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心の中では私のことを醜いと思っているだろう殿方と、家でも顔を合わせるなんて、気が重いなんてものではない。
お父様は、私が殿方に嫁げる訳がないと、何度言ったら分かって下さるのかしら。
私はこのまま独り身で村に貢献出来たならそれで幸せなのに。
……それも、今日諸葛亮様に奪われてしまったけれど。
私は部屋の隅に置かれた傷だらけの机に近寄った。
この机でお父様の書を読み、色んな道具を作っては失敗を繰り返した。所々に血が付いているのも、失敗で怪我を繰り返したからだ。
机の傷を撫でた私の指は硬い。村の女の子達もそれなりに力仕事や水仕事をしていて荒れてはいるけれど、私程ではない。
年頃の女の子はもうちらほらと嫁いでいる。隣村に嫁いだ子もいる。
昔の話だけれど、彼女達が物影で私を笑っていることがあった。たまたま通りかかって聞いてしまった。
黄承彦様のとこの醜い○○は一生嫁げない。女としての価値は私達の方が勝っている。
黄承彦様もお可哀想に。
私もその通りだと思った。
異国からやってきた私を拾ってくれた両親に、子供を見せてあげることも出来ない。
女ではなく男であれば、まだ良かった。ましだった。
私に出来ることは、皆の暮らしを楽にする道具や設備を
作って、改良を繰り返していくだけなのだ。
私はこの村を出て行くことなんて有り得ない。
まして、私が嫁いで行くなんて……絶対に無いわ。娶る人間がいる筈がないもの。
諸葛亮様にはこの縁談を早く断っていただかないといけない。
「明日……お願いしてみようかしら」
一人呟いて、私は机から離れた。
‡‡‡
翌朝は、良く晴れた。昨日の土砂降りが嘘にようにからりとした青空に雲一つ無く、涼しい風が身体を優しく撫でていく。
地面はぬかるんで歩きにくそうだけど、この天気なら夕方には乾いてくれるだろう。
今日は近くの森を流れる川に設置した魚を捕る仕掛けの様子を確かめに行こう。昨日の土砂降りで水位が上がっているだろう。損傷があったら修理しなければならない。
そう思って、汚れても構わない服を着て、一人森へ出かけようと部屋を出た。
けれども。
「出掛けられるのであれば、同道させていただいても?」
たまたま玄関お母様と談笑しておられた諸葛亮様が私に気が付いた。
そう申し出た彼を、私は愛想も無く拒んだ。
「お断りします」
「あら、良いじゃない。諸葛亮様の知恵をお借りしなさいよ。あなたの旦那様になる方なのよ」
「お母様! 冗談は止して下さい。そんなこと有り得ませんし、私もお受けする気は毛頭ございません」
はっきりと断じると、お母様は至極残念そうに眦を下げた。
諸葛亮様は無言で、無表情に私を見つめているだけ。
私は顔を逸らし、二人の脇を通過して家を出た。
早足に進んでいると諸葛亮様がいつの間にか追い付いてくる。隣を涼しい顔で歩いているのが腹立たしい。
「諸葛亮様。私はお断りしたばかりの筈ですが」
「私は○○殿について知りたいが故にこの村に通っている。あなたを娶るとことに対して、私に異論はありません」
「有り得ません」
「何故そのように断じるのです」
「己の醜さを知っているが故のことです。私の見てくれは人とはまるで違います。肌は黒く、髪は赤く……異形と言われても仕方のない姿の女を娶れば夫の格が下がりましょう。お父様の我が儘で諸葛亮様の評価に泥を塗りたくはありません。どうか、諸葛亮様の方からお断り下さいまし」
私はもう、独り身で生きていくつもりでいますから。
冷たくあるように振る舞い突き放して、私は村を抜けた。
村人達もよく恵みを分けてもらう森に入り、川のある奥を目指した。
諸葛亮様は、まだついてくる。
何なの……この人。
本気で私を娶るつもりなの?
嘘でしょう。そうに決まっているわ。
不美人を嫁にしても良いなんて鷹揚な殿方はいる訳がないわ。
そうよ。
だからこの人も――――。
「あ……っ!」
「これは……酷い」
川に到着した私は、諸葛亮様を気にかけていられない程に驚いた。
昨日の土砂降りの所為で川の水位は上がってしまっている。予想はしていたけれど、それ以上だ。
泥が混じって濁った水が、まるで無数の蛇が折り重なり一斉に進んでいるかのように下流に向かって流れていく。仕掛けも見えないから、流されてしまったのだろう。
その光景を眺めていると呑み込まれていきそうで、鳥肌が立った。
激しい水の流れを怖いと感じてしまうのは、未だに残る恐怖の所為だ。
この中に、私は一度だけ呑み込まれ、死にかけた。
あの時の痛みと恐怖は今でも忘れられない。
思わず一歩後退すると、後ろに立っていた諸葛亮様にぶつかってしまい、倒れかけたのを彼の腕に支えられた。咄嗟にしがみついてしまった。
すぐに離れようとするけれど、足を載せた岩が転がってしまって今度は諸葛亮様に腕を捕まれ引き寄せられた。
「大丈夫ですか、○○殿」
「だ、大丈夫です。大丈夫ですから……」
そう言うと、彼は私の顔を見て、暫く思案するように沈黙する。
異性と密着して間近で見つめられるなど、生まれて初めてのこと。顔を逸らし、私は諸葛亮様から強引に離れた。
それに、醜い私の顔など、長時間見れるものではない。
背を向けて川に近付こうとするけれど、諸葛亮様はまた私の腕を掴んで引き留める。
「危険です。仕掛けの確認は、水位が下がってからの方がよろしいのでは」
「……分かっています。ただ、視認するだけです」
「ならばここまでです」
いきなり、強い口調で言う。
私は面食らって動きを止めた。まるで叱られているかのような語気に戸惑った。
危険だから川に近付くな……なんて。
まるで私を心配しているような言い方ではないか。
この人は、私を娶ることに異論は無いと言った。
でも私はそんな言葉など信じてはいない。
だって、有り得ないもの。
私みたいな醜女をあっさりと受け入れることが出来るなんて。
諸葛亮様を振り返り、いつだって冷静な表情を凝視する。
彼は私を見つめ返した。堂々としている姿に、私はまた戸惑った。
視線を川に戻すと、
「……○○殿」
「何ですか」
「あなたは異国の方だと伺いました」
一瞬だけ動揺した。
けれどすぐに、お父様が話したのだと察しが付いて落ち着いた声を返せた。
「ええ。そうです。……まさか物珍しさから私などを娶ろうなどと?」
「であれば、時間をかけてあなた個人を知りたいとは思わないでしょう。そもそも、娶る選択肢は消える」
私はまた諸葛亮様を振り返った。
「ならば何故? 嘘までついてお父様にお気を遣われる必要は無いのでは?」
「まだ信じては下さらないのですね」
「信じればあなたは程度の酷い物好きになりますよ」
「それであなたを娶ることを容認していただけるのなら構いません。私は隠遁生活の身。他人にどう思われようと気にする必要も無い」
嘘だ。
絶対に嘘。
信じてはいけない。
私は逃げるように諸葛亮様から離れた。川には近付かないように、横に移動する。
「あなたがそうまでして娶るような女ではありません」
「それは、私が決めることです」
「私にも選ぶ権利はあるでしょう」
「これは驚きました。心に決めた者が?」
「……いる訳がないでしょう。とにかく、私はあなたにも、誰にも嫁ぎません。どうかあなたからお断り下さいませ」
私は強く言った。
けれど、諸葛亮様ときたら……。
「お断りします」
あくまで私を娶るつもりなの?
思わず溜息が漏れた。
「……ああ、もう……どうして……」
「こちらには、この縁談をお断りする理由がありませんので」
ここまで嘘をつかれ続けると、さすがに苛立ちも芽生えてくる。
信じるものか。
私は絶対に、その言葉を信じない。信じてなるものですか。
「村に戻ります」
「分かりました」
私は早足に村へと戻った。
諸葛亮様は、ずっと私の側にいた。
まだ独身の同い年の子や、年頃の若い娘達は、諸葛亮様と並んで歩く醜女を恨めしそうに睨んでくる。きっと今、私はあの子達の顰蹙(ひんしゅく)を買い占めているのだろう。
でも私だって好きで一緒にいるのではない。彼が、ついてくるのだ。
途中、何度も何度もついてくるなと言ったのに、彼は頷いてはくれなかった。
家に帰るまで、ずっと一緒で、それだけの間諸葛亮様に気がある子達には睨まれ続けていた。
‡‡‡
諸葛亮様は、その日のうちに帰って行った。
それから暫くは、彼がここに来ることは無かった。
それに私はほっとし、両親は残念がった。その間に嫌気が差していてくれるなら万々歳だ。
来なくなってから村の娘達がつまらなそうなのはあからさまだった。
私が諸葛亮様と一緒に歩くことは気に食わないくせに、私が素っ気なく接するから来なくなったのだと、勝手な不満を視線に乗せてぶつけてくる。
彼女達の中でも特に、幼馴染の翠宝(すいほう)からの当たりが強かった。
隣村に嫁いだ翠宝は、余所の女性と浮気した夫から一方的に離縁され、子供も取り上げられて単身村に戻ってきた。
一時、村の若い娘達から笑い物にされてしまったことが、彼女の心に深い傷を作った。
傷は翠宝を卑屈にさせてしまった。
昔から醜い私に対して何に於いても見下す子ではあったけれど、諸葛亮様との縁談が持ち上がってからはそれがもっと酷くなっていった。辛辣な言葉のみならず、手の込んだ嫌がらせを受けることもあったけれど、諸葛亮様の件で嫌がらせの方がぐんと増えた。
諸葛亮様が来ない間はずっと、両親の見えないところで手痛い嫌がらせを受けた。
何処からともなく短剣が飛んできたり、すれ違い様腕を抓られたり、足を引っかけられたり……ほとんどは子供っぽいけれど、たまに命に関わるものだったりする。
翠宝の様子が最近おかしいことは、私も分かっている。
私は彼女を責めることはしなかった。
幼馴染で、小さい頃は翠宝だけが私と遊んでくれた。悪いものを側に置くことで自分を良く見せる、子供の打算があったとしても、とても嬉しかった。その事実は変わらない。
だから私が翠宝を嫌うことも、恨むことも決して無い。
根が優しいけれど意地っ張りな、可愛い子なのは私も知っているもの。
いつかの時よりも酷い豪雨に屋内の音さえ呑み込まれる朝、翠宝が手紙で私を呼び出したのも、嫌がらせをする為だと分かり切っていた。
でも、私は手紙を見てすぐに、再び仕掛けを作り直していたあの川へと、家を抜け出て大急ぎで向かった。
豪雨でぬかるんだ道に足を取られながら、森の中を進む。腐葉土は雨水をたっぷり吸い込み、容量を超えた雨水は幾つもの川を作って流れていく。
これでは何をしても無駄だろうと一切雨避けをしていない私は、村を出る前には全身がぐっしょりだった。重たい衣服が身体に張り付いて何とも気持ち悪いし歩きにくい。
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