※流血表現あります。



 もう覚えていない小さな小さな頃に、私はお父様に拾われたらしい。
 私は異国の人間らしいけど、私にはどの国に生まれたか分からない。両親の顔すら覚えていない。
 だから私にとっては、実の娘として育ててくれた今のお父様達が本当の両親だった。

 されど私は醜い娘だった。
 赤毛で、肌が人と比べてとても黒いのだ。
 女として、嫁いでもしっかり夫を支えられるようにお母様から妻としての心得や知恵を学んでも、村の男達は私を敬遠し、女達は私の見てくれを憐れんだ。

 河南の黄承彦(こうしょうげん)の娘は、頭は良かれど不美人。

 私の年頃には他の土地でも噂されるようになり、私は、夫を持つことを早々に諦めた。
 女としての役目を全う出来ない私が、どうやってお父様達に親孝行出来るだろう。

 答えは、勉学だった。

 お父様の書物を毎日沢山読んで、読んで、夜遅くまで読み耽った。
 そのお陰で官吏顔負けの頭だと両親から褒められた。

 更に、得た知識を利用して村の暮らしの負担を軽減する為の装置を何日も徹夜して考え、男手を借りて設置したり、農作業が難しくなった高齢の人々の為に試行錯誤を何百と繰り返して道具を開発したりした。

 その甲斐あって、村の暮らしは前よりも良くなってくれた。

 村の人々がとても喜んでくれた。

 お婆さんのありがとうという短いが温かくて柔らかな言葉を嬉しいと感じたその瞬間に、私自身に価値が生まれた。

 それから、私は夢中になって村の為に色んなことを考え、形にした。
 何千回失敗を繰り返しても、それは成功の為には仕方の無い障害だ。怖くもないし、落ち込んだりしない。むしろ失敗から原因を突き止めればまた成功に近付ける。それが嬉しい。

 私は、困っている人を助けてあげたい。

 私は不美人で、嫁ぐ宛は無い。
 でも、私だって村の役に立てた。
 沢山沢山、『ありがとう』を貰えた。

 私は、それで良かった。

 なのに――――。


「○○。こちらは、諸葛亮殿。私などはとても足元にも及ばぬ才覚をお持ちの方だ」


 その日は、爽やかに晴れ渡った、身も心も心地よい日だった。
 外に出ていつも通り畑や井戸の装置を点検していると、お母様に呼び戻された。

 何事かと思えば、突然お父様に男の人を紹介された。


「諸葛亮殿。私の娘、○○だ。どうだ、どうか嫁に貰ってはくれまいか」

「え?」


 聞き間違いか、と思った。
 けれど、周りの音は確かに聞こえている。私の耳は多分正常だ。

 ならば、本当にお父様はこの人に私を……?

 諸葛亮様は私の目から見てもとても素敵な殿方だ。すっきりとした目鼻立ちは、思慮深そうな眼差しで冷たい印象を受けるけれど、世の女性はきっと放っておかない。
 私なんかよりも、もっと容姿に恵まれた、器量の良い女性が似合う人だ。
 だから私はお父様を諌めた。


「お父様、そんなご無礼を申されては、」

「……私のような未熟者に、勿体ないお話です。黄承彦殿のお言葉なれば、拒むこともございません。有り難くお受け致しましょう」

「え?」


 予想外だった。
 私の言葉を遮って、諸葛亮様は仰った。落ち着き払った彼の声は静かで澱みが無い。澱みが無いということは、後ろめたい気持ちが無くすんなりと発した言葉だということ。
 まさか……嘘では、ない……?
 いや、そんなことは無い。
 『有り難くお受けします』なんて、私のような醜女(しこめ)を相手に言える訳がない。村人の言葉を借りるなら、『黄承彦の娘を貰う男の目は節穴見る目無し』だ。とても正気とは思えない。

 私は呆気に取られた自分を叱咤した。信じるな、この後にきっとやんわりと断られる筈だ。
 いいえ、絶対そうに決まっているわ。

 私は、醜女なのだから――――。


「ですが、」


 ああ、ほら。
 やっぱりそうなんだ。
 私はほっとした。

 その、次の瞬間だ。


「妻とするには私は○○殿のことを剰(あま)りに知りません。人となりを知らずに夫婦になるのは○○殿に失礼というもの。ですので暫しお時間をいただきたい。彼女と接し、その上で妻としてお迎え致したい」

「な……」


 絶句。
 言葉が出ない。
 いえ……いいえ、これはあれだ、お父様に気を遣われているのだわ。そうに違い無い。


「おお、そう言ってくれるか。安堵した。父として誇らしい程に才知に溢れど、この見てくれの為に不美人と不名誉な評価がついてしまった○○のことが、私達夫婦の一番の心配事でな」

「お、お父様……! いけません!」


 私はお父様の前に出て強く諌めた。

 お父様はきょとんとされている。


「この私が嫁げば、諸葛亮様の恥となります! それが分かっていながら私は従えません!」

「しかし○○、諸葛亮殿は快い返事を下さったではないか」

「お父様! 諸葛亮様がお父様に気を遣われているとどうかお察し下さい!」


 私が殿方と夫婦になれる筈がない。
 それに私はこの村を離れたくない。
 まだまだ開発して村の役に立ちたいし、装置や道具の点検もしなければならないし、それらには改良の余地がある。
 私は必死でお父様を止めた。

 そんな私を止めたのは諸葛亮様だ。
 「失礼ながら」と私の肩に手を置き、


「○○殿。先程の言葉に嘘偽りはありません」

「諸葛亮様。良いのです。どうか、正直に仰って下さいまし。お父様との関係が悪化するなどと不安がございましたらば、そのようなことは有り得ませぬ故。才覚溢れた諸葛亮様ならばあなたを望まれる方々が大勢いらっしゃいます。妻が不美人であることだけでも、その士官の機を逃すこととなりましょう」


 身体ごと向き直ると、諸葛亮様は困ったようなお顔で私を見下ろしている。

 私は深々と頭を下げ、父の我が儘を詫びた。


「父の非礼、何とぞお忘れ下さいまし」

「……」

「○○」

「お父様は諦めて下さい」


 私は強く言って、まだ何か言いたげな父を咎めた。
 そして取り敢えずは、そのまま我が家に諸葛亮様にお泊まりいただくこととして、私は話を無理矢理に終わらせたのだった。



‡‡‡




 話は終わった。
 私は、そう思っていた。

 だけど――――。


「ご無沙汰しております、○○殿」

「……」


 私は無言で頭を下げ足早にその場を立ち去った。
 後ろからついてくる諸葛亮様の気配に苛立ちながら、村中の設備や道具の点検をして回る。

 諸葛亮様は月に何度もお父様を訪れるようになった。
 けれど目的はお父様ではなく、何故か私。
 彼が現れるであろう日には、必ず外出をして誰にも行き先が分からないように気を付けているというのに、彼は簡単に私を見つけてしまう。

 本当に、お父様に仰っていたことを実行しているおつもりなのかしら……。
 本気で私のことを知ろうとしている? ……有り得ないわ。
 私は、異国の人間らしい。だからこそこの見た目なんだ。この国の美人像とは天と地底程にかけ離れている自覚がある。

 だのに……この人と来たら。
 私をすぐに見つけ出しては隣に並び、私に何度も話しかけてくるのだ。
 何度も何度も繰り返されると、さすがに苛立ちもする。

 この人は何を考えていらっしゃるの?
 分からない。諸葛亮様のお考えになることが、私には憶測すら出来ない。
 醜女を妻に迎えるなど、あなたには絶対に出来ないでしょうに。
 諸葛亮様だって、立派な殿方だもの。好み一つや二つくらい、ある筈だわ。


「○○殿」

「……何でしょう」

「じきに雨が降ります。今のうちに家に戻られては」

「……私は、雨に濡れるくらい……どうということもありませぬ。それよりも今日予定していた点検を全て終わらせなければなりませんので、お戻りになるならばどうぞ諸葛亮様お一人で」


 けんもほろろに返せば、きっと彼も良い気はしない。
 そのまま私のことなど放っておいてくれれば良い。
 そう思うからいつも私は諸葛亮様に対して冷たい態度を心掛ける。
 私の態度に苛立てば彼もいつか嫌気が差すか、もしくは本心を露わにするかもしれない。どちらに転がっても上手く利用して結婚話を取り消せる。

 私は、諸葛亮様を振り返らずに灌漑(かんがい)を効率的にする装置の点検を進めた。
 この後は数件の家を回って道具の点検もしなければならない。

 装置の点検に集中しているうちに、諸葛亮様の姿は無くなっていた。そのことに気が付いたのは点検を終えた後のこと。
 やっと家に戻ってくれたのだわ。
 私はほっとして、移動した。

 だけど、諸葛亮様は、私の予想を裏切っていた。


「あら、○○ちゃん。今ね、諸葛亮様が点検をして下さいましたよ」

「は……?」


 私は顎を落とした。
 あの人が、点検をした……?


「あの! 見せてもらっても構いませんか?」

「ああ。良いよ。……ほら、これさ」


 お婆さんに差し出された私が作った道具。背が低く腕が上がらないお婆さんが木に生った実を簡単に取れるように作ってあげた長い柄を持たせた鋏だ。柄の中に先の鋏の刃と連結させた、バネを取り付けた細い鉄の棒が通っていて、持ち手の取っ手を手前に引くと鋏が閉じてヘタを切断するようになっている。
 今後、軽量化と取っ手の引きやすさ、ヘタを切った後もそのまま実を持つ細工を施すつもりだ。

 確認すると、点検があったのはどうやら事実のようだ。
 所々今回の点検で調整しようとしていた箇所が、在るべき状態に戻っているのだ。
 嘘でしょう……どうしてあの人がそんなことを? しかも初めてだろうに、こんなに手際良く……。
 感心よりも敗北感が勝る。

 唇を噛むと、お婆さんはきょとんとして、


「どうしたんだい? ○○ちゃん」

「あ……いいえ。何でもありません。それじゃあ、次の家に回りますね」

「その必要はありません」


 背後から会話に入ってきたのは諸葛亮様だ。声ですぐに分かった。
 自分の顔が強張るのが分かった。ゆっくりと振り返り、きっと涼しい顔の諸葛亮様を睨み付ける。


「私の方で全て終わらせておきました」

「何故そのようなことを……あなたは父の客人です。あなたにそのようなことをさせる訳には参りません」

「私がしたいからしたのです。もうじき雨雲が来るでしょう。早く家に戻りましょう」


 生き甲斐を奪われた気がした。
 他人からすればこの程度で、と思われるかもしれないけれど、私にとってはこの程度のことでも大変なことなのだ。
 私は、お婆さんに頭を下げ、足早に諸葛亮様の横を通過した。

 大股に歩いて家へと帰る。
 諸葛亮様は、それからやや遅れて家に入ってきた。

 諸葛亮様をお父様に任せ、私は自室に引きこもる。
 雨は止まない。むしろ激しくなる一方である。この分では明日まで続きそうだ。
 雨を見たくなくて、窓枠の上部に蝶番で取り付けた板を、壁に垂直に支える棒を外して下ろし窓を塞いだ。下部には風で揺れないように板を固定する金具がある。

 お父様はきっと、諸葛亮様に泊まっていけと仰るだろう。
 心の中では私のことを醜いと思っているだろう殿方と、家でも顔を合わせるなんて、気が重いなんてものではない。

 お父様は、私が殿方に嫁げる訳がないと、何度言ったら分かって下さるのかしら。
 私はこのまま独り身で村に貢献出来たならそれで幸せなのに。
 ……それも、今日諸葛亮様に奪われてしまったけれど。

 私は部屋の隅に置かれた傷だらけの机に近寄った。
 この机でお父様の書を読み、色んな道具を作っては失敗を繰り返した。所々に血が付いているのも、失敗で怪我を繰り返したからだ。
 机の傷を撫でた私の指は硬い。村の女の子達もそれなりに力仕事や水仕事をしていて荒れてはいるけれど、私程ではない。

 年頃の女の子はもうちらほらと嫁いでいる。隣村に嫁いだ子もいる。
 昔の話だけれど、彼女達が物影で私を笑っていることがあった。たまたま通りかかって聞いてしまった。

 黄承彦様のとこの醜い○○は一生嫁げない。女としての価値は私達の方が勝っている。
 黄承彦様もお可哀想に。

 私もその通りだと思った。
 異国からやってきた私を拾ってくれた両親に、子供を見せてあげることも出来ない。
 女ではなく男であれば、まだ良かった。ましだった。
 私に出来ることは、皆の暮らしを楽にする道具や設備を
作って、改良を繰り返していくだけなのだ。

 私はこの村を出て行くことなんて有り得ない。
 まして、私が嫁いで行くなんて……絶対に無いわ。娶る人間がいる筈がないもの。
 諸葛亮様にはこの縁談を早く断っていただかないといけない。


「明日……お願いしてみようかしら」


 一人呟いて、私は机から離れた。



‡‡‡




 翌朝は、良く晴れた。昨日の土砂降りが嘘にようにからりとした青空に雲一つ無く、涼しい風が身体を優しく撫でていく。
 地面はぬかるんで歩きにくそうだけど、この天気なら夕方には乾いてくれるだろう。

 今日は近くの森を流れる川に設置した魚を捕る仕掛けの様子を確かめに行こう。昨日の土砂降りで水位が上がっているだろう。損傷があったら修理しなければならない。
 そう思って、汚れても構わない服を着て、一人森へ出かけようと部屋を出た。

 けれども。


「出掛けられるのであれば、同道させていただいても?」


 たまたま玄関お母様と談笑しておられた諸葛亮様が私に気が付いた。

 そう申し出た彼を、私は愛想も無く拒んだ。


「お断りします」

「あら、良いじゃない。諸葛亮様の知恵をお借りしなさいよ。あなたの旦那様になる方なのよ」

「お母様! 冗談は止して下さい。そんなこと有り得ませんし、私もお受けする気は毛頭ございません」


 はっきりと断じると、お母様は至極残念そうに眦を下げた。
 諸葛亮様は無言で、無表情に私を見つめているだけ。

 私は顔を逸らし、二人の脇を通過して家を出た。

 早足に進んでいると諸葛亮様がいつの間にか追い付いてくる。隣を涼しい顔で歩いているのが腹立たしい。


「諸葛亮様。私はお断りしたばかりの筈ですが」

「私は○○殿について知りたいが故にこの村に通っている。あなたを娶るとことに対して、私に異論はありません」

「有り得ません」

「何故そのように断じるのです」

「己の醜さを知っているが故のことです。私の見てくれは人とはまるで違います。肌は黒く、髪は赤く……異形と言われても仕方のない姿の女を娶れば夫の格が下がりましょう。お父様の我が儘で諸葛亮様の評価に泥を塗りたくはありません。どうか、諸葛亮様の方からお断り下さいまし」


 私はもう、独り身で生きていくつもりでいますから。
 冷たくあるように振る舞い突き放して、私は村を抜けた。
 村人達もよく恵みを分けてもらう森に入り、川のある奥を目指した。

 諸葛亮様は、まだついてくる。
 何なの……この人。
 本気で私を娶るつもりなの?
 嘘でしょう。そうに決まっているわ。

 不美人を嫁にしても良いなんて鷹揚な殿方はいる訳がないわ。
 そうよ。
 だからこの人も――――。


「あ……っ!」

「これは……酷い」


 川に到着した私は、諸葛亮様を気にかけていられない程に驚いた。
 昨日の土砂降りの所為で川の水位は上がってしまっている。予想はしていたけれど、それ以上だ。
 泥が混じって濁った水が、まるで無数の蛇が折り重なり一斉に進んでいるかのように下流に向かって流れていく。仕掛けも見えないから、流されてしまったのだろう。

 その光景を眺めていると呑み込まれていきそうで、鳥肌が立った。
 激しい水の流れを怖いと感じてしまうのは、未だに残る恐怖の所為だ。
 この中に、私は一度だけ呑み込まれ、死にかけた。
 あの時の痛みと恐怖は今でも忘れられない。
 思わず一歩後退すると、後ろに立っていた諸葛亮様にぶつかってしまい、倒れかけたのを彼の腕に支えられた。咄嗟にしがみついてしまった。

 すぐに離れようとするけれど、足を載せた岩が転がってしまって今度は諸葛亮様に腕を捕まれ引き寄せられた。


「大丈夫ですか、○○殿」

「だ、大丈夫です。大丈夫ですから……」


 そう言うと、彼は私の顔を見て、暫く思案するように沈黙する。
 異性と密着して間近で見つめられるなど、生まれて初めてのこと。顔を逸らし、私は諸葛亮様から強引に離れた。
 それに、醜い私の顔など、長時間見れるものではない。
 背を向けて川に近付こうとするけれど、諸葛亮様はまた私の腕を掴んで引き留める。


「危険です。仕掛けの確認は、水位が下がってからの方がよろしいのでは」

「……分かっています。ただ、視認するだけです」

「ならばここまでです」


 いきなり、強い口調で言う。

 私は面食らって動きを止めた。まるで叱られているかのような語気に戸惑った。
 危険だから川に近付くな……なんて。
 まるで私を心配しているような言い方ではないか。

 この人は、私を娶ることに異論は無いと言った。
 でも私はそんな言葉など信じてはいない。
 だって、有り得ないもの。
 私みたいな醜女をあっさりと受け入れることが出来るなんて。

 諸葛亮様を振り返り、いつだって冷静な表情を凝視する。
 彼は私を見つめ返した。堂々としている姿に、私はまた戸惑った。

 視線を川に戻すと、


「……○○殿」

「何ですか」

「あなたは異国の方だと伺いました」


 一瞬だけ動揺した。
 けれどすぐに、お父様が話したのだと察しが付いて落ち着いた声を返せた。


「ええ。そうです。……まさか物珍しさから私などを娶ろうなどと?」

「であれば、時間をかけてあなた個人を知りたいとは思わないでしょう。そもそも、娶る選択肢は消える」


 私はまた諸葛亮様を振り返った。


「ならば何故? 嘘までついてお父様にお気を遣われる必要は無いのでは?」

「まだ信じては下さらないのですね」

「信じればあなたは程度の酷い物好きになりますよ」

「それであなたを娶ることを容認していただけるのなら構いません。私は隠遁生活の身。他人にどう思われようと気にする必要も無い」


 嘘だ。
 絶対に嘘。
 信じてはいけない。
 私は逃げるように諸葛亮様から離れた。川には近付かないように、横に移動する。


「あなたがそうまでして娶るような女ではありません」

「それは、私が決めることです」

「私にも選ぶ権利はあるでしょう」

「これは驚きました。心に決めた者が?」

「……いる訳がないでしょう。とにかく、私はあなたにも、誰にも嫁ぎません。どうかあなたからお断り下さいませ」


 私は強く言った。

 けれど、諸葛亮様ときたら……。


「お断りします」


 あくまで私を娶るつもりなの?
 思わず溜息が漏れた。


「……ああ、もう……どうして……」

「こちらには、この縁談をお断りする理由がありませんので」


 ここまで嘘をつかれ続けると、さすがに苛立ちも芽生えてくる。
 信じるものか。
 私は絶対に、その言葉を信じない。信じてなるものですか。


「村に戻ります」

「分かりました」


 私は早足に村へと戻った。

 諸葛亮様は、ずっと私の側にいた。
 まだ独身の同い年の子や、年頃の若い娘達は、諸葛亮様と並んで歩く醜女を恨めしそうに睨んでくる。きっと今、私はあの子達の顰蹙(ひんしゅく)を買い占めているのだろう。

 でも私だって好きで一緒にいるのではない。彼が、ついてくるのだ。
 途中、何度も何度もついてくるなと言ったのに、彼は頷いてはくれなかった。

 家に帰るまで、ずっと一緒で、それだけの間諸葛亮様に気がある子達には睨まれ続けていた。



‡‡‡




 諸葛亮様は、その日のうちに帰って行った。

 それから暫くは、彼がここに来ることは無かった。
 それに私はほっとし、両親は残念がった。その間に嫌気が差していてくれるなら万々歳だ。

 来なくなってから村の娘達がつまらなそうなのはあからさまだった。
 私が諸葛亮様と一緒に歩くことは気に食わないくせに、私が素っ気なく接するから来なくなったのだと、勝手な不満を視線に乗せてぶつけてくる。

 彼女達の中でも特に、幼馴染の翠宝(すいほう)からの当たりが強かった。

 隣村に嫁いだ翠宝は、余所の女性と浮気した夫から一方的に離縁され、子供も取り上げられて単身村に戻ってきた。
 一時、村の若い娘達から笑い物にされてしまったことが、彼女の心に深い傷を作った。

 傷は翠宝を卑屈にさせてしまった。
 昔から醜い私に対して何に於いても見下す子ではあったけれど、諸葛亮様との縁談が持ち上がってからはそれがもっと酷くなっていった。辛辣な言葉のみならず、手の込んだ嫌がらせを受けることもあったけれど、諸葛亮様の件で嫌がらせの方がぐんと増えた。

 諸葛亮様が来ない間はずっと、両親の見えないところで手痛い嫌がらせを受けた。
 何処からともなく短剣が飛んできたり、すれ違い様腕を抓られたり、足を引っかけられたり……ほとんどは子供っぽいけれど、たまに命に関わるものだったりする。

 翠宝の様子が最近おかしいことは、私も分かっている。

 私は彼女を責めることはしなかった。
 幼馴染で、小さい頃は翠宝だけが私と遊んでくれた。悪いものを側に置くことで自分を良く見せる、子供の打算があったとしても、とても嬉しかった。その事実は変わらない。
 だから私が翠宝を嫌うことも、恨むことも決して無い。
 根が優しいけれど意地っ張りな、可愛い子なのは私も知っているもの。

 いつかの時よりも酷い豪雨に屋内の音さえ呑み込まれる朝、翠宝が手紙で私を呼び出したのも、嫌がらせをする為だと分かり切っていた。

 でも、私は手紙を見てすぐに、再び仕掛けを作り直していたあの川へと、家を抜け出て大急ぎで向かった。
 豪雨でぬかるんだ道に足を取られながら、森の中を進む。腐葉土は雨水をたっぷり吸い込み、容量を超えた雨水は幾つもの川を作って流れていく。

 これでは何をしても無駄だろうと一切雨避けをしていない私は、村を出る前には全身がぐっしょりだった。重たい衣服が身体に張り付いて何とも気持ち悪いし歩きにくい。
 視界も悪いしまともに顔を上げていられないから、何度も木にぶつかりそうになった。

 苦心してようやっと辿り着いた川は、まるで巨大な龍が暴れているかのようだった。
 轟音を立て、大木や岩をも押し流していくその様は、いつもの、私達に恵みを与えてくれる穏やかな姿とはまるで違う。破壊のみのおぞましい化け物と化していた。

 怖い。
 私は一瞬呼吸を忘れた。
 一歩後退したのを、頬を叩いて上流へと向かった。
 上流には小屋がある。誰がいつ建てたか分からない、傾いた小屋が。

 翠宝は私にそこへ来るように手紙で指示していた。もしかすると翠宝もそこにいるかもしれない。
 上流は危険だ。この様子ではいつあの小屋を呑み込むか分からない。
 翠宝は私と同じく水に恐怖を持っている。自分自身にも強がってしまう子だから、恐怖を無理矢理押し込めて小屋に行ったかもしれない。

 早く、ここから離れさせないと!
 私も翠宝も、あんな目に遭うのは懲り懲りだ。


「……! 翠宝!」


 やはり、翠宝は小屋の前に立っていた。自分の身体を抱き締めて、俯いている。
 あそこにいるだけでも相当な恐怖がある筈だ。私だって、今すぐにでも幼馴染を置いて逃げてしまいそうな程にあの暴力的な川が怖いのだから。

 翠宝は私に気付くと憎らしげに顔を歪めた。
 それも諸葛亮様との縁談の所為なのだろうと思った私は、翠宝に駆け寄り、焦る恐怖心を抑えて穏やかに、しかし轟音に負けぬ大声で問いかけた。


「こんな日にこんな所に呼び出してどうしたの? ここは怖いでしょう? 早く帰らないと危ないわ。翠宝。私に何か言いたいことやしたいことがあるなら村で済ませてちょうだい。その方がずっと安全だから」

「……」

「翠宝? 聞いてるの?」

「……のよ」


 翠宝は何かを言ったようだ。
 でも私には聞き取れず、翠宝の腕を掴んでとにかく急いでその場を離れようとした。

 だけど。


「――――どうしてあんたが幸せになるのよ!?」


 悲痛な金切り声が鼓膜を貫いた。

 翠宝の泣き顔を見たのも一瞬、視界がぐるりと回って小屋の中へ押し飛ばされた。埃や黴(かび)の臭いで噎(む)せた私に、翠宝は半狂乱で罵声を浴びせる。


「醜いくせに!! あんたみたいな醜女なんて、絶対に幸せになりっこないのに……!! どうしてあたしじゃなくてあんたなのよ!」

「翠宝? お願いだから、落ち着いて、」

「あんたがあたしの旦那を誑(たぶら)かさなければこんなことにはならなかったのよ!!」


 怒声に、気圧された。

 翠宝の乱れた髪が頬に張り付き、口端が笑みの形につり上がった口に入る。
 それにも構わず歪(いびつ)で暗い笑みを浮かべる翠宝は私に恨みをぶつけてきた。


「本当はね、あいつはあたしじゃなくてあんたを娶るつもりだったのよ。だけどあんたのみてくれで親に反対されて、仕方なくあたしで妥協したの。あたしを娶ればその繋がりで○○と会える、口説けるって! それが分かって責めたら、あっさりと離縁されたのよ。不美人との繋がりでしかなかったあたしの気持ちが分かる? どんなに惨めだったか!! 浮気されたんじゃない。でもそう言わなきゃ、あたしはもっとっもっと憐れまれて、笑い物にされていたのよ! 不美人より劣るって!!」

「そ、そんな……」


 私は絶句した。
 信じられない。
 初めて知った翠宝の離縁の本当の理由。それに、私が関わっていたなんて。
 私の所為で、翠宝が酷い目に遭わされていたなんて。

 私は茫然と翠宝を見上げるしか無かった。


「あたしはあんたの所為で惨めな出戻り女にされたわ。でもあんたは、あんたはあんなにも素敵な殿方との縁談があって……恋の駆け引きを楽しんでいるつもり? みくだしていたあたしに今になって復讐する気にでもなったの?」

「違うわ! 私にはそんなつもりなかった。翠宝が私の所為で離縁されていたなんて思わなかったし、それに私はあなたの言う通り、醜い女よ。だから誰にも嫁ぐ気は無かった。一生独り身で村の役に立ちたいって思っていたから、あの縁談を受けなかったの。それに諸葛亮様の品位を貶(おとし)めるでしょうし……」

「そうやって良い子ぶってたら村に居場所が出来るものね。あたしにはもう居場所なんて無いのに」

「……どういうこと?」


 翠宝は私を冷たく見下ろし、泣いた。


「叔父に嫁ぐことになったのよ」


 愕然。
 私は一瞬言葉が詰まった。


「す、翠宝の伯父様って……ちょっと待って、あの人のお歳はもう五十だったわよね?」

「そうよ。もう貰い手が無いから貰ってくれるって言う伯父に嫁げって……拒否権なんか無かったわ」

「そんな! あんまりだわ!」

「だから、あんたの所為でこうなったって言ってるのよ!!」

「翠宝!」


 泣き叫ぶ翠宝は扉を乱暴に閉め、閂(かんぬき)をかけてしまった。
 扉に飛び付いて翠宝に開けるように頼んでも、感情が昂りすぎて自分でも何をしているのか自覚出来ていないのかもしれない。
 私への恨み言を叫びながら、翠宝は走り去っていった。

 扉横の歪んだ小窓から翠宝の後ろ姿を見送り、置いていかれた絶望感と、これで翠宝が安全な場所に帰ってくれる安心感が混ざって、私は長い溜息をつきながらその場に座り込んだ。
 外から閂をかけるだけの粗末な小屋は、中にいると外から見るより傾いているのが分かる。私が出られそうな大きさの透き間は空いていない。見つけても精々腕が出せる程度で、翠宝を見送った窓もやっと頭が出せる大きさだ。
 歩けば床はぎしぎしと、豪雨にも負けない不吉な悲鳴を上げる。不用意に歩き回ると穴が開きそうだ。
 壁も床も柱も腐食が見られるし、こんな小屋、突風が吹いただけでも簡単に倒壊してしまうだろう。下手に開けようと暴れれば崩れてしまう。最悪、私は死ぬ。

 ……いえ、その前にあの濁流に呑み込まれてしまうかしら。
 すぐ隣で川が荒れ狂っているかと思うと、ぞっとする。
 自分で自分の身体を抱き締め、深呼吸を繰り返した。

 私は暫く、その場でただただ川の轟音に怯えていた。
 バキバキとゴロゴロと、恐ろしい音が聞こえる度に泣きたくなる。
 ひょっとしたら翠宝が後悔して助けに来てくれるのではないか――――いいえ、それだと翠宝が危険だ。彼女は来てはいけないわ。
 恐怖に振り回される思考がぐるぐると巡って全く休んでくれない。外からの刺激に過敏に反応してしまう。

 今すぐにでも帰りたい。
 倒壊の危険があるから駄目だと、恐怖という衝動に身を任せそうな自分を何度も叱咤した。

 けれども、今、そんな行動に意味はあるのかと思う自分もいる。
 このまま何もせずにいても、川に呑み込まれて死ぬのなら、何の意味の無いこと。
 たとえ死に急ぐような真似だとしても、今何もしないよりはもっとましなのではないか。
 どちらにしろ死ぬのかもしれないのなら、少しは足掻いた方が良いのではないだろうか。

 私はそっと立ち上がった。
 心臓が早鐘を打って五月蠅いのは、ここに来る前からだ。すぐ隣で川が荒れ狂っているのが怖くて怖くて仕方がない。


「大丈夫……大丈夫……」


 同じ言葉を繰り返して己を宥める。

 私や翠宝がこんなにも水――――特に河川が怖いのは、川で死にかけたからだ。
 幼い頃、雨の日に、仕掛けを作ったあの地点よりももっと下流の方で二人で川の畔で遊んでいたところ、突然雨が酷くなって、川を上って村に帰る途中鉄砲水に呑み込まれた。
 その時運良く助かったのは、お互いがお互いの手をしっかりと掴んでいたから、そして翠宝が岩に必死にしがみついていてくれたからだった。
 翠宝よりも私の方が死にかけていた。何日も昏睡状態が続いていて、私が目覚めるまで翠宝が毎日私を見舞ってくれていたのも、お母様から聞いていた。

 彼女を嫌いになれないのも、その記憶があるからだ。
 私はあの子の優しさを知っている。だから、私が翠宝をあのようにしてしまったことが悔しくて申し訳ない。仮にここで死んでも彼女を恨むことは無い。
 ただ、翠宝は無事に帰ってくれただろうか、それが心配だ。
 確かめられたら良いのだけれど……出られないんじゃ確かめようが無い。

 もし、出られたら……一番に翠宝の無事を確かめないと。
 私は扉を見据え、数歩後退した。
 腰を低くして腹に力を込めて扉に渾身の体当たりをした。
 みしりと嫌な音がして、ぐらりと小屋全体が揺れた。けれども崩れる様子は無い。扉も、開いていない。
 なら、もう一度……!

 また体当たりすると、今度は手応えがあった。ばきっと音がして扉が僅かに開いた。閂を填める部分がは外れかけているのが見えた。
 手を出して閂を上へと持ち上げながら身体で扉を押した。
 ぎちぎちと危機感を煽る不穏な音と未だ止まない雨音に心が騒ぐ。

 早く開いて!
 叫ぶ自身の心を押し殺して私は努めて冷静に扉を開けようと奮闘した。
 これ以上は小屋が保たないと冷えた身体がより一層冷えた。
 でも私は力を加えるのが止めなかった。


「あと少し……!」


 そう言って自分を奮い立たせた、その直後である。


「! きゃ……っ!」


 ようやく扉の抵抗が失せた。
 私の身体は踏ん張れずに扉が開くと同時に外に投げ出された。
 それからはっとして小屋を振り返るも、壊れる様子は無い。

 良かった……小屋が倒壊せずに助かった。
 胸を撫で下ろし、立ち上がった。
 早く、帰らないと……。

 また激しい雨に打たれながら、私は歩き出す。
 これ、絶対に風邪確定だわ。
 翠宝は風邪を引かないと良いけれど。家に戻って、ちゃんと体を温めたかしら。彼女のことが何より心配だった。

 嗚呼、そうだわ。お父様に翠宝のことを相談してみよう。もしかしたら叔父様に嫁がずに済むかもしれない。
 私の足は自然と早足になった。

 恐怖を紛らわせる為、私はなるべく雨や川から意識を逸らした。
 完成してもいなかった二つ目の仕掛けも、もう跡形も無く押し流されているに違いない。

 また一から作り直しだ。もう男性に手伝ってもらう訳にはいかないから、これからは一人で作ろう。怖いけど、きっと大丈夫。集中していれば、恐怖も紛れる。
 どうしてか、そこで諸葛亮様の姿が浮かんだけれど、私はすぐに振り払った。あの方に頼ってどうするの、情け無い。
 どう改良するかあれこれ考えて歩くのは、気が楽だ。
 作る時も川が間近にあって怖いけど、仕掛けに集中していれば気は紛れた。水仕事の時だって同じ。克服が出来ないと諦めているから、私はそうやって恐怖から意識を逸らしてやり過ごしている。

 岩に足を取られながら下りていくと、ようやっと行き慣れた場所が見えてくる。
 そこから森に入って村に戻れば良い。
 私は安堵感から足を止め吐息を漏らした。

 それで気が弛んでしまった。
 村へ帰る森の道の左右は、緩やかな斜面になっている。
 もう大丈夫だと油断しきっていた私は、豪雨の音の中に明らかに異質な音が響いたのに気付かなかった。

 その音を、ただの雷の音だと、間違えてしまったのだ。

 異変に気付いて足を止めた時には、もう遅かった。



 何が起こったのか完全に理解する前に、私の視界は黒一色に埋め尽くされたのだ。



‡‡‡




――――生きている。
 私は現実なのか暫く信じられなかった。

 目が覚めてみると私は下半身を土砂に喰われているような形で、土砂崩れがあった斜面とは反対のそれに寄りかかっていた。
 緩やかな坂だったからだろうか。土砂の所為で動かない足に鈍い痛みがある以外は、上半身に少し深めの裂傷や打ち身、細い枝が浅く刺さっているくらいで済んでいる。
 顔も、上半身程酷い怪我が無い。残るような傷を作れば嫁げない女確定だったのにと残念に思うくらいには、目覚めた私には余裕があった。

 雨は止んでいるが、黒い雲は未だ空を覆っている。
 私はどれくらい気を失っていたのだろうか。
 家を出た時間、小屋に着くまでの時間、小屋の中にいた時間、小屋からここに至るまでの時間を大凡(おおよそ)で考えても、早く見積もっても多分夕方だ。

 このまま日が暮れるのを待つ訳にはいかない。
 私は何とか抜け出せないかと、両手で土砂を掘った。丁度臍(へそ)の当たりから埋まっているから、頑張れば抜け出せる筈だ。
 ただ心配なのは足が折れている可能性があること。
 程度によるけれど歩けない状態だと村に帰れるか分からない。


「何にせよ、まずはここから出なければね」


 生きているだけでも有り難い。
 そう思うようにして、私は無心に土砂を掘り続けた。
 今頃、両親は私がいないことに気付いて心配しているだろうか。翠宝の手紙は隠しておいたから見られることは無いだろう。
 早く帰って誤魔化さないといけない。

 私はそのままずっと手を動かし続けた。
 冷静なのは川から離れ、雨が降っていないからだろう。水への恐怖が薄れるだけで思考はこうも変わる。恐怖を後に引きずらないのは正直有り難い。元々色んな人から逞(たくま)しいと揶揄されていた自分の女らしからぬ部分がここで役に立っている。
 水が無ければ良いのだ。水が無ければ。

 雨が降り出せばまた恐怖に邪魔されるだろうから、私は出来るだけ急いだ。

 爪が割れても、枝が刺さっても、土砂から抜け出して家に帰る為に、手を土砂に突き刺し掻き分ける。

 そして、膝が見えてきて、無理矢理に土砂から這い出た。
 土砂の上に座り込んで足の状態を見る。
 痛みは足全体に広がっている。泥で汚れた裳の裾を捲り上げて確認すると、右足の臑が真っ赤に膨れ上がっている。

 立ち上がってみようとするけれど、足の痛みが増してしまうだけで上手く力が入らず、歩ける見込みが無い。
 可能性だけで、済ませてはくれなかったようだ。
 無理だと分かるとどっと疲労感が押し寄せて、やる気が一気に失せた。

 村の人達が捜しに来てくれるまで待つしか無いのかしら。

 私は、溜息を禁じ得なかった。


「翠宝、ちゃんと帰れたかしら……」


 吐息と一緒に、呟いた。

 取り敢えず、骨折部分の応急処置が出来ないか土砂を引っ掻き回してみることにする。



‡‡‡




「……○○殿」


 呆れ返った声が聞こえた時、私は土砂から引っ張り出した蔦で添え木を固定していた。
 泥と血で汚れた手を見、彼は土砂の上に登ってきた。

 私は、驚いた。


「諸葛亮様ではありませんか。何故ここに?」


 正直、人が現れてほっとしてもいる。
 だけどそれを押し隠して問いかけると、諸葛亮様は顔をしかめる。不機嫌になった彼は私の足を見て大仰に嘆息した。


「あなたという方は……無茶という言葉をご存じですか」


 刺々しい言葉を私にかけて、私の足の状態を診始めた。


「骨にヒビが入っているだけです」

「このように腫れていては『だけ』で済む訳がないでしょう。手も酷く傷ついて……」

「ああ、これは抜け出す為に土砂を掻き分けたからです。大した怪我ではありません」

「大した怪我ばかりです」


 諸葛亮様は語気強く断じ、私の横へと移動する。
 何をするのかと思えば背中と膝の裏に手を差し込み、ぐっと上に力を込めた。
 突然の浮遊感に「ひっ」と悲鳴を上げ、咄嗟に諸葛亮様にしがみつこうとして寸前で止めた。


「な、何……っ!」

「このまま村まで運びます」

「運ぶ!?」


 それはさすがに恥ずかしいと嫌がると、諸葛亮様の機嫌が更に悪くなった。


「まさかご自分で歩くおつもりで?」

「え? いえ、さすがにそれは……ただ助けに来て下さった村の人に背負っていただこうと思っていはいました。ですから、あの、これはちょっと……」

「お断りします」


 即答された。
 諸葛亮様は私を下ろして背負うなんてことはせず、そのまま村への道を戻ってしまった。私が何を言っても、彼は耳も貸しては下さらない。
 かと思えば、


「っ!?」


 諸葛亮様が唐突に腕の力を抜いたのだ。
 反射的に腕を首に回して抱きついた。
 はっとして離れようとすると耳元で諸葛亮様が制止する。


「そのままで。しがみつかれていた方が楽です」

「あ、あの……でも、」

「私も、それ程力がある訳ではありませんので」


 その割にしっかりと抱えられていらっしゃいますけれど。
 また離れようとすると止められてしまうので、私はやむなくしがみつき諸葛亮様の呼吸音を間近に聞きながら、とても落ち着かない帰路に就いた。

 異性にこんな風に抱き上げられて、間近に顔があるなんて、初めてのこと。
 数日前に川で諸葛亮様と密着した時以上に落ち着かない。怖い訳でもないのに心臓がばくばくと騒がしい。
 私は息を張り詰めてぎゅっと目を瞑って、村に早く到着することを祈った。


 なのに、諸葛亮様が小さく笑うのだ。


「な、何ですか……」

「いえ、何でもありません。ただ……女性らしい一面もあるのだなと」

「え……っ?」


 私はぎょっとした。

 諸葛亮様は微笑を浮かべて、何も言わずに進んだ。

 いや、違う。
 私は意識なんてしていない。
 意識なんてしていない。
 そんな訳がないわ。
 私は自分の中で否定を繰り返した。

 その間に、村には到着していて。

 心配して村の皆とあちこち走り回っていたらしい両親は真っ先に駆けつけて、私の姿に青ざめた。

 諸葛亮様が私の状態を詳しく話して落ち着かせてくれたけれど、傷が癒えるまでは絶対に家から出てはいけないとお父様に叱りつけられた。
 それだけならまだ良かったのに、何故かその間諸葛亮様が家に滞在して私の看病をするなんて言い出して、私は強く強く拒絶した。

 私の慌てた様子に両親は驚き、諸葛亮様は訳知り顔で笑っていた。まさか異性を意識しているなんて思われているなんて信じたくない。これじゃあお父様の思う壺じゃないか。

 結局私を心配してくれる両親には勝てず、私が折れることになった。

 諸葛亮様に抱き上げられたまま家に戻る姿を村の皆に見られたのが、恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうだった。

 でも彼らの中に混じって、翠宝が泣きそうな顔をして立っていたのに心からほっとした。
 今すぐにでも飛びつきに行きたいけれど、私が身動ぎしたのに諸葛亮様が反応した。
 動くなと怒られるかと思ったけれど、


「今はお止めなさい。彼女にも整理する時間は必要でしょう」


 囁かれ私は仰天した。
 翠宝が私にしたことを知っている!?
 私は青ざめた。

 それに、


「あなた方の問題でしょうから、誰かに言うつもりはありません」

「……、あ……ありがとう、ございます……」


 小声で言うと、諸葛亮様は小さく首を左右に振り、私を私室へと運んでくれた。

 その後、私の身体中の傷を見たお母様が悲鳴を上げて私に長時間の説教をしたのは、言うまでもない。
 一番耳が痛かったのは、未婚の女が身体に傷を作るなという話だった。
 諸葛亮様がいる前で長々と話されて、しかも諸葛亮様が「私は構いませんので」とお母様を宥めに入るのが、私は恥ずかしくてたまらなくて死にそうだった。

 それでも私は、決して諸葛亮様を異性として意識していないと信じたい。



‡‡‡




 一ヶ月の強制安静期間を終えて傷が癒えた翌日、私は誰にも言わずにこっそりと家を抜け出した。
 翠宝に会いに行って無事だったかどうか確かめる為だ。
 それに、翠宝には謝らなければならない。謝ってどうにかなる問題ではないけれど、謝りたかった。

 お父様には翠宝のことを相談した。お父様も私の幼馴染だからと翠宝を可愛がってくれていたから、力になってくれると約束してくれた。だから、きっとどうにか出来る筈だ。私に出来ることがあるなら協力する。
 そのことも伝えに行かなくてはと、私の足も自然と早足になる。


「彼女のもとへ行かれるのですか」

「ひっ!」


 ふと聞こえた声に悲鳴が上がる。
 足を止めてそちらを向くと、諸葛亮様が待ち受けていたかのように腕組みして家屋の影に立っている。

 諸葛亮様と一緒に過ごせば過ごす程、逃げ出したい気持ちが強くなっていく。
 逃げ腰になって数歩距離を開ける私に諸葛亮様は無理に近付こうとはしなかった。ただ、いつも通りの凛々しい顔の下で何を考えているのか……不安になる。


「い、行きます。友人ですから……」

「ならば礼の言葉も彼女へ。先にあなたを助けに行こうとしたのはあの娘です」


 私は瞠目した。


「翠宝が?」

「あなたがいないと村で騒ぎになった時、水に恐怖心のある○○殿が危険な川に行く筈がない誰もが言う中、あの娘が取り乱した様子で森の方へ行こうとしていたのを呼び止めて、事情を聞きました。それ故、私があなたのもとへ」


 翠宝……私を助けようとしてくれたのね。
 やっぱり、とても優しい子。彼女を嫌いになれる筈がない。
 私の心は浮き立った。翠宝が私を嫌っているのではないかと、不安だったのだ。助けようとしてくれたことが、とても嬉しかった。
 私は諸葛亮様に頭を下げた。


「教えて下さって、ありがとうございます。私、急ぎます!」

「……ええ」


 何故か、諸葛亮様は一瞬驚いた。


「何か?」

「いえ……○○殿が私に笑いかけるのは初めてでしたから」

「え……」


 ……言われてみれば、そうだったかもしれない。
 自分でも、彼に対しては仏頂面だった記憶ばかりだ。
 無性に、恥ずかしくなってきた。
 私は俯き早口に謝罪した。


「こ、これはお見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ありません」

「いえ。あなたは笑われる姿の方が一層好ましい」


 外を歩かれるならまだ身体が本調子でないことを忘れずに。
 彼は顔を逸らしたまま話も逸らした。私に釘を刺し、背を向けた。

 私も彼から顔を背け、頬を両手で押さえた。熱い。


「……ち、違うわ、きっと……これは違うのよ」


 『一層好ましい』なんて言い方……きっと意味は無いわ。
 私は不美人。誰も娶ろうなんて考えない女なんだから。
 私もあの人を意識なんてしていないのよ。

 ああもう、全身が熱くて熱くて仕方がない……!
 私は振り切りたくて、その場から全力で翠宝の家へと走った。

 そこで息も絶え絶えになった私は、今度は翠宝に説教をされる羽目になるのだった。



●○●

 始めこそくっつける気で書いたのに、こんなに長くなっておいて夢主がやっと意識し始めて終わったのは何故だ……。

 しかも最初から最後まで諸葛亮が夢主をどう思ってるのか分からないですね、これ。しかもキャラが迷子になってる気がします。

 ……続くかも。


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