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視界も悪いしまともに顔を上げていられないから、何度も木にぶつかりそうになった。
苦心してようやっと辿り着いた川は、まるで巨大な龍が暴れているかのようだった。
轟音を立て、大木や岩をも押し流していくその様は、いつもの、私達に恵みを与えてくれる穏やかな姿とはまるで違う。破壊のみのおぞましい化け物と化していた。
怖い。
私は一瞬呼吸を忘れた。
一歩後退したのを、頬を叩いて上流へと向かった。
上流には小屋がある。誰がいつ建てたか分からない、傾いた小屋が。
翠宝は私にそこへ来るように手紙で指示していた。もしかすると翠宝もそこにいるかもしれない。
上流は危険だ。この様子ではいつあの小屋を呑み込むか分からない。
翠宝は私と同じく水に恐怖を持っている。自分自身にも強がってしまう子だから、恐怖を無理矢理押し込めて小屋に行ったかもしれない。
早く、ここから離れさせないと!
私も翠宝も、あんな目に遭うのは懲り懲りだ。
「……! 翠宝!」
やはり、翠宝は小屋の前に立っていた。自分の身体を抱き締めて、俯いている。
あそこにいるだけでも相当な恐怖がある筈だ。私だって、今すぐにでも幼馴染を置いて逃げてしまいそうな程にあの暴力的な川が怖いのだから。
翠宝は私に気付くと憎らしげに顔を歪めた。
それも諸葛亮様との縁談の所為なのだろうと思った私は、翠宝に駆け寄り、焦る恐怖心を抑えて穏やかに、しかし轟音に負けぬ大声で問いかけた。
「こんな日にこんな所に呼び出してどうしたの? ここは怖いでしょう? 早く帰らないと危ないわ。翠宝。私に何か言いたいことやしたいことがあるなら村で済ませてちょうだい。その方がずっと安全だから」
「……」
「翠宝? 聞いてるの?」
「……のよ」
翠宝は何かを言ったようだ。
でも私には聞き取れず、翠宝の腕を掴んでとにかく急いでその場を離れようとした。
だけど。
「――――どうしてあんたが幸せになるのよ!?」
悲痛な金切り声が鼓膜を貫いた。
翠宝の泣き顔を見たのも一瞬、視界がぐるりと回って小屋の中へ押し飛ばされた。埃や黴(かび)の臭いで噎(む)せた私に、翠宝は半狂乱で罵声を浴びせる。
「醜いくせに!! あんたみたいな醜女なんて、絶対に幸せになりっこないのに……!! どうしてあたしじゃなくてあんたなのよ!」
「翠宝? お願いだから、落ち着いて、」
「あんたがあたしの旦那を誑(たぶら)かさなければこんなことにはならなかったのよ!!」
怒声に、気圧された。
翠宝の乱れた髪が頬に張り付き、口端が笑みの形につり上がった口に入る。
それにも構わず歪(いびつ)で暗い笑みを浮かべる翠宝は私に恨みをぶつけてきた。
「本当はね、あいつはあたしじゃなくてあんたを娶るつもりだったのよ。だけどあんたのみてくれで親に反対されて、仕方なくあたしで妥協したの。あたしを娶ればその繋がりで○○と会える、口説けるって! それが分かって責めたら、あっさりと離縁されたのよ。不美人との繋がりでしかなかったあたしの気持ちが分かる? どんなに惨めだったか!! 浮気されたんじゃない。でもそう言わなきゃ、あたしはもっとっもっと憐れまれて、笑い物にされていたのよ! 不美人より劣るって!!」
「そ、そんな……」
私は絶句した。
信じられない。
初めて知った翠宝の離縁の本当の理由。それに、私が関わっていたなんて。
私の所為で、翠宝が酷い目に遭わされていたなんて。
私は茫然と翠宝を見上げるしか無かった。
「あたしはあんたの所為で惨めな出戻り女にされたわ。でもあんたは、あんたはあんなにも素敵な殿方との縁談があって……恋の駆け引きを楽しんでいるつもり? みくだしていたあたしに今になって復讐する気にでもなったの?」
「違うわ! 私にはそんなつもりなかった。翠宝が私の所為で離縁されていたなんて思わなかったし、それに私はあなたの言う通り、醜い女よ。だから誰にも嫁ぐ気は無かった。一生独り身で村の役に立ちたいって思っていたから、あの縁談を受けなかったの。それに諸葛亮様の品位を貶(おとし)めるでしょうし……」
「そうやって良い子ぶってたら村に居場所が出来るものね。あたしにはもう居場所なんて無いのに」
「……どういうこと?」
翠宝は私を冷たく見下ろし、泣いた。
「叔父に嫁ぐことになったのよ」
愕然。
私は一瞬言葉が詰まった。
「す、翠宝の伯父様って……ちょっと待って、あの人のお歳はもう五十だったわよね?」
「そうよ。もう貰い手が無いから貰ってくれるって言う伯父に嫁げって……拒否権なんか無かったわ」
「そんな! あんまりだわ!」
「だから、あんたの所為でこうなったって言ってるのよ!!」
「翠宝!」
泣き叫ぶ翠宝は扉を乱暴に閉め、閂(かんぬき)をかけてしまった。
扉に飛び付いて翠宝に開けるように頼んでも、感情が昂りすぎて自分でも何をしているのか自覚出来ていないのかもしれない。
私への恨み言を叫びながら、翠宝は走り去っていった。
扉横の歪んだ小窓から翠宝の後ろ姿を見送り、置いていかれた絶望感と、これで翠宝が安全な場所に帰ってくれる安心感が混ざって、私は長い溜息をつきながらその場に座り込んだ。
外から閂をかけるだけの粗末な小屋は、中にいると外から見るより傾いているのが分かる。私が出られそうな大きさの透き間は空いていない。見つけても精々腕が出せる程度で、翠宝を見送った窓もやっと頭が出せる大きさだ。
歩けば床はぎしぎしと、豪雨にも負けない不吉な悲鳴を上げる。不用意に歩き回ると穴が開きそうだ。
壁も床も柱も腐食が見られるし、こんな小屋、突風が吹いただけでも簡単に倒壊してしまうだろう。下手に開けようと暴れれば崩れてしまう。最悪、私は死ぬ。
……いえ、その前にあの濁流に呑み込まれてしまうかしら。
すぐ隣で川が荒れ狂っているかと思うと、ぞっとする。
自分で自分の身体を抱き締め、深呼吸を繰り返した。
私は暫く、その場でただただ川の轟音に怯えていた。
バキバキとゴロゴロと、恐ろしい音が聞こえる度に泣きたくなる。
ひょっとしたら翠宝が後悔して助けに来てくれるのではないか――――いいえ、それだと翠宝が危険だ。彼女は来てはいけないわ。
恐怖に振り回される思考がぐるぐると巡って全く休んでくれない。外からの刺激に過敏に反応してしまう。
今すぐにでも帰りたい。
倒壊の危険があるから駄目だと、恐怖という衝動に身を任せそうな自分を何度も叱咤した。
けれども、今、そんな行動に意味はあるのかと思う自分もいる。
このまま何もせずにいても、川に呑み込まれて死ぬのなら、何の意味の無いこと。
たとえ死に急ぐような真似だとしても、今何もしないよりはもっとましなのではないか。
どちらにしろ死ぬのかもしれないのなら、少しは足掻いた方が良いのではないだろうか。
私はそっと立ち上がった。
心臓が早鐘を打って五月蠅いのは、ここに来る前からだ。すぐ隣で川が荒れ狂っているのが怖くて怖くて仕方がない。
「大丈夫……大丈夫……」
同じ言葉を繰り返して己を宥める。
私や翠宝がこんなにも水――――特に河川が怖いのは、川で死にかけたからだ。
幼い頃、雨の日に、仕掛けを作ったあの地点よりももっと下流の方で二人で川の畔で遊んでいたところ、突然雨が酷くなって、川を上って村に帰る途中鉄砲水に呑み込まれた。
その時運良く助かったのは、お互いがお互いの手をしっかりと掴んでいたから、そして翠宝が岩に必死にしがみついていてくれたからだった。
翠宝よりも私の方が死にかけていた。何日も昏睡状態が続いていて、私が目覚めるまで翠宝が毎日私を見舞ってくれていたのも、お母様から聞いていた。
彼女を嫌いになれないのも、その記憶があるからだ。
私はあの子の優しさを知っている。だから、私が翠宝をあのようにしてしまったことが悔しくて申し訳ない。仮にここで死んでも彼女を恨むことは無い。
ただ、翠宝は無事に帰ってくれただろうか、それが心配だ。
確かめられたら良いのだけれど……出られないんじゃ確かめようが無い。
もし、出られたら……一番に翠宝の無事を確かめないと。
私は扉を見据え、数歩後退した。
腰を低くして腹に力を込めて扉に渾身の体当たりをした。
みしりと嫌な音がして、ぐらりと小屋全体が揺れた。けれども崩れる様子は無い。扉も、開いていない。
なら、もう一度……!
また体当たりすると、今度は手応えがあった。ばきっと音がして扉が僅かに開いた。閂を填める部分がは外れかけているのが見えた。
手を出して閂を上へと持ち上げながら身体で扉を押した。
ぎちぎちと危機感を煽る不穏な音と未だ止まない雨音に心が騒ぐ。
早く開いて!
叫ぶ自身の心を押し殺して私は努めて冷静に扉を開けようと奮闘した。
これ以上は小屋が保たないと冷えた身体がより一層冷えた。
でも私は力を加えるのが止めなかった。
「あと少し……!」
そう言って自分を奮い立たせた、その直後である。
「! きゃ……っ!」
ようやく扉の抵抗が失せた。
私の身体は踏ん張れずに扉が開くと同時に外に投げ出された。
それからはっとして小屋を振り返るも、壊れる様子は無い。
良かった……小屋が倒壊せずに助かった。
胸を撫で下ろし、立ち上がった。
早く、帰らないと……。
また激しい雨に打たれながら、私は歩き出す。
これ、絶対に風邪確定だわ。
翠宝は風邪を引かないと良いけれど。家に戻って、ちゃんと体を温めたかしら。彼女のことが何より心配だった。
嗚呼、そうだわ。お父様に翠宝のことを相談してみよう。もしかしたら叔父様に嫁がずに済むかもしれない。
私の足は自然と早足になった。
恐怖を紛らわせる為、私はなるべく雨や川から意識を逸らした。
完成してもいなかった二つ目の仕掛けも、もう跡形も無く押し流されているに違いない。
また一から作り直しだ。もう男性に手伝ってもらう訳にはいかないから、これからは一人で作ろう。怖いけど、きっと大丈夫。集中していれば、恐怖も紛れる。
どうしてか、そこで諸葛亮様の姿が浮かんだけれど、私はすぐに振り払った。あの方に頼ってどうするの、情け無い。
どう改良するかあれこれ考えて歩くのは、気が楽だ。
作る時も川が間近にあって怖いけど、仕掛けに集中していれば気は紛れた。水仕事の時だって同じ。克服が出来ないと諦めているから、私はそうやって恐怖から意識を逸らしてやり過ごしている。
岩に足を取られながら下りていくと、ようやっと行き慣れた場所が見えてくる。
そこから森に入って村に戻れば良い。
私は安堵感から足を止め吐息を漏らした。
それで気が弛んでしまった。
村へ帰る森の道の左右は、緩やかな斜面になっている。
もう大丈夫だと油断しきっていた私は、豪雨の音の中に明らかに異質な音が響いたのに気付かなかった。
その音を、ただの雷の音だと、間違えてしまったのだ。
異変に気付いて足を止めた時には、もう遅かった。
何が起こったのか完全に理解する前に、私の視界は黒一色に埋め尽くされたのだ。
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