしてそうなるの!
私は慌てて二人を止めた。
「待って。幾ら何でもそれは止めた方が良いのではない? 諸葛亮様だってお忙しいのだし、こちらの都合でお呼びするのは駄目だと思うの」
当然、二人は却下した。
それどころか私を怪訝に見つめてくる。
「○○……あんた、最近前以上に諸葛亮様を避けていたわね。会うとらしくなく挙動不審になってるし、諸葛亮様の話題が出ると露骨に話を逸らそうとするし……何、喧嘩でもしたの?」
そう言う翠宝の目は、きらきら輝いている。これは期待だ。
多分、いいえ確実に、バレている。
それでもお母様の前で言わないのは、私に恩を売っているのだ。ここで話してあげないのだから後であたしには話してくれるわね? ……なんて言葉が聞こえて来そうだ。
私は視線を逸らしつつ、「放っておいて」
「私は誰にも嫁ぐ気は無いのだから」
「まあ○○。いつになったら分かってくれるの!」
「分かりたくありません」
私はお母様に背を向け、椅子に座った。
すると翠宝が小さく笑う。仕方ない、と言わんばかりに大仰に溜息を漏らして、お母様を宥めて今日は翠宝の家に泊まることに決めて返した。
お母様は帰る前、また翠宝の元夫が現れるかもしれないからと、明日までは絶対に外に出ないよう私に言いつけた。
私もその方が良いだろうと、神妙に頷いた。
翠宝を苦しめる男に好かれても不快なだけだ。しかも翠宝から子供を奪っておいて、世話を母親に押し付けるなんて酷い男。私は彼とは知人にもなりたくない。
お母様が帰った後、私は嘆息した。
「早く諦めてくれると良いけど」
「来なくなっても油断しちゃ駄目よ。そうやって安心させたところに接触しようとする筈よ」
溜息しか出ないわ。
額を押さえた私を見下ろす翠宝は、一転してにんまりと笑って身を寄せてきた。
「そんなことより、○○。あんた諸葛亮様のこと、意識してるのね?」
「……」
私は、徐(おもむろ)に顔を逸らした。
‡‡‡
諸葛亮様は、お母様が手紙送ってから旬日経って翠宝の家を訪れた。
その間、翠宝の元夫は毎日のように私を捜してやって来た。お陰で私は翠宝の家から出られない。一度も、だ。
村の人達の道具の点検も出来ないし、翠宝や家族にご迷惑をおかけしてしまうのが申し訳なかった。
――――と、思っていたのだけれど。
にやにやと期待した笑顔で見てくる翠宝と翠宝のお母様に、そんな気持ちは急速に薄まってしまったのだった。
「すみません、諸葛亮様。お忙しいのにお母様が勝手なことを……」
「いえ……それよりも、翠宝殿の元の夫があなたに求婚しようとしていると、手紙にはありましたが。接触はまだ……?」
これに答えたのは私ではなく翠宝だ。私の現状を細かに説明し、元夫の悪口――――もとい、彼の性格にも触れた。
翠宝の説明に、諸葛亮様は一瞬だけ眉間に皺を寄せたように見えたのは私だけだろうか。
「事情は分かりました。ならば、私もここへは頻繁に立ち寄るようにしましょう」
「いえ、それには及びま――――」
「是非そうなさって下さい。あの男は、本当にしつこいんです。○○の見た目で周りは絶対に求婚に反対しないと分かったように自信満々だからなおのこと質が悪い。最悪、既成事実を作ってでも手に入れようとしかねません。ですので」
あいつが諦めるまで、○○と共にいる時は恋人らしく振る舞って下さい。
私の言葉を遮って早口に告げた翠宝に、私は文字通り飛び上がった。椅子が後ろに倒れてしまったが、それどころではない。
「ちょっと! 翠宝、なんてことを!」
「これぐらいの対策はしておかないと、本当にあんたが危ないのよ」
「そんなことを言うならせめてもう少し心配してるって顔をしてちょうだいっ」
私には、口にした理由はただの表向きだとしか思えない。
翠宝まで私と諸葛亮様の仲を取り持とうとしているのだ!
こんな時にふざけないでと咎める私に対して翠宝は素知らぬ顔だ。何の悪びれも無い、撤回する様子も無い幼馴染が恨めしい。
更には、
「分かりました。そのように」
「諸葛亮様!?」
諸葛亮様までが了解してしまった。
「諸葛亮様! そんな、安易に了解して、」
「良かった! じゃあ早速今日からお願いしますね」
「翠宝あなたまた……っ!」
翠宝は止まらない。私の意思を無視して、強引に決めてしまった。
だけど諸葛亮様と恋人らしくなんて、とんでもないことだ。
こうなったら、絶対に外に出るまい。
と、思っていたのに。
「では、○○殿。行きましょう」
「は?」
差し出された手に私は顎を落とした。
行きましょうって……いや、ちょっと待って。
「あの、諸葛亮様? 行きましょうって、まさか……」
「数日この家を出ておられないのであれば、点検をされていないのでしょう?」
「そうですけど……でも、あのですね」
「村の役に立つことが、あなたの生き甲斐なのでしょう。それを、一人の男の為になおざりにすることは無い」
気を遣って下さるのは有り難いし、生き甲斐を認めてもらえているのはとても嬉しい。
でも外に行くとなると私は諸葛亮様と分かり易く恋人のように接しなければいけないのだ。そんな恥ずかしいこと、私に出来る訳がない。
自分でも顔が真っ赤になっているだろうとは自覚している。だってこんなにも全身が熱いのだもの。
私が手を取らずにいると、諸葛亮様はやや強引に手を握って私を翠宝の部屋から連れ出した。
家を出る瞬間踏ん張って抵抗してみたけれど翠宝に背中を押し飛ばされて無駄に終わった。むしろいつかの時みたいに諸葛亮様に身体を抱き留めるように支えられる羽目になってしまった。
外でどのようにして恋人らしく振る舞うのか警戒していたけれど、意外に、諸葛亮様の態度はあまり変わらなかった。ただ、私の手を離さなかっただけ。それを思えば今までよりも接近しているで、それ以上の何かをすることは一切無かった。
だけど――――どうしてその程度で済んでいたのか、分かってしまった。
「あら、○○ちゃん。とうとう諸葛亮様に決めたのねえ」
「え」
「お似合いよ。祝言はこの村で行われるのかしら」
「あの」
「恐らくはそうなるでしょう。私は、人里から離れて生活しております故」
「ちょっと……!?」
諸葛亮様は笑顔で問題発言をなさる。
それまで熱かった私の身体は急速に冷えていった。
あれで済んでいたのは、こういうことだったのね……!
諸葛亮様は周りにも認識させた上で、翠宝の元夫に見せつけるつもりなのだと気付いた時にはもう遅い。
これじゃあ求婚を回避出来ても、もっと大変なことになってしまうじゃない!
私が待ったをかけて事情を説明しようとすると、諸葛亮様がそれを遮って点検を勧めてくる。
「あの、諸葛亮様」
「○○ちゃんの婚礼の衣装を作る時にはこの老い耄(ぼ)れも手伝わせてねぇ」
「い、いえ、それが、」
「○○殿。手元に集中しなければ怪我をなさいますよ」
「あ、はい」
それ以降も、嬉しそうなお婆さんに何度も説明をしようとしたけれど、悉(ことごと)く諸葛亮様に遮られた。
しかもそれも、端から見れば恋人らしいと思えなくもない柔らかな声音とさり気ない仕種を伴っているものだから、誤解を更に助長するのだ。
彼はそんな風にして、私が点検に訪れる場所全てで村人に誤解を植え付けていった。私が口を挟む隙も与えてくれない。
何だか、翠宝の元夫の件とは違うところで、何故か私自身が追い詰められているような気がしてならない。
不安に駆られ、私は諸葛亮様に訊ねた。
「諸葛亮様……この件が落ち着きましたら、皆の誤解を解きますよね?」
「外では、その話はせぬように」
「す、すみません……」
でも周りに人はいませんよ。
だから問いかけたのに……。
私はどうにも危機感を覚えて仕方が無かった。
ちゃんと、誤解を解いて下さるわよね。
諸葛亮様だってこれが求婚してくる人を避ける為だって分かってらっしゃるでしょうし……。
大丈夫、と自分に言い聞かせるしか無かった。
そんな私に、諸葛亮様は構うことも無く、たった一日のうちに、誤解を広めてしまったのだ。
これにまんまと騙されたお父様が泣いて喜んでしまって、諸葛亮様にお帰りいただいた後に慌てて事情説明するのは、とても苦労した。
‡‡‡
「やあ、○○。久し振りだね」
「……お、お久し振りです」
翠宝。駄目だったわ。
私は目の前に立つ青年に作り笑いを浮かべながら、運悪く出かけている翠宝に心の中で告げた。
一ヶ月経っても、この人は諦めてはくれなかった。
隣には諸葛亮様がいて、私の手を握っていらっしゃる。彼が突然前に立ち塞がった時、驚かれたのか力が籠もった。
まだ名前も知らない翠宝の元夫は、顔こそ笑っているけれど、目が冷えきっている。きっと不美人の私と諸葛亮様が恋人同士であると聞いて、屈辱に思っているのかもしれない。相当な自信があったらしいから。
彼が近付こうとすると、諸葛亮様が私の前に出る。
「何か用だろうか」
「ああ。お前ではなく○○にな」
「では、ここで手短に」
「そうはいかない。ようやっと会えた○○との時間を、他所の男に邪魔されたくないんだ」
そう言って、私に手を差し伸べてくるけれど、私は嫌悪感を覚えて取らなかった。諸葛亮様に身を寄せて、恋人と言う嘘を強調する。
ぐぐっと翠宝の元夫の眉間に皺が寄り、諸葛亮を睨めつける。
この人私を気に入っていると言っていたようだけど……やっぱり、そんな穏やかな理由ではないわ。不美人の私を気に入るなんて、有り得ない筈だもの。
ならばどうして私を娶ろうと考えたのか、それは分からない。分かりたくもない。
また、諸葛亮様の手の力が強まった。すぐに抜けたけど、多分諸葛亮様もこの人の態度に気分を害してらっしゃると思う。
だってこの人、とても分かり易い。
目を見れば本心が良く見える。
翠宝の元夫は手を下げ、苦笑を浮かべた。その目の眼光にぞっとする。
「○○。オレは君に求婚しに来たんだ。ここ一ヶ月ずっと村に来ていたのだけど、お母様から聞いていない?」
「聞いてはいました、ですが……」
「見ての通り、彼女は私の婚約者。そちらの求婚にはお応え出来ぬ」
澱み無く言う諸葛亮様にどきりとするけれど、内心これは嘘なのだと言い聞かせる。
「す、すみません……」
「分かっているよ。翠宝がオレへの当てつけにそんな演技をしているんだろう?」
「え」
どきり。先程とは別の意味で心臓が跳ねた。
……けれども。
「翠宝は馬鹿だからね。自分に原因があると分かっていないから○○とオレを結ばせまいとしているんだよ」
「なっ、馬鹿……?」
「ああ、あいつは大した家の生まれでも無いくせに高飛車で無駄に矜持が高いんだ。幼馴染の○○も知っているだろう? あいつとの間に出来た子供だって、もうあいつの影響を受け始めていてね、とても困っているんだよ。母に頼んで躾をし直してもらっているけれど、直るかどうか……こんなことなら子供も翠宝に持たせるんだった」
な、なんてことを言うの……。
すらすらと翠宝の悪口を並べる彼に嫌悪感が膨大する。
信じられない……娶った女性をこんなに悪し様に言うなんて。
確かに、気が強いし昔から矜持が高い翠宝だけれど、私は彼女が優しい人だと知っている。幼い頃は私を見下して意地悪しながら世話を焼いてくれたのもしっかりと覚えている。
悪いところも、良いところも、私は知っているのだ。
翠宝のことを愉しげに悪く言う彼が、私は許せない。
私は、一度深呼吸をした。
「お帰り下さい。名も知らぬ方。私は、よしや恋人のいない身であったとしてもあなたの妻にはなりたくありません」
「は、」
「不美人とて、相手を選ぶ権利はありますもの。あなたのような不誠実な殿方に、名を呼ばれることすら不快です。翠宝を苦しめ私の前で笑って貶したあなたを、私は許しません。お帰り下さい。……二度と、私や翠宝の前に現れないで」
冷たく突き放し、私は諸葛亮様と共にその場を離れた。
もう二度とこの人を見たくない。会いたくない。手紙すら交わしたくない。
なんて酷い人。許せない。絶対に許せない。
私は奥歯を噛み締める。
怒りが抑え込めない私は、諸葛亮様の手にも力を込めてしまいそうな気がして、手を離そうと思った。
建物の影に隠れ、手を離そうと力を弛めて引っ張った。
――――けれど。
「○○殿」
「え? あ……っ」
逆に手を強く握られ、抱き締められた。
私は身体を強張らせた。すぐに逃れようとした私に、彼は早口に耳打ちした。
「あの男が追いかけてきています。そのまま動かずに」
「え……」
「振り返らないで下さい」
耳に息がかかって反射的に鳥肌が立った。
じっとしていなければならないのは分かっている。だけど……抱き締められていると、諸葛亮様の体温を全身で感じているみたいで、一層落ち着かないのだ。
ともすればすぐにでも諸葛亮様を押し退けて逃げ出してしまいそうな自分を制御して、私は息を張り詰めた。
諸葛亮様は「そのまま……」と、声をやや大きくして私に語りかけた。
「あなたも、罪なお人だ。私を理性の利かぬただの男にしておいて、なおもご自分を卑下なさる。加えて私がありながらもあの男をもたぶらかしてしまわれた。今、私の心がどれ程に荒れ狂っているか……無情なあなたには分かりますまい」
「あの、しょ、諸葛亮様……んっ!?」
顎に手を添えられる、かと思いきや、親指で唇を押さえつけられた。
そのまま顔を寄せ、少しだけ傾ける。
見る方向によっては、口付けを交わしているように見えるだろう。
翠宝の元夫に見せつけているのだけれど、村人の目にも曝されているということになる。
しかも、諸葛亮様のさっきのらしからぬ言葉は、彼だけじゃなく村人にも聞こえる可能性が高い。
これ以上何かされたらより誤解を解くのが難しくなるではないか!
私は翠宝の元夫にバレないように諸葛亮様の手を逃れ、小声で諫めた。
「諸葛亮様。さすがにこれはやり過ぎです」
「いえ。これでも、不十分な程でしょう。生半(なまなか)な態度で諦めるような輩ではなさそうだ」
「不十分って……そんな、」
困る。私は物凄く困る。
私は後ろを振り返ろうとして、諸葛亮様に後頭部を押さえ込まれた。
「唇を許されても、心は全て委ねては下さらぬか」
「ちょ、えっ、あの……っ」
許してません!
そう叫びたいけれど、状況がそれを許してくれない。ここで私が否定を叫んだら全てが水の泡だ。敵に付け入る隙を与えるだけの愚行で悪化させる訳にはいかない。
間近で見つめ合うのに耐えられず、ぎゅっと目を瞑(つむ)る。鬱陶しいくらいに喧(やかま)しい私の鼓動が諸葛亮様に伝わらないことを、心から祈った。
諸葛亮様の視線にどれくらい耐えていたか分からない。
ふっと離れていく彼の体温に全身から力が抜ける程に安堵した。
諸葛亮様を見上げると、不満そうだったように見えた。一瞬だけの変化で、気の所為かもしない。
「彼は?」
「……もう、いないようです。念の為、家までお送りした後も暫し共に」
「う……はい」
やはり、そうなるのね。
私は諸葛亮様から離れようと一歩退がり、しかし手を握られそれ以上の距離を取れなくなった。
「参りましょう。油断なさらずに」
「はい……」
このままだと私がどうにもならなくなってしまう。
あの人には早く諦めて欲しい。
私は胸中で膨れ上がる危機感が重たくて、唇を引き結んだ。
翌日、近所のおじさんににやにやしながら「諸葛亮様も意外と男らしいところがおありなんだねえ」と揶揄された時は、嫌いな水の中に沈んでも良いと思った。
‡‡‡
それから二ヶ月程、翠宝の元夫も姿を現さなかった。
勿論油断なんてしていないけれど、長く顔を見ずに済んでいることにほっとせずにはいられなかった。
ただ、彼とは別に問題が持ち上がっていることに関しては、頭が痛い。
ここのところずっと諸葛亮様と恋人のように振る舞っていた所為で、やはり村中に誤解が広まり、すっかり定着してしまっているのだ。
説明しようにもまだ警戒すべきとて諸葛亮様や翠宝に止められる。
このままだと、本当に不美人が諸葛亮様と結婚しなければならなくなってしまう。
それは何としてでも回避しなければ――――と思うのに、何も出来ない現状がもどかしい。
私のような不美人が諸葛亮様のような素晴らしい方の嫁になってはいけないのだと、声を高らかにして村の真ん中で叫びたい。分かってもらえるまで何度も何度も叫びたい。
そんな私の心など、諸葛亮様は知らない。
いや、仮に知っていても、私を嫁にするとお父様の申し出を受け入れてしまった彼なら、私の意思を無視しそうだ。
私が思った以上に大変なことになりかけているような気がしてならない。
「お母様、少し、今から森の方へ行ってくるわ。すぐに帰ります」
「一人で行くつもりなの?」
「ええ。今のところあの男が来ることも無いみたいだし。ちょっとくらい出ても大丈夫な筈よ」
「油断してはいけないわ。翠宝に一緒に行ってもらいなさい。もしあの男が接触してきたら、殴ってでも逃げてくるの。分かったわね?」
これは、従わないと外に出してくれなさそうね。
私は頷き、翠宝の家に寄った。
翠宝は私が森に出掛けると言ったその直後に、強い声で行くと言った。 大袈裟ではない? と出かけた言葉は呑み込んだ。
森へ行くのは、ただの散歩だ。
ここのところずっと村中に広がってしまった誤解のことで頭を悩ませっ放しだったから、少し気晴らしをしたくなったのだ。
本当にすぐ帰るつもりだったから、翠宝に付き合ってもらうほどのことでもない。
それを正直に翠宝に話すと、心底呆れられた。あんたどうしてそこまで頑固なのよ、なんて言われた。
頑固なのではなく、私自身が諸葛亮様のような素晴らしい殿方に嫁げるような女ではないと自負しているが故のことなのだけれど、翠宝はどうしても分かってくれない。
そのまま散歩中ずっと翠宝からの説教を聞かされて、逆に私の心も頭も重たくなるだけだった。心配してくれているのは分かるけれど……私は、村の役に立って生きていけるのならそれで構わない。
それの何がいけないのかも、正直分からない。
私が女だから駄目なのだろうか。
でも女でも、夫の評価すら貶めかねない不美人だ。異国人故の肌だとしても、この土地の人間として生きている以上女としての価値は低い。それは村人皆が分かっていること。
女としての役目を果たせないのに、今の生き甲斐も否定されたら、じゃあどうすれば良いの? 私には分からないわ。
私が駄目でも諸葛亮様なら別に妻となる女性が大勢現れる。私のような不美人にする必要なんて無い。
そんなこと、翠宝やお母様に怒鳴られるから絶対に口には出来ないけれど、溜息だけは出てしまって見咎められた。
また更に延長してしまった説教に耳を痛め、結局私はさしたる気分転換も出来ぬまま、家に帰った。
けれども、家に帰っても両親と顔を合わせると自然と翠宝の元夫や諸葛亮様の話題になって、優しく諭されるのが五月蠅くなった。
元々居づらくてたまらなかった所為か、いつもは聞き流していた筈の小言から、無性に逃げ出したくなった。
どうしても一人になりたくなった私は、夜中こっそりと家を抜け出した。
それが間違いだったのだと気付いた時には、もう取り返しがつかなかった。
‡‡‡
昼に翠宝と散歩した森の中に一人佇んでいると、ざわめいていて痛い程に苦しかった心が次第に凪いでいくのが分かった。
ここには、誰もいない。あれこれ小言を言う人もいなければ、誤解をされて頭を悩ませることも無い。
自然の中で、美醜に拘(こだわ)ることも無い。
溜め込んだものを吐き出すように、私は長々と溜息をついた。
気が楽だ。
苔むした倒木に座り込んで、か弱い月光だけが降り注ぐ、ほとんど何も見えない闇を見据えた。
こんな夜中、足場の悪い森を誰も歩くまい。
そう踏んで、私は警戒を怠った。
認識が甘かったと後悔したのは、背後で枝が折れたような乾いた音がした直後背後から口を塞いできた手の感触に鳥肌が立ってからだった。
「やっと一人になってくれた。○○」
「んん……っ!」
耳元で聞こえたのは、聞きたくもなかった翠宝の元夫の声だ。
悪寒に震える身体を無理矢理に横に倒し、のし掛かってくる。叫ぼうとした口はすぐに塞がれ鳩尾に重い衝撃を受けた。
耐え難い激痛に襲われ、呼吸もままならない。
私は悲鳴を上げることも、抵抗することも出来ず、そのまま意識を失った。
‡‡‡
○○が、ここ数日部屋から全く出てこない。
散歩をした翌日からだ。
定期的な発明品の点検と、新たな発明への研鑽を怠らない○○が、外部との接触を頑なに拒絶するのは、異様なことだ。
食事もろくに摂らない娘に、黄夫妻は小言が過ぎたかとだいぶ気にしている。
母が扉越しに謝罪したが効果は無し。言葉も返らない。
これを、翠宝は無理もないと思う。
今、○○には余裕が無い。
精神状態が危うい理由を唯一知る翠宝は、ある日夜が更けてから、○○の部屋へ窓から入った。
「○○。今日もお邪魔するわよ」
「……」
寝台に横たわる○○はのっそりと上体を起こし、翠宝を振り返る。
疲れ切った顔だ。目の下にはうっすらと隈が浮かび、手入れをしていない髪もぼさぼさだ。
外に出られないあまりの姿に、翠宝の胸は痛む。
自分がもっと早く、あの場に駆けつけていたらこんなことにはならなかったのにと、後悔に息が詰まりそうになる。
翠宝は寝台に腰掛け、○○の身体を抱き締めた。
無言で身を預けてくる幼馴染に奥歯を噛み締める。
あの時――――あの夜○○が翠宝の元夫に襲われた時、翠宝は○○を追いかけていた。
翠宝の父が森へ行く○○らしき人影を見たような気がすると教えてくれなければ、あの腹立たしい暴挙を止めることは出来なかっただろうが、もう少し早く追いつけなかったことが悔やまれる。
すでに○○は絶入し、夫以外の異性の目に触れてはいけない肌を曝け出されている常態だった。翠宝は人よりも夜目が利くから、それくらいのことは辛うじて判別出来た。
翠宝はたまたま足に当たった木の枝を手探りに拾い上げ、二人に近付こうとした。
その時だ。
彼が、翠宝を激怒させる言葉を吐いたのは。
『悪いな。これも劉表様とお近付きになって、出世する為なんだよ』
あいつの目論見を瞬時に理解した。
途端頭が真っ赤に染まって、気付けば元夫の脇腹を枝で殴りつけていた。汚い罵声も沢山浴びせた。元夫が逃げていくまで。
あいつは、自分が成り上がる為に劉表様と親戚になりたかったんだわ!
○○の母親は、荊州の太守劉表の後妻の実姉だ。劉表の姪に当たる○○を娶れば、親戚となる。
その繋がりで、ただの村人から成り上がろうと考えたのだ。確かに自信過剰のきらいがあったが、まさかこれ程膨張しているとは思わなかった。
これは身の程知らずの愚か者としか言いようが無い。
出来もしない妄想を信じて、○○までも利用しようとしたなんて、どれだけ最低なの!
憤然と追い返した翠宝は、気絶したままの○○の服を正し、一人抱えて村に戻った。
○○の部屋に、窓から何とか入ったが、その際○○は目覚め、恐怖に悲鳴を上げかけた。咄嗟に翠宝が口を塞いでいなければ、黄夫妻にもバレていただろう。
勿論あの二人が娘を責めることは無かろうが、親孝行に執着する娘は罪悪感に自分を責め苛むに決まっている。
幸い、○○の純潔は翠宝がぎりぎり守れた。
だが異性に犯されかけたという事実だけでも、女としての評価は下がってしまうだろう。
翠宝から見ても○○に気のある諸葛亮がそんなことを気にするような男でないことは分かっているが、如何せん○○は自分自身に自信が無い。それが更に無くなることは目に見えている。
諸葛亮もこれまで以上に拒むかもしれない。
彼女の自信の無さは、元はと言えば翠宝や他の子供達が見目の違う○○を見下していたのが原因である。
翠宝はそれでいながら○○が放っておけずにあれこれ世話を焼いてしまうという、どちらとも定まらぬ安定しない態度であったが、彼女の人格形成に問題を与えてしまったことに責任を感じている。
諸葛亮と○○の関係に協力するのも、彼女の自信を奪ってしまった責任故のこと。自分勝手な償いにしかならないが、元々は#namne#を放っておけない性分も相俟(あいま)って、蟠(わだかま)りも無くなった今では世話を焼きたがる。
○○が受けた非情な仕打ちを、黙って見過ごすことなど出来よう筈もなかった。
あいつがそう来るなら、こっちだって考えがあるわ!
○○を落ち着かせ、ひとまず寝かしつけた後、早急に手紙をしたためた。明言は避けたものの、相手が事情を察してくれるように書いた、諸葛亮への手紙だ。
この村の子供は、○○の父黄承彦に習っている為、文字の読み書きが出来る。翠宝もその気になれば目上の者に対する礼儀も払えるくらいには、教養があった。
それを、黄承彦に嘘をついて諸葛亮に届けてもらい、早急に○○に会いに来てもらえるように取り計らった。
だが、彼はまだ村に来てくれない。
翠宝は今日だけでなく、あれから毎夜窓から○○の部屋に入り、夜が明けるまで側にいてやっている。夜に恐ろしい目に遭った彼女が不安と恐怖の再発に苦しまぬように。
なかなか来てくれない諸葛亮に気が揉めながら、○○が少しでも楽になれるよう、誰にも秘密にして気を配った。
そして、翠宝の配慮の成果が、ある日の昼に出る。
「翠宝殿はいらっしゃるか」
諸葛亮が、翠宝の家を訪ねてきたのだ。
まず彼は手紙を貰ってすぐに来れなかったことを謝罪し、○○とのことで相談があると両親を気遣って遠回しに言ってくれた。
翠宝は縁談をなかなか受け入れない○○に呆れている風を装いながら父の部屋を借りてそこで密談する。
そこで、諸葛亮の反応も見ておくつもりだった。
が、手紙よりも細かい事情を話して聞かせるも、諸葛亮は凪いだ表情を全く崩さない。
話し終わってもただ一言「分かった」と返すだけだ。
……まさか。
不安になった翠宝は、眉間に皺を寄せて問いかけた。
「諸葛亮様。○○のこと……」
「娶る気が失せたのではないか、と?」
「……ええ」
諸葛亮は目を伏せ、細く息を吐いた。
呆れたような態度に、不安は杞憂だったのかもしれないとこっそり安堵する。
「その程度で身を引くなら、私はここにいない」
「そうですよね。良かった……」
「これ以上自由勝手を許すことなど出来ぬ。あの男のことは私の方で対処しよう。解決し次第、○○と会わせてもらっても構わないか。出来れば、誰にも見つからぬように」
「それはあたしに考えがあります。でも、あいつは暴力沙汰も辞さない男です。失礼ですが、荒事が得意なようには見えませんけれど……」
「ああ。確かに。が、暴力沙汰も辞さぬ男とて、敵わぬ相手はいるだろう」
そう言って、諸葛亮は早速、と腰を上げた。
‡‡‡
私の為に、翠宝が苦労している。
私に色々と気を遣ってくれているのが、申し訳なくも有り難い。
今はとにかく怖い。何が怖いというのではないのだけれど、一人でいるとただただ怖いのだ。何かが来るような、何かが起こるような、何かが後ろにいるような――――色んな恐怖が混ざり合って私の肺を締め付ける。
だから、翠宝の優しさに甘えてばかりだった。
さすがに昼に窓から入ってくる訳にはいかないけど、夜は毎日必ず来てくれる。
私が怖くないように。そして、あのことを誰にも知られないように。
私はまだ清いままだから堂々としていなさいと、翠宝は言う。
けれど犯されかけたと言って、純潔のままだと信じられるだろうか?
不美人の上に、汚れた身体なんて……救いようの無い、醜女(しこめ)だわ。
でもこれで縁談なんて無くなるだろう。
それは良いことだ。
諸葛亮様が私を娶らずに済む。
嫌なことでも良いことが一つだけあった。
……そう思いたいのに、胸の痛みが拒絶する。
その理由を、考えたくはなかった。
答えはすでに私の中に在る。それは隠しようの無い事実だけれど、意識したくなかった。
だって認めてどうなる? どうにかするつもりが私自身にないのだから、認めたって無駄になるではないか。
ただ苦しくなるだけなら、そのまま捨て置いてしまおう。
そう、私は思うのに――――。
「――――え、外、に?」
「ええ。少しで良いから、夜を歩きましょう。いつまでも夜に怯えていてはいけないわ。少しずつ散歩の時間を延ばして行けば、きっといつかは平気になる。○○があいつが植え付けた恐怖にいつまでも苛まれるのは、あたしが見ていて腹立たしい。そのうちあいつを刺しに行くかも」
「な……っ」
最後の言葉に私は色を失った。
だけど私の顔を見て彼女は笑い出す。
「あんたが夜が平気になれば良い話よ。だから、ほら。行きましょう。怖いなら手を繋いであげるから」
「……」
差し出された手を見つめ、私は ゆっくりと手を重ねた。
最近よく出入り口扱いをされる窓から抜け出すと、翠宝は周囲を見渡し、私の手を引いて歩き出した。
夜の冷たい空気に触れていると、刺すような冷たさの中にあの時の感触が紛れて蘇る。
無意識に森を見てしまい、一度足を止めて、翠宝に宥められた。
暫く歩いて、翠宝の家近くになった時、今度は翠宝が足を止めた。
「……あ、ごめんなさい。あたし、忘れ物をしてきたわ」
「え? 忘れ物?」
「お菓子を作ったのよ。太ってしまうかもしれないけれど、甘いお菓子を食べた方が木は楽でしょ?」
悪戯っぽく笑う翠宝に、私はつられて笑った。笑えるなんて思っていなくて、意外だった。
心の中で、私を見下していたくせに、と醜い私が悪態をつく。弱っているからそんなことを思うのだと、すぐに戒めた。
確かに、翠宝には酷いことをされた。でもそれは幼さ故の無邪気であればこそ残酷になる優越感があったからだ。大人になってそれを引きずるようなことはしないし、それに翠宝は私に優しくしてくれたこともあった。
幼馴染に対して、なんて下劣なことを思うの。
自己嫌悪に陥りそうになったのを引き留め、私は翠宝の部屋に、私の部屋のそれよりも大きな窓から入った。翠宝が周りの様子を確かめながら、私が先に。
真っ暗な部屋の中、私の足が探りながら床を踏み、二歩進んだその直後、部屋の隅で影が揺れた――――ような気がする。
「翠宝、部屋に誰か――――」
「――――私です。○○殿」
部屋の隅から、穏やかな声が聞こえた。
一瞬、誰だか分からなくて掠れた悲鳴を上げたけれど、「諸葛亮です」とまた穏やかな声がして、肩から力が抜けた。
「諸葛亮様? どうして、翠宝の部屋に諸葛亮様が……」
「あたしがお呼びしたの」
とは、窓の外から。
翠宝を振り返ると、彼女は部屋に入ろうとせず、諸葛亮に「○○をお願いします」と言って立ち去ってしまった。
私も慌てて出ようとするけれど、動かない諸葛亮様の声に止められた。
「翠宝殿から、あなたがあの男に嫌がらせを受けて落ち込まれているとお聞きした」
「え……」
「何をされたのかは絶対に訊かぬようにと釘を刺されました。ですから、もしあなたが不快になるような発言があれば、どうか隠さず言って下さい。そちらに椅子があります。私はここは動きませぬ故、どうぞお座り下さい」
彼の言葉にどきりとしたものの、本当に彼は嫌がらせを受けたことくらいしか教えられていないのだと分かってほっとした。
諸葛亮様の言葉に従い、手探りで椅子を探し、これに腰を下ろした。
「ご迷惑をおかけして、すみません……」
「いえ。あなたの力になりたいと思う心に嘘はありません。あなたがまた笑って下さるのであれば、喜んで協力致しましょう。……と言って、あなたが信じて下さるかは分かりませんが」
「いえ……そのご温情、疑うべくもありません。ですが、やはり……私ごときのことで諸葛亮様を振り回してしまうのは……」
諸葛亮様は、暫し無言だった。
「……あなたは、ご自分をあまりに卑下し過ぎている。あなたは、私などよりも優れた方だと言うのに」
「そんなことはありません。私は、女としての役割を満足に果たせません。私を娶れば、あなたは笑い者になってしまう」
「私は、山奥に一人で暮らしています。それに人の評価を気にするような人間ではない。自分が最低の人間であると、すでに分かっていますから」
「最低の人間だなんて……そんなこと、」
諸葛亮様は、小さく笑われたようだ。
「○○殿が、私の過去の罪を知れば、きっと私を軽蔑なさる」
「そんな……」
「私は幼い頃、戦火の中で妹と弟を見捨てました。自分の保身の為に」
私は息を詰めた。
保身の為に弟妹を見捨てたなんて……戦禍に襲われた経験が無い私にとって、そんな過酷な事実なんて、想像も付かないことだった。
「……あの、諸葛亮様がお嫌でなければ、詳しくお話を聞いても?」
「ええ。どうせ軽蔑されるなら、一だろうと十だろうと、変わりませんから」
そうとは、限らない。
私はそう思った。
だって今、私は嫌悪なんて無い。ただ、残酷な戦火で辛い目に遭った人を前に衝撃を受けただけ。
先の言葉だけを聞いて、諸葛亮様が悪いと、そんな風には全く思えない。
だから、諸葛亮様の様子を気にしつつ、問うた。
諸葛亮様は、嫌がる素振りを見せずに何処か諦めた風情で話し始めた。
諸葛亮様が戦火に巻き込まれるそもそもの発端は、戦でお父様が亡くなられたことだった。
年の離れたお兄様が呉で職に就いていたけれど、お母様しか養う余裕が無く、諸葛亮様と二人の弟妹は叔父様のもとでお世話になることになった。
幼い子供三人で、叔父様のもとへ向かわれたけれど、戦の脅威は足が速い。狂気じみた思念を孕み、幼い子供達を呑み込んでしまった。
どんなにか怖かっただろう。私には想像することも難しい。
混乱極まる中で、必死に逃げた三人。
意識すら瞭然としない極限の状態まで追い詰められた諸葛亮様は、気付けば両手からある筈の感触を感じなくなっていた。
いなかったのだ、二人の弟妹が。
振り返っても誰もいない閑散とした光景に、諸葛亮様は、絶望されたことだろう。
その罪悪感から、戦場にいるとどうしてもそのことが蘇り、発作が起きて最悪気を失ってしまうようになってしまった。
それだけではない。
夢で、当時を追体験しているのだ。
まるで責められるように、弟妹が側からいなくなるところまでを、鮮明に見てしまう。
話すうち、諸葛亮様の声が、僅かに震え出した。
必死に抑えているのが痛々しい。
その声にやはり嫌悪感も何も浮かばない。ただ、過去に苛まれる姿を見て、心から憐れだと思う。
少しでも彼が楽になれるようになれたら――――そう思う私は、身の程知らずだ。
私は戦禍に大切な存在を奪われる苦しみも、その中で必死に生き残る人々の血を吐くような強い思いも分からない。
そんな私が慰めを言って、どれだけの力を持っているだろうか。
自己満足で終わるに決まっている。
分かっているけれど、座っているだけでいられなかった。
「近付いてもよろしいですか?」
「……あなたがよろしいのであれば。ただ、足元に気を付けられて下さい。翠宝殿が邪魔になるような物は先に退かしておられますが」
「ありがとうございます」
諸葛亮様の影はぼんやりと見えている。
私は立ち上がってゆっくりと彼に近寄った。
彼の前に立ち、しゃがみ込む。
「手を」
差し出すと、ややあって探るように動く指先が私の手の甲に触れる。私はその手を両手で包んだ。手は、微かに震えている。ご自身も気が付かれているのだろうか。
「私は、有り難いことに戦禍から免(まぬか)れて生きて参りました」
「それで良い。あなたには、あのような狂気に澱んだ悲しい惨状の中にいて欲しくはありません。出来ることなら、一生安全に暮らしていて欲しい」
優しい人だ。
だから、弟妹の手を離したことで、こんなにも苦しまれている。
だけどこの手は、土砂から一人で抜け出した私を抱き上げて村まで運んで下さった。
その時の力強さは、今でも覚えている。
私は――――私には、何が出来るだろうか。
どうしたら、私にも彼を少しでも楽にしてあげられるだろうか。
両手で包んだ大きな手の震えを感じながら、私は思案する。
暫くして、
「……私があなたに慰めを言ったとて、あなたの心を軽くは出来ないでしょう。むしろ、お怒りになられるでしょうね」
「……いえ、そんなことは」
「諸葛亮様、酷なことをお訊ねすることをお許し下さい。あなたは手を離れた弟さんや妹さんのご遺体を見たのですか?」
「いいえ。何しろそれまでの記憶があやふやでしたから、何処で離れたのかも」
「でしたら、私は、お二人が何処かで生きていることを信じようと思います」
ぴくりと手が反応する。
気を悪くされただろうか。
されど私は言葉を続けた。
「あなたは、お二人の亡くなった姿を見ていない。ならばその可能性も残っていると言うことでしょう。ですから私はあなたがいつかその苦しみから解き放たれるように、何処かで生き延びてあなたを捜していると、信じます。それくらいしか、私などには出来ませんから。お気を悪くしてしまいましたら、申し訳ありません」
「……いえ」
そこで、私の手の上に諸葛亮様の手が乗る。力がこもる。
「あなたのその言葉には、少しだけだが、救われる……。あなたは、守るべき者を守れなかった私を最低と思われるか?」
「いいえ。ただ、苦しむあなたを見て、胸が痛みます。どうかして楽にして差し上げたいですが、私はあなたのような戦で辛い体験をされた方々の心には完全には寄り添えません。無理に寄り添えば偽善と拒まれるかもしれない。それが、とてももどかしくて、悔しいです」
諸葛亮様の手が私の手を撫でた。
「あなたに対して、私は似たような気持ちを抱いています」
「え?」
「翠宝殿が、手紙で教えて下さった。○○殿は自分の所為で女としての自分に自信が無いのだと。私との縁談を拒まれているのも、それが原因だと。……発明などしてご両親に恩返しをして、価値を持ちたいのだろうとも」
私は顎を落とした。
翠宝ったらなんてことを!!
「す、翠宝がそんな勝手なことを……!」
「ですが、先程のあなたの言葉を聞いて、むしろ私にとって過ぎたる人だと感じた。女性の価値観などは男の私には分からないが、それ故に私には勿体無いあなたが不美人だと自ら卑下されている姿は、見ていて耐えられない。だが、あなたに自信をつけさせるような確かな力のある言葉が思い付かない。……元々、人と話すのも得意ではないので」
「え……そんな、まさか、そんなに流暢に話しているのに」
「本当です。実を言えば、最近はあなたと話している間は常に気が張り詰めていた。今もそうだ。あなたに不快に思われぬように。ですから、今ここであなたが思う以上に女性として、人間として、素晴らしい方であると話しても、信じてもらえるか分かりません。それがもどかしくて情けない、と」
私は言葉を返せなかった。
彼の言葉が嬉しいのと、申し訳ないのとで、返す言葉がすぐに出てこなかった。
そんな私に、諸葛亮様は畳みかけるように告げるのだ。
「私は、あなたが好きだ」
「……え」
「正直を言えば、最初はこの縁談はこのままあなたが拒絶し続けて、承彦殿が諦めてくれれば良いと思っていた。承彦殿の不興を買わずに破談になってくれれば、と。あなたが気に入らない訳ではない。ただ、私には誰も守れないと私自身分かっていた。だから、妻など娶れまいと思っていた。だがあなたが家を抜け出して翠宝殿に会いに行った時、私に対して初めて見せた笑みに、ただ単純に惹かれた。……いえ、今となっては、その前からだったのかも分かりません」
「ええと」
「あなたがほぼ同時に目に見えて私を意識しているのが嬉しかった。私に対してのみ浮かぶ表情が愛おしく感じ、優越感さえありました」
恥ずかしいことを言われ、私は逃げようと手を引いた。
しかし諸葛亮様は逆に力を込めて引き寄せてしまう。逃げられなかった。
まだ続くのか、こんな筈じゃなかったのにとぎゅっと目を瞑って俯くと諸葛亮様が一つ深呼吸をする。
「嘘ではないと、信じていただけますか」
「あの、信じると言うか……私こんなつもりではなくて……恥ずかしいので、その、手を放してもらえませんか」
「お断りします」
「えっ」
「まだ、言うべきことを言っておりませんので」
まだあるの!?
私はただ、諸葛亮様が少しでも苦しみが軽くなるようにと思っただけなのに。
私に自信が無いとか、私のことがす、好きだとか……どうしてこんな流れになっているの!?
予想外の流れにばくばくと早鐘を打つ心臓が五月蠅くて堪らない。聞こえているのではないかと思うくらい鼓動は大きい。
「い、言うべきことって……」
「私は無力です。だから戦火に巻き込まれた時、あなたを守れないでしょう。そんな体たらくでありながら分不相応な願いであると蔑んで下さって構いません。どうか、妻として私の傍にいてくれませんか。私には信じられない弟妹の生存を信じるあなたが傍にいてくれれば、私はいつか、前を向いて生きていけるかもしれない」
「その代わり……」諸葛亮様は一旦言葉を止め、一呼吸置く。
「その代わり、私もあなたに自信をつけてもらえる言葉をいつか必ず見つけると約束します」
「諸葛亮様……」
「男として情けないでしょうが、受け入れてはもらえませんか」
情けないとは思わない。
私などのことを好きだと言う彼の言葉を嘘だとも思わない。嘘と思うには、手の力も声も強すぎた。
だけど。
「……諸葛亮様。軽蔑されると思って、私も言います。私は、翠宝の元夫に乱暴されかけました。純潔は失ってはおりませんが、私がここであなたの言葉を受け入れたとしても、その事実を彼は必ず吹聴するでしょう。それも、乱暴したと嘘をついて。ですから、私は誰の妻にもなることは出来ません」
「それでしたら、問題はありません」
「え?」
「酷い仕打ちを受けたとは初耳でしたが、それを聞いてむしろあのような騒動があって良かったと思いました」
「……騒動、ですか?」
諸葛亮様は小さく笑い、
「たまたま劉表様の奥方があなたの母君のもとを訪れておられたので、彼女に協力していただいて劉表様に私との縁談の話をお伝えしていただき、その旨を直接彼にも伝えておきました。その際、どうしてか折良くこの村の女性が夫と共に怒鳴り込んできて、こいつに森で犯されかけたと大層な騒ぎに」
「確かに先日伯母様がいらっしゃったようですが……で、でもそんな騒ぎ、誰が……」
「恐らくは、翠宝殿かと。私に相談してきた時は遠回しで詳細な事情は分からなかったのですが、○○殿の話を聞いて合点が行きました。翠宝殿も、あなたに関してはよく頭の回る方だ。協力してくれた夫婦も、演技の下ではとても楽しんでおられたようで。劉表様の奥方の前でそのような騒ぎを起こして、彼女に厳しい言葉をかけられた今、それを吹聴したとしても誰も信じまい。翠宝殿も奥方によって奪われていた子供を取り戻せたそうです」
「……」
翠宝、刺すよりはまだ良いけれど……それもそれでやり過ぎだと思うわ。子供が戻ってきたのは、嬉しいことだけど。
その時のことを思い出しているのか、諸葛亮様は笑っている。
そしてとても優しい声で、
「あなたは乱暴などされていない。そのような過去は存在しない」
無理矢理に真実に変えられた嘘を言うのだ。
多分、口では偶然居合わせたと言っているけれど、その騒動には諸葛亮様も噛んでいる。
乱暴されかけたと知らないフリをしているのは、私の為なのだろう。
守れないと言っていながら、私を彼から守ってくれているではないか。
あれだけ怖かった夜の闇の中、諸葛亮様といても全く怖くない。翠宝と違って、諸葛亮様は男の人なのに。むしろ、私は彼の存在に翠宝以上に安心している。
言う程無力ではないではないか。
私は俯き、震える声を絞り出した。
「翠宝も、諸葛亮様も、なんて大変なことを……」
「あなたがまた、私に笑みを見せてくれるなら――――いや、私ごときのものとなっていただけるなら。私にとって、あなたにはそれだけの価値がある女性です」
諸葛亮様は力強く断じてしまう。
何処が、男として情けないのだろう。
私に不相応なんて、そんなこと、絶対に無い。
「本当に、そう思われるのですか」
「ええ」
即答だ。
私は手を握る諸葛亮様の手に額を当てた。
「あなたと言う方は……」
私が妻であることにいつか後悔するかもしれませんよ。
涙混じりに言うと、諸葛亮様は笑う。
「それは有り得ませんので、ご心配には及びません。むしろ情けない私にあなたが落胆されることでしょう」
はっきりと、言うのだ。
それこそ有り得ない話だと、私は心の中で返した。
.
- 23 -
[*前] | [次#]
ページ:23/88